カカシ×イルカ
『 流るゝものは 』
小説 遊亜様
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民家から少し離れた高台に生えている大木の下に、ぽつんと佇むイルカの姿があった。
もう雨は上がっていたが、その心中はまだ雲に覆われているようだ。
葬儀が終わってナルト達と別れた後、イルカは喪服も着替えずに真っ直ぐここへ来ていた。
弔いの場では特に意識していなかったが、早く一人になりたいと心のどこかで願っていたのかもしれない。
けれど、家には帰らず、イルカの足は自然とこの場所へと向いていた。
時々物思いに耽りたい時に利用する、それがここだったのだ。
なのに、せっかくやって来たものの、いざ一人になると返って落ち着かないでいた。
頭の中は、里の今後の心配ばかり。
アカデミーでも問題が山積みだ。
何から片付けようかと考え始めると、ゆっくりと故人を偲ぶこともできない。
しかし、そんな一人の時間は長くは続かなかった。
(…!)
人の気配を感じて一瞬気を張り詰める。
が、すぐに緊張を解いた。
そして、できれば、ここで、この人には会いたくなかったなあ、と心の中で呟きながらも、
「お疲れさまです」
と、背後から聞こえてきた足音に、先に声を掛けた。
いつも、受付で言っているような口調で。
いつものような笑顔で、というわけにはいかなかったけれど。
「お疲れさまでした」
そこに居たのは、木ノ葉隠れの里の上忍で今は第七班を率いている、はたけカカシ。
ほとんど布で覆われた顔からは、表情が読み取りにくい。
取り立てて親しいとは言えないのに、イルカにとっては何故か気に掛かる存在だった。
この人とは教え子のナルトを通じての繋がりしかないはずなのに……。
さっき、さよならの挨拶を交わしたばかりだったのに……。
微かな動揺を隠して、会話の取っ掛かりを探す。
「ナルト達は…?」
「みんな家に戻りました。 一応、自宅待機です」
「そうですか……」
一人ではなくなったので場所を替えても良かったが、イルカは動かなかった。
カカシの声がこの雰囲気を邪魔せず、何故かイルカの中にすっと入り込んできたから。
それが、……不思議だった。
だから、もう少し話したいと思った。
「あの」
「はい?」
「足音はわざわざ立ててくれたんですか」
「あなた相手に気配を消す必要も無いですから」
片方だけ見えている目が細くなった。
少し笑ったのかもしれない。
だが、「それに」 と続いた言葉は、やや伏せ気味の眼差しに添えられて出てきた。
「今日は余計なチャクラを使いたく無いでしょうしね」
中忍試験の最中に襲われた木ノ葉の里を守る為、忍達が全力を挙げて必死に敵と立ち向かった。
しかし、戦いの中で多くの忍を失い、三代目までもが命を落としたのだ。
イルカにとってそれは、ただ “火影様の死” というだけでは済まなかった。
親を失ってから父のような存在だった三代目。
それでこの上忍は自分に対して気遣ってくれたのか、とイルカは少し意外な気がした。
何気なくふと振り返った時、カカシと視線が交差したことが何度かあったが、いつも会釈して済ませるだけ。
自分が気に掛かっているように、相手もそうだとは思ってもみなかった。
そんな素振りは欠片ほども見受けられなかったから。
それにしても、カカシが現われた理由がよくわからない。
もしかしてカカシもこの場所が目的なのだとすると、邪魔をしているのは自分の方だろうか?
そう思ったイルカが、
「あの、俺、帰ります」
と、そそくさと立ち去ろうとした時、「ねえ」 とカカシがのんびりとした声を出した。
「雨、上がって良かったですね」
「は?……ええ、そうですね」
話し掛けられて無視するわけにもいかず、イルカは立ち止まって相槌を打つ。
「こんな日くらい、構わないんじゃないですか?」
「え?」
何のことだろう、と考えた一瞬の隙に、カカシがイルカへと近付いてきた。
(え? えっ?!)
カカシの右目はイルカをじっと見つめている。
イルカはその威圧感から逃げられない。
縮まる距離に耐えられず、一歩後退りすると、背中がトンと木の幹に当たった。
「あ、あの……!」
ようやく口を開きかけたイルカの顔面に、カカシの手が伸びてきた。
ひっと息を呑んで身体が硬直する。
「今は、忍だということも」
イルカの額当てが外される。
「アカデミーの教師だということも」
髪を結っていた紐が解かれる。
「全部忘れて」
さわさわと吹いた風が、黒髪を揺らしていった。
いつもの真面目な印象とは違う、無防備なイルカ。
下ろした髪で覆われた顔に美しさと儚さを感じ、カカシは胸の奥に小さな痛みを覚えた。
だが、思わず抱き締めそうになったのを堪え、幹に手をついて、腕の中にイルカを囲む。
「誰も見てませんから。 俺も、すぐに消えますから」
「え………」
「ね」
事の成り行きに呆然として抵抗さえ忘れていたイルカだったが、穏やかな声で逆に現実に引き戻された。
しかし、抗議しようとは考えなかった。
むしろ、このままでいたいとさえ思った。
悲しみや焦りでいっぱいだったはずなのに、何故か穏やかな空気に包まれている。
そんな心地良さを感じている自分に、少し驚いていた。
カカシの眼差しは真っ直ぐイルカに向けられ、吸い込まれそうなほどで。
ナルトの件で対峙したことはあっても、こんな風に見つめ合う機会は今まで無かった。
(綺麗な瞳……)
そう思った時、イルカの中で引っ掛かっていた何かが外れた。
するとカカシはイルカから離れ、くるりと身体を反転させた。
「あれ、また降り出したかな」
片手をポケットに突っ込み、すっかり青色を取り戻した空を見上げてカカシがボソッと言う。
イルカはそこで初めて、自分の頬を伝う熱いものに気付いた。
気付いたが、はらはらと落ちる涙はそのままに、視線はカカシの後姿から離れない。
素直に泣けと言われた気がしたのに、本当に泣いてしまうと見ないフリをしてくれる。
思い掛けない優しさに触れ、また、鼻の奥がツンとして涙が溢れてきた。
「あ、これ、忘れるところでした」
カカシが背を向けたまま、ずっと握っていた額当てと紐をイルカへと突き出した。
受け取れば、いつもの姿へと戻り、日常に埋没していく……。
そう思いつつ伸ばしたイルカの手は、目的の物は取らずにカカシの腕を掴んでいた。
そのまま引き寄せられるようにして、肩口に額を押し当てる。
雨に濡れた後、まだ渇ききっていない喪服がしっとりと湿っていた。
布を隔てた向こうの肌からは、穏やかな息遣いが伝わってくる。
イルカは、広い背中にそっと身体を寄せた。
(この人は生きている)
それが切ないほどに、とても嬉しく思えた。
「カカシさん……」
「………」
吐息と共に漏れた声は、言った本人の耳にしか届かないくらいにか細い。
けれどカカシには聞こえたのか、無言のまま、まだ肘を掴んでいたイルカの手に自分の手を重ねた。
触れた部分が熱く感じる。
「ありがとう…」
あなたは生きていてくれて。
俺の心に手を差し伸べてくれて。
「…ござい……」
語尾は震えてしまって声にならなかったが、カカシには背中から身体中に響いて伝わっていた。
返事の代わりに、イルカの手をぎゅっと握り締める。
そこから互いの体温が流れ込み、喪失感を補うかのようにそれぞれを満たしていった。
一人になりたかったはずなのに、今は一人で無くて良かったとイルカは思っていた。
この人が一緒に居てくれて良かったと、しみじみと、そう……。
「そっちに降ってる雨が止んだら、教えてくださいね」
そう言われたイルカは、カカシの背中に頭を摺り寄せるようにして、こくりと肯いた。
降り止むまでは、このまま二人。
あと少しだけ、このままで……。
柔らかく微笑んだイルカの頬に、また一筋の涙が流れた。