第7回

 だが、陽が落ちると、船影は見えなくなってしまった。
 船が見えなくなると坂本はしきりに悪態をついていたが、やがてあきらめて、三人はキャンプに戻った。
 「……だめだったな」
 坂本が言うと長野が答えた。
 「風があるのでのろしがどこから出ているのかはっきりわからないのでしょう。ですが、わたしたちを見つけようとしてくれていることは確かだと思います」
 「そりゃそうだ。そうでなくちゃ困る」
 坂本はくたびれきった顔で寝っ転がりながら、まるで嫌なことでも話すようにそう言った。
 「ありゃあ俺たちを捜してたんだ。どう考えてもそうとしか思えねえ!」
 長野は返事をせず、ただ頷いた。坂本は目をつぶり、悪態の言葉と祈りの言葉をいっしょにつぶやいた。
 「ちきしょう! 俺たちを見つけてくれ、見つけてくれよ、……神様、頼む……」
 「明日は明け方すぐから海を見張りましょう」
 長野が言った。坂本とは逆に、低く抑えた声だった。だが准一はその声が細かく震えていることに気づいた。

 次の日准一が朝日とともに目を覚ますと、すでに坂本の床も長野の床ももぬけのからだった。
 あわてて准一は起きあがり、すぐに海辺にいるふたりのところに走った。
 「長野さん!」
 「准一くん、おはよう」
 「いつから起きてたの」
 「実は、わたしたちは眠れなくて」
 長野は必死でのろしに焚き付けをくべている坂本を見て笑いながらそう言った。
 「俺、なんか食い物持って来ようか」
 「そうしてもらえると助かります。あと、わたしの代わりに水も集めて来てもらえますか」
 「わかった!」
 昼頃になって、再び船の影が見えた。
 「おーい! おーい!」
 聞こえるはずもないのに、坂本は船に向かって必死で手を振った。
 残念ながら、今日も風があった。のろしはまっすぐに上がらなかった。船はしばらくその姿を見せてから、また見えなくなってしまった。
 「ちくしょう!」
 坂本が怒鳴った。長野もあきらかにがっかりしたようだった。

 次の日も、坂本と長野は朝早くからのろしを上げに出かけた。准一はまた、ふたりに食料を運んだ。
 この日はもう、船の影は全く見えなかった。
 夕方になると、坂本は疲れ切った顔で座り込んでしまった。准一はしばらく坂本の代わりにのろしをあげたが、船は戻って来なかった。

 次の日になると、坂本はもう早起きをやめた。長野は早くから海を見に出ていたが、長野も疲れ切ってあまりしゃべらなかった。
 准一は長野の側にいたが、暑い中、やって来ない船を一日中待つのは苦痛だった。
 准一はこの日もジャングルへ行かずに一日を過ごした。

 また次の日になると、坂本も長野も船のことを口にしなくなった。坂本はぐうたらしだすし、いつも通りに動いている長野もなんだかぼんやりしていた。
 とてもまだふたりとも、ジャングルへ行こうという気持ちではないようだった。
 その日准一は、ずっと気になってならなかったゴーのところへひとりで行った。
 捜すまでもなく、ゴーはトンネルを抜けたところにいた。
 「ゴー!」
 「ジュンチ」
 ゴーの笑顔を見ると、准一はほっとした。黙って何日も来なかったので、ゴーが怒っているか悲しんでいるかしているかもしれないと思っていたのだ。あと、もしかしたらもうここに来なくなっているとか。
 准一はすぐに謝った。
 「ずっと来なくてごめんな。船が見えて、いろいろたいへんやった」
 「……フネ」
 「そう。船に見つけてもらわんと俺たち帰れんから」
 「……」
 「ずっと、船に気がついてもらえるように合図してたんだ」
 「うん」
 「だから、来られなくてごめんな」
 「うん」
 あっけないほどゴーは簡単に頷いた。
 「もしかして、俺がどこかにいなくなったと思った?」
 准一が尋ねると、ゴーは首を横に振った。
 「へえ? なんで」
 准一が尋ねると、ゴーは意外なことを言った。
 「ジュンチのこと、ゴー、見てたから」
 「え……」
 「ジュンチ、来ないから、ゴー、ケンとアンジーと、見に行ったよ。ジュンチ、ナガノやサカモトと海を見てた」
 「……」
 准一が驚いた顔をしているので、ゴーはその顔がおかしいようで、笑った。
 「そおかあ。……なんで声かけてくれんかったの」
 「声かける?」
 「んー。だから。そんならゴーもジュンチのところに来ればよかった」
 「でも、ジュンチとゴーの会うのは、ここ」
 「あー……」
 准一ははじめて気がついた。最初に会ったときから、いつもここで会ったし、別れるときはまたここで会おうなと言っていたので、ゴーは、准一と会うのはここだけと思いこんでいたのではないだろうか。前に准一が来ないと思って、ケンとアンジーと寂しそうに待っていたときも、ゴーは、准一がここに来なければもう会えないんだと思っていたのだろう。
 だが考えてみると、准一はバナナや椰子の実を取るとき、ときどきチンパンジーらしい猿の影を見かけるのだから、ゴーだってジャングルから出て浜辺に来ることだってあるはずなのだ。
 でもそんなことゴーはちっとも言わないから、よそのチンパンジーは見かけるけど、ゴーやケンやアンジーはジャングルから出ないように思ってた。
 准一は今思いついたことをゴーに尋ねてみた。
 「ゴーな。聞くけど、ゴー、俺のこと、よそで見たこともあったの?」
 「……?」
 「ゴーも、ジャングル、出るの? バナナとか、取りに」
 ゆっくりと言うと、ゴーは頷いた。
 「もしかして、しょっちゅう?」
 「ゴーはよく、日が昇る頃行くよ」
 「……ケンやアンジーも?」
 聞くと、ゴーは頷いた。
 浜辺もジャングルも恐ろしいくらい広いんだから、そんななかでも准一がたまにチンパンジーを見かけると言うことは、チンパンジーたちはごく自然にジャングルと浜辺を行き来しているのに違いない。そしてその中にはゴーもいたのだ。……考えればあたりまえだった。
 「なーんや、そうかー」
 准一はがっくりして言った。
 「前は長野さんや坂本さんに俺がジャングルに来てるのを隠してたからしょうがないけど、今はもう、俺が来られないときはゴーが俺に会いに来てくれていいんや」
 そう言われても、ゴーは、きょとんと准一を見ていた。
 「……ゴー、そのうちほんとうに俺は、船に乗ってここを出ていくかも知れないんやよ」
 准一はひとりごとみたいにつぶやいた。
 「そしたら、俺は海辺にもキャンプにもおらん。ゴーが探せるようなところにはいなくなる。だから、俺がここにおるときはゴーだって会いに来てくれたらいい」
 それから准一はゴーに向き直り、ゴーに訊いた。
 「あんな、ゴー。俺と二度と会えなくなったら、ゴーはどう思う?」
 「会えない?」
 「そう。ある日ゴーがここに来ると、俺が来なくって」
 「……」
 「ここだけじゃない、ゴーが呼んでも探しても、ジュンチはどこにもいないんや……」
 そこまで言って、准一は話をやめた。准一はすぐに明るく言った。
 「そんなことない。二度と会えないなんてことはない。もしもロンドンに帰っても、俺、絶対にまたゴーに会いに来るし」
 「ジュンチいなくなる?」
 「……うん、いつかたぶん……」
 「……ロンロンに?」
 前に「ロンドン」と言う言葉を聞いたときのように、ゴーはまた「ロンロン」と繰り返した。
 「ロンドン」
 准一がゆっくり言い直す。自分が生まれ育った街の名を、ゴーもちゃんと言えるようになるように。
 「ロンドン」
 ゴーも真似をした。ゴーは、教わればなんでもちゃんと発音ができるようになっていた。そしてゴーはふと表情を変え、もう一度繰り返した。
 「……ロンドン……」
 「そうや」
 頷いて、准一は、ゴーの、なにか忘れたことを思い出そうとするような表情に気がついた。
 「どうしたんや、ゴー」
 そう尋ねて、准一も思いだした。ゴーが、はじめて「ロンドン」という言葉や「お母さん」という言葉を聞いたときに、今と似たような表情をしたことを。准一は、はっと気づいて、ゴーに尋ねた。
 「……ゴー。もしかして、ロンドンって言葉、聞いたことがあるんか?」
 ゴーは、准一の言っていることがよくわからないように、准一を見る。
 「ゴーは、前も「ロンドン」とか「お母さん」って聞いたときも、なにか思い出してるような顔してたな。ゴー、小さいとき、お母さんって言ったことあったんやないか? ずっとここで暮らしてたから陽に灼けてて元の肌の色もわからないけど、もしかしてゴーはイギリス人なんやないか? ロンドンに住んでたことがあったんやないか!? なあゴー、チンパンジーのオカーサンやなくて、もっと昔の、ヒトのお母さんのこと、なにか覚えてないんか?」
 「……」
 「なあ。もしもゴーがイギリス人でロンドンに住んでたのなら」
 准一は思いつくとやめられなくなって、とまどった表情のゴーに向かって、重ねて尋ねた。
 「俺たちがロンドンに帰るときが来たら、ゴーもロンドンに行くか? もしかしたら、ロンドンに、ゴーのほんとうのお母さんやお父さんがいるのかも知れんよ」
 「……」
 「そうしたら俺は、ロンドンのことを考えるとき、今みたいにさびしい気持ちを感じなくてすむ。俺、親父にすごく会いたいけど、ゴー達と別れることを考えるのもつらいから……」
 准一がそう言って言葉を切っても、ゴーはなにも答えず、ただ准一を見ただけだった。准一も、ゴーがなにか答えるとは思わなかった。ゴーには、今みたいな複雑な長い話はよく理解できなかったに違いない。
 ケンもアンジーもまだ来なかったが、准一がキャンプに戻る時間になった。
 長野や坂本が来るようになって、ゴーのさよならのキスの慣例はいつしかなくなっていたのだが、今日は准一だけだったので、ゴーはさよならのキスをしてくれた。ゴーはそれを忘れていたのではなくて、准一ひとりのときにだけすると思っていたようだった。

 その次の日も次の次の日も、船は来なかった。准一と長野と坂本の生活は、また元通りになった。
 坂本は、再びロンドンに帰る望みを絶たれて、チンパンジーに育てられた少年にも興味を失ったのか、ジャングルにも来なくなり、またなまけだした。長野は坂本と逆に、のろしを上げたり船を見張ることに前より力を入れるようになって、ジャングルに来る時間がなくなった。
 結局ジャングルに毎日来るのは准一だけに戻った。しかし准一も、ゴーも、なんとなく元気がなかった。
 准一の元気のでないわけは、船が現れて自分たちを見つけてくれたらゴー達と別れなければならないし、また、船が現れなかったらこのまま一生父親に会えないのだという複雑な気持ちからだったが、ゴーの方はおそらく、准一が沈んでいるのでむやみに騒がないようにしているだけかもしれなかった。だがもしかしたらこないだ准一に、もしも俺がここからいなくなったら、とか、ヒトのお母さんのことを覚えてないかとか、難しすぎることをいろいろ言われたのが原因なのかもしれなかった。
 あるとき、久しぶりに長野もいっしょに来た時、長野はジャングルから帰り際に、
 「准一くんもですが、ゴーもこのごろ元気がないようですね」
 と言った。たまにしか来なくなっても、長野さんはそういうことにもよく気がつくと准一は思った。
 


 やっと暖かくなってきたのに、なんだか忙しくってこのごろゆっくりパソコンの前に座っていられません……。イコール書く時間がありません……。(要するになまけものの言い訳だ……)

(2001.2.25 hirune)

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