カカシ×イルカ
小説 遊亜様

『月、満ちて』



月を眺めるのが好きだ。
蒼白く輝く月はとても美しい。
月光の下にこの身を晒せば心まで洗われる気がして、清々しい気分になれる。

昼でも夜でも月を見つけると、しばらくじっと見入ってしまう。
その癖が付いたのは、まだ小さかった頃。
両親が帰らぬ人になってしまったと知らされた夜、誰もいないところで声を上げて泣いた。
そして散々泣いた後、もうこれ以上は涙をこぼさないと決め、歯を食い縛って天を見上げた時、そこに月が浮かんでいたのだ。
降り注ぐ月の光は、冷たいようでいて優しかった。
この世に一人取り残された気になっていた自分を、月はどこからでも見守ってくれた。
それが、とても嬉しかった。

満ち欠けを繰り返す月は、この世の無常を教えてもくれる。
だから、月を見る時は安らかでいながら、いつもどこか引き締まる心地でいた。

今夜もまた、空を見上げる。
月を探し、想いを馳せる……。




*  *  *  *  *

*  *  *  *

* * *



「まだいいですか…?」
「あ、はたけ上忍、どうぞ構いませんよ」
「スミマセン、遅くなってしまって。 これ、報告書です」
「お疲れ様でした」

受付に座っていた俺はいつもの通り、提出された報告書を受け取った。
日付が変わろうという頃で、遅番で残っていた俺と、一人で現われたこの人の他には誰もいない。
俺が記入事項を確認している間、目の前に立っている人物は身じろぎもしなかった。
じっと自分に向かって来る視線を感じる。
手が震えないように、呼吸が荒くならないように気をつけつつ、俺は最後のサインまで目を通し終えた。

「はい、結構です」

報告書に判を押し、受領した旨を告げる。
しかし、報告者はまだその場を動かなかった。
次の任務が続けて入っている場合はここで申し伝えることもあるからなのだが、今夜はもう依頼は残っていない。

「以上ですが……、カカシ先生」

初めて砕けた調子で名を呼ぶと、ハッとした風な視線とぶつかった。

「はい」

声の雰囲気が、少しだけ違ったように感じた。
もしかして喜んでくれたのだろうか。

ただ名前を呼ぶだけのことだが、ここ何日かずっと意識していた相手なので、いざ呼び方を変えようとすると緊張もしまくる。
ナルト達が “カカシ先生” と呼んでいるのだから、「イルカ先生も堅苦しくならずに」 と本人にも言われていたが、なかなかそうもいかなかった。

名立たる上忍だと意識してしまうと、やはりこちらが構えてしまうのだ。
だが、俺にとっては高かったハードルをやっとクリアできた。

しかし!
今日はこれで終わりでは無い。
俺は目を逸らさずに密かに深呼吸しながら、何度も練習した次に言うべき台詞を頭の中でもう一度繰り返した。
いよいよだ。

「俺も、もうあがります。 それで……」
「……?」

曖昧に言葉を続けた俺に対し、真っ直ぐに見つめてくる瞳が続きを促す。

「よかったら、うちに来ませんか? 旨い酒が手に入ったんです」

頑張って何気ない風を装ってみたが、俺にしては自然に誘えたと思う。
言われた方は、突然の誘いが思い掛けなかったのか、唯一覗いた右目を僅かに見開いている。
一瞬、時間が止まったかの如くに感じられた。
重苦しいのでは無いが、ある種の緊張感が辺りを包む。

言葉の真意を探ろうとしているのだろうか。
カカシさんは、やや眼を細めて俺を見た。
俺も、じっと相手の顔を見上げた。
やや猫背で、いつもポケットに手を入れているその上忍の顔を。

「……お邪魔します」

たっぷり間を取った後、カカシさんは短い返事で承諾した。
俺は、いつの間にか息を止めていたみたいだ。
ふうっと吐息が漏れそうになる。

「はい」

そう返事してから、呼吸の再開を誤魔化すように鼻梁の傷をぽりぽりと掻きつつ、黙々と片付けを始めた。
そんな俺を、カカシさんは直接見ないふりしていたが、意識が向けられているのはしっかりと届いていた。



* * *



想いを告げられたのは一週間前の夜のことだ。

その日、俺はくたくただった。
連日の残業による体の疲労も溜まっていたが、仕事で気が張る場面が多く、特に心が休息を求めているような状態だった。

一緒に残っていた同僚は、仕事の終わりを待っていた恋人と共に帰って行った。
二人は中忍同士だが、だからこそ互いの置かれている状況が理解し合えるのか、忙しくとも交際は順調らしい。
正直、羨ましいと思った。
同様に疲れているはずなのに、あいつは彼女の顔を見た途端、疲れも吹き飛んだのか明るい表情になっていたから。

俺には待ってくれるような人はいない。
家に着いても部屋は真っ暗なままだ。
今更ながらに、一人身を寂しく感じた。

早く帰って寝たい…。
ただそれだけを考えていた俺は、空を見上げることもせずに下だけを見て足を動かせていた。
そこへ、一陣の風と共にカカシさんが現われたのだ。

「こんばんは、イルカ先生」
「はっ!…ああ、はたけ上忍でしたか、こんばんは…」

咄嗟の驚きを恥じるかの如く声が小さくなってしまった。
しかしカカシさんは 「まだ暑いですね〜」 などと気候の話をし始め、俺の動揺などは気にも留めていないようだ。

「こんなに遅くまで仕事だったんですか?」
「ええ、雑用が多いんで、なかなか片付かなくて」
「それはお疲れ様です」

俺からは、「そちらは任務帰りですか」 とは訊けなかった。
口外無用の場合もあるし、内容を聞いたところでそこから話が弾むわけでも無い。
内勤の中忍と、通常の任務もこなす上忍師とでは、共通点を探す方が難しいくらいだ。

それでも、実際に格差があるのは否めない上忍と中忍がこうやって顔を突き合わせて話をしているのは、不思議としか言い様が無い。
関わりを持ったのはカカシさんがナルトの上司となったのが切っ掛けだったが、直接話してみて、その気さくさに驚いた。
階級の違いなどには拘らずに接してくれ、何よりナルトを温かく見守り育ててくれている。
気難しい上忍だという噂とは異なっていた “はたけカカシ” という人物。
あまりの有名人だったので最初こそ途惑ったものの、やがてすぐ、受付所などで顔を合わせる機会が来るのを心待ちにするほどになったのだった。

「ところで、イルカ先生」

軽い話題転換だと、その時は思っていた。

「はい」
「不躾ですが、どなたかとお付き合いされていますか?」
「えっ?」

不躾にも程がある、とも思ったが、格上の相手からの質問にはちゃんと答えないといけないだろう。
そう考えてしまう俺の方が階級差を意識しているのだが、いきなりだったのでそんなことに構っている余裕などは無かった。

「…あ、いえ……今は誰とも……」
「そうですか。 なら……俺はどうですか?」
「へ?!」

頭のてっぺんから間抜けな声が出た。
それを他人のもののように感じながらも、俺はどう返事すればいいのかわからず、固まってしまった。

まだ数えるほどだったが、カカシさんと過ごした時間は楽しいものだった。
けれどそれは、ナルトを間に置いた構図が前提。
一対一の付き合いなどは想定外の事態だ。
だから、雑談の延長で唐突に告げられたその言葉は、俺を非常に困らせた。

黙ってしまったままの俺を見て、カカシさんはちょっと辛そうなちょっと哀しそうな表情になった。
だが、何か言わなければと思っても、思考も口も上手く動かない。

「すみません、いきなりこんなこと言って」
「い…いえ……」
「忘れてください、とは言いません。 俺はあなたが好きです。 それは本当だから」
「………」

好き、と言われて顔が火照ったのが自分でもわかった。
そんな台詞、久しく言われていない…。
相手が同性だというのは想像もしていなかったが、それでも、嫌悪感は無かった気がする。
ただやっぱり、どうすればいいかという結論は、その場では出なかった。

「あなたを無理矢理どうこうしようとは思っていません。 だから、できれば明日からも今まで通りに接してくれれば嬉しいです」
「……はあ、それは別に……」

それならば問題は無い。
元々、そんなに接触がある仕事場では無く、会わない日の方が多いくらいなのだ。
すれ違った時の挨拶や受付所での対応など、いつもと変わりなく行動するのは可能だろう。
心の中が、どれほど葛藤していようとも。

「ありがとうございます。 ではこれで」
「え? あっ!」

俺が何も言えない間に、カカシさんは現われた時と同様に一瞬で姿を消した。
残像を追えもしない。
まるで、さっきまでの出来事が夢だったかのように、辺りにはいつもと何も変わらない景色が広がっていた。

それからというもの、寝ても覚めてもカカシさんのことが頭から離れないでいた。
カカシさんと付き合った場合を考えてみたりもした。
しかし、女性とも経験が少ない俺は、何がどうなるのかうまく想像もできないのだ。

相手が同性だという問題は引っ掛かる点では無かった。
今まで好意を寄せた相手は、女性だからというのでは無くその人間性を好きになったので、性別の拘りは無かったと言ってもいいかもしれない。
ただ、対等な触れ合いを求め過ぎたのだろうか。
それとも、それぞれが考えていた恋愛像とは違っていたのか、今までの相手はみんな向こうから離れていってしまった。
もっと女として扱って欲しかった、と言われた時もある。
しかし、自分は男なのだから、女性の扱いなんてものはよくわからないというのが正直なところだ。
どんな風にすれば女性が喜ぶのかと考えること自体が面倒に思えてしまって、いつしか恋愛からは足が遠退いていた。

だが、今度の相手は男性だ。
自分と同じならば男として共感できる部分は多々あるだろうし、 “面倒なこと” も考えずに済む。
人間として尊敬できるか、未来を共に歩めるか、…と、そんな風に捉えてもいいんじゃないのか。
そこまで考えて、目からうろこが落ちた。

(そうか、見方を変えれば……)

下手に恋愛ごとなのだと思うから混乱するのであって、時を共有できる大切な人をつくるのだ、と思えば感じ方が違ってきた。
それならば、返事は急がなくとも、もっと相手をよく知ってからじっくり考えればいいのではないだろうか。

カカシさんを家に誘ったのは、そう思った結果によるものだ。
告白された翌日からは、本当に挨拶程度しか言葉を交わしていない。
だから、もっと話をしよう。
そして、もっとお互いを分かり合おう。
二人の交際を始めるかどうか決めるのはそれからだ。

初めは、そんな風に思っていただけだった……。



* * *



「楽にしていてくださいね、すぐに支度しますから」

カカシさんを居間へ通し、俺は台所から声を掛ける。
つまみとして、昨夜作っておいた煮物を温め直した。
俺はアカデミーで既に夜食を済ませていて、カカシさんも食事が欲しいというほど空腹では無いということだから、量はそんなにいらないだろう。
あとは茄子のぬか漬けが残っていたので小皿に移し、辛子を添えた。

「何も無いんですけど」
「いえ……」

この日の為に用意した来客用の猪口とお箸を盆に載せ、煮物を盛った丼鉢と漬物の小皿と共に居間に運ぶ。
カカシさんは胡座をかいてはいるものの、ベストも額当ても手甲もまだ付けたままだった。
その姿では寛げないだろうと思ったが、無理に外させるわけにもいかないと考え直し、俺は酒に意識を切り替えた。
風呂敷に包んでいた一升瓶を取り出し、カカシさんに見えるようにする。

「同僚から土産にもらった地酒がありまして」

ラベルを見るとカカシさんも知っていた銘柄なのか、ほおという顔付きになった。

「旨いと聞いたので、一人では勿体無いと思って…」
「それで、俺を?」
「ええ、一緒に呑みたいと考えて思い浮かんだのは貴方でした」
「イルカ先生……」

機嫌を取ろうとしたのでも話を作ったのでもなく、事実だ。
親しくしている同僚達とは、大勢でわいわいと賑やかに飲む方が楽しい。
大事な酒をじっくり味わいたいと思った時、彼らに出すにはちょっと勿体無い気がした。
ならば、と考え、思い浮かんだ顔はただ一人。

「ご迷惑じゃなかったですか?」

ここまで連れて来て今更だとは思ったものの、ついそんな言葉が口をついて出てしまう。

「いいえ、誘ってもらえて嬉しかったです。 名前を呼んでくれたのも」

本当に喜んでくれているようだ。
穏やかな声がそれを教えてくれる。
“カカシ先生” とそう呼ぶだけのことにありったけの勇気を総動員したのは無駄では無かった。

「まだ慣れませんが…」

えへへ、と笑いで照れ臭さを誤魔化しながらも、俺はどこかうきうきした心地になっていたのだろう。
そのまま鼻歌でも歌いそうな調子で盆に乗せていた猪口などを卓袱台に置いていると、視界の端でカカシさんが動いたのが見えた。
それに釣られてふと上げた目線の先には、カカシさんが口布をずらせた為に露わになっている顔があった。

「あ……」

飲み食いするならば口布は邪魔だ。
だから顔を晒すのは当然なのに、俺は素顔のカカシさんを前にして、見てもいいのか、その場にいてもいいのかと一瞬考えてしまった。
すると、直視できず視線をうろうろとさ迷わせている俺に気付いたカカシさんが、ふっと笑みを漏らした。

「どうぞ、遠慮無く」
「はあ……」

促されて視線を戻すと、そこには端正な顔立ちのカカシさんが柔らかく微笑んで俺を見ていた。
整った鼻筋、引き締まった口元、既に見ていて知っているはずの右目さえ、初めて目にしたかのように新鮮で、どこか輝いて見える。
ただ、まだ額当てはしたままだった。
その下には、噂の写輪眼があるのか…。
改めてそう考えると、凄い人物を前にした気になって、途端に緊張してきた。
けれど、こん風に二人だけで飲む機会は二度と無いかもしれない。
そう思うと、目が離せない。

「穴が開きそうです」

あまりにも無遠慮に見つめ続けていたのだろう、カカシさんが耐え切れずといった感じでぷっと吹き出した。

「すっ、すみませんっ!!」

俺は慌てて頭を下げ、バタバタと酒の準備にかかった。

「いえいえ」

まだ笑ったまま、カカシさんはあたふたと忙しなく皿や箸を並べている俺を見ていた。
穏やかで優しい雰囲気が流れる。
誰かと囲む食卓の温かさを思い出しそうなほどに、カカシさんと一緒の空間が、とても心地良かった。



* * *



最初こそどこか遠慮がちではあったが、酒が進むにつれて話が弾んだ。
ナルトについてやアカデミーの出来事など、話題は尽きることなく、酒の方が先に空になった。

「俺も、何か用意してくれば良かったですね」

カカシさんが恐縮した様子で呟いたので、俺は慌てて否定した。

「そんな! 俺が急に誘ったんですからお気になさらず。 安酒で良ければまだありますが…」
「構わないのでしたら頂きましょう。 今夜はまだ飲みたい気分です」
「さっきのと比べると味が落ちますよ」

安月給ではそんなに贅沢はできない。
それでも、日々の憂さ晴らしに酒は必要だった。
部屋の明かりを消して月光を肴に少し呑むのがストレス解消にもなっていた。
だから、一番安く手に入る、量で勝負といった酒をいつも買い置きしていたのだ。

「本当は銘柄なんて拘りません。 俺はただ、貴方と飲めるのが嬉しい」
「え……」
「俺は、貴方が好きだから」

カカシさんの告白を忘れていたわけでは無い。
けれど、改めてそんな風に言われて、俺は急に動揺してしまった。

「あ…あの、俺……あ、酒取ってきます!」

慌てて立ち上がったが、手首を掴まれてその場から動けなくなった。

「っ!」
「イルカ先生、教えてください」

カカシさんの真摯な眼差しからは逃げられない気がして、俺はその場に座り直した。
手首から離れてゆく感触に、ふと物足りなさを感じたのは何故だろう…。
そんなことを思いながらも、正座して腿の上に拳を置き、カカシさんと向き合った。

「…何を…ですか……?」
「どうして、俺と呑みたいと思ったんですか?」
「それは…貴方ともっとゆっくり話がしてみたかったからです」
「話してみてどうでしたか」
「楽しかったです。 まだお開きにしたくないほど……」
「では、もうひとつ教えてください」
「……何ですか」
「俺のことを、どう思ってますか?」

ごくり、と生唾を飲み込む音が頭の中で響いた。

「俺……」

続く言葉が出てこない。
当然だろう、まだ良く知らない相手だし、これからじっくり考えようと思っていたところなのだ。
言い淀んでいると、カカシさんの目が少しだけ鋭くなった気がした。

「俺は、……はっきり言ってしまいますが、貴方への好意には肉欲も含まれています」
「!!」
「今すぐにでも抱きたいくらいだ」

顔がかあっと紅潮したのが自分でもわかった。
そのことについては、考えなかったわけでは無い。
しかし、直接的に言われると、逃げ道を塞がれてしまった気分になった。

「俺は…男ですよ……」
「わかってます」
「俺は……その、そういった経験があまり無くて…」
「経験値は問題ではありません」
「俺は…男同士というのも初めてで…」
「嬉しいです」
「っ!……あの……自分がそういうことをするって、……もう、そういうのが想像もできなくて……」
「俺に任せてくれればいいです」
「でも……」
「もちろん、無理にとは言いません」
「……本当に、どうしていいのかわからないんです………」

俯いてしまったのは顔を見られたくなかったからだ。
混乱だけでは無い、この先の展開を期待していると取られても仕方が無いような言い方をした自分に自分で驚いていた。
どんな顔をしているのかわからないくらい、感情が揺れ捲っている。

不意に、膝の上で握り締めていた拳を、細い指がそっと包んだ。

――― あ…、気持ちいい……

と、ぼんやり感じていて、カカシさんの接近に気付くのが一瞬遅れた。

「!!」

少し離れて座っていたはずのカカシさんが、俺のすぐ前で膝を立てた足を大きく開いて座っている。
カカシさんの足の間に俺がすっぽりと納まった格好だ。
いつの間にか手甲が外されていた左手は、俺の右手に重ねられたまま特に動く様子を見せなかった。

「こうしているのは嫌ですか?」

すぐそばから発せられる声がとても優しい。
接している部分から伝わって来るチャクラも、心地良く響く。

「いいえ」

俺はまだ顔を伏せたまま小声で返事した。

「良かった」

カカシさんの声に安堵の色が混じっている。
俺が拒絶しなかったから、二人の手はまだそのまま重なっていた。

嫌じゃ無い。
嫌なわけが無い。
実際、確かに気持ちいいと感じているのだ。

握り締めていた拳が解ける。
すると、カカシさんの手にそっと握り込まれた。

(細いけど、やっぱり子供の手より大きい…)

アカデミーでは、まだ小さな子供達と手を繋いだりもするが、大人の手と触れ合うのはいつ以来だろう。
そんなことももう忘れてしまうほど、ずっと俺は誰の手も必要とせずにやってきたのだ。

俺に差し伸べられた手。
俺を包んでくれる手。
その温もりを離したくなくて、俺も力を込めてカカシさんの手を握り返した。

「イルカ先生」

声と共に伸びてきた掌に頬が包まれた。
俺はビクッと身体を竦めたが、その手を振り払えずにいた。

「がんばり屋さんですよね、イルカ先生は」
「えっ?……」
「何でも一人で片付けようとして、いっぱい抱え込んで」
「どうして、そんな…」
「ナルトが愚痴ってましたよ。 イルカ先生は忙し過ぎるって」

そうだ、このところナルトを気に掛ける暇も無かった。
忙しさを言い訳に、自分のことだけで手一杯だったのだ。

「要領良く、とか思わないんでしょうね。 真面目なアナタは」
「性分ですから……」
「でも」
「……え?」
「一人で立っているのも疲れるでしょう?」

その通りだった。
九尾との戦いで両親を亡くしてからは、ずっと一人で生きてきた。
火影様や里の人達はよくしてくれたが、誰にも甘えられなかったのは本当だ。
時々、一人で踏ん張っているのを 「疲れた」 と思ったりもする。
でも、寄り掛かれる相手がいるでも無し、どうしても気を張って頑張らねばならなかったのだ、俺は……。

「だから…」

頬から離れた手が優しく俺の頭を撫で、そのまま引き寄せられた。

「あっ……」

引っ張られてバランスを崩し、そのままカカシさんの胸に倒れ込む形になってしまった。
カカシさんの腕の中に包まれている。
俺は今、カカシさんに抱き締められている。

そこで初めて、カカシさんがベストを脱いでいたことに気付いた。
細身に見えたのにがっしりとした肩幅。
俺は、次第に肩の力を抜いていた。

(ああ……気持ちいい………)

ずっと鼓動は高鳴りっぱなしだったけれど、心は不思議と凪いでいた。
俺は、全身の力を抜いた。
そして、身体全部をカカシさんに預けた。

「イルカ先生……」

カカシさんの声が頭の上から聞こえる。

「こういうのも、たまにはいいでしょ」

(ああ、いい声だ………)

俺よりも低めの、大人の男という感じの声。
穏やかで優しく深みのあるその声が、俺の身体に満ちてゆく。

「はい……」

俺は素直に返事していた。

「少しは楽になりましたか?」
「ええ、とっても……温かい……」
「俺もですよ」
「…え?」
「誰かを抱き締めて、こんなに温かい気持ちになれるなんて」
「カカシ先生…」
「イルカ先生」

カカシさんが、腕に力を加えて更にぎゅっと俺を抱き締めた。

「……好きです」

耳元で囁かれた声が、細胞にまで染み渡ってゆく。
その、何と甘く魅惑的なことか。

「俺は………、うっ!」

言い掛けた唇に、不意に人差し指が当てられ、それ以上続けられなくなった。

「まだ、無理に言葉にしなくていいです」
「……」
「時々こうやって、一緒に酒を飲んで、たくさん話をして、そして、疲れたならば肩を貸し合って……、そういう相手がいるっていいと思いません?」


俺は、肯定の意味を込めて、身体に回された腕に手を添えた。
その手を、唇から離れたカカシさんの指が、つつ…と辿る。
微妙なタッチに、身体がぞくりと震えた。

「でも、ゴメン……」

カカシさんが、さっきまでとは違う苦しげな声を出した。

「やっぱり我慢できない」
「…!」

え、と思う間も無く、俺は唇を塞がれていた。
と言っても、単に唇が触れ合っただけだ。
けれど、ほんの数秒だったはずなのに、それは眩暈がするほど長く感じた。

「ゴメンね、抑えが効かなくて…」

カカシさんが、愛しさを湛えた眼差しで俺を見つめる。
あ、額当てをしていない……。

「い…、いえ……」

全て曝け出された素顔に改めて見入ってしまった俺の口からは、責めたり詰ったりするような言葉は出てこなかった。
抱き締められても、キスされても嫌じゃ無いなんて。
それって、他の男では考えられない。
もちろん、何とも思っていない女性相手でもここまで心地良くはなれないだろう。

俺はもう、一人身の寂しさを忘れていた。
胸の奥が、熱くなってきた。

「カカシ先生」

優しい仕草で頬や髪を撫でてくれる手を制して、俺はカカシさんから身体を離した。
そして、膝立ちになり、カカシさんを腕の中に抱え込んだ。

「俺はまだ貴方にちゃんと応えられませんが……、こうしているのは嫌ですか?」

ちょっと前のカカシさんの真似をした。
同じ台詞が出てくるのは、同じ気持ちだということだろうか。

俺は今、とにかくカカシさんを抱き締めたかった。
一人で立っているのはこの人も同じだ。
だから、この人だって疲れる時もあるだろうし、心安らかに包まれたいとも思うだろう。
彼だって忍である前に孤独な人間なのだ。

「いいえ、嬉しいです」

どこか硬直したように動かなかったカカシさんだったが、やがてそっと俺の腰に手を回してきた。

「ありがとう、イルカ先生」

抱き付かれると、どちらがどちらを抱き締めているのかわからなくなる。
でも、それで良かった。
例え恋人同士といえども、どちらかが一方的に寄り掛かるのではなく、互いが互いを支えられたら、とそう思うから。

「俺、イルカ先生のこういうトコロが好きなんです」
「え? どこですか?」

そうだ、俺のどこを好きなのか、まだ本人から聞いていなかった。
一体、この俺のどこを……。

「教えません」
「えーっ?!」
「アナタ、聞いたら意識しちゃうでしょ?」
「う……そ、それは、意識しないと言ったらウソになるでしょうけど…」
「アナタにはそのままでいて欲しいから」
「何ですか、そりゃ……」
「そのままがいいんです、このままのイルカ先生がいいんです」

そう言って、カカシさんはまた俺をぎゅっと抱き締めた。

「本当にいいんですか、俺…このままで」
「あー、もっと積極的になってくれたら、もっと嬉しいですけどね」
「……」

そうだよな……、はっきり 『肉欲』 という単語を耳にしたからなあ……。
こんな抱き付いてるだけの状態や、さっきのキスくらいじゃ、カカシさんは満足していないのだろう。
でも、俺は本当にどうしていいかわからない。
この人が疲れているならば癒してあげたい、とは思うけど、“恋人” になった場合の行動が想像できない。

「スミマセン、困らせるつもりじゃなかった……」

腕からも身体からも力が抜け、すとんと崩れ落ちた俺を、カカシさんの方が困ったような表情で見ていた。

「いつか俺を好きになってくれたら、その時、アナタの中で何か変わるかもしれない。 だから、今はまだ無理しないで」

今はまだ…。
俺を見つめている写輪眼には、未来も見えているのだろうか。
この先、俺はこの人を愛するようになるのだろうか。

「好きか嫌いか、と訊かれれば、好きだと思います。 でも、恋愛にはまだ遠く思えて……」
「ありがとう、それで十分です」

カカシさんからは、何度も 「ありがとう」 という言葉を聞いた。
「有り難い」とは、「有るのが難しい」 という意味だ。

カカシさんは俺の言動を当然と思うのでは無く、そのひとつひとつを大事に受け取ってくれる。
それはカカシさんが、俺と付き合うことを難しいと思っているからだろうか。
焦らず、無理せず、事を運んでいるとも取れるのは、もしかすると、不安の裏返しなのかもしれない。
どれだけ優れた忍といえども、カカシさんだって一人の男で、思うようにならない心の有り様に悩みもするのだろう。

「カカシ先生…我慢はしないでくださいね」
「えっ、そんなこと言われたら、俺、暴走するかもしれませんよ」

この人の負担にはなりたくない、と思った故の台詞だったが、カカシさんは若干違った意味で取ったらしい。
でも、瞳が穏やかだ。
冗談と本気の違いは鈍い俺にだってわかる。
だから、ちゃんと分別のあるこの人を信じていれば大丈夫。

「ふふ」
「…何ですか」
「いえ、何でも無いです、酔ってるんです」

半分はウソだ。
いつもより飲んだから酒に酔っているのは本当だが、意識はいつも以上にクリアなのが不思議だ。

「そうですか、酔ってますか、楽しい酒だったなら良かった」

カカシさんは優しく微笑んでいた。

「ええ、楽しかったです。 “カカシさん” と一緒だったから」
「!!」

俺は酔いに任せたフリをして、ずっと呼びたかった名前を口にした。
心の中でいつも呟いていたその呼び名を……。

「イルカ先生……っ」

気付いた時には、背中に畳を感じ、カカシさんに抱え込まれていた。
微かにだが、カカシさんの苦しげな息遣いが伝わってくる。

どうしよう、と焦りながらも落ち着こうとしていると、ふと目を遣った窓の向こうに満月が見えた。
蒼く輝いている月は、とても眩しく、とても美しい。

俺の視線に気付いたカカシさんが、後ろを振り仰いだ。
銀色の髪に、月光がきらきらと反射している。

「ああ、いい月だ……」

心の底から出てきた言葉が聞こえた。

「俺、月を眺めるのって好きなんです」

その瞬間。
俺は、恋に落ちた。


――― この人となら、一緒に………


「カカシさん……」

俺は自分から腕を廻し、カカシさんに抱き付いた。
好きだと言葉で伝えるのは、もう少し後でも構わないだろう。
今は、この温もりを感じていたい。
この腕を、離したくない。

カカシさんがやや上体を起こした。
間近で顔を見るのは、まだ照れてしまう。

「イルカ先生」

銀の光がゆっくりと降りてきて、俺に覆い被さった。
唇が重なる。
俺は無我夢中で、求められるままに応じた。
本気のキスは、いつまでも続いた。

静かに夜が更けてゆく。
満ちた月からこぼれた雫に、二人して濡れていた。



<終わり>











うわああ〜(〃∇〃) 初々しい二人をありがとうございます///
家に帰っても待つ人のいない身のイルカ先生と
そのまんまのイルカ先生の良さをすごく大切にしようと
してくれてるカカシ先生v
カカシ先生の必死な我慢がまたたまんないですっ!(照)
遊亜さんとろけるお話をまたもやありがとうございます//
しっとりと大人な雰囲気なのに、熱くて戸惑いがちな可愛い二人なのですv

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