◆
「買い物日和ですね〜」
「なあなあ、あれは? さっきのは我慢したから、あれ食っていい?」
「三蔵に叱られちゃいますよ」
「だってー、美味そうなんだもん……」
八戒と悟空が買い物に来たこの町は、いつも賑わっていて誘惑も多い。
「今日は外でお勉強って言いましたよね」
「……うん」
「僕が出す宿題がちゃんとできたら、ご褒美にひとつだけ食べても構いませんよ」
「わーい、俺、がんばるーーーっ!!」
「んふふ」
八戒の周りを飛び跳ねながら、悟空が喜びを身体全部で表現した。
純粋な心を持つ悟空は感情表現が豊かだ。
自分が小さかった頃はあんな風にはしゃいだりはしなかったな、と八戒の顔にふと物悲しさが過る。
「八戒?」
金色の瞳が下から真っ直ぐに見上げて来た。
「どしたの? どっか痛い?」
「あ…、いえ、何でもないんですよ。 すみません、心配させちゃって」
微笑を返すと自分のことのように安堵した悟空の頭を、八戒は優しく撫でた。
悟空にはいつでも笑顔でいて欲しい。
それは、明るい悟空を見ていて安らぐ自分がいるからだ。
そしてもう一人、本人は認めなくとも、心の底ではその笑顔を望んでいるはずの人物がいるから。
「では、宿題やっちゃいましょうか」
「やるやるっ!」
「今夜は、三蔵も呼んでみんなですき焼きにしましょう、って言いましたよね」
「うん、楽しみ!」
「僕も楽しみです。 で、ここへは材料を買いに来たんですが、あと足りない物はお肉とキノコです」
「おっ肉♪♪っとキっノコっっ♪♪♪」
「うふふ、お上手ですよ、悟空」
「えへへ」
「それで、僕はお肉を買いに行きますから、悟空はキノコを買ってきてくれますか?」
「俺一人で…?」
途端に、悟空の顔から笑みが消えた。
この町の賑やかさは好きなのだが、それは三蔵やみんなと一緒にいてこそ。
一人っきりでは、まだ不安の方が大きい。
「ええ、行けますか?」
「それが宿題?」
「そうです」
「……」
「三蔵に美味しいって喜んでもらいたいですよね」
「はっ…三蔵……」
自分を見付けてくれ、そばに居場所を作ってくれた。
何よりも誰よりも、大好きで大切な存在。
「俺、がんばるっ!」
大きな瞳に決意を漲らせて、悟空が八戒に宣言する。
「大丈夫、悟空ならできますよ」
しゃがんで悟空に目線を合わせると、八戒は優しく微笑んだ。
「商店街の一番端にあった赤い看板のお店、覚えてますか?」
「覚えてる」
「あそこにキノコが売っていましたね」
「うん、見た」
「これがお金です。 これをお店の人に渡して、『美味しいキノコを四人分』 買ってきてください」
「わかった!」
「買い物が終わったら、ここに戻ってきてくださいね。 じゃ、気をつけて」
「行ってくる!!」
「はい、行ってらっしゃい」
一目散に掛けてゆく悟空を、八戒が温かい眼差しで見送る。
「では、僕も悟空が戻るまでに買い物を済ませてしまいましょう」
八戒は野菜やその他の食材が入っている袋を抱え直すと、肉屋を目指した。
懐は潤っているのだ。
何も我慢しなくていい予算編成。
今日の買い物は、とても楽しい。
◆
「さあ、できましたよー!」
「わ〜い、すっき焼きっ♪ すっき焼きっ♪♪♪」
「どうですか、この豪華なお肉」
「『イイニク』 っ!!」
悟空がうきゃうきゃと喜んでいる横で、悟浄は微妙な表情を見せている。
「このお肉のスポンサーは悟浄なんです。 みなさん、悟浄に感謝しましょう〜」
「ゴチ!」
「どこで覚えたんだ、そんな言葉」
悟空が自分の知らない単語を喋っているのを聞いて、三蔵は眉間に皺を寄せた。
いつもよりも不機嫌そうなのは、寺を出る前に僧達と一悶着あったから。
…と、悟空から聞いたが、詳しい経緯まではわからない。
多分、虫の居所が悪かったのだろう、と悟浄は勝手に納得し、三蔵に視線を流した。
「てめぇからの感謝の言葉はねぇのかよ」
「特に無いな」
「けっ」
端から期待などしていなかったが、あまりの素っ気無さに悟浄もそれ以上言い返す気が失せた。
まあ、下手に感謝などされても気持ち悪いだけで、それよりは旨いと唸らせたい。
「このキノコは、悟空が買って来たんですよ」
「なんか、色、おかしくねー?」
「実は、若干僕もそんな気がしたんですが…、ちゃんと食べられるキノコなんですよね?」
「うん!」
八戒が問うと、悟空は勢い良く返事した。
「店の人にちゃんと聞いて買った!」
「何て言ったんですか?」
「ええと、『フクが来るキノコください!』 って」
「なんじゃそりゃ」
悟浄が呆れている。
「だって、三蔵に美味しいって言って欲しくて……」
「それで?」
説明の続きを、八戒は優しく促した。
「美味しかったら幸せになれるんだよな? だったら三蔵もだけど、八戒にも幸せになって欲しいから……」
「僕…ですか?」
「フクが来れば八戒は幸せになれるんだろ?」
「え…」
「それって、美味しかったらいいんだろ?」
「えーと……」
「だから、美味しいのはフクだから、『フクが来るキノコください!』 って言ったの!」
「悟空……」
どうやら、悟空なりに一所懸命考えて買ってきたキノコらしい。
八戒は金色の真摯な瞳を見つめ、ありがとうございますと丁寧に礼を言った。
「じゃ、これを食べて幸せにならないといけませんね」
「うん!」
喜んでもらえたとわかった悟空は、満面の笑みを見せている。
「ホントに大丈夫なのかよ…?」
「まあ、お店で売られているのでしたら大丈夫でしょう」
苦笑気味の八戒に、三蔵が 「おい」 と呼び掛けた。
「早くしろ、肉が固くなる」
「すみません、三蔵。 すぐに始めますから」
「先ずは乾杯だな」
悟空はコーラ、あとの三人は缶ビールをそれぞれ手にした。
「んじゃ、乾杯〜〜〜!!」
ひとりマイペースな三蔵は乾杯に参加しなかったが、何度も見た光景なので八戒も悟浄ももう気にもならない。
「うっめえーーーーーっ!!」
「悟空、野菜もちゃんと食べてくださいよ」
「おい、肉! それ、俺の肉っ!!」
「はいはい、取り合いしない」
賑やかな食卓は寺では考えられない。
三蔵もまた、何度も見てこの光景に慣れてしまったので、今は特に構いもしなかった。
「三蔵、二人に負けずにどんどん食べてくださいね」
「ああ」
少食な三蔵だったが、今夜は箸が進んでいるらしい。
「美味しいですか?」
訊くと、三蔵はこくりと肯いた。
「旨いな」
仏頂面は普段とさほど変わりないように見えるが、どうやら堪能している様子だ。
悟浄は 「おっしゃー!!」 とテーブルの下でガッツポーズを作っている。
次々と肉を口に運ぶ動作が何より最上級の賛辞に思え、八戒も親指を立てて悟浄に喜びを伝えた。
「三蔵、お酒は如何ですか?」
「例の新酒か」
「はい」
誘う口実にした生の新酒は、蔵元に直接出向かなければ手にできない代物。
その酒が 『旨い』 と聞いてからの八戒の行動は早かった。
三蔵と飲みたい、という願望が機動力までアップさせる。
少々遠いと思われた距離も問題にせず、蔵出しの日に自ら酒蔵へ足を運んで購入したのだ。
限定の品が入手できたのは幸運だった。
到着があと数分遅ければ売り切れだったらしい。
まるで、この日を迎える為に用意したようなタイミングだったのも、今、八戒をとても満足させている。
「今日は冷酒でどうぞ」
熱燗を好む三蔵ではあったが、この酒はキンキンに冷えたところを飲んで欲しい。
「おっ、コレも冷てぇじゃん」
冷酒用の透明で小さなグラスは、冷凍庫から取り出されると霜を纏って白くなった。
「ええ、生は冷たくして飲んだ方が美味しいですから、グラスも冷やしておきました」
「流石だね〜」
「はい、三蔵」
「ん」
なみなみと注がれた酒を口元に運ぶ。
くいっと一気に呷った瞬間、三蔵は目を閉じた。
喉越しはさらりとして、冷たさが気持ちいい。
新鮮なのに芳醇な香りが口の中に広がった。
ふうっと息を吐き出す仕草を、悟浄が食い入るように見ている。
その手には、まだ口をつけていないグラスを持ったままだ。
「お口に合いましたか」
「ああ」
「もう一杯?」
「もらおう」
「では、新しいグラスで」
冷やしておいた別のグラスを新たに取って来て、八戒が三蔵に注いだ。
「悟浄、せっかくの冷酒がぬるくなっちゃいますよ」
「あ、ああ……」
八戒に指摘されて、悟浄は慌てて飲み干した。
冷たくて旨いのだが、もうそれどころでは無い。
悟浄の視線は三蔵に釘付けになっていた。
「悟浄?」
声を掛けても、悟浄はまだぼんやりとしている。
それを見た八戒は取り替えなくてもいいかと勝手に決め、悟浄には持っているグラスをそのまま使わせた。
「さあさあ、もっと飲んで」
「お、おう…、うめぇな、この酒」
注ぎ足せば、口を付ける。
目線はちらちらと三蔵に向けたまま、悟浄はほとんど機械的に飲んでいた。
「でしょ。 美味しく飲める賞味期限が今日までですから、全部飲んじゃってくださいね」
それぞれの許容量は計算済みだ。
八戒は、三蔵に十分満足してもらえる量と自分が楽しむ量は確保しつつ、悟浄へ勧める量を調整していた。
「おまえは?」
「いただいてますよ」
三蔵と悟浄に注ぐ合間に、ちゃんと自分も飲んでいる。
淀み無いその動きを、三蔵は感心しながら見ていた。
この家で食事をするのはもう何度目かわからないが、思い返せばいつも八戒は甲斐甲斐しく動き回っていた。
三蔵にあれこれ構ったりもするものの、寺での構われ方よりも気に障らなかったことに、今気付いた。
気配りが上手なのだろう。
さり気なく相手の様子を見て、絶妙のタイミングで世話を焼く。
すると、焼かれる方は結構心地良い。
一方的に仕えるのでは無く、あくまで対等な位置にいるのも良かった。
崇め奉られるのには閉口していたところだ。
寺では感じられない自由な空気と時間が、ここでは味わえる。
「くくっ」
三蔵の口から笑い声が漏れた。
「おおっ、三蔵様、今日はご機嫌だね〜」
珍しい姿に悟浄が驚いている。
と同時に、身体には違和感を覚えていた。
酔いが回ったのでは無い。
三蔵に視線を移すと、胸の奥が何故か引き攣るように感じるのだ。
「気分がいいんでな」
艶やかに微笑む姿は極上。
そんな初めて見る三蔵を、悟浄はうっかり 「可愛い」 と思ってしまった。
(やべぇ……)
下半身に熱が溜まり、心臓が早鐘を打つように鳴っている。
「ちょい、休憩」
悟浄がやや前屈みになりながら席を外した。
向かう先はトイレだと、八戒にはわかっていた。
自分も、同じ状態になりそうだったから。
「三蔵、楽しんでますか?」
「ああ、ははは!」
「それは何より…んふふ……あはは!」
「おまえも楽しそうだな、…くくく」
「ええ、三蔵と一緒に食事ができて、お酒が飲めて、楽しいです! あははははは!」
「そりゃ良かったな、うははははは!」
「何なに、みんな楽しそう〜〜〜! 俺も混ぜてー! きゃはははははっ!」
食べるのに夢中になっていた悟空も加わり、三人の笑い声が次第に大きくなった。
「ど、どしたの???」
戻ってきた悟浄は、腹を抱え涙を流しテーブルをバンバンと叩きながら笑い続けている三人を見て目を丸くした。
「何でそんなに盛り上がってんだよ」
問うてみたところで、誰も相手にしてくれない。
三人とも、悟浄の姿を見ただけで更に笑い声を上げた。
「河童! 遅ぇんだよ、くくく…さっさとこっち来て飲め!」
ひとり取り残された気分だったが、三蔵の手招きにほいほいと近付く。
「飲み過ぎなんじゃねーの?」
あまりに普段と違う光景に恐る恐るといった調子で悟浄が訊いたが、三蔵は聞く耳を持たない。
「飲め! 貴様ももっと飲め!!」
新酒はとっくに空になったらしく、テーブルには焼酎の瓶が乗っていた。
散々飲んだ後なのでロックはきついと断ったが、誰も許してくれない。
ならば、と半ば自棄になりながら勧められるままに飲むと、バンバンと背中を叩かれた。
「いいぞー! それでこそ河童!! うははははは!!」
「どーゆー意味だよ……」
もう何がなんだかわからなくなっていたが、三蔵が楽しそうなのは嬉しく思える。
こんな機会は滅多に無いだろうと、悟浄はとことん付き合うことにした。
「食えっ! あはははは、悟浄も食えっ!」
笑いつつ、悟空が箸で摘んだキノコを差し出した。
その色に抵抗があって口をつけなかったのだが、断ればこの場を盛り下げてしまいそうだ。
それに、食べ物ならば取り合いになる相手のはずの悟空が勧めてくれている。
これまた珍しいと思い、悟浄は覚悟を決めてぱくりと口にした。
「うひゃひゃひゃひゃ、どう?」
「おおっ、うっめー!!」
肉厚でジューシーなキノコは、食感も味もこの上なく旨かった。
「何コレ、こんなの今まで食ったことねーよ!!」
「だろ? くふふふふ、ははははは、うめーだろ? ぎゃはははは!! 」
悟空が飛び回って喜びながら、もっと食えと鍋ごと差し出す。
「今夜は、あはははは! 無礼講ですね〜、はははははは! もう、おめでとー!!」
「何がだー! おら〜、飲め飲め〜〜〜、麩ももっと入れろ〜! うははははは!」
八戒も三蔵も、箍が外れたように笑い続けている。
「あはははは!…今日は、くくくく…、お、おまえら…ひゃっひゃっ…どーしたっての?…わははははは!!」
その夜、村の外れの家からは一晩中笑い声が聞こえていたという……。
◆
「しっかし、あん時はどうなることかと思ったぜ」
三蔵と悟空は、明け方ようやくお開きになると、そのまま寺へ帰った。
一晩中飲み食いしていたのでは無く、笑いが治まるまで時間が掛かったのだ。
悟空はいつもと変わらず元気だったが、三蔵は昨夜とは別人のようにぶすっとしていた。
大声で笑うなどという行為が自分で信じられなかったのだろう。
どこか呆然としたまま、一言も喋らずに悟浄と八戒の家を後にした。
見送った二人は、疲れたせいもあって一旦仮眠を取り、昼過ぎにやっと起きて片付け終わったところだった。
「笑うって結構体力がいるんですね〜、何だか腹筋が痛いです」
「俺は背中まで痛ぇよ……」
「あれ〜、どうしてでしょうねー?」
八戒は惚けたが、三人にバンバンと叩かれた時の状況を、悟浄は薄っすらと覚えている。
だが、今はそれよりも気になることがある。
「んじゃ、行くとすっか」
遅めの昼食を軽く済ませた後、二人して町へ出掛けた。
ひとつ、確かめたいことがあったのだ。
「あれ〜、おかしいな〜」
商店街の外れをうろうろしていた八戒が、立ち止まって首を捻っている。
「で、どこよ?」
「それが、無いんですよ」
「はあ?」
「赤い看板のお店…、とても目立っていましたから見間違うはずは無いんですが…」
「狸か狐にでも化かされたんじゃねーの?」
「まさか……」
あはは、と乾いた笑いの八戒は、店頭で客に声を掛けている饅頭屋さんを見つけると小走りで近寄った。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですがっ」
「なんだい?」
人の良さそうな主人が愛想良く答えてくれる。
「この辺りに、赤い看板のお店はありませんでしたか? 昨日、そこでキノコを買ったんですけど…」
「おまえさん、まさかそのキノコを食べたんじゃ……」
「え、はあ、まあ……」
「大丈夫か? 身体は何とも無いのかい?」
「大丈夫といえば大丈夫ですが……やはりありましたよね、お店!」
「ああ、でも夜の間に畳んじまって、店の人間はどっかへ逃げたらしいがな」
「夜逃げ…ですか?」
「朝になってみれば、もう誰も居なかったんだよ」
「どういうことですか…?」
急な展開に思考がついていかない。
八戒は更に詳しい説明を求めた。
「違法な食材を売ってたらしくてな」
「え……」
「精のつく珍しい薬草や、ここらでは手に入らない乾燥食材なんかは重宝してたんだが」
「はあ」
「食べると身体に影響が出るキノコが混じっていたらしいんだよ」
「えっ?!」
「中には猛毒の物もあったとかで、入院騒ぎになって役所の者が調べに来たのが昨日の夕方だ」
「……」
「その場ではどうにか言い逃れをしたらしいが、翌日改めて調査するという約束だったのに裳抜けの殻だったと」
「そんなことが…」
「店の看板なんかは午前中に役所から来た業者とやらが撤去して行ったみたいだ」
それで赤い看板は見つけられなかったのだ。
八戒はがっくりと肩を落とした。
その姿を、店主がしみじみと上から下まで眺めている。
「キノコを食べたのに大丈夫だったんなら、運が良かったんだな。 幸せなことだ」
「はあ……」
悟空が買ってきたキノコは、多分 “笑い茸” だったのだろう。
主人に礼を言い、二人はその場から離れた。
「貴重な経験だと思えば、腹も立ちませんか」
青空を見上げつつ、誰とも無しに八戒が言うと、悟浄が大きく頷いた。
「旨かったしな」
「ええ、確かに」
二人は思わず吹き出した。
とにかく楽しかった夜。
嫌なことも何もかもすべて忘れて笑い転げた。
「まあ、笑う門には福来る、とも言うし」
「そうですね」
「今度、悟空にはちゃんとフツーのキノコを教えとけよ」
「はいはい」
「ま、楽しけりゃ何でもいいんだけどよ」
「ええ」
声を上げて笑っていた三蔵など、一生に一度出会えるかどうかだろう。
あの人の大切な日を、笑って過ごせて良かった。
一緒に居られたことにも感謝だ。
三蔵にも幸せが来ますように、と八戒は心の奥で願った。
「そろそろ年末ですね」
「早ぇなー、今年も」
「そうだ、僕、買いたい物があったんです。 本屋さんに寄ってもらってもいいですか?」
「ああ、構わねぇけど……」
町で一番大きい本屋へ入ると、八戒は本では無く手帳が並べられているコーナーに近付いた。
未来を考えられるようになった自分は、もう今までとは違う。
毎年の積み重ねを大切にしようと、八戒はシステム手帳を買い求めた。
いそいそと会計を済ませ店から出て来ると、いきなり袋を開けて中を見ている。
最初に開いたのは来年の今月のページ。
「ハートマーク…はちょっと照れますね……、あ、カラフルに彩るという手もありますか〜、でも……」
「おい、八戒…もしもし……おーい! ……ダメだこりゃ……」
八戒の口元にはじわりと笑みが浮かんでいる。
もしこの場に悟空がいれば、
『あの微笑みは怖ぇぞ、悟空』
『うん、なんか寒気がする……』
などと意見を交換し、遠巻きに見ていただろう。
この状態になると、手出しはできない。
ぶつぶつと独り言を喋りだした八戒を一人残し、どこか他の店でも冷やかすかと考えた。
その時。
悟浄の視界に、酒屋の看板が飛び込んできた。
不意に、昨夜の光景が脳裏に浮かぶ。
旨そうに酒を飲んでいた三蔵の姿がまだ目に焼き付いている。
家で一緒に食事をする機会など、今後いくらでもあるはずだ。
これからの季節、忘年会に新年会と、行事には事欠かない。
それならば、とびっきりの酒を用意して三蔵に飲ませ、もう一度、ほんのりと色付いた艶姿を見てみたい。
悟浄は、「先帰ってろ」 と八戒に告げると、酒屋を目指して歩いて行った。
「あの方向だと、多分酒屋さんですね」
独り言を呟きながらも、悟浄の動きはずっと視界に入れていた。
まるで頭の中を覗きでもしたかの如く、八戒には悟浄の思考と行動は手に取るようにわかる。
尤も、昨夜のあの様子を見れば、誰でも想像に難くないかもしれないが。
「三蔵と過ごす楽しさを、悟浄も知ってしまったみたいですね」
できれば自分ひとりの楽しみに取っておきたかったが、そうもいかない。
今後も共に行動する機会はあるだろう。
しかし、常に自分が有利でいたい。
「この日は…」
わざわざ書かなくとも、既に覚えてしまったけれど。
そのページを開く度、その日付が目に入るように印を付けておけば、きっと心躍ることだろう。
「『イイニク♪』、と」
暗号にも見えるこの書き方ならば、万が一誰かに見られてもどういう意味かわかるまい。
手帳に初めて書いた印は、表向きは 『極上のお肉を食べた記念日』 に見える。
だが本当に書きたかったのは、某最高僧の誕生日。
一度全てを無くした八戒は、物質的なものにはあまり執着しない。
大切なのは、自分と関わりを持ってくれた仲間達。
そして、知らぬ間に湧き上がっていた、あの人への熱い想い。
一番大事なモノの隠し場所は、自分の心の中だ。
愛しい人の記念日を、しっかりと心に刻み込む。
表に出せない想いも、その奥にそっと仕舞って。
<おわり>