第9回

 長野は、船乗り達に見つからないようにこっそりと自分たちのキャンプに近づいた。准一も、ゴーが誰にも見つからないように注意しながら長野の後に続いた。
 長野はアンジーを准一に抱かせると、ナイフの刃をたき火の火であぶってから、アンジーの腕から弾のかけらを取り出した。幸い、それはすぐに取り出せた。アンジーは気を失ってぐったりしていた。
 長野が取り出した散弾のかけらを見せた。ゴーはそれをじっと見つめ、それから准一を見た。
 「……アンジーは銃で撃たれたんだ」
 アンジーやゴーにすまない気持ちでいっぱいになりながら、准一は言った。
 「俺たちを助けに来た船乗りが撃ったんだ。……ごめん……」
 「……」
 ゴーは、弱々しい表情のアンジーを抱きしめた。
 「……ごめんな」
 准一はどう言っていいかわからず、ゴーにもう一度謝った。すると、ゴーが言った。
 「ジュンチが悪いんじゃない」
 「でも、ヒトがアンジーにこんなことをしたんや……」
 准一がうなだれると、ゴーは准一を見てつぶやいた。
 「……ジュンチ」
 「?」
 「……ジュンチだけじゃない、ゴーもヒトなんだ……」
 はっとして准一はゴーを見た。長野も、そんなゴーをじっと見つめた。
 准一は、ゴーに言わなければならなかったことを思い出した。
 「なあ、ゴー。前に俺が言ったこと、覚えてるやろ。船が来たら、俺はロンドンに帰るって」
 「……」
 「今沖合に見えるのが、その船なんや。俺、あの船に乗って、長野さんや坂本さんといっしょにロンドンに帰る。アンジーを撃った船乗り達の船やけど、あれに乗らないと俺は父さんの所に帰れないんや……」
 「……」
 「ゴー、俺たちといっしょにロンドンに行くか? どうや? ゴーのほんとうのお母さんやお父さんがロンドンにはいるかも知れへんのやで!?」
 「……」
 「俺、ゴーに俺といっしょにロンドンに行って欲しい。ゴーと別れることが、俺つらくてしょうがないんや。ゴーも俺といっしょにロンドンに行くんだったらどんなにいいだろうって思う。……俺に出来ることはなんでもする。なあゴー、ヒトの住むところに行ってみないか。ゴーだって今、ゴーもヒトなんやって言ったやろ!」
 ゴーが瞳を上げて准一を見た。ゴーは乾いた唇を開き、苦しげな声を出した。
 「……ジュンチ、でもゴーには、ケンもアンジーもオカーサンもいる……」
 准一はなにも言えなかった。ゴーの言うとおりだった。
 それだけで、ゴーはうつむくと、だめだと言うように頭を横に振った。准一は力無く頷き、言った。
 「……わかった。俺は、ロンドンに帰ったらゴーのお父さんやお母さんのこと調べてみる。あれ、俺がずっと借りててもええやろ?」
 ゴーはうつむいたまま、頷いた。准一は、どうしようもない気持ちで言った。
 「……ゴー、俺、もうすぐ船に乗るんやよ。いつかまた遭える日まで、もうずっとゴーと会えない。ずっとずっと……」
 アンジーを抱いたゴーが、顔を上げて准一を見た。
 「……最後にもう一回さよならを言いにいつもの場所に行くから」
 ゴーはかすかに頷いたと准一は思った。だがゴーは、
 「アンジーをオカーサンのところに連れて行く」
 とつぶやくと、准一と長野に背中を見せた。そのままゴーは振り返らずに、准一から見えなくなってしまった。
 「俺、船が来るのを待ってた。ここも好きやけど、親父のいるロンドンにも帰りたかったからや」
 ごちゃごちゃな気分で准一はつぶやいた。
 「……こんなことになるなんて思ってなかった」
 長野が、なぐさめるように准一の肩に手を置いた。
 「まさか船乗り達がいきなり銃で撃つなんて、わたしも思いませんでした。……でも、考えれば予想できたことです。准一くんはまだ子供です。わたしが気をつけていなければならなかったんです……」
 長野の声には後悔がにじんでいた。
 「……」
 「元気を出して。アンジーは大丈夫ですよ。そう大きな傷ではなかった。弾のかけらもちゃんと取り出しましたし」
 長野が言った。准一は頷き、それから顔を上げた。
 「長野さん。……でも、ゴーとは別れないとならん……」
 長野がつぶやいた。
 「……そう、ゴーとはお別れです。……でも、准一くん」
 「なに?」
 「”あれ”を借りるってなんのことですか。さっき准一くんがゴーに言ってたことですが……」
 「ああ、それは」
 ゴーの見せてくれた小さな服は、今は准一が隠し持っていた。
 准一はまだそのことを、坂本にも長野にも言っていなかった。だが、ロンドンに帰る今となっては、長野に見てもらったほうがいいと准一は思った。
 准一は、キャンプにほど近い場所に隠しておいた服を取り出して来て、長野に見せた。
 「あんな、これのこと」
 「……」
 「ゴーがチンパンジーのオカーサンに見せてもらったものなんやって。ごく小さい子が着る服や。たぶん、ゴーはここに着いたはじめはこれを着ていたんやと思う。それで俺、もしかしたらこれでゴーの身元がわかるんやないかと思うん」
 「……」
 「古いしボロボロやけど、ずいぶんいい服やろ? それに、ほら、このブローチの飾り。なんだか由緒がありそうや」
 長野は、じっとその服を見た。それから准一を見て、やさしく言った。
 「確かに、これがあればゴーの身元がわかりそうですね」
 「長野さんもそう思う?」
 「思いますよ。では、とりあえずこれはここに置いておきましょう」
 長野は、テントのそばのに隠した。
 「あんまり船乗り達に見せたくないですからね」
 それから長野と准一は、いそいで坂本のいる浜辺に戻った。
 坂本がふたりを見た。だが、近くで船乗りがひとりあたりを見回していたので、坂本はなにも言わなかった。
 「あれからあいつら、なにかみつけたみたい?」
 准一は坂本に小さな声で尋ねた。坂本は首を横に振った。准一は多少安堵した。
 長野がそっと近寄ってきて、
 「わたしは他の連中の様子を見てきます。准一くんは坂本さんといっしょにここにいてください」
 と言った。准一は頷いた。
 獲物が見つからないのにいらだった船乗りが、意味もなくジャングルに向かって弾を撃つ音が聞こえた。准一は不安でたまらなかったが、どうしようもなかった。長野はなかなか戻ってこなかった。准一は不機嫌きわまりない顔つきの坂本の隣で、不安と闘いながら船乗り達の様子を見ているほかなかった。
 やがて、やっとあきらめた船乗り達がひとりふたりと戻ってきた。長野も戻ってきた。
 「大丈夫、他に撃たれたチンパンジーはいなかったようですよ」
 息を切らせた長野が言った。准一は少しほっとした。
 「そう」
 だが、准一にはもうひとつ心配があった。
 「長野さん、もうすぐ俺らもボートに乗るの」
 「たぶんそうでしょう」
 「そのまえに俺、ゴーに会わなくちゃ。最後のさよならを言わなくちゃ」
 「准一くん、でも」
 「すぐ帰ってくるから!」
 長野は止めるような顔をしたが、准一はいそいでその場を離れた。
 トンネルをくぐり、木の根っこに着くとすぐ、准一は怒鳴った。
 「ゴー!」
 だが、誰の姿も見えなかった。
 「ゴー! 俺もう、ほんとうに船に乗ってここを出てしまうんや! だから最後にゴーにさよならが言いたいんや!」
 准一の声だけがジャングルに響いた。
 「アンジーのこと、ほんとにすまんかった! ……ゴー!」
 だが、ゴーはやって来なかった。時間がもうない。アンジーを撃ったような船乗りの乗っている船でも、あの船に乗らなければロンドンには帰れない、ロンドンでは親父が俺を待ってる……。
 「ゴー、来てくれんのか……」
 准一は声を落とした。
 「会えないで別れるなんてあんまりや……」
 准一が肩を落としたとき、あの「ケンケン!」という鳴き声が聞こえた。
 「ケン!」
 准一は顔を上げた。准一が見ている間にケンが樹から樹に飛び移ってくる。最後にケンは准一の腕の中に飛びついてきた。
 「ケン! ゴーは!」
 准一はあせって尋ねたが、ケンは不安そうな顔で准一を見ただけだった。
 「どうしたんや、ケン。アンジーになにかあったんか。ゴーはどこにいるんや」
 准一が繰り返し尋ねても、やはりケンは頭を振るばかりだった。
 「なんなんや。わからんよ、ケン……」
 准一は自分の腕の中のケンに懸命に聞いてみても、ケンにもなにがなんだかわからないようだった。
 「准一くん!」
 不意に後ろから長野の声が聞こえた。
 「長野さん!」
 准一は振り向いた。
 「長野さん、ゴーがまだ」
 「もうダメです、私たちでいろいろ言い訳をしていたんですが、船乗り達が待っています。もうボートが出ます。早く戻らないと」
 「けど、ゴー……」
 「アンジーのこともあるし、ゴーはもう君に会いに来るつもりがないのかもしれませんよ。待っててもしょうがない。早くボートに乗りましょう」
 「……」
 准一は黙った。もうなにを言ってもしょうがない、どうしたって今はもうボートに乗らなければならなかった。
 「ケン、アンジーとゴーにごめんって言っておいて」
 准一はケンに言った。
 「これでさよならやない、俺、絶対またゴーに会いに来るからって」
 浜辺には、すでに船乗り達がみんな集まっていた。准一と長野を見ると、船乗り達は叫び声をあげてすぐにボートに乗り込みはじめた。
 准一と長野が乗るとすぐに、船乗りがボートを漕ぎ出した。
 准一はボートから陸を見た。青い空の下には准一が一年近く暮らした浜辺とジャングルが広がっていた。海から見るとそのジャングルは、准一がまだ行ったことのないところまで、どこまでもどこまでも遠く広がっているのだった。
 しばらくその風景を見ていた准一は、突然はっと思い出し、長野にささやいた。
 「長野さん、さっきのゴーの服のことやけど、あれ、持った!?」
 「……ああ」
 長野は、どういうわけか青白く無表情な顔で准一を見て、抑揚のない声で答えた。
 「あの服……」
 長野のぼんやりした様子に、准一は驚いた。
 「まさか長野さん、あれを忘れて来たんやないやろ!」
 「……君がなかなか戻って来ないんで、わたしもすごくあわててしまって……」
 長野が、息苦しいような声で言った。船乗り達に混じって座っていた坂本が、准一と長野の様子に気がついてこちらを見た。
 「そんな、忘れて来たん!? だって、どうするん!」
 准一は呆然とした。ボートはもうすぐ船に着く。
 「あれがないとゴーの身元なんて探せないやないか……!」
 ほんとうを言うと、ゴーが来なかったことで准一自身も他のことが考えられなくなって、ボートに乗る直前は服のことを忘れていた。准一が海に飛び込みそうな表情なのを見て、長野が言った。
 「……わたしの不注意です。……すぐにわたしが取ってきますから大丈夫ですよ」
 そう言われてもまだ不安だったが、准一は頷くしかなかった。
 ほどなくボートは船に着き、坂本と准一は引き上げられた。下で最後までボートに残った長野が、陸に忘れたものがあるので持ってきたいと言っている気配がした。船乗りは面倒がっているようだったが、長野はひとりでも戻ると言ったらしい。長野ひとりが漕ぐボートが陸に向かって行くのが准一に見えた。准一はほっとした。
 先に船に乗った准一と坂本は、甲板を通って船長室に通された。船は、ざっと見ただけでも、准一たちがロンドンから乗った船とは全く違った。すべてが乱雑でだらしなかった。船長室は酒のにおいがした。太って赤い鼻をした船長は、ふたりを見ても立ち上がらずいすに座ったままだった。船長は横柄な様子でまず准一に尋ねた。
 「おまえが岡田准一でまちがいなんだな」
 「はい」 
 つぎに船長がなにか准一に尋ねる前に坂本が尋ねた。
 「船長。この子に100ギニー、俺と長野にも10ギニーずつ出てるってほんとかい」
 そう言われると船長は疑わしそうな顔で坂本を見た。
 「おまえは坂本ってほうか」
 「ああ、そうだ」
 「……もうひとりはどうした」
 船長は振り向いて船乗りに尋ねた。
 「なんだか取りにひとりで陸に戻ってますよ」
 「なんだと。ボートを流されでもしたらどうする」
 「へえ。でも、見てましたがちゃんと漕いでますよ」
 船乗りが答えた。船長はまた坂本を見て、欲深そうに尋ねた。
 「どうだ、お兄さん。ここらにはなにか、金になりそうなもんはあるのか」
 「船員さん達、どうでした? なにかありそうでしたか」
 坂本は自分で答えず、そばにいたボートでやって来た船乗りのひとりに尋ねた。船乗りは首を横に振った。
 船長はぶつぶつ言っていたが、三人を保護して多額の懸賞金を手に入れられることだけははっきりしているので、機嫌はすぐ直ったようだった。ふたりは船長に言いつかった船乗りに連れられて、小さくて汚い船室に通された。それでも、この船室は船ではいいほうの部屋なのかも知れなかった。
 着古しだったが、三人分の替えの服も届けられた。着替えると坂本はすぐに狭いベットに横になったが、准一は長野が気になって甲板に戻った。ちょうど長野のボートが戻ってきたところだった。ボートから船に引き上げられた長野は、脇にボロボロになったテントまで丸めて抱えて来ていて、それを甲板に置いたところだった。
 「長野さん!」
 准一が駆け寄ると、長野ははっと青ざめた顔で振り返り、准一を見た。
 「ゴーの服、持ってきてくれた!?」
 准一は船員に聞かれないようにそっと尋ねた。
 「……ええ」
 「テントまで持って来たの?」
 准一は、長野が甲板に置いたテントを見て尋ねた。
 「ええ、ここで暮らした資料になるかも知れないので。……坂本さんは?」
 長野が尋ねた。
 「もう部屋に案内してもらって、休んでる」
 「そうですか。……もうすぐ出航になるでしょう。ここにいると邪魔になりますよ。准一くんも部屋に入ってらっしゃい」
 「うん」
 いよいよ出航する準備で船乗り達はあわただしく動き出していた。准一は長野から小さな服を受け取って部屋に戻った。ベットに座ってそれを広げて確かめ、准一はほっとした。
 やがて船が動き出した。
 坂本はベットで眠り込んでいる。長野はまだ船室に戻って来ない。
 三人でロンドンを出発した日が嘘みたいだった。
 准一はひとりで甲板に出た。
 船が少しずつジャングルから遠くなる。ゴーとケンとアンジーと遊んだジャングルから。
 だが、その代わり、船は少しずつロンドンの父親に近づいていくのだった。
 准一はひとりでずっと、遠ざかって行く陸地を眺めていた。

 それから四五日して、准一たちを乗せた船は、小さな港に寄港した。船はそこで水と食料を積み込み、明朝また港を発つ予定だと言うことだった。
 准一も坂本と共に船を下りてみた。港は小さいなりに、いろんな船と荷物とそれに群がる色様々な人々でにぎやかだった。以前の准一だったらきっと、この光景だけでも面白く、一日くらいあっという間に過ごしてしまったに違いない。
 だが今の准一は、そんな港の様子を見てさえ、どうしても元気が出なかった。
 准一だけではない、船に乗ってから坂本も無口だったし、長野はいつも青ざめた顔色をしていた。
 長野は狭い船室にはいないときが多く、部屋にいるときも黙ってなにか考え込んでいた。准一が坂本とふたりだけで船を下りたのも、長野が、自分はどうも今にぎやかな場所を歩く気がしないのでふたりだけで行って下さいと言ったからだった。
 准一が海を眺めていると、どこからか流れ着いた椰子の実が、汚い小さい船の合間に浮かんでいた。それを見た准一は、ゴーとケンとアンジーのことを思い出さないわけには行かなかった。
 「坊主、どうした」
 坂本が言った。
 「やっとロンドンに帰れるって言うのに、なんかうれしそうじゃねえなあ」
 「……」
 「チンパンジーどもと遊んでるときはあんなに楽しそうにしてた癖によ。親父さんに会いたくねえのか」
 「……」
 そうじゃない、親父に会えるのはうれしい。でも。
 准一が泣きそうな気分になると、そんな准一を見ていた坂本が突然、いつもと違う、やさしいと言ってもいい口調で言った。
 「そんな顔するな。……あそこはなかなかいいとこだったと俺も思ってるよ」
 准一は黙って頷いた。
 「……チンパンジー小僧はどうしてるかなあ」
 坂本が言った。准一は顔を上げ、坂本を見て、尋ねた。
 「坂本さん、ゴーをロンドンに連れて行きたいんじゃなかったの」
 「……んん?」
 「アフリカのジャングルでチンパンジーに育てられた少年を見つけたってことになれば、すごい新聞種になるんじゃなかったの」
 「まあなあ」
 坂本はどうでもいいように答えた。
 「そりゃあ、学者どもにとったらよだれの出そうな研究材料になるだろうな」
 「……」
 「でもまあ、いいやな」
 「……」
 「ジャングルでおまえらが遊んでるのを見てたら、そんなことだんだんどうでもよくなっちまったんだよ。なんかな、昔子供の頃、ひたすらジャングルに憧れてたときの気持ちを思いだしたんだ。そのころ俺は、別に有名になろうとか金を儲けようとか思ってたわけじゃねえ。ただ、人の冒険談を聞くと胸がわくわくして、自分もそんなところに行きたいと思っただけだったんだ。……それがいつのまにか、功名心だのなんだのでいっぱいになっちまってた……」
 「……」
 「……おまえこそあいつをロンドンに連れて行こうとすると思ったよ」
 坂本が言った。
 「……俺はロンドンにいっしょに行こうと言ったけど、ゴーは行かないと言ったんや」
 「そうか。……そのほうがいいかもな……」
 「……」
 坂本は少し考え、それから言った。
 「ジャングルでチンパンジーに育てられた少年を見つけたなんて話をしたら、誰かがヤツを見つけようとするかも知れねえ。ロンドンに帰ったら、あいつの話をするのは用心したほうがいいぞ。……俺も言わない」
 「……」
 歩き出した坂本を、准一は呼び止めた。
 「坂本さん!」
 坂本が振り向いた。
 「俺、またゴーに会えるよね」
 坂本はじっと准一を見た。
 「俺、ゴーに会えるよね」
 「……おまえの親は金持ちだ」
 坂本は言った。
 「おまえのためにぽんと100ギニー出すくらいだからな。おまえがのぞめばまたあそこに行くことは出来るんじゃねえか」
 「……」
 准一は黙った。しかし、父親が自分たちを捜すために大金を用意したことと、また自分がゴーのいるジャングルに行けることは別だと言うことは准一にはわかっていた。確かに父親には金がなくはないけれども、准一が遊びのようなことに使える金はなかった。
 一文も持っていない准一と坂本は特にすることもなく、話の後は、港の近辺をぶらぶらしただけで船に帰った。船では、長野が、どこか具合でも悪いような顔色でふたりを迎えた。准一は心配になって、船を下りて医者に診て貰って来たらどうかと長野に言った。この船には、船医などというものは乗っていなかった。だが長野は首を横に振って、どうせもう少しでロンドンに帰れるのだからと言った。
 その夜、准一は寝付けずに何度も寝返りを打った。
 夜も更けきって港がしんと静まりかえってから、やっと准一はうとうととし始めた。船室のドアが開く音がした気がした。長野か坂本が手洗いにでも出たのだろうか? なんとはなしに予感がしたが、睡魔が襲い、准一はそのまま眠り込んだ。
 翌朝准一がめざめると、坂本はまだ眠っていたが、いつものように、先に起きたらしい長野の姿は見えなかった。
 そのときは、准一はまだ不思議にも思わなかった。不思議に思ったのは、船が出航する直前だった。長野がいつまでも船室に戻ってこない。それでもまだ甲板にでもいるのだろうと思っていたのだったが、船が港を出てしばらくするうちに、准一はほんとうに不安になった。
 「坂本さん!」
 准一は、まだベットに入っていた坂本の元に飛んでいった。
 「長野さんがおらん!」
 「……はあ? なんだ?」
 坂本が寝ぼけ眼で起きあがった。
 「長野さんが船におらんのや。俺、捜したんやけど、どこにもおらん!」
 「そんなことはないだろう」
 「そう思うなら坂本さんも捜して!」
 半信半疑だった坂本も、起きて長野を捜すうちに軽口を叩かなくなった。とうとう坂本は、船長に、長野がいない、もしかして港に長野を置いて出航してしまったのではないかと言いに行った。
 船員達が捜しても、やはり長野はいなかった。長野にかかった10ギニーのために、船長は一度船を港に戻すことにした。しかし船が港に着いても長野は現れなかった。
 長野は、朝出航してから船から落ちたのではないかと言い出す者が現れた。風に当たっていて誤って甲板から落ちることは、船ではよくあることだった。
 それ以上長野を捜索する時間はなかった。長野がおらず、10ギニーがふいになったと知った船長は不機嫌だった。もはや坂本と准一がなにを言っても無駄だった。船は再び港を出た。
 ……長野さんが海に落ちた!?
 信じられない気持ちで頭がふらふらしながら、准一は船室に戻った。なにも手に着かないし、なにも考えられなかった。
 准一は、気持ちを落ち着けるためにゴーの思い出の品を手にとろうとして、ふいに、部屋のどこにもあの、ゴーの小さな服がないことに気がついた。
 「……!?」
 なくした? だって、なくしようがない。この狭い船室のなかでものをなくすなんてできっこない。
 もしかして誰かに取られたのだろうか? あの服は普通の人が見たら汚いボロにしか見えないと思うけど、手に取ってよく見てあのブローチに気がついたら、盗もうと思う者もいるかも知れない……。
 突然、准一ははっとした。
 ……もしかして、長野さんがあの服を持ちだしたんじゃないだろうか。
 ……でも、なぜ。なんで長野さんが。……長野さんは、あの服がゴーのものだって、俺が大事にしてるものだって知っているただひとりの人なのに。
 ……長野さんはほんとうに船から落ちたのか? いったいいつから長野さんはいなくなった? 俺が朝起きたとき、もう長野さんの姿はどこにも見えなかったんじゃないのか……? じゃあ、それよりずっと前からいなかったのかも知れないじゃないか……?
 今まで信じていた世界が、すべてぐにゃぐにゃと崩れていくような気がした。
 「……わからん。……俺には、なにも……」
 小さくうめくと、准一は粗末な船のベッドの上に突っ伏した。
 

「I WILL GET THERE」 第1部 了


 というところで第1部は終了です。なんかよくわからん終わりになってすまんです。「1部連載中に2部もだいたい書けるかな〜」という見通しで連載を始めたのですが、実は1部を9回連載している間に、2部はぜえんぜん書けませんでした(^^; つまり、2部を連載始められるのは、かなり先のことになります。申し訳ありません。第2部が「ロンドン編」になる構想だけはあるのですが……。次回よりしばらくはhongming先生の短期連載、hiruneの読み切り短編などが載る予定です。

(2001.3.10 hirune)

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