V遊記

第1回


「美しくない……」
 少年は、悲しそうにつぶやいた。
 少年の目に映る世界は美しくなかった。いや、正確に言えば、醜かった。しかし、少年は「醜い」という言葉を使うことさえ避けるほど、美しいものをもとめていた。
 美しい世界に住みたい。それが少年の願いだった。
 しかし、少年の目に映る世界は、美しくはなかった。ズボンを腰までずりさげてはく男たち。ゆるゆるにたるんだ靴下をはく女たち。ところかまわず唾を吐き、平然とタバコを投げ捨てる人々。
 これが、皇帝の住む都のありさまなのか。
「美しくない……」
 少年は、再びそうつぶやくと、それを見上げて祈った。
「美しい世界に住めますように」
 今まで何度祈ったことか。神に祈り、仏に祈り、心から美しい世界を求めてきた。しかし、願いが叶ったことはなかった。

 その夜、少年は夢を見た。
 目の前には、椅子に腰かけた背の高そうな若者と、そのわきに立つ整った顔立ちの若者がいた。
 椅子にかけた方が言った。
「お前は美しい世界に住みたいのか」
「はい」
 少年は、ためらうことなく答えた。
「美しい世界があるなら、そこへ連れていってください」
「それはできない。美しい世界がどこかにあるのではない。美しい世界というのは作り出すものなのだ」
「でもどうやって作り出せば……」
「美しい世界を作り出すためのVというものがあるのだが、それを今ここで授けることはできない。もしお前が取りに来ることができれば授けよう」
「取りに行きます。どこですか」
 すると、整った顔立ちの方が答えた。
「遠い遠い西の世界だ。こちらにいらっしゃるおサカ様のところまで取りに来ることができれば授けよう」
 おサカ様と言われた若者はほほえみ、うなづいた。
 少年は、その笑顔を見て、相手を信じる気になった。
「必ず行きます。西の国ですね」
 今度は、おサカ様が答えた。
「そうだ。しかし、あまりにも遠い。おそらく一人ではたどり着けまい。道中、うまく行けば、仲間となる者が現れるはずだ。力を合わせることができれば夢が叶うだろう」
 そう言うと、おサカ様の姿は薄くなっていった。少年は慌ててもう一人の若者に言った。
「お名前をお教えください」
「わたしはナガンノンだ」
「えっ、観音様!」
「カンノンではない。ナガンノンだ」
「ナガンノンサマ。あのう、さっきのお方なんですが、おサカ様という仏様は聞いたことがないのですが」
 ナガンノンは答えた。
「ホトケ様ではない。強いて言えばコボケ様だ」
「コボケ様?」
「そうだ。今の話、忘れるなよ。信じれば、人は誰でも光になれるのだ。それから、お前のその声を大事にするのだぞ」
 声を大事に? 少年は自分の声があまり好きではなかったので、その言葉が引っかかったが、すでにナガンノンの姿も見えなくなっていた。

 少年は皇帝の前にひざまづいていた。
 夢に見たおサカ様に会うためには、国を出なくてはならない。国を出る許可を、皇帝に願い出たのである。
 皇帝は、気安く声をかけてきた。
「何のために国を出たいのだ」
「美しい世界を作り出すためです」
「美しい世界?」
 皇帝は、左右の大臣と顔を見合わせた。どうやら、まともではないと思われたらしい。
「そうか、美しい世界か。ま、しっかりやってくれ。旅費はあるのか」
「いいえ。これから僧となり、道中、お布施に頼って旅を続けようと思っております」
「ほう、出家するのか。その髪を剃るのは惜しいな。せっかくの美しい顔がくずれてしまう。よし、特別に許そう。有髪のまま僧となれ」
 特別に許すといっても、何の権限があって許すのか。少年はそう思ったが、黙って頭を下げた。
「少しだが、旅費を取らそう。それに馬も与えよう」
 皇帝はなぜか気前がよかった。
「さて、出家するとなると僧としての名がいるな」
 皇帝がそう言うと、すぐそばにいた大臣が皇帝に何かささやいた。しばらく少年には聞こえないやりとりがあり、それから皇帝はこう言った。
「西の国から、無事にお経を持ち帰ることができた時のために、お経を納める蔵を建てよう。蔵を建てることにちなんで、ええと……」
 隣の大臣が皇帝にささやいた。
「そうだ、建蔵だ。しかし、これでは芸がない。建てるにニンベンをつけて、健康の健にし、健蔵がよかろう。本日より、そなたは健蔵法師だ」
 どうやらなにか誤解されているらしい。気前がいいのも誤解のせいだ。しかし、少年――健蔵法師――はありがたく名前をいただいておくことにした。
「なあ、健蔵、旅はつらかろうが、つらいことも修行のうちだ。わしも、今でこそ皇帝だが、子どものころは、マッチを売ってその金で食べ物を買っておった。マッチがなかなか売れなくてな。マッチ買うてえ、マッチ買うてえ、と情けない声を出しておったもんだ。それが今でも続いて、マッチ買うてえ、マッチ皇帝だ、どうだ、わっはっはっはっは」
 マッチ皇帝は一人で大受けしている。まわりの大臣は無理に笑顔を作っていた。
 皇帝がこれでは美しい国にはならないわけだ。健蔵法師はそう思ったが、表情を悟られぬように、黙って頭を下げていた。

 さて、マッチ皇帝の誤解から馬まで手に入れた健蔵法師、皇帝の前からさがると、すぐに西をめざして旅に出た。美しくない都からすぐ離れたかったのだ。
 西へ西へと旅を続け、昼には進み、夜には宿り、遠く都を離れ、国ざかいまでやってきた。
 道中、皇帝がくれた手形のおかげで、どこの寺院でも親切にもてなしてくれ、金を使うことなく、特に不自由することもなかった。しかし、それも国の中でだけ。一歩国境を越えてしまえば、皇帝の手形など紙くず同然。それに人里離れた土地には妖怪が住むという話もあった。
 いよいよ国境の川に着いた。渡し守に手形を見せると、渡し守はただで舟に乗せてくれた。
 舟は、ほかの客も乗せ、川へこぎ出した。ほかの客は、みな商人らしい。
 渡し守は、櫓をあやつりながら、健蔵法師に言った。
「お坊さん、向こうにどんがった高い山が見えるだろう。あそこには化け物がいるっていう話だから、近寄らない方がいいよ」
 すると、そばにいた商人も言った。
「そうそう。なんでもすごい化け物がいるらしい」
「人を襲うのですか」
 健蔵法師が言うと、商人は首を振った。
「いやあ、岩の間にはさまっていて出られないから、人をおそうことはないそうだ。しかし、何百年も前から岩にはさまったまま生きてるんだから、とにかく化け物だ」
 ほかの客も身を乗り出してきた。
「何でも、何かを待ってるって話ですね」
「そうそう、なんでも、度胸のあるやつが近くに言ってみたら、話しかけられたそうな」
「ほう、何と」
「人づてに聞いた話ですがね」
 さて、商人はどんなことを言い出したのか。それは次回で。