◆    2    ◆




 新月で雲一つない夜空。月光が無いためか、星が自己主張をするかのように煌煌と輝く、正に星降る夜と表現するに相応しい。
もっとも、紛い物のこの世界では、夜が本当の夜なのかすらわからないあやふやなものなのだが、それでも夜の闇を受けてか、下界では淀みなく流れる川も暗色に染まっていた。

暗い水面には空の星が映されている。
もう一つの夜空がそこにあった。

 不意に、流れに波紋が生まれた。もっとも、流れる川では一瞬で消え去ってしまったが。
流れを少し上ると、川の夜空の中に何やら白っぽい塊が二つあった。
しかし、良く見るとそれは手であり、暗い水面は鏡のようにその手の持ち主を映し出す。
顔以外の頭部を、大きな青い石のついたバンドでとめた青い布で覆った、無表情の青い目の青年を。

「……………」

 冷たい水は絶え間なく流れる。
黒い川の水の冷たさは手の神経を麻痺させる。
青年の手の、体温も感覚も何もかもを流し出す。

 しかし、それは束の間に過ぎない。

 やがて、青年は川から手を引き上げて、濡れたままの両の手の平をじっと見つめた。
次第に、体温と感覚が戻ってくる。そして、一番消し去りたいものも戻ってきた。

 青年は拳を強く握った。手の平の皮に爪が食い込んで血が出そうになるが、今の彼にそんなことを構う余裕など何処にも無かった。心臓の音が五月蝿く頭の中で響き、口の中がカラカラに乾く。

(何故、僕は………)

 再び頭の中にフラッシュバックする光景。

 振り下ろされる剣をどうにかしようという気配もなく、ただ回復魔法を詠唱して、その直後にゆっくりと倒れた恋人。
若葉色の服が血に染まってゆき、顔に血の気が失せてゆき。
そして、早く戻ろうと背負った時に感じた、血の生温かさと鉄錆びの匂いと、今にも消え失せそうな恋人の
吐息。
 その全てが、生生しく鮮明に五感の神経を撫で上げる。

「………っ!」

 思わず、ボリスはバチャン!と乱暴に水面を叩きつけた。暗い雫が飛び散り、服について染みを作る。
 と。

「なーに、水遊びなんかやってんだよ。」

 不意に、聞きなれた声が耳に入った。

「!?」

 まさかと思ってボリスは振り向いた。案の定、その「まさか」であった。

「……ロビン?」

 星灯りの下、今現在ベッドに横たわっているはずの若葉色の青年は、ニヤリとボリスに笑ってみせた。
 そして、ロビンはやや覚束ない足取りで「水遊び」をしているボリスの傍らへ行った。
いつもしている金色のサークレットはしておらず、夜風が吹くたびに、肩近くまである若葉色の髪がな
びく。あたかも、夜風の愛撫を受ける草原のように。

「おっす。」

 ヒラヒラと手を振るロビン。
 その、まるで人の心配をわかっていないような態度と言葉に、

「……一体、何しに来たんだ!!」

 ボリスは本気で怒鳴った。濡れた手のまま立ち上がる。

「二日は絶対安静なんだ! なのに、こんな夜中に……!! 途中で倒れたりでも…… いや、モンスターにでも襲われたら!! 君は……!僕は……」

 そこからは言葉に出さなかった。否、出したくなかった。
 しかし、怒鳴られた側であるはずのロビンは、

「いーじゃねえか、何も無かったんだしよ。」

 まるで気に留めた様子が無い。

「っ! そう言う問題か!?」

 ボリスの目に映るロビンは今にも崩れ落ちてしまいそうだった。目はやや落ち窪み、頬は少し削がれて、血の気が失せて白いはずの顔は、熱のためか赤みが差している。そして何より、乱れそうになる呼吸を必死で押さえているのが息遣いからわかった。

 だが、ロビンはそれでも飄々とした雰囲気を纏い、「まあまあ」とまで言ってのけた。
しかし、額に浮かぶ脂汗が如実に彼の状態を物語っている。それでも、ロビンは粗い息遣いを隠して言葉を紡ぐ。

「どーせ、根がクソ真面目なお人のことだろーからよ、自己嫌悪に陥ってるとこを見舞ってやろうかなって。」

 見舞われるべき立場の人間が何を言っているのだろうか。
 ボリスは思わず怒鳴ってしまいそうになったが、ロビンの身体がグラリと倒れそうになるのを見て、咄嗟に抱きとめた。
 そして驚く。その身体に宿る熱は酷い風邪を引いた時よりも熱く、耳元近くある口からは今まで耐えてきたであろう、少しでも多くの酸素を求める荒い息と微かな呻き声。

 改めて思い知らされた。今の恋人の身体が如何に不安定なものだったのかを。
 ここまで来る途中で、何も無かったことが酷く不思議だった。

「………っ」

 ボリスは、怪我人をこの体制のまましておくわけにもいかず、取り敢えずロビンの身体をゆっくりと地面に腰を降ろさせる。
そして、自分も膝をついて、その頭を自分の胸に預けさせるようにロビンを柔らかく抱き締める。
その顔を見ることが出来ず、ボリスはロビンの顔をうずめさせた。
しかしそれでも、服越しに荒く熱い息が伝わり腕が震えてしまう。

「こんな身体で……何で……」

 ボリスは自分の腕の震えを押さえるかのように、少しだけ抱き締める力を強くした。
 ロビンはロビンで熱によって徐々に焦点のずれていく頭でも、相手の鼓動が早くなっているのを感じた。その背に腕を回そうとするが、力が入らないため、出来ずに全身の力を抜いて身体をボリスに預ける。限界が近いようだ。

「……オレは平気…だ……なんだから……行くな……」

 苦しげな吐息混じりの声。しかし、それでも震える唇は動く。

「頼…から……」

 そこで言葉が切れた。

「ロビン?」

 少し身体を離して、ボリスが恋人の顔を見ると、彼は目を閉じていた。どうやら眠ったらしい。

「……君は全く。」

 こんなボロボロの身体で。今にも途切れそうな意識で。それでも。

「ありがとう……。」

 恋人の心遣いを嬉しく思わずにはいられない。本来ならば、身体を大事にしろと怒るのが筋なのだろうが、ここまで深く想われていると知ってしまったのだから。

 そして、ボリスは自分の甘さに苦く笑った。ここまでこの青年に惚れこんでしまったしまったことに改めて気付いたのだが、彼は別に悪い気は起こらない。寧ろ、ある種の嬉しさを感じていた。

 ボリスはゆっくりと恋人の身体を抱きかかえ上げた。汗ばむ額に口付けを落とす。

 そして、星灯りに照らされた傭兵所への帰路についた。まだあの感覚の残滓はあったが、もう、気に病む必要など何処にもなかった。






次へ→