第8回
そうしてしばらくが過ぎても、准一がまだ元気がでないので、ゴーはしかたなさそうにケンやアンジーと遊んでいることが多かった。ゴーは、准一に話しかけられたり尋ねられれば答えられても、自分の方から自分の気持ちを伝えることはうまくできなかったのだ。
だが、准一がその日も、じっと木の根っこに座り込んでいると、ゴーはしばらくケンとアンジーと遊んでいたが、やがて准一に近づき、とうとう思い切ったように、
「ジュンチ、ゴーと来て」
と言った。
「なんや?」
「前にジュンチの言ったこと。ゴーのお母さんのこと……」
「ゴーのお母さん? チンパンジーやなくて、ヒトの?」
ゴーの言葉に驚いて准一が尋ねると、ゴーはあやふやに頷くようにして、
「ゴー、わからない。だから、ジュンチ、見て。……それで、ゴーのヒトのお母さんのことがわかったら、ジュンチ、元気になるか?」
「……ゴーのお母さんのことがわかったら……」
ゴーは、それがわかれば准一の心も晴れると思いこんでいるらしかった。それで思い切って准一になにかを見せるつもりらしい。ゴーのお母さんのことなんてなかなかわからないだろうと思ったが、准一はそのゴーの気持ちに、久々に元気が出た。
「ああ、俺、元気になるで!」
そう言う准一を見ると、ゴーはうれしそうな顔になって、ケンとアンジーに向かって、なにか言った。どうやら、二匹はついてくるなと言ったらしい。
ケンとアンジーは心配そうな顔になってゴーを見て、ケンケンキーキーと声を出したが、ゴーは心を決めたようにそれを無視した。
「ジュンチ! こっち!」
ゴーは蔦をつかむと、すぐにジャングルに飛び出した。
ゴー達とあちこちジャングルの中を移動するようになって、准一にも、ジャングルの中の土地勘が出来ていた。だがゴーは途中から、いつもは行かない方向へと進んだ。すぐに准一の土地勘なんてなにも役に立たなくなった。准一は夢中でゴーのあとを追った。
気がつくとジャングルがとぎれた。樹々を抜けるとそこは高い崖の上で、遙か下に続くジャングルが望めた。ゴーは准一に待つようにと目で知らせ、赤茶けた崖をひとりで降りていった。准一が見ていると、ゴーは崖の途中に足をかけて止まり、しばらくなにかしていた。やがて准一のところに戻ってきたゴーは、手に、ボロ布みたいなものを持っていた。
「……これ」
ゴーは准一にボロ布を見せた。
「?」
准一は手に取った。そして驚いた。今は薄汚れたボロ布にしか見えないそれに、美しく編まれたレースらしい縁取りがしてあったからだった。
准一は、いそいでその布を開いた。それは薄汚れ、あちこち破けてはいるが、もとはごく上品な、小さな子ども用の衣服だったことがすぐにわかった。よく見ると襟元には、小さい赤い石のついた、凝ったデザインのブローチが止めてあった。
「ゴー、これ……」
ゴーを見て、准一はかすれた声を出した。
「これ、ゴーが子どもの頃のものなのか!?」
ゴーは黙って准一の手に取った子どもの服を見たが、首を横に振った。
「……わからない」
ゴーは言った。
「前にゴー、オカーサンを悲しませたくなくてジュンチのところに行かなかったときあった。そのときゴーはずっと元気なかった。それを何日か見てたオカーサンは、最後にゴーをここに連れてきて、これを見せてくれた」
「……」
「ゴーもそのとき、これはなんなのか、オカーサンに聞いた。でもオカーサンはなにも答えなかった。ただ、これはゴーの大切なものだからゴーに渡す。これからは、なんでもゴーはゴーの考えでするように、オカーサンの育てたゴーは間違ったことはしないと思うと言ってくれた」
「……」
「……ジュンチ、これでゴーのヒトのお母さんのこと、わかるか? そうしたらジュンチ、元気になるのか?」
「……」
准一は、汚れて破れた小さな服をじっと見つめた。これを見せてくれたことは、ゴーが自分を信じてくれている証のような気がした。
小さな汚れた服をつかんだまま、准一は崖の上に座り込んだ。ゴーも座った。眼下にはどこまでもどこまでもジャングルの緑が続いている。
「……ゴー、なにも覚えてないんか。ヒトのお母さんのこと」
准一は尋ねた。ゴーは首を振った。
「覚えていない」
「自分がこれを着てたかどうかも覚えてないの?」
「覚えていない」
「そうか……」
准一は考え、しばらくして、
「ゴー、目をつぶって」
と言った。
「?」
不思議そうながらも、ゴーは目をつぶった。
「目をつぶって」
准一は繰り返す。
「思い出してみて。……ずっとずっと前のこと。チンパンジーのオカーサンに会う前のこと」
剛は素直に目をつぶったまま、じっと准一の言葉を聞いている。
「なあゴー。どこかで誰か、ゴーって呼んでないか?」
「……」
「呼んでる声が女の人ならお母さん。男の人ならゴーのお父さんだと思うんや」
「……」
「どう? ゆっくりでいい、思い出してみて」
「……」
しばらくゴーは目をつぶったまま眉根にシワを寄せてなにか考える顔をしていたが、やがて驚いたような顔で目を開いた。
「なにか思い出した?」
准一が尋ねると、ゴーは驚いた顔のまま准一を見て、ひとこと、
「ナガノ!?」
と言った。
「はあ? ナガノって、長野さん?」
准一が驚いて聞き返すと、ゴーは自分でも目をぱちくりして、首を傾げた。
「なに言ってるん。ちょっとの間に夢でも見たんか!?」
准一はあきれてそう言い、立ち上がった。
「……こんなふうにして小さな頃のことを思い出させることができるって聞いたことがあったんやけど、俺なんかがやってもだめやな」
でも、准一の手の中には、ちゃんと小さな服が握られていた。それは、ゴーの身元を探すための確かな証拠だった。
「これ、見せてくれてありがとうな」
准一は改めて、ゴーに言った。
「これは貴重なものや。服も手が込んでるし、なによりこのブローチ。調べたらなにかわかりそうや」
そう言われて、ゴーはうれしそうに頷いた。
「なら、よかった」
「これはまた隠して置くか?」
准一が尋ねると、ゴーは軽く首を横に振って、
「ジュンチ持ってて」
と言った。
「ヒトのことはゴーにはよくわからない。それはジュンチが持っててくれたほうがいい」
「でも……、いいのか?」
ゴーはまた頷いた。
「……わかった」
准一も頷いた。
ゴーの大切なものを預かった准一は、いつかは絶対にロンドンに帰れると信じる気持ちを取り戻したようだった。
そしてその准一の気持ちが通じたように奇跡が起こったのは、数日後だった。
「……船だ!」
そう叫んだ長野の声が震えていた。
いつもは三人交代でのろしに焚き付けをくべたり海を見たりしているのだが、偶然、長野も坂本も准一も、三人が揃って海を眺めていた時だった。
長野の声に坂本が立ち上がった。
「ほんとうだ!」
坂本が立ち上がった。立ち上がるとすぐ、狂気のように坂本は腕を振り回した。
「おーい! ここだ! こっちだ!」
それから坂本は准一に怒鳴った。
「准一、のろしにもっと焚き付けをくべるんだ!」
あわてて准一は手当たり次第に焚き付けをくべた。坂本は手を振って叫び続けた。
しばらくして坂本の声がとぎれたので不思議に思った准一が振り返ると、坂本も長野も、声もなく呆然と海を見ていた。
准一も海を見た。
これまでゴマ粒ほどにしか見えなかった船が、前よりも確かに大きく見えた。
船が船首をこちらに向けているのを、准一は信じられない気持ちで見つめた。
三人が見守るうちに、とうとう船は沖合に泊まった。あたりは夕闇に包まれはじめていた。引き潮なので、船はそこで一晩を明かすつもりらしい。暗くなると船に灯りがともった。
坂本と長野の真ん中に座った准一は、まず、引きつったような表情で船を見つめている坂本を見た。それから、頭を反対側に向けて、まるでいつもと変わらないような表情の長野を見た。
「長野さん」
准一は声をかけた。
「俺たち、ロンドンに帰れるかも知れへんな」
すると、長野はなにも言わずに准一を強く抱きしめた。坂本が、そんなふたりの様子を見た。三人は一睡もせず、船を見つめて海岸で夜を明かした。
明け方になり、三人の見つめる前で、船がボートを下ろした。
三人の見守るうちにボートはみるみる大きくなり、ボートに乗った四人ほどの船乗りの姿もはっきりと見えるようになった。
「おーい!」
三人は手を振った。
船乗り達がこちらを見て笑っている。彼らの下卑た笑い声が三人にも聞こえた。その反応がなんだか予想と違い、准一は手を振るのを止めた。見ると、長野も坂本も、どこか警戒の表情をしている。
やがてボートが浜辺に止まり、船乗り達はボートを下りてきた。
三人は黙って船乗り達が自分たちに近づいてくるのを見守った。
「この子だろう」
船乗りの誰かが准一を見て、言った。
「あんたが岡田さんのお坊ちゃんかね。確か、岡田准一っていう」
尋ねられて、准一は頷いた。するとその船乗りは、歯の抜けた口で笑って言った。
「お父さんに感謝しなよ。あんたにゃ懸賞がかかってる。それも、なんと100ギニーだ」
「この前、ここらにのろしらしいものを見たって船があってな。もしかしたら懸賞のかかった連中かもしれないって、わざわざ遠回りしてここを通ったんだ。遠回りした甲斐があったってもんだ」
「船長め、俺たちにもちゃんと分け前は寄越すだろうな」
「寄越さなかったらこっちにも考えがあるぜ」
そう言いながら船乗り達は、てんでに顔を見合わせては意味もなく笑った。准一は黙ったまま長野の近くに身を寄せた。長野のつぶやきが聞こえた。
「……助けに来てくれたのは有り難いですが、どうやらあんまりたちの良くない船のようですね……」
いつのまにか坂本が、長野と准一の後ろに立っていた。坂本は、すでに船を見つけたときの興奮を消していた。坂本は皮肉な調子で船乗り達に言った。
「俺と長野には懸賞はかかってないのか。かかってなくても俺たちもちゃんと船には乗せて貰えるんだろうな」
「大丈夫、坊ちゃんのお供にもそれぞれ10ギニーずつちゃんとついてるぜ」
船乗りのひとりがバカにしたように言った。
「そうか……」
坂本がくそ面白くもなさそうにつぶやいた。
「そいつはよかった」
それから船乗り達は、物珍しそうにあたりを見回した。
「お兄さん達、どうだい、ここらにゃなにか珍しいものがあったかい」
「たいしたものはありませんよ」
長野が答えた。
「バナナと椰子の木ならありますけどね。バナナや椰子の実を船に積みますか。少しは皆さんのおなかの足しになるでしょうから」
そう言われても船乗り達は答えず、あたりを見回しながらざくざくと砂を踏んで浜辺を上がりだした。
「……あの人達なにするつもりやろう」
不安になった准一が長野に尋ねた。
こんな奴らに勝手に踏み込んでもらいたくなかった。ここの奥にはゴーが、オカーサンとケンとアンジーと、それからいっぱいのチンパンジー達と暮らしてるのに……。
バアーーン!
いきなり銃声が響いた。准一は蒼白になって音がした方を振り向いた。長野と坂本も驚いて口々に怒鳴った。
「おい! なにをした!」
「なにを撃ったんですか!」
銃を手にした船乗りが振り返って怒鳴った。
「そこの茂みになにかいたんだ。猛獣が出たら殺されちまうだろう」
「猛獣なんていない!」
准一は怒鳴って、船乗りが撃ったあたりに駆け寄った。木の陰に赤い血の染みがついていた。
「誰かが撃たれた……」
准一はさっと青ざめた。
まさか、そこにいたのは。でも、准一が前にジャングルに行かなかったとき、ゴーは、ケンとアンジーといっしょに、准一を見に行ったと言ったのだ……。
准一は、後も見ずに走り出した。
「……どうしたよ、どこに行く気だ、坊主」
銃を撃った船乗りが不審気な声を出した。
坂本に目で合図をしてから、長野は准一のあとを追う。
坂本は改めて、船乗り達を見た。よく見ると、男達はそれぞれ腰に古ぼけた拳銃をぶらさげていた。今撃った男は散弾銃を手にしていた。
「……おまえら、その銃でなにを撃つつもりで来た」
坂本は尋ねた。
「いつ猛獣が襲ってくるかわからねえところだ、銃を撃ってなにが悪い」
「ここは猛獣はいねえよ。いたら俺たちはとっくに殺されてる」
だが、船乗り達は、ふんっと鼻を鳴らした。
「猛獣はいないか。そりゃあ好都合だ」
「珍しい動物はいねえか。生け捕りは無理でも、毛皮が高価く売れる」
「……」
「船に戻るのは、なにか獲物を獲ってからだ」
「ちょっとした小遣い稼ぎだよ。お兄さん達はそこで待ってな」
「おいよせよ!」
坂本が止めるまもなく、船乗り達はそれぞればらけてジャングルに向かった。
准一はジャングルへのトンネルをくぐり抜けた。
「ゴー! ……ゴー!!」
准一が叫ぶとすぐ、聞き慣れたケンの叫び声が准一の耳に入った。ケンは、樹の上で、歯をむき出して怒ったうなり声を上げていた。
「ケン……!?」
それから、なにかの弱々しい鳴き声が聞こえ、准一は振り返った。すると、樹の上に立っていたゴーが、片手で蔦をつかみ、なにも言わずに准一のそばにすっと降りてきた。
「ゴー」
ケンとゴーが怪我をしていない様子なのに一瞬は安堵した准一だったが、次の瞬間、准一はゴーの腕の中の小さな体に気がついた。
「……アンジー……!」
ゴーの腕の中には、ぐったりとしたアンジーが抱きかかえられていた。上半身が血だらけだった。
「……ジュンチ……」
放心した表情で、ゴーが准一を見た。
准一はなにも言えずにゴーからアンジーを受け取った。アンジーは片腕をぶらぶらさせていた。血でどこが怪我しているかよくわからなかったが、どうやら胴体ではなく、腕を撃たれたようだった。
「どうすればええんや……」
准一が途方に暮れたとき、准一の後を追ってきた長野が姿を現した。
「准一くん、どうしました!?」
「長野さん、アンジーが……」
准一の言葉に、長野はすぐにアンジーを抱き、どこが怪我しているかを見て取った。
「撃たれたのは上腕部です。散弾のかけらがまだ入っているようです」
長野はアンジーの細い腕を押さえた。アンジーが小さな頼りない叫び声を上げた。
「どうしよう」
「……とにかくかけらを取り出さないと」
長野はそう言うとすぐにアンジーを抱きかかえたまま、走ってトンネルを戻りだした。准一は長野のあとを追おうとしながらゴーに怒鳴った。
「絶対浜辺に出ちゃいかん! 仲間みんなにジャングルの奥に隠れてるように言うて。でないとまた誰か撃たれる!」
それを聞いたゴーは、ケンに向かって何かを叫んだ。ケンはそれに頷くようにして、ジャングルの奥へ飛び出した。それを見てから、ゴーは准一の後を追ってきた。
「I WILL GET THERE」第1部は次回で終わりです!
(2001.3.4 hirune)
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