どうして俺はここにいるんだろう。
どうしてだっけな。
ああ、運が悪かった、それだけだ。それだけだろう。
「そんな難しそうな顔で紅茶を飲む男は初めて見ましたよ、アスモディウス」
そう言われてふと身体が固まる。その身体がゆっくり溶けるのを待って恐る恐る顔を上げた。
快晴の空の下、上等客間のバルコニーでティータームという爽やかなシチュエーションに反して『夜』みたいなベールゼブブ伯爵。
黒に近い艶やかな髪。月みたいに白い肌。全てを包み込む闇のように深い声。
アスタルト公爵への超が付くほどの熱愛ぶりばかりが目に付いていたせいで実はとても綺麗な悪魔なのだと気付いたのは最近のこと。
本日、その伯爵との魔王宮での最初の会話。
『こんにちは、アスモディウス。椎頼は来ていますか?』
『これは伯爵。アスタルト公爵はまだいらっしゃってませんが…ここでお約束でも?』
『いえ、それは私達には必要ないものですから。そう…では、少し私に付き合ってくれますか?』
『は?私が、ですか?』
『私とのティータイムは嫌だとでも?』
『…喜んでご一緒させて頂きマス』
断れるわけもない。俺に提示された選択肢は一つしかなかった。あれは静かで確実な、誘惑。
「ここの紅茶がそんな不味いわけもないでしょうに。そんなに私が嫌でしたか?」
「い、いえっ、とんでもないですっ」
慌てて首を横に振ると伯爵は小さく笑って、ただ綺麗な動作で紅茶を口に運んだ。
それだけで十分に見惚れる。あのベールゼブブ伯爵だと分かっているのに。アスタルト公爵に惚れている悪魔だと分かっているのに。
「私が美しいのは上級魔族で力が強いからだけのこと。気にすることはないでしょう」
俺は持っていたティーカップをテーブルに落とした。幸い、カップは割れなかったが中身は零れ、テーブルから床へポタポタと落ちていった。
伯爵はその紅茶を眺めながらも先程と同じように自分のティーカップに口を付けていた。
「あ、の…どういう意味でしょうか?」
「それだけ動揺しておいてまだ知らないふりですか?伝説の英雄殿も案外、往生際が悪い」
そう言って伯爵は立ち上がり、微笑を浮かべたままひょいっと何かを掬いあげるかのように指を動かすと零れていた紅茶が一瞬で蒸発して消えた。
そして、客間の方へ移動する伯爵の背中を見ながら近づいてくる気配に気付いて、伯爵が立ち上がった理由を察する。
伽羅と魔王様の気配だ。本来ならば俺も同時に気付くべきなのにどうして。目の前の伯爵に集中しすぎていたとでもいうのだろうか。
俺が伯爵の後を追って、部屋に入っていくと予想通りの人物が客間の扉を開けて入ってきた。
「いらっしゃい!伯爵っ。ごめんね、椎頼ってば今日に限って遅くって」
「いいえ、伴侶様がお気になさることではありませんよ。椎頼に焦らされるのは慣れてますから。それに…」
伽羅と話していた伯爵の目が不意に俺を捕らえた。あの心臓に悪い、誘惑の目で。俺は素直に動揺してしまう。
「それに今日はアスモディウスが付き合ってくれましてね、退屈ではありませんでしたよ」
そりゃアンタは楽しいでしょうさ。こちらと生きた心地がしないというのに。いや、逆か?こんな激しく感情が動くなんて。
伯爵の動作一つに、言葉一つに有り得ないくらいに心が揺れる。何故?ってくらいに。
「挨拶が遅れて申し訳ありません、魔王。わざわざお二人でお越し下さるとは何かございましたか?」
「いや、伽羅がお前に用があると言うので連れてきただけだ」
「そうでしたか、お呼び下さればこちらから出向きますのに、伴侶様。さて、何なりと」
「いいの?あのさ、ちょっと屈んでくれる?」
伽羅が伯爵の頭を呼び寄せるように手をひらひらと振ると伯爵は珍しくも少し不思議そうな顔をしながら身を屈めた。
「ちょっと、これ貸してくれる?魔法の眼鏡っ」
「え…」
伯爵の返事を待たずに伽羅は伯爵の眼鏡をその細い指で取っていった。そして、自分の顔にかけて周りを見ながら普通じゃん、と呟いた。
誰かに伯爵の眼鏡は魔法の眼鏡で面白い物が見えると聞いたらしく、それを確かめたかったらしい。
伽羅がそんな説明を独り言のようにしていたが俺は眼鏡を外した伯爵を見たまま、また固まっていた。
力が強いだけ?気にするな?そんな顔をしておいてよく言う。
何という美貌。すぐ側に魔界一の美貌を持つ魔王様がいるというのに遜色なく。眼鏡を返そうとした伽羅もやっとそれに気付いた。
「って、うっわぁ…っ伯爵ってば眼鏡外した方が美形じゃん!何で眼鏡してるの?度も入ってないのに…あ、さては伯爵にしか使えない超上級魔法の眼鏡!?」
「確かに術はかかってますが伴侶様には必要ないかと思いますよ。申し訳ありませんが返して頂けますか?」
「俺には必要ない?何だよ、それっ?教えてくれるまで返さないぞっ」
「別に何ということはありません。性欲抑制の術がかかってるだけです」
あれでも抑えてたのか。
いつものあれが抑制されていた様なら今はどうなのだろう。
ここにアスタルト公爵がいたら魔王様の御前でも襲いかかるのだろうか。この顔の伯爵に迫られても公爵は抵抗してくれるのだろうか?
抵抗してくれる?おかしくないか?この考え方。
「伽羅、眼鏡をベールゼブブに返せ。危ないから」
魔王様らしからぬ少し焦ったような声。伽羅も不思議に思ったのか、そう表情で語りながら魔王様を見上げた。
「そうですね、魔王は身を以てご存知でしたね」
「黙れ」
伯爵の声に苦笑が混じる。それを打ち殺すような魔王様の声。
正解だったら嫌な考えが俺の頭の中に浮かんだ。確か、魔王様は伴侶との初夜の前に予行練習みたいなことをする幻夜というのがあった筈だ。
魔王様との契りは絶対的な力があるから最後まではやらないそうだが。
魔王様が本番で慌てたり、使いモノにならなかったらカッコ悪いもんな。ただ、幻夜というだけあって魔王様が相手を直接指名して秘やかに行われるとか。
だから、いつどこで誰となんて誰も知らない。魔王様とその相手だけが知る、仮初めの一夜。
もしかして。
そう思う俺は勘が鋭いのだろうか。まぁ、ずぅっと前のことだろうけど。
「あの…伯爵?もしかして、その対象は無差別オッケーになるんすか?」
「失礼な。この私が誰かれ構わず抱くわけも抱かれるわけもないでしょう」
そう言いながら俺を見据えてくる目を直視して、直感的にやばいと思った。逃げた方がいい、そう思うのに身体が動かない。
「…試してみますか?義牙」
名を。
俺の名を。
たったそれだけのことで身体中の血が、全ての細胞がざわざわと騒ぐ。
その名で呼ばれるのは一体いつ以来だろう。確かに家同士の付き合いがあって幼い頃から何かと縁はあった。
何故だかよくは覚えていない。けれど、この声で義牙と呼ばれると心はざわめきつつも懐かしさも覚える。
伯爵に伸ばしそうになる腕を必死で押さえ、俺はそこから逃げ出した。何もせずに向かい合っているなんて出来そうになかったんだ。
突然、バルコニーに走り出してそこから飛び降りた背中で伽羅の声を聞いたが止まれなかった。
庭の大きな木に寄りかかりながら盛大に溜息をついた。
魔王様の前で礼を欠いてしまった。伽羅もきっと心配してる。
伯爵は…何を思っただろう?
「溜息をつくと幸せが逃げると言いますよ、義牙」
「うわぁ!?」
俺の目の前30センチ程度の所に伯爵が瞬間移動してきた。俺は俯いていた顔を思いきり上げて、勢い余って寄りかかっていた木に頭をぶつけた。
「失礼。少し近づき過ぎましたね。折角、逃げたのに追ってきて申し訳なかったでしょうか」
言いながらもその距離を変えずに伯爵は静かに話す。眼鏡は外したままで。
「眼鏡…伽羅に返して貰わなかったんすか?それにどうして俺を追ってきたんです?俺に欲情したわけでもないでしょうに」
「…もしかして勘違いしてますか?性欲抑制したかったのは私自身ではなく、私に相対する方です」
「え?」
「あれは眼鏡の内側でなく外側に向けた術。この顔は情欲を誘うらしくてね。伴侶様に必要ないと言ったのは魔王がその役割を十分に果たしているのでね」
そうと知っているのに貴方は俺を真っ直ぐ見つめたまま話すのか。今の俺の心境を知りながら楽しんでいるのか。
ぞくりとする。貴方の残酷な美貌。分かっているのにそれでも構わないからと手を伸ばしたくなる自分。
「椎頼と出逢ってからは彼以外に触れることも触れられることもありません。眼鏡はその為に」
誘うような素振りを見せながら最後には突き落とす。やっぱり、か。けれど、怒りも哀しみも浮かばず、ちょっとした苦笑が漏れるだけ。
伯爵なんだから仕方がない。そんな何の根拠もない思いに圧倒される。本当に、仕方がない。
その俺を見て、伯爵も一層綺麗に笑う。
「ちなみに眼鏡は伴侶様が持ったまま貴方を捜しに行かれてしまいまして。魔王に連れ戻すように言われております。
今暫く私に付き合って頂けますか?義牙」
貴方には分からないだろうな。貴方がその名を呼ぶ度に俺の心が揺らぐことを。それとも、それさえ知った上で呼んでいるのか。
どっちでもいいか。今は妙に心地よい。貴方の心も僅かでも揺らがしてみたいなんて恐れ多いことまで浮かんでくる。
「喜んでお付き合い致しましょう。ですから、少しだけ俺を許してくれませんか、夕璃様」
伯爵の瞳が僅かに揺れる。それはたった一瞬、けれどそれで十分だ。俺は素直な笑顔で伯爵の片手を取ってその指にキスをした。
「このくらいは許して下さい。眼鏡を取られた貴方の責任で」
「ふ、許してますよ。そうでなかったらこの手に触れた時点で命はないでしょう?さぁ、行きますよ、義牙」
「いつでも殺せるってことですかぁ?コワイ、コワイ」
「…一つ、強力なフォローを差し上げましょうか」
「はい?」
伯爵は綺麗に笑って俺の耳元で囁いた。
「魔王さえ抗えなかった誘惑に貴方が勝てるわけないのですよ」
俺は言葉ではなく、その甘い低音に負けた。
終