うみのイルカという男に、興味を抱いたのはいつ頃だっただろう。
受付にできている列に並びながら、カカシはふとそんなことを考えた。
徐々に短くなっていく列の先にいるイルカは、ちらりともこちらに気づかないで、
次々に書類を片していく。
いや、気づかないふりをしているだけか。
そ知らぬそぶりをしているイルカを眺め、カカシはふと口の端を上げる。
平凡で、誠実で、真面目な男。容姿だって際立っていいところはひとつもない。
そりゃあ、ちょっとは愛嬌があるけれど。
一体いつ、平凡極まりない彼に特別な気持ちを抱いたのだったか。
中忍試験の推薦の件で言い争ったとき。いや、最初に受付で言葉を交わしたときか
らすでに気になっていたのかもしれない。
お疲れ様です。
そう言ったイルカの、声と唇の動きがやけに印象的だった。はっきりとそれを意識
したのは、ムキになって食ってかかってきた彼を見た時だ。
いつも穏やかだった声は怒気を含み、怒りのためかわずかに震えているようだった。
歪んでいる唇の形に、妙な可愛さがあった。
言い争った後、飲みに誘ったのはこちらから。
イルカは戸惑っていたけれど、断ったりはしなかった。
何度も誘って、何度も食事をした。イルカが諍いのわだかまりを忘れて微笑みはじめた頃、
カカシはひそかに性欲に似た思いを彼に抱きはじめていた。
それから肉体関係を結ぶまでに、さほど時間はかからなかった。
もちろん仕掛けたのはカカシの方だ。酔っていたときにそうしたせいか、
イルカは予想していたよりもずっと大人しく自分を受け入れた。
さみしかったのかもしれない。
ひとりでいる期間が長かったせいか、子どもの頃からさみしい思いをしてきたからなのか、
イルカは見かけに寄らず甘ったれだ。
家にふたりでいるときなんかは、暇さえあればベタベタしてくる。
台所に立っているときは後ろにひっついているし、テレビを見ているときはひとを座椅子かわりにくつろいでいる。
ひととベタベタするのをあまり好まないカカシだが、なんとなくイルカのことは憎めない。
それはイルカが子どもみたいな無邪気な顔で笑うせいだ。
ふたりでいるときのイルカはこの上なく可愛い。
じいっとこちらを見つめる目はどこか潤んで、時々電気を反射してきらりと光ったりする。
くるんとしているとか大きいとか、そういう形容は似合わないけれど、
真っ黒い目はびっくりするくらいに澄んでいる。
カカシはいつもそこから目が離せなくなってしまうのだ。
最初はただの興味だったのに、いつの間にか彼は自分の生活において欠けてはならない存在にまでなっていた。
際立っていいところはないと思っていたはずなのに、彼の鼻の上にちょんとついた一文字の傷さえ可愛く見える。
こういうのをあばたもえくぼと言うのだろう。
自分がこんなことを考えているだなんて、イルカは考えもしないのに違いない。
今も彼は報告書を受け取り、チェックに勤しんでいる。
本当に、夜とは別人みたいな顔で。
家ではベタベタするくせに、彼は仕事になるといつも知らんふりを決め込んでいる。
無駄にしゃべらないし、目をじっと見つめたりもしないし、必要以上の笑みも浮かべない。
その切り替えがカカシは好きだ。
好きですと言うその唇で、その声で、サインが抜けていてますよとそ知らぬフリで言う。
その感じがとてもいい。ゾクゾクする。
そのくせ、夜に訪ねていくと、イルカはこぼれんばかりの笑顔で家に迎え入れてくれる。
ちゃぶ台の前に座って、好物を前にして、カカシ先生って、昼は冷たそうな顔をしているんですね、などとぬけぬけと言う。
そりゃあアンタの方でしょうに、と思いながらカカシは苦笑する。
だけど決して、イルカ先生の方が他人みたいな顔しているじゃない、とは言わない。
昼の彼のあの雰囲気が失われるのが嫌なのだ。
夜はやさしげなあの声が、人前で冷たく響くのにドキドキする。
そしてその反対に、昼は冷たかったあのひとが、夜になると甘ったれてくるのがとても好きだ。
くす、とカカシが微かに笑みを浮かべたとき、前に並んでいた男がふと列を離れた。
長い机ひとつ隔てた目の前に、イルカの姿がある。
ようやく回ってきた順番。
こちらに向けられている目は、疲れのためか少し潤んでいる。
お疲れ様です、と言った声は低い。唇の動きは無愛想。
やっぱりそ知らぬフリを決め込んでいる。アンタなんかと何の関係もありませんよ、
とでも言いたげな顔で報告書を受け取り、そのままさっさと目を伏せてしまう。
右と左に何度も目を行き来させ、やがてチェックを終えたらしい彼はうっすらと唇を開いて言った。
「サインが抜けていますよ」
夜とまるで違う、冷たく無機質な響き。まるで他人みたいな仕草。
その声に、カカシは密かにぶるりと震えた。
〈終〉