3
エレベーターで地上に降りた。車を拾おうと、アデスたちは歩道の端へと向かった。
ふと、クルーゼが立ち止まった。彼の半歩後にいたアデスも、足を止める。
どうしたのだろうといぶかしんで、声をかける前に、クルーゼが口を開いた。
「ライラックの花を見に行かないか」
急な提案に、アデスは少し戸惑いを覚えた。
「ライラック……ですか?」
「ああ。ここから数ブロック離れた通りだが……今がもっとも、見頃だな。薄紫の花は、なかなかきれいだよ。そばに寄ると、いい香りがする」
その通りは、アデスも知っている。街路樹として植えられたライラックが、道の両側で満開になっている。
「夜に眺めるのも、風情があって好ましいな。街灯に照らされて、かぐわしく咲いている。幽玄の美しさ……とでも言うべきかな」
クルーゼは少し足元に視線を落としてから、アデスを振り返った。
「おまえに時間がないなら、仕方ないが」
「いいえ、時間はたっぷりあります」
アデスは即座に返答した。
「帰っても、寝るだけです。隊長にお供させて下さい」
もうしばらく、この人のそばにいたい……レストランを出て、歩道に下りて、別れのときが近づいてきた頃から、アデスの胸の中でふくらんでいった想いだった。
ところが、クルーゼの方から、自分の願いを叶える発案をしてくれたのだ。それに飛びつかないわけはない。
「そうか……。なら、付き合ってもらうぞ」
ライラックの花を思わせる艶麗な笑みを作ると、クルーゼは歩き出した。
アデスは大事な貴人を守る従者のように、彼の傍らに並んだ。
ひんやりとした風が心地よかった。少しでも長く、クルーゼといるために、アデスは出来るだけゆっくりと歩きたい気分だった。
すると、思いが通じたのか、青年が歩を鈍らせた。アデスも立ち止まりそうになる。
「さっきのおまえの友人の話だが……。
もし、彼がプラントに戻って来たなら……会えばいいではないか」
静かに告げられた。
アデスはわずかに目を開くと、短く息を詰めた。
「彼はプラントに戻ることを相談した友達に、おまえがどうしているのかを尋ねたのだろう? おまえだって、未だに彼を気にかけている。過去に別の道を歩み出したとしても、その道を絶対に交差させてはならないという決まりはない」
クルーゼは闇に語りかけるように、顔を正面に向けていた。繊細な金色の髪が、
そっと毛先をもつれさせながら、夜風になびく。
「おまえたちは、考え方は違うかもしれん。だが、それでもなお、人間的に惹かれ合っているのだろう? だから、気に掛かるのだ。ならば、臆することはない。
心は物理的な要因に束縛されない。想いがそこにあるのなら、隔てられた年月も、遠く離された距離も、障害にはならない。三次元の産物である肉体は、それらの縛めを解くことは出来ない。会いたいと願っても、時と空間を共有しなければ、それは実現しないのだ。しかし実体のない魂は、過去にも未来にも、はるか彼方の場所へも、自由に飛翔できる。時間にも空間にも、まったく制約されない──それが、人の心だ。
互いの気持ちがつながっていれば、おまえたちはまた、巡り合うだろう。人間の想いというものは、目には見えないが、とても強い力を持っている。三次元の枠を超えられる、想念というエネルギーが秘めている、不思議な力だ。想いを抱き続けているのなら、それの作用が、おまえたちを再び、引き合わせるかもしれんな」
アデスは双眼を開いた。
学生時代の楽しかった思い出が、胸に溢れた。あの頃に時間を戻したいとは思わない。あの親密さを甦らせたいわけでもない。
だが、すれ違った過去の傷に覆いを掛けて、何事もなかったかのように、穏やかに微笑み合えれば、それでいいのだと思う。
それが不可能ではないことを示唆されて、アデスの心は熱く揺れた。鼻の奥がツン
と痺れた。
「……ありがとうございます」
込み上げてきた感情は深いのに、それだけ言うのが精一杯だった。
大きなカフェの角を曲がると、ライラック並木が見えてきた。
数百年も前のガス燈のように、レトロなデザインの街灯が、四メートルほどの高さの樹木を照らしている。
黄色っぽい灯りを受けて、もやのように、薄紫色の花のベールが舞い降りている。
「ああ、きれいですね。隊長のおっしゃるとおりです。昼間とは、また違った美しさがありますね」
声に感嘆の響きを乗せて、アデスは並木を見上げた。
クルーゼは鑑賞するようにゆっくりと、紫の衣をまとった花木の列に近づいていった。
その麗わしい姿と、風に流れてくる仄かな香気を愛でるかのように、そっと首を反らす。
「いい時期に、プラントにいられたな。戦線に復帰する前の、目の保養だ」
唇の両脇に笑みをのぼらせた。
「あと半月ぐらいは咲き続けるだろうが……。
もう二度と、この景色は眺められないかもしれんからな」
アデスはクルーゼのこぼした言葉を、何気なく耳に流していた。
そうして、はっと気づいた。そこに含まれている意味に。
動揺して、上官に顔を回した。
「隊長……!
そのようなことは、ありません。隊長の指揮能力に並ぶ者は、ザフトにも、地球軍にもおりません。隊長は常勝の軍神です。これから先も、何回でも、満開のライラックをご覧になれます。不吉なことはおっしゃらないで下さい!」
急き込むように訴えた。
謎めいた微笑を口の端につくったまま、クルーゼはアデスとは反対に、落ち着いた口ぶりで答えた。
「わかっているよ。私とて、この眺めが最後だとは思いたくない。
だがな、アデス。軍人たるもの、常にその覚悟を持って、戦場に赴くということだ。私はそれを恐れてはいないよ」
かすかに首を横に傾けた。アデスは喉元に重たい石を押し当てられたように、声を詰めた。
「それは……。私も、もちろん、その心構えは出来ておりますが」
優麗な景観が、急に色褪せて目に映った。
ザフトに志願した時から、覚悟は決めていた。しかし、クルーゼには、そのような無念な結末を迎えて欲しくなかった。
この方は、軽々しく命を散らしてはいけない方だ──。
決然と金髪の青年を見据えて、アデスは告げた。
「……隊長。
僭越ですが、貴方は生きて、このプラントに戻らねばならないと思っています」
クルーゼがまっすぐに首を正した。
「戦後、貴方はプラントを率いなければなりません。戦争で疲れたこの国には、貴方の深い洞察力と、類い稀な統率力が必要なのです。貴方の素晴らしい能力は、戦場以外でも使われるべきなのです。
そのために、私は貴方をお守りします。私の命に替えても、貴方を再び、プラントへお返しします。それが私の軍人としての務めであり──
……私個人としての、希望なのです」
二人は見つめ合った。
数秒が経過して、クルーゼがふっと息を洩らした。
「ありがとう……アデス」
柔らかな微笑を残すと、身体の向きを変えて、ライラックを仰いだ。
激流のように溢れ出てきた思いを吐露したアデスは、彼のすっきりとした背中に見入っていた。
暗色のスーツが、彼を包む暗がりに溶け込んでいきそうだった。その肩に流れている涼やかな金髪は、対照的に、闇の中でも光を失わずに美しかった。
しかし、水面に映る月影のように、手を触れれば揺らいで掻き消えてしまうのではないかと畏れるほど、はかなげだった。
あっ、いかん、隊長が……消えてしまう!
彼の背が揺らめきながら、遠くへ吸い込まれていく錯覚がして、アデスは手を伸ばしそうになった。だがピクリと筋肉を震わせただけで、腕が動くのは押しとどめた。
馬鹿げてる。疲れているにしても、あまりに隊長に失敬な幻ではないか! アデスは己を叱りつけて、不安な幻影を打ち消した。
そして、再び強く思った。──この人には、必ず生き抜いてもらいたい。
私たちは軍人で、現在は戦時下だ。いつ、命を散らしても不思議ではない。
まして、隊長はこの戦争は激化するだろうと予想されていた。隊長の読みは常に正確だ。おびただしい悲劇と流血が、我々を待っているのかも知れぬ。
だがそれでも……念じずにはいられないのだ。隊長には生きていてもらいたい、
と。たとえ、私が戦死したとしても──。
もしも、私が先に逝っても……。
双眼を細めて、白い首を反らしている青年の姿を、アデスは見つめ続けた。
……隊長は、人間の想いは時間にも、空間にも制約されない──そう、おっしゃった。
私の想いが時空間を越えられるのなら、私という肉体は無くなっても、その念は存在し続けるのかもしれない。
それはもはや、私の意識と呼べるものではないだろう。だが隊長を想う気持ちは、残るのではないか。
それはいつも、この人のそばに在るだろう。そして、敵の攻撃や幾多の危険から、この方を守り続けようとする。
やがて、戦争は終わる。この方はプラントに帰還して、優れた指導者となる。力を揮って、充実した生を生きて、晩年を迎え、寿命を全うする。
そうした時に、私の想いは隊長をお出迎えしよう。ご苦労さまでした、と彼をいたわろう。
もしも、こんな夢想が現実のものとなるならば……たとえ、私の人生の道が中途で絶たれたとしても、心残りはない。
そうだ。決して、我が命を惜しみはしないのだ──。
クルーゼが振り向いた。心を見透かそうとするように、じっと部下に視線を注ぐ。
「……どうした? そんな憂いた顔をして」
「い、いえ……。あまりに……ライラックがきれいなので、物悲しさを感じてしまい
ました」
アデスは自身の死について考えていたこと──そして、クルーゼに儚さを感じたことへの後ろめたさ──を隠そうとした。もちろん、上官が咄嗟の誤魔化しを信じたとは思えない。
クルーゼは秘密を持って、おどおどとしている子供を揶揄する目付きで、フッと笑った。
「……案じるな。軍人だからといって、必ず戦場で散るわけではない。もう二度と、この花の景色を見られないかもしれない……などと、私が言ったせいで、不安がらせてしまったな。すまなかった」
「いいえ、そのような……」
アデスが否定してみせると、クルーゼは薄笑みを浮かべたままで、きびすを転じた。
先へ歩こうとしたが、何かを思い出したかのように立ち止まった。穏やかに告げる。
「アデス……。
ともに生きて、平和な時代を迎えたいものだな」
アデスは息を飲んだ。
ともに生きるという道。それが叶うならば──クルーゼが、自分が覗いていた暗い風景を剥がし取って、清々しい青空の絵と貼り替えてくれたような気がした。
「ええ、本当に……隊長」
ゆっくりと、深い感情を織り込んだ声で応えた。
……そうだ。最良の未来は、二人で争いの消えた世界を生きること──。
アデスは悲しみや死への恐れから解放された、平安な時代へ思いを馳せた。
ラウ・ル・クルーゼ──この偉大な方の部下に配属されて、そばに仕えられて……私は幸運だったな。
クルーゼが歩き出した。ライラックを堪能したら、帰途に着かなければならない。
少しでも長く、この方と──。
アデスはすらりと伸ばされた背に、誘いをかけた。
「今夜は隊長は、お時間があるようですが……。
もしよろしかったら、もう少し、私とお付き合いいただけませんか? ディナーの御礼です。雰囲気のあるワインバーをご紹介しますよ」
クルーゼはわずかばかり、考えていた。アデスを焦らすようにゆっくりと、女性のそれのごとく見目のいい唇が開く。
「わかった……案内してもらおう」
アデスは頬を緩めた。
上官に追いつくと、横に並んだ。
「よろしいのですか? 美味しいものをいただいたせいか、今夜は機嫌がいいんです。なかなかお帰ししないかもしれませんよ」
クルーゼは俯くと、薄く笑いを洩らした。
肩が触れ合うぐらいの近さで、歩を進めた。青年はコロンを付けていないのに、アデスの鼻腔を幽谷に眠る深緑のような香りがかすめた。
「おまえの行きつけの店なのか──?」
「ええ。オーナーが凝り性でしてね。500種類以上のワインを揃えているんです。
グラスは特注で作らせましてね。昔ながらのワインセラーをイメージしたらしくて、壁はレンガなんです。照明が柔らかくて、落ち着けますよ。凝り性が高じて、チーズも自分で作るようになりましてね、手作りのモッツァレラは独特のクセがあって──」
二人の響かせる靴音が、満開のライラックに吸い込まれていた。
たとえ さだめに割かれようとも
巡り来る場が 同じであれば──