忘れられない夜があった。
忘れられない朝があった。
忘れられない想いを押さえつけて、もうこのままではいられない。
「やぁったー!!久しぶりにちゃんとしたベッドで眠れるぞー!」
宿屋に入って、はしゃぐアデューに姫が笑顔で賛同する。しばらく野宿か、部屋が空いてなくて一室で雑魚寝なんてことが続いていた。
つまり、俺もヒッテルと二人きりになる機会がなかったわけで。
不意に彼の方を振り向くと何とも複雑そうな顔をしていて、目が合うと勢い良く逸らされた。
分かっているのなら上等。
「ちゃあんと取れたでー!二人部屋四つ!しかも、値切りに値切って、三つ分の値段で!感謝しぃやぁっ。ほい、鍵」
「おお、ご苦労だったな、カッツェ。では、明日は九時に出立ということで解散しましょう」
「カッツェ、貰って行くぞ」
カッツェの手の中から鍵を一つ取って、もう片方の手でヒッテルの手首を掴んで引き寄せた。
「な…っ?」
「ちょ、待ちぃ!兄ちゃんはやらへんで!」
「ははっ、鍵、だよ。さ、行こうか、ヒッテル」
「お、おい、グラ…」
「おお、お二方がご一緒ですか。では、イズミ殿、ご一緒に…」
「ええ、では、おやすみなさい」
「え」
「じゃあ、サルトビ!行っこうぜーっ」
「あーあ、また五月蠅いのと一緒かよ、ついてねー」
「あ」
「私達も行きましょう?カッツェ。何でも女性のみの特典もあるとか…」
「特典!?よっしゃ!さっさと行くで!!」
「カッ…」
「案外、往生際が悪いな、ヒッテル」
誰もいなくなって、皆が去っていった方向に手を伸ばすヒッテルの肩を抱くと途端に振り払われた。
「…そして、つれないな」
「うるさい…あからさまなんだ、お前は…」
「そう睨むなよ、可愛い顔で」
「っ…そんなこと、言うな…っ何だって、お前は俺の前だとキャラが変わるんだっ?」
「好きな人の前でいつもと同じでいられるわけないだろ…?」
わざと耳元で囁いてやると大きな耳がピクッと震える。ああ、もう本当に限界だよ。
「とりあえず行くしかないんだから行こう。いつまでも、ここにいるわけにもいかないし」
「…部屋はお前が使え。俺は外にいる」
「何だって?」
「一緒には…いられない」
そう言われて、俺の中で何かが弾けた音がした。
再び、ヒッテルの手首を掴んで引きずるように部屋に向かった。
「痛…っグラチェスッ!離せ!」
「離さない」
そう返して、ヒッテルを部屋まで連れてくると今度はちゃんと鍵をかけてから彼をベッドへと押し倒す。
「グラチェス!!」
「私はいつかも言っただろう?離せないんだ、もう…。そして、覚悟しておいてくれと言った筈だ」
「出来るわけ…っ無いだろう!?離せ!」
「嫌だ…離さない」
冷静を装った声でそう告げると見開かれたヒッテルの目から涙が零れ、頬をつたった。
思わず、解放しそうになった手をどうにか堪える。ここで離したら、きっと二度と掴めなくなる。そんな気がした。
「…どうして?ヒッテル…どうして、そんな迷った目で私を見る?何を考えている?」
「お前が…っ言ったんだろう…っっいつもと同じでいられるわけがない…!俺はどうなるか…分からないぞ…っ」
横を向いて苦しそうに叫ぶヒッテルを呆然と見下ろした。
多少なりとも好意は持って貰えていると思っていた。けれど、私が思う以上に彼は私を想っていてくれたのかも知れない。
「…もしかして、それで俺に嫌われるのが怖かった?」
問うと横を向いたまま、照れたような拗ねたような表情を見せるヒッテル。何て、愛おしさだろう。
「馬鹿なことを…ヒッテルはヒッテルだろう?今更、嫌いになれるくらいなら私はこんなに苦しんだりしない」
「苦しむ…?」
「君が頷いてくれないと君を抱けない。私は甘い男だから」
「嘘をつくな、嘘を…」
ヒッテルは苦笑いを浮かべながら、ゆっくりと顔をこちらに向けてくる。私が微笑みながら彼の目元にキスを落とすと微かに彼の唇が動きだした。
「グラチェス、手を離してくれ…もう逃げないから」
そう言われて私がそっとヒッテルから手を離し、その手をベッドについてヒッテルを真っ直ぐ見下ろした。
不安そうな顔をしていたに違いない私にヒッテルは穏やかな笑みを浮かべ、私は素早く伸ばされた彼の両腕に抱き寄せられた。
そして、耳元に甘い囁きが聞こえた。
「せめて、優しくしろ」
「…善処するよ…」
「ほう、女性特典は美容エステでしたか」
「ええ、何だかお肌がつるつるになったようで…」
「女っぷりに磨きがかかったってなもんや!これで男商人と男客はイチコロや♪」
「にしても、グラチェスとヒッテル、遅いなぁ。朝飯、先に食っちまうぞぉ?」
「…あああああ!!!!忘れとった!!兄ちゃんのピンチを…わて、ちょっと見てく…」
「ああ、ごめん、遅くなって。おはようございます」
翌朝、私がヒッテルを支えるようにして食堂に現れると皆して固まられた。
視線の先には未だかつて無く色っぽいヒッテル。
暑いと言ってはだけたままの胸元。気怠げな表情。ゆっくりとしなやかに動く仕草。
気持ちは嫌と言うほど分かるが仲間だけではなく、他の客の目も惹いているようだ。少しの優越感と多くの独占欲が生まれてくる。
ヒッテルの腰に添えていた手を少し引き寄せると彼は不思議そうな顔で私を見上げる。
また、その顔が可愛くて…。
「…何だか、あっちのが磨きかかったんじゃないか?」
「アデュー、うっさい!!こらぁ!グラチェス!!兄ちゃんの腰に手ぇなんか回さんといて!ほら、離れる離れる!」
「はいはい、じゃあ、ヒッテル、朝食取ってくるよ。座ってて」
「あー…いや、俺は…」
「だめだよ、ちゃんと食べて。疲れてるなら尚更。何なら食べさせてあげようか」
「い、いい…っ自分で食べられる」
「じゃあ、取ってくるよ」
「……な、何やっ?この甘ったるい雰囲気は!?兄ちゃんっ?兄ちゃんはわてだけの兄ちゃんやろぉお!?」
「あ?ああ、当たり前だろう。俺にはお前以外、妹も弟もいないぞ。急に何言いだしてるんだ」
「…いや、そうやなくて…」
背後から聞こえるやり取りに笑みを零して、ヒッテルの為に果物を多めに取る。
そう言えば、ちゃんと伝えてなかったな。後で言っておかないと。そして、言って欲しい。
愛している、と。
終