何が俺を狂わせたのか。
天気のせいだったか、タイミングのせいだったか。
いや、俺を狂わせたのは間違いなく、いつだって貴方だった。
良く晴れた日曜日の夕方、出掛けた帰り道でふと考えてしまう
、愛おしい人のこと。
誰もが認める極上の美人、茅野陽一先輩。
あの人と出会ってから、俺があの人のことを考えない日はなか
った。
こんな人がこの世にいるものかと、本気で思った。
綺麗で、本当に綺麗で。
でも、それだけじゃない人。
ダイヤモンドみたいな外見に対して、ダイナマイトみたいな性
格。
点火するのは必ず溺愛の弟絡み。
普段は優しくて穏やかで人当たりが良くて。
貴方は優しいダイナマイト。弟に絡みさえしなければずっと優しいダイヤモンド。
弟に絡んだことはない俺がそれにを知っているのは、ずっとずっと貴方を見てきたから。
ずっとずっと想ってる。
貴方はそれを知りながら上手に俺をあしらうんでしょう。
ずっとこのままなのか、と少し怖くなる。
ああ、貴方は今、どこにいて、何を想っているのだろう…。
「武藤?」
その時、俺は俺にとってこの世で極上の声を聞いた。
背後から聞こえた声は間違いなく、いや、俺が間違えるわけもない、貴方のものだった。
「よ、陽一先輩っ?」
「やぁ、体育祭以来だね。元気でやってる?」
「は、はいっ。もう、今、まさに元気になりましたよ!こんな所で陽一先輩に会えるなんて!」
「相変わらず口が上手いなぁ、武藤は。家、近所なんだからこんな所ってこともないだろ。買い物?」
「はい。もう済んだんで帰ってきたとこなんですが…陽一先輩は?」
「うん、久しぶりに洋服見てきたんだけど…流石に日曜は混んでたね」
多分、日曜だからってだけじゃない。
こんな極上の美人を通りかけに見たら、ついていきたくなるヤツだっているだろう。
他のことには怖いくらいに鋭いのに何で自分のことにはこんなにも疎いのか、この人は。
「あれ?」
不意に陽一先輩が空を見上げて手の平を上に向けた。
「どうしました?」
「雨かな」
そう言われて、俺も空を見た。
俺が見上げた空は雨がこれから降り始めると予告する灰色の空。
あんなに良い天気だったのに、そう言おうとした直前に勢い良く降りだした雨。
「うわっ」
「あ、陽一先輩っ、電話ボックス!行きましょうっ」
俺はどさくさに紛れて陽一先輩の肩を抱いて近くにある電話ボックスへ走った。
ドアを開け、先に陽一先輩を入れて俺も続こうとして。
そこで、雨を避けていた顔を上げて陽一先輩を見てしまったのが駄目だった。
雨に濡れた陽一先輩はとんでもなく色っぽくて。
濡れた髪はいつも以上に艶っぽくて、伏せた睫毛から雫が落ちる様が例えようもなく綺麗で。
髪をかき上げれば綺麗な顔が更に晒されるし、濡れた服が身体に密着してしなやかなシルエットを見せる。
俺はドアを押さえたまま、見惚れて凍り付いた。
「武藤?何やってるんだ、早く入らないとずぶ濡れになるぞ」
俺の心中など知る由もなく、貴方は濡れたような目で俺を見て。
むしろ、切ない。
俺は貴方にとって安全な男じゃないんですよ?
「武藤?」
「あ、ああ、はい、すいません、失礼しますっ」
………これはヤバい、ヤバすぎる。
思った以上に電話ボックスというのは狭くて…。
よ、陽一先輩の顔がこんなに近くにあったことが今だかつてあっただろうかっ。
近くで見ても綺麗というか、近くで見ると一層綺麗というか。
身体だってもう触れそうなほど近くて。
嬉しいのに苦しくて死んでしまいそうだ。
「夕立か…すぐ止みそうだ、良かった」
「え、あ…そう、ですねぇ」
「…残念、か?」
「え…っっ」
心を見透かされて動揺する俺を貴方は楽しそうに笑って見つめ
る。
全て分かっててこんなこと言うなんて挑発もいいとこだという
のに。
それでも、ムカつくどころか嬉しくなってしまうのはやっぱり
惚れた弱みなんだろう。
「全く…意地悪ですよ、陽一先輩は」
「どうして」
「全部分かってて、あんなこと言って、そんなこと聞いてくる辺りが、ですよ」
「そんなことないよ。武藤はタヌキだから全部なんて俺にもきっと分からないよ」
綺麗な笑顔でそんなこと言って。
何でだろう。貴方との会話は駆け引きみたいだ。それも貴方だから楽しいけれど。
「そうですか?俺、陽一先輩には分かってて欲しいのになぁ」
「そういうのは全部見せてる人間が言うんだよ。そういえば大悟くんも似たようなとこあるよね。流石、血縁」
大悟の名前が出た一瞬で楽しかった気持ちがふっと陰る。
この人が俺との会話中に弟の名前を出すことはよくあることだから諦めているが他の男の名を出されると妙に胸が痛んだ。
痛むというか、どろどろと黒い感情が生まれてくる気がした。
「…今の大悟となんて体育祭でしか会ってないじゃないですか、分かるんですか?」
「いや、あれから一回会ったんだ、偶然。それで一緒に食事して…楽しいよね、彼」
俺が目の前にいるのに他の男のことを思い出して、そんな風に笑わないで。
俺がこんなに側にいるのに。
本当に俺は安全なんかじゃないんですよ?
俺は陽一先輩が髪をかき上げようと伸ばした手の手首を掴んで電話ボックスのガラスに押しつけていた。
「っ武藤、痛…っ」
俺を制しようとした、彼のもう片方の手も同じように封じると陽一先輩は驚いた顔で俺を見上げる。
俺はきっと今まで陽一先輩の前では見せたこともないような顔をしているに違いない。
「ただでさえ…我慢の限界が近いのに俺の前で他の男の話題なんて出さないで下さいよ…」
「武、藤…?」
「じゃないと、何しでかすか…分かりませんよ?」
そう言って、俺は勢い良く陽一先輩にキスをした。
流石に抵抗してくる力が強まって彼の手を掴んでいる手に力を込めて押さえる。
今まで溜まっていたものを全て吐き出すみたいに乱暴で激しいキスをした。
どのくらいキスしていたのか分からないほど没頭し、陽一先輩の身体が崩れ落ちそうになって、やっと俺は陽一先輩から離れた。
手は、離せなかった。
陽一先輩は俯いて激しい息づかいで呼吸を繰り返す。
その呼吸が整ったら。
極上の声で俺を地獄に叩き落としてくれるだろう。
それは冷たい目で蔑んでくれるだろう。
それでもいい。
俺を見て欲しかった。
……って…俺は何てことをしたんだぁああ!?
こ、こんなの下手すれば二度と会ってもらえなくなるじゃねぇか!?
下手すればっていうか、普通はそうだろう!?
陽一先輩と二度と会えないなんて…俺が耐えられるわけないだろう!?
「す…っすいません!!俺、何てこと…っっすいません!すいません!!」
俺は思いきり頭を下げて叫んだ。それでも手だけは離せない。逃げ出されるのが怖かった。
「…謝るんだな」
「え…」
予想外の言葉に俺は顔を上げた。陽一さんの顔には怒りという感情は見て取れない。
それが我ながら不思議だった。
「いや…俺が遊びすぎた。確かにお前の気持ち知ってて」
「陽一先輩…」
「何て顔してるんだ。大丈夫、怒ってないよ」
俺は多分、今までに見せたことがないほど情けない顔をしていたことだろう。
その顔は今の言葉で更に情けないものになったはずだ。
怒ってないと言われたことは決して手放しで喜べることではない。
二度と会えないという最悪のパターンは避けられたことは喜ばしいが、妙に切ない。
事故として片づけられたような、空しさ。
いっそ押し倒してしまおうかなんて馬鹿なことまで思いついてしまう。
「それって…俺のこと、何とも思ってないからキスにはカウントされないってことですか?」
「少しは想ってるからキスされてもいいと思っただけだよ」
「っっマ、マジっすか!?」
俺が再び身を乗り出して、陽一先輩に近づくと不意に電話ボックスがガンッともの凄い音を立てて揺れた。
何だと思って横を向くと、そこには鬼のような怒りの形相で陽一先輩の弟が二人揃って俺を睨み付けていた。
「広海、と大地まで」
「むぅとぉおお!てンめぇ…うちのアニキになぁにしてやがるぅううう!?」
「…とっとと出てきやがれ、ぶっ殺してやるから」
この状況で出られるか!?マジ殺されそうじゃねぇか!!
「よ、陽一先輩〜っ」
「ま、俺のキスは高いんだよ。とりあえず、いい加減、手離してほしいんだけど?」
「…そしたら助けてくれます?」
「仕方ないな、貸し一つだな」
俺がゆっくり陽一先輩から手を離すと彼は赤くなった手首を見て苦笑を漏らしながらその手首をさすった。
「やっぱ貸し二つ。暫く残りそうだ、これ」
そう言って、陽一先輩は俺をよけて電話ボックスから出ると俺が出る前にドアを閉めた。
「あ!そんなヤツ庇うことねぇよ!!何されてたんだよぉっ?」
「人聞きの悪い…大丈夫だよ、ちょっと過激なコミュニケーションだっただけだから」
「この手で大丈夫だって…?」
「がー!!武藤!!やっぱ殺す!!」
電話ボックスのドアに掴みかかろうとする弟を陽一先輩が抱きとめるようにして制していた。
命は大事だが…何となく複雑だ。
「広海、気持ちは嬉しいが殺人は止めておけ。犯罪だから」
「だって!アニキ!!」
「それより、二人揃ってどうしたんだ?」
「…広海が雨だから駅まで陽一を迎えに行くってきかねぇから
」
「な、何だよ!?じゃあ、てめぇは残ってればいいだろ!?」
「自分の傘だけ持って出ていったのはどこのどいつだ」
「あー、はいはい、二人とも、ありがとうな。まぁ、俺はもう濡れてるし、雨は止んだけど」
「じゃあ、もう早く帰ろうぜ!いくら夏だって風邪ひいちまうっ」
「…風呂湧いてるから飯の前に入れ」
「珍しく気が利くじゃないか、じゃあ帰るか」
そうして茅野三兄弟は電話ボックスを後にした…って、それもあんまりじゃないですかっ。
陽一先輩に溺愛されてる次男も陽一先輩に負けず劣らずのアニキ好きのブラコンで。
末っ子なんか次男にだけならまだしも長男の陽一先輩に対してまでブラコンなんて。
それでなくてもライバルは山のようだというのに。
電話ボックスの中から情けない顔で陽一先輩の背中を見送っていると不意にその顔が僅かに振り向いて笑った。
…やっぱり、貴方にはかなわない。
いつまでも、どこまでも愛おしい人。
でも、いつの日か、きっと…。