地図で探したこの辺りで一番大きな町に、三蔵一行がやって来た。
しばらく野宿が続いていたが、今夜は久々にゆっくり休めそうだ。
宿はすぐに見つかったものの、空き部屋が2部屋しか無かった為に、2人ずつ同室の宿泊となった。
ベッドがあるだけでも有り難いという思いは皆同じらしく、特に文句も出ては来ない。
荷物を運び込んで一息ついた後、4人揃って大通りへ繰り出すこととなった。
宿には食堂が無いらしいので、どこか空腹を満たしてくれる店を探さなければならないのだ。
「ん?!」
行き交う人々に混ざってあちこち歩いていた時、悟空の目がとある店先で止まった。
「なあなあ、あの、みず…なしつき?…饅頭……って何だ?」
「どれですか?」
「あれ!」
悟空が指差したのは、店の壁に貼られた広告らしきものだった。
「ああ、あれは “水無月饅頭” と読むのでしょうね」
「みなづきまんじゅう?」
「“水無月” はともかくとして、よく “饅頭” の字が読めましたね」
微笑みを浮かべている八戒の後ろでは、悟浄がぷっと軽く吹き出している。
「店で饅頭を買う度に見てりゃ、嫌でも覚えるだろーよ」
「興味の対象を通して学ぶという姿勢は立派ですよ」
ただ茶化しているだけだとはわかっていても、八戒は律儀に自分の意見を述べた。
その横では、悟空が真剣な表情を浮かべてまだ悩んでいるらしい。
「えーと何だっけ、みな……ん???」
「“水無月”、ですね」
「みなづき…か、よし覚えた!! で、あれってどんな饅頭なんだ?」
「6月のことを水無月と呼んだりもするんですが、……って、あ! もう6月じゃないですかー!!」
「ナンだよ、急に!」
突然の大声にビクッと反応してしまったのを、悟浄は言い返すことで誤魔化している。
「ん?……6月…………6…………? すみません、ちょっと確認します」
「どしたの?」
3人を待たせておいて、八戒は自分の手荷物を探り、愛用のシステム手帳を取り出した。
「やはり今日は大切な日です!」
「おおっ、もうそんな時期か〜」
悟浄がのんびり応じると、八戒が意外そうな顔をしている。
「おや? 反応が変わって来ましたね」
「そりゃ、毎年おんなじパターンで来られたら、いい加減こっちも覚えるっつーの。 悟空の饅頭と一緒だ」
「あはははは、それもそうですね」
いつの間にか、もう恒例になるくらい、同じ遣り取りを繰り返してきたらしい。
「SHURANさんが、今日で丁度、6周年だそうなんです」
「へ? 何? 今日って何かの日だっけ?」
再び疑問符を頭に浮かべているのは悟空だ。
「てめぇの脳味噌はスカスカなのかよっ。 毎年八戒が突然思い出して勝手に仕切る日があんだろうよ」
「勝手に…仕切る……???」
八戒の声のトーンが1段階下がった気がした。
「あっ! いや、その……何つーか、自主的にセッティングしてくれる?」
「疑問形に疑問形で返さないでください」
「あーもう、とにかくよぉ、今日はナンか知ンねーけど、好きなモン好きなだけ食ってもいい日なんだよ」
「うぉー! やったー!! ご馳走♪ ご馳走♪♪」
「猿はいっつも幸せで羨ましいぜ」
そう愚痴を零しながらも、悟浄の表情は楽しそうだ。
どんな理由にせよ、派手に飲み食いできるのは悟浄も大歓迎なのだから。
「ということで三蔵、今日は僕達がお世話になっているサイトが6周年を迎えられた、そのお祝いをしたいのですが」
「………どうせ、駄目だと言ってもやるんだろうが」
それまで黙って聞いていた三蔵が、吸い込んだ煙をゆっくり吐き出してから答えた。
「あはは。 まあ、ここは大きな町ですし、色々とお店も選べて楽しく食事できそうですからね」
「フンッ……」
興味無さそうにしている三蔵をよそに、悟空はさっき見た文字に釘付けになっている。
好きなモノを食べていいならば、未知の味を体験してみたい!
その欲求が饅頭に向いた時、不意に先ほど覚えたばかりの言葉が気になった。
「なあなあ、何で6月って水が無い月?」
金色の瞳が、真っ直ぐ八戒に向けられている。
純粋な好奇心による問いを投げ掛けられると、八戒の感覚は教師をしていた頃に近くなった。
悟空は今はまだ知らないことが多くても、吸収するスピードは速いのだ。
「今は丁度田植えの時期ですから、たくさんの水を田んぼで使う月、という意味のようです」
「へえ〜」
「月の名前を付けた季節のお菓子なのでしたら、 “水無月饅頭” は今月のお饅頭ってことなのかもしれませんね」
「食いたい!!」
「そう来ると思ったぜ」
「せっかく見付けたんだから、味見してーよぉ!」
喚く悟空の声にわざとぶつけて、三蔵がチッと舌打ちした。
「もうすぐ夕食だろうが、我慢しろ」
「えー! ちょっとぐらいいいじゃんかー!!」
「饅頭を食ったら、夕食は抜きだ」
「それはぜってー嫌っ!!」
「ならば大人しくしとけ」
「うー……」
言い合いで三蔵に勝てた事の無い悟空が、口を尖らせてぶつぶつと文句を垂れている。
「今日は存分に食べていいというお許しが出たんですから、とにかく食事に行きましょう。 ね、悟空」
「… うん、行く!」
「おい、限度はわかっているだろうな」
過去の苦い記憶が甦ったのか、三蔵の眉間の皺がやや深くなった。
「腹いっぱいになったらやめるから!」
「おお、相変わらず豪快だね〜」
「いつものことですけどね」
「おまえら……」
目を眇めて威圧しても、あとの三人には何の効果も無い。
そこからしばらく歩くと、悟空が立派な構えの食堂を見つけた。
「ここにしよ!!」
「おいコラ待て、勝手に決めンじゃねーよ!!」
駆け出した悟空を悟浄が慌てて追い掛ける。
その後ろ姿を見ながらも、八戒の意識は並んで歩いていた三蔵に向けられていた。
「三蔵、今日は楽しみましょうね」
「………てめぇらで勝手にやってろ」
食事時の騒がしさにはもう慣れたが、今日は一際盛り上がりそうで気が重いのは確かだ。
ただ、呑むのは嫌いではない。
だから、バカ騒ぎに付き合って楽しむまでは行かなくとも、同席を拒んだりはせずに一応参加している。
「はい」
ふいと顔を背けた三蔵に、八戒は微笑みを浮かべながらも、それ以上何も言わなかった。
本当に嫌ならば迷わず別行動を取るはずの三蔵が自分達に付き合ってくれる。
それだけでかなり喜ばしいけれど、今日はどうしても三蔵と一緒に過ごしたい理由があったのだ。
(三蔵、覚えていますよね。 今日はもうひとつ、大事な日でもある、ということを……)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ごちそうさまでしたーーー!!」
満足気な悟空の声が店内に響き渡った。
4人が店を訪れた時はまだ賑わいがあったこの店内も、今は他の客がほとんど帰ってしまってガランとしているのだ。
次から次へと注文し、店主から 「もう、この辺で…」 と泣きが入ってようやくオーダーストップ。
店員総出で運ばれ周りのテーブルも使って並べた皿を、悟空が全て綺麗に平らげたところだった。
「あの……、先にお支払いをお願いしたいのですが………」
店主がやや不安気な声と共にレシートを差し出した。
それとなく店内を覗うと、店員がさり気なく出入り口近くに立っている。
「あ、はい」
手を出して受け取った八戒が、合計金額をチラッと確認した後、金色のカードを取り出した。
「このカード、使えますか?」
「お預かりいたします」
前もって三蔵から託されていたカードを店主に渡した八戒に、悟浄がちらっと視線を投げ掛けた。
「何ですか? 悟浄」
「何って、おまえ……」
「料理はどれも美味しかったですし、お酒の銘柄も逸品揃いでしたよね〜」
「ったく、店中の酒を飲み尽くす気か、貴様は」
紫煙をくゆらせながら、三蔵が低音で唸っている。
最初は呑むのも付き合っていたが、すぐに八戒のペースについていけなくなった。
あとは八戒の独壇場で、どんどん空になってゆく酒瓶を呆気に取られて見ていることしかできなかったのだ。
「えー、これでもセーブしたんですよ」
「どこがだっ」
空いたテーブルには、高く積み上げられた皿に負けないくらい、多数の空き瓶が並べられている。
「なあ、おまえらよくそんな風に落ち着いてられんな……。 心配じゃねーのかよ?」
真剣な表情の悟浄が、若干潜めた声で二人に問う。
「はあ? 何がだ」
「どうかしましたか?」
三蔵と八戒が揃って、不思議そうに悟浄を見た。
「こーいう状況、何度も経験したじゃねーか! なら、次に起こるコトも予測できンだろ?」
焦りにも似た怒りが込み上がってきたのか、悟浄が忙しなく煙草を吸っている。
「あ〜、そういうことですか」
「フンッ、肝っ玉の小せぇ奴だな、てめえは」
「なっ…!」
「まあまあ」
立ち上がって三蔵に挑みかかろうとした悟浄を、八戒が微笑みで抑えた。
「なるようになりますよ。 ってゆーか、なるようにしかなりませんけどね」
あはははは、と明るい笑い声を立てた八戒には逆らえず、悟浄はしぶしぶと腰を下ろす。
素知らぬ顔で悟浄から目を逸らしたまま煙を吐き出している三蔵は、いつもと何も変わりない。
そこへ、店主が笑顔で近付いてきた。
「お待たせいたしました。 ご利用、誠にありがとうございました!」
カードを渡された時の、どこか硬い表情とは打って変わって、満面の笑みを浮かべているではないか。
飲み食いした莫大な量は、そのまま店の利益にもなったのだろう。
用意していた食材を食べ尽くすほどの注文など初めてで、思い掛けない上客の登場に頬が緩むのも仕方が無い。
「また、是非お越しくださいませ!!」
店主を始め、店員全員が並んでお見送りしてくれた中、三蔵一行は店を後にした。
「今日は何も起こらねーのか? いつもならココラで一騒動ありそうなモンだけど……」
「たまにはこんな平和な日があってもいいじゃないですか」
心配事は何も無いというような穏やかな笑顔を向けられてもまだ、悟浄の顔には訝しさが残っている。
「なーんかムズムズすんだけどな…」
「何も無ければそれに越したことは無いですよ」
どこか座りの悪い感じが消えない悟浄は、吸っていた煙を空に向けて思い切り吐き出した。
「まー、な……………ん?!」
その時、微妙に空気の流れが変わった気がした。
「!」
「!!」
「………」
「そうだ!」
一瞬の間が空いた後、口を開いたのは八戒だ。
「今夜は風も気持ちいいですし、このまま宿に帰るだけというのも勿体無いですから、ちょっと遠回りしませんか」
「俺は構わんが」
三蔵が即答する。
「たまには散歩もいいモンか」
悟浄が両手を頭の上で組み、咥え煙草のまま答えた。
「俺は腹いっぱいで眠ぃよぉ」
悟空は大きな欠伸をしている。
そのまま4人は、爽やかな夜風に誘われて宿とは反対の方へと歩き出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「三蔵一行!! 待ちやがれ!!」
人気(ひとけ)のない林に入ったところで、突然、怒声が響き渡った。
いつの間にか、かなりの人数に取り囲まれている。
暗がりでよくわからないが、皆、耳が尖って爪は長く伸びているようだ。
「チッ、さっきスッキリしねぇ気がしてたのは、こういうコトだったのかよっ!」
「まあ、僕らが何もなく終わるわけがありませんね」
苦笑しながら、八戒が攻撃の体勢を取る。
「ったく、どこ行っても人気モンだな、三蔵サマはよぉ」
悟浄が片方の口端だけ引き上げて揶揄した。
「羨ましいのか?」
「誰がだよっ。 ヤローに好かれても鬱陶しいだけだっつーの」
三蔵のからかいに、悟浄が気だるそうに言い返す。
「ごちゃごちゃ煩せぇ!」
数でならば自分達の方が優勢のはずなのに全く動じていない4人を見て、妖怪の一人が喚き出した。
「経文はいただくぜ!!」
狙いは三蔵ただ一人。
しかし、他の三人の強さが圧倒的で、妖怪達は誰一人三蔵に近付くことさえできない。
「うぉーーーっ!」
一人が特攻をかけたが、三蔵の小銃に額を撃ち抜かれた。
他の三人に引けを取らないくらい三蔵も接近戦をこなすものの、小銃を使った方が手っ取り早いのだ。
ただ、難点がひとつ。
「クソッ」
弾切れだけはどうしようもない。
充填している最中も、敵は容赦なく襲い掛かって来る。
「うぜーんだよ!!」
それらを蹴りで薙ぎ倒しつつ、三蔵は最後の弾を込め終えた。
その時、
「三蔵、後ろっ!!!」
悟空の叫び声に三蔵が振り向くと、鎖鎌を投げようとしている妖怪の姿が目に入った。
「っ!!」
咄嗟に引き金を引いて相手を撃ち殺したが、その前に放たれた鎌が三蔵の体を掠めた。
法衣の袖がふわりと翻る。
「チッ」
「三蔵!!!」
その瞬間を目の端で捕らえた八戒が、慌てて三蔵に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?!」
「ああ、袖を切られただけだ」
「それなら良かったです」
ほっと安堵の吐息をついた八戒のそばに悟浄と悟空も集まると、辺りが静かになっている。
どうやら、敵は全て片付けてしまったらしい。
「ま、軽く食後の運動、ってとこか」
「動いたら腹減ったよー。 何か食いてー!」
「おまっ、あンだけ食っといてまだ食う気かよっ!!」
「だってー、食べた分はさっき動いて消化しちまったじゃんか〜」
「燃費最悪だな、コイツ」
「宿に戻る途中で、何か売っていないか探しましょうか」
「わ〜い、やったー!」
はしゃぐ悟空を見ていた三蔵の眉が顰められる。
「おい、あんまり甘やかすな」
「まあまあ、今日はおめでたい日なんですから、少しくらい大目に見てください」
「チッ……」
確かに、今日は三蔵もいつもほど張り詰めてはいない。
問題無く食事ができ、襲ってきた敵も雑魚妖怪ばかりだったので簡単に片付いた。
あとはゆっくり休むだけという今は、特に気に障ることも無く、落ち着いた気分なのだ。
「行くぞ」
低音で発せられた三蔵の言葉に、三人は笑顔で肯いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
宿に戻ると最初に決めていた通り、三蔵と八戒、悟浄と悟空、という組み合わせでそれぞれの部屋に入った。
悟浄と悟空は、途中見付けたコンビニで買ったお菓子とビールで宴会の続きをしているようだ。
もう一方の三蔵と八戒の部屋には、コーヒーの香りが漂っていた。
「三蔵、どうぞ」
インスタントだが、呑んだ後には口腔内も気分もすっきりさせてくれる。
返事もせずに、三蔵がカップを取った。
「お風呂は湯を張っておきましたから、いつでも入れますよ」
無言でコーヒーを味わっている三蔵に、八戒が声を掛ける。
だが、今もまた、特に返答は期待していない。
自分がしたいから三蔵の世話を焼いている。
これは、強制されたものでは無いし、義務でもない。
ただ、側にいられる間はできる限りのことをしようと思い、勝手に甲斐甲斐しく動いているだけなのだ。
「そうだ三蔵、さっき袖を切られていたでしょ?」
「ん?……」
ちらりと袖に目を遣っただけで、三蔵はそれがどうしたというように八戒に視線を移した。
「後で繕っておきますね」
「…ああ」
短く返事すると、三蔵は徐に立ち上がった。
(三蔵?)
しゅるり。
……と帯紐が解かれる音がした。
(!!……)
左右の襟をそれぞれの手で持って胸元を開き、法衣を肩から滑らせてゆく。
着替えくらいいつも見ているはずなのに、今夜の八戒は目のやり場に困ってしまった。
(目の毒ですね………)
本人が自覚しない分、三蔵には妙な色気が漂っている。
髪の色や顔立ちのせいもあるのだろう。
そして、決して丁寧では無いのに、その仕草にもどことなく気品が感じられるのだ。
法衣を脱ぐと、ほどよく締まった腕が露わになり、上半身のラインがくっきりと明瞭になった。
全てを曝け出すよりも、どこか隠された部分がある方が、より官能を刺激するのかもしれない。
剥き出しの二の腕もまた、手甲の部分と相俟って、得も言われぬ美しさを醸し出している。
(……限界かも)
細い指先が法衣を椅子の背凭れに置いたのを合図に、八戒が 「三蔵」 と声を発した。
「何だ?」
暗紫の瞳が真っ直ぐ八戒を見つめている。
八戒は一瞬、自分に向かって来るその眼差しにくらりと酔った。
「今日は……もう一つ……」
「ん?」
「…………いえ、何でもありません」
「?」
先に目を逸らせたのは八戒だ。
自ら話し掛けたというのに何故か押し黙ってしまった目の前の男から、三蔵もすぐに視線を外した。
「………」
いつものように文句なり罵倒なりが飛んでくれば、上手に受け止めたり交わしたりできたかもしれない。
なのに、三蔵は何も言わないままだ。
沈黙の時は、ほんの僅かだっただろう。
けれど、八戒にとって、それは長い長い時間にも感じられた。
まともに顔を見られなくとも、全神経が三蔵に向いている。
「先に使うぞ」
風呂へと歩き出した背中へ、「はい」 と小さな声が答えた。
ぱたん、とドアの閉まる音がしたと同時に、長い溜息がひとつ、部屋の中に零れていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
体の汚れを洗い流すと、三蔵はついさっきの場面を思い出していた。
八戒が言おうとした内容については、すぐに思い至っていたのだ。
だが、八戒がそれ以上言うのをやめてしまったので、三蔵からも特に言及はしなかった。
そして結局、謎はまだ謎のままだ。
三蔵と関わりのある人物、そんな存在は数少ないと思っている。
しかし、自分が知らないだけでまだ他にもいるのだろうか…。
(ま、別にどうでもいいが……)
特別な何かの日であろうと、今日は今日だし、一日が終わればまた次の日がやって来る。
ただ、同じ繰り返しにも見える日々の中で、少しだけ意識が向く日があった。
今日が誕生日だという男性について、三蔵には何の知識も無い。
三蔵にとって大事な人物なのだと八戒は言う。
それでも、自分とどう関わっているのか認識できない以上、不明瞭なのは変わらない。
けれども、八戒の言葉を頭から否定しようという気にはならなかった。
己の尺度で物事を考える三蔵にしては珍しいが、その人物については八戒がもたらす情報を頼りにしている。
まだまだ少ないそのパーツで僅かずつ組み上がる姿を、心の隅に留めているのは確かだ。
(どんな男なんだ……?)
自分と同じく、闘いの場面に身を置くことなどあるのだろうか。
三蔵はふと己の体に残った傷を見て、古傷も多いのに気付いた。
多くの命と関わってきた。
その全てを、“彼” も知っているような気がする。
決して同一の存在では無いが、限りなく自分に近い存在。
そう感じる根拠は何なのだろう…。
「ふう……っ……」
湯船に浸かりながら、窓枠で四角く切り取られた夜空を見上げた。
今夜は雲が無いので、月がよく見える。
満月の光を重く圧し掛かって来るかの如くに感じた夜もあったが、いつしか冷静に見ていられるようになった。
満ちれば必ず欠ける、その繰り返し。
無常の理(ことわり)を、今は全て受け入れる覚悟だ。
今宵の月も、あと数日で満ちる。
“彼” もまた、どこかでこの月を見ているのだろうか…?
そんなことを、ふと考えた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
先ほどの三蔵の視線は、まるで何かの呪縛のようだった。
ただ見つめ返すことしかできず、何も考えられない状態にされてしまう。
やがてそれにも耐え切れなくなり、自ら相対する姿勢を放棄してしまった。
三蔵の視線が自分から離れた後でさえ、体全体で意識してしまうほどの緊張。
ようやく肩の力が抜けたのは、姿が見えなくなってからだった。
「かなりキましたね……」
言葉を続けられず会話はうやむやに終わってしまったが、それで良かったのかもしれない。
追求されても、説明の難しい内容だから…。
「さて、さっさと片付けてしまいましょう」
ひとり残された八戒は、三蔵がいない今のうちに袖を繕っておこうと法衣を手に取った。
「今日一日も、無事に終わりそうですね……」
必ず、三蔵の意識が自分に向く瞬間がある。
今日が誕生日の “あの人” の話をする時だ。
他の何もかもを遮断して、刹那であっても真っ直ぐに自分だけに向かって来る三蔵の視線。
それを、いつもなら余裕を持って受け止められていた。
その一瞬が快感でさえあった。
だが、今年はあまりに真正面から見つめられてどうすることもできなかった。
「ヤバイ…癖になりそう……」
頬が紅潮してゆくのが、鏡を見なくてもわかる。
ここに誰もいなくて良かった。
「ん?……」
袖の奥を探っていた手に何かが触れた。
三蔵が抜き出すのを忘れたマルボロだ。
「そういえば、いつもコレですね……」
三蔵が吸う銘柄は、八戒の知る限り変わっていない。
「何か拘りがあるんでしょうか」
訊いたところで、三蔵が答えてくれたりはしないだろう。
でも、もし機嫌の良い時に煙草の話題でも出たならば、いつもよりは饒舌に…なんて展開にはならないだろうか。
なかなか本人の口からは語られることの無い、三蔵の過去。
拾える欠片はこまめに拾って来たが、それでもまだ何も知らないと言っていいくらい、三蔵については不明な点が多い。
元より、事象だけを集めても真実の形には程遠いかもしれない。
それでも、知りたい、と心の奥底で願う。
八戒にとって、三蔵はとても大切な人になってしまったから。
「あ、月……」
顔を上げて窓に目を遣ると、半分だけ姿を見せている月が、昏い夜空に静かに浮かんでいた。
「これから満ちてゆくんですね」
満月ならばあとは欠けてゆくだけ。
しかし、まだ満ちるまでの猶予がある今夜の月は、八戒に淡い期待を抱かせる。
気付けば生まれていたこの想いを、伝える機会は多分訪れないだろう。
けれど、相手に何も求めないのであれば、自分の想いは自分だけが把握していればそれでいい。
日々募る恋情は、本当は抱くだけでも罪かもしれない。
一緒に旅している間は意識しないが、自分と三蔵とでは住む世界も取り巻く環境も違い過ぎるのだ。
三蔵は、そんな窮屈な身分が嫌なのか、旅に出てからの方が生き生きとしているように見える。
…が、本心は誰にもわからない。
時々遠い目をする三蔵を、八戒はそばで気付かないフリをするだけに留めていた。
ただ……。
旅の同行者に自分が選ばれたという幸運。
一緒にいられるという喜び。
それらを改めて感じて、ひとり噛み締めるひとときが何度もあった。
そんな時八戒は、心の底から穏やかな気持ちになれるのだ。
初めて会った時から強烈に惹き付けられた玄奘三蔵法師。
言葉を交わす度に、行動を共にすればするほど、その輝きは失われることなく、八戒を魅了し続ける。
惚れた方が負けなのだろう。
ただし、今後もそれとは決して悟られないようにする覚悟だが。
「三蔵………」
八戒は、さっきまで三蔵が着ていたその衣をそっと抱き締めた。
そして、まだ温もりさえ残っている法衣に顔を埋めると、ひとつ大きく深呼吸した。
「……三蔵の……香り」
本体が戻って来るまで、あと数分。
その暫しの時間を、八戒は自分の欲望の為だけに使った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今宵も、静かに更けてゆく。
誰も知らない、それぞれの姿。
それは、上弦の月だけが看ていた物語。