胡瓜

(後編)

「近藤屋、まずいことになった」
 腰元を捜しながら町をぶらついていた昌行は、東山に呼び止められた。
「お前のところへ行こうと思ってたところだ。ちょっと来てくれ」
 東山は、そう言って歩き出した。昌行は、言われるがままについていった。
 連れて行かれた先は、番屋だった。
 昌行が、東山に続いて中に入ると、紫地に矢羽根文の着物姿の娘がいた。着物は上物だったが、娘はあまり垢抜けてはいない。娘は、東山の顔を見ると、体を震わせた。
「お腰元も見つかったんですね」
 昌行がそう言うと、東山は苦い顔をした。
「見つかったと言えば、見つかったのだが……。しかし、事はそう簡単なことではなかったのだ。これは土地の娘だ」
「では、この着物は」
「取り換えたのだそうだ」
「お腰元と」
「まあな」
 東山は上がりがまちに腰を下ろし、腕を組んだ。娘はただ震えている。
 昌行が尋ねた。
「では、お腰元はまだ行方知れず……」
「ところがそうではないのだ。それで困っておる」
 詳しい事情を聞かせて貰おうと思ったところへ、
「御免」
と、声がして戸が開いた。
 中年の侍が立っている。羽織だけでなく袴もつけているところからすると、身分は高いらしい。
 その侍は、若い娘を連れて入ってきた。その娘もまた紫地に矢羽根文の着物姿で、手には風呂敷包みを持っていた。
 東山はすぐに腰を上げた。
「そちらがお腰元だったのですね」
「さよう」
 侍はそういうと、自分が連れてきた娘をにらみつけた。
「全く、姫様のお召し物を身につけるなど、とんだ罰当たりめが」
「申し訳ござりませぬ」
 後から来た娘も震えている。
 侍は東山に並んで腰を下ろした。額に汗が浮かんでいるが、それは暑さのためばかりではないらしい。
 昌行には、腑に落ちないことばかりだった。そこで、東山に尋ねた。
「どういうことなんでしょうか」
 侍はその時になって初めて昌行に気づいたようだった。
「この者は」
 不安そうに東山に尋ねる。
「私が使っております、道案内の者で、昌行と申します」
 東山に紹介され、昌行は頭を下げた。
「近藤屋の昌行と申します」
「身元は確かなのだろうな」
 侍はまだ不安そうである。
 東山は安心させるように笑顔を見せて答えた。
「はい。近藤屋は代々道案内を務めております」
「さようか。では、姫の行方を捜すのも……」
「はい。この昌行の力を借りねばなりますまい」
 そう言って、東山は、前からいた娘の方に目を向けた。
「この娘はいかがいたしましょうか」
「おう、そうであった」
 侍が、自分が連れてきた腰元に、
「矢茶、例の物を」
と言うと、矢茶と呼ばれた腰元は、
「はい」
と言って風呂敷包みを持ったまま上がり、娘を奥へ連れて行った。しばらくすると、二人そろって出てきたが、娘は地味な綿の単衣に着替えていた。
 侍は、娘に、
「よいな、このことは他言無用であるぞ。話が漏れるようなことがあれば、命はないものと思え」
と、強い調子で申し渡した。娘は板の間に平伏して頭を下げ、それから、東山の顔を見た。
 東山は頷き、こう言った。
「もう帰れ。今のお話の通り、お前が聞いたことを人に言うんじゃねえぞ。いい着物が欲しかったら、精出して働くことだ。その着物は、俺が、お前にぶつかって泥だらけにした詫びにやったことにしておけ。いいな。わかったら帰れ」
 娘はまた平伏し、それから急いで草履を履いて外へ出た。出てまた頭を下げ、戸を閉めて、小走りに去っていった。
「さて」
 東山が昌行を見た。
「最初から話さねばならんな」
 そう東山が言うのを聞きながら、侍は苦い顔で扇子を使っている。
 東山は少し間をおいて話し始めた。
「お姫様とお腰元が行方知れずになったのは、今朝お前に話した通りだ。ところが、お前が帰ってすぐ、お姫様が見つかったという知らせがあった。俺もかけつけたが、確かにお姫様の身なりで、本人もそう言う。それで、こちらのご家老に」
「うっ、うん」
 侍が咳払いをした。身分は明かすな、ということらしい。東山は頷いて言い直した。
「こちらの方に、お知らせ申し、お連れした。しかし、それはお姫様ではなかった。こちらにいる、お腰元だったのだ」
 そう言いながら、東山は板の間の矢茶を見た。矢茶は正座して身を縮めている。
「着物を取り換えていたんですね」
 昌行がそう言うと、東山は頷いたが、こう言った。
「取り換えることは取り替えたのだが、三人で替えたのだ。まず、お腰元が、さっきの娘と着物を取り替えた。それから、それをまたお姫様と取り替えた。つまり、お姫様が土地の娘になりすましたわけだ。この、藤色に矢羽根文というのは、ご家中(かちゅう)のお仕着せだそうだ。それを着ていたのではすぐに見つかるというので、替えたわけだ。さっきの娘は、頼まれて着物を替えたが、このあたりであんなもの着てたんじゃ目立ってしょうがねえ。お腰元だと思われてつかまったが、聞くと、ただ取り替えただけだと言う。それでまあ、はっきりするまでここに留めておいたわけだ」
 侍が矢茶をにらみつけた。
「全く、姫様をお止め申し上げるのがそなたの役目であろう。一緒になって出歩くなど、もってのほか」
 そう言われて、腰元はますます身を縮める。
 昌行が尋ねた。
「何でまた、お姫様は、そんなことをなさったんでしょう」
 そう聞かれて東山は矢茶を見た。矢茶は、一度侍の方を見たが、静止されなかったので、震える声で答えた。
「姫様は、世の中をご覧になりたいとおっしゃって……」
「世の中を」
 昌行がそう言うと、腰元は頷いた。
「はい。民(たみ)の暮らしを見ておきたいとおっしゃいました。お輿入れすれば、もう……」
 侍がまた咳払いした。
 矢茶は慌てて言い直した。
「江戸へ参りましたならば、出歩くこともなりませぬ。それで、川留めになっているうちに、とおっしゃいまして……。こんな、こんなおおごとになるとは思いもしませんでした」
 侍がまたにらみつけた。
「姫が行方知れずになって、騒ぎにならぬはずがなかろう」
 矢茶は、
「申し訳ございません」
と平伏する。その肩が震えていた。
「とにかく」
 昌行が言った。
「お姫様をみつけねくてはなりません。身なりでは分からなくなったわけですから、難儀なことになりました。お顔をご存知の方でなければ捜せません」
 東山が頷いた。
「そこで、こうなったら、そちらのお腰元に一緒に行っていただくしかないと思うのですが、いかがでしょう」
 矢茶が顔を上げた。
「わたくしが、ですか」
「はい」
 侍が腕を組んだ。
「うーん。それは……」
 しかし腰元は、昌行を見つめてきっぱりとこう言った。
「参ります。わたくしが姫様を捜します」
 昌行は、今度は侍に尋ねた。
「よろしゅうございますか」
 侍は苦い顔で頷いた。
「そうするしかあるまい。家中の者が手分けして探してはおるが、不慣れな土地で思うようにいかんのだ」
 そう言うと、今度は矢茶をにらみつけ、
「わしは宿に戻っておる。よいな、明日出立できなければ、その方の命はないと思え」
と言い捨て、足荒く去って行った。東山と昌行がそれを見送った。
 侍が見えなくなると、昌行は矢茶に尋ねた。
「お姫様の姿は、遠くからでもおわかりになりますか」
 矢茶は頷いた。
「はい。わかります」
 それを聞いて、昌行は、東山に向かって言った。
「では、こちらの方と捜しに行って参ります」
「心当たりはあるのか」
「ございません。とりあえず、高いところから街道を見下ろしてみようと思っております」
「そうか。では、わたしはもう一度渡し場を見てこよう」
 昌行は矢茶を伴って外へ出た。
 向かう先は長禅寺である。長禅寺は高台にあり、取手の町を見下ろすことができた。
 歩きながら昌行は尋ねた。
「お矢茶さま、とおっしゃいましたね」
「はい、城中ではそう呼ばれております」
「城中では」
「はい。姫様がつけてくださった名なのです。初めてお目通り致しましたときに、茶の矢絣(やがすり)を身につけておりましたので。茶矢よりは矢茶の方がよかろうとおっしゃられて、矢茶と呼ばれることになりました」
 そんなことを話しながら、二人は長禅寺にのぼる石段が見えるところまで来た。

 剛太と喜多は、町並みと利根川を見下ろしていた。利根川の向こう、我孫子の宿まで見える。
「江戸はどちらでしょうか」
「あっちの方だろうなあ」
 剛太は、我孫子の先を指差した。それから、わずかに西の方へ目をやり、
「からっとした日には、富士のお山も見えるんだが」
と言った。しかし、今日は、空と地の境あたりはかすんでいて見えなかった。
「まあ、富士のお山が」
「ああ。でも、今日はだめだ。見えねえ」
 二人はしばらく黙って景色を見ていたが、ふいに喜多が尋ねた。
「町人の暮らしは楽しいですか」
「楽しいかって言われてもなあ。町人の暮らししか知らねえし。それに、町人ったって、金持ちもいれば貧乏人もいるんだ。人によって違うだろう。腰元の暮らしは楽しいかい」
 逆に尋ねられ、喜多は少し考え込んだ。
「そうですね。楽しいこともあれば……」
「つらいこともあるかい」
「はい。わたしは国元におりましたが、父上にお目に掛かれるのは一年おきでした。いつも一家で一緒にいられる町人をうらやましいと思ったこともあります」
 喜多は、彼方へ目をやった。
「摂津はどんなところでしょう」
「摂津? 聞いたことがあるな。上方(かみがた)だったかな。摂津まで行くのかい」
 喜多の表情はやや曇った。
「摂津に参ることはないでしょう。おそらく、江戸の藩屋敷にずっと……」
 剛太は喜多の横顔を見つめた。しかし、喜多の心中を探ることはできなかった。
「戻ります」
 喜多が言った。
「戻るって、どこへ」
「宿へ戻ります」

 昌行は矢茶は石段を登っていた。
「お輿入れなさるそうですね」
 昌行は、黙っているのも気まずいので矢茶に尋ねた。
「はい……。お相手は、さるお大名です。わたくしも一緒に参ります」
「そうでございますか」
 昌行は、矢茶の横顔を見つめ、心中を察して黙った。
「ああっ」
 矢茶が突然叫び声をあげた。
 昌行が、何事かと顔を上げると、石段の上に方に人影が二つあった。
「姫様、みなみ姫様」
 矢茶は石段を駆け上がろうとしたが、濡れた苔に足を取られて体勢を崩した。あわや転がり落ちそうになったところを、とっさに昌行が後ろから手を伸ばした。
 昌行は、矢茶の柔らかい体に触れてはっとしたが、手を離すわけにもいかず、抱えるようにして矢茶を支えた。
 矢茶は自分が倒れそうになっているのを忘れて叫んでいる。
「そこの者、離れなさい。無礼であろう」
 昌行は、自分が言われたのかと思ったが、そうではなかった。矢茶は石段の上の方に手を伸ばしている。見ると、剛太と娘が石段を下りてくるところだった。
 剛太の方でも、昌行が下にいたので驚いていたが、剛太の隣にいた喜多はもっと驚いていた。
「矢茶」
「姫様」
 上と下で呼び合い、喜多は石段を駆け下りようとして一段踏み外した。慌てて剛太が手を伸ばし、手を握って転げ落ちるのをくい止めた。
 それを見て、矢茶はますますいきり立つ。
「無礼者! 手を、その手を離すのじゃ」
 そう言いながら自分の腕を振り回すので、体勢を立て直すことができない。昌行は後ろから支え続けるしかなかった。
 上からは喜多が叫んだ。
「なんですか、矢茶。人前で町人の男にもたれるなど。はしたない」
 しかし自分は剛太の手を握ったままである。剛太は剛太で、その手の柔らかさにどきまぎしていた。かといって離すわけにもいかない。
 ややあって、喜多と矢茶は、いや、みなみ姫と矢茶は、それぞれ自分がどんな状況になっているか気づいて、顔を真っ赤にした。

 一体どういうことだったのか、剛太が理解できるまでにはだいぶ時間がかかった。
 腰元の喜多だと思いこんでいた相手は、実は姫様だった。喜多というのも偽名だった。
 いわれてみれば、確かに色白で丸顔だったが、腰元もそういうものなのだろうと思っていた。
 剛太は、姫様に胡瓜を食わせ、長禅寺まで連れて行っていたのだ。
 剛太と昌行は、とにかくみなみ姫と矢茶を連れて石段を下り、二人が落ち着いてから、宿へ送っていった。
 それから剛太は昌行に連れられて番屋へ行き、東山が戻ってくるのを待って、自分がしたことを全部話した。
 東山にも昌行にも、お手柄だと言われたが、どうも釈然としなかった。
 だまされていたのが気にくわない。
 しかし、石段のところで握った柔らかい手の感触を思い出すと、姫を恨む気持ちは起こらなかった。
 それからは、ずっとぼうっとしていた。
 それは昌行も同じだった。
 昌行は、剛太とともに近藤屋にもどると、奥の座敷で、ぼんやりと裏庭を見ていた。
 日が傾くと、離れで、キミが蚊帳を吊り始めたのが見えた。佐知は、蚊遣火(かやりび)の煙にも咳き込んでしまうので、早めに蚊帳を吊ることにしている。
 障子を半分立ててあり、佐知が横になっているのかどうかはわからなかった。
 石段で矢茶を支えたときのことを思い出すと、何だか佐知に済まないような気がしたが、そんな気持ちは自分一人の一方的な思いによるものだということはよく分かっていた。
 表の方で話し声がして、博が入ってきた。
「兄貴、お客です」
「誰だ」
「お武家様です」
 出てみると、見知らぬ侍が、柳樽を抱えた小物を連れて立っていた。
「そなたがここの主(あるじ)か」
 尋ねられ、
「はい」
と答えると、侍は、
「これは、本日の謝礼である。このまま受け取ってくれ」
と言いながら、袱紗包みを差し出した。昌行は正座して受け取った。ずしりと重い。
 次に柳樽が渡された。上等の酒のにおいがした。
 渡す物を渡すと、侍はすぐに立ち去った。それを見送り、昌行はヒロシと顔を見合わせた。
 日が沈み、達也と智也が戻ってくると、みんなで少し酒を飲んだが、翌日も早く起きなくてはならないので、早く寝た。
 次の日は、暗いうちに朝飯を食べ、明け六ツには、剛太も一緒になって河岸へ行った。
 水が引くときに、船が浅瀬に残されると厄介なことになる。
 そうならないように、様子を見ながら、もやってある船を、流れがある方へ戻さなくてはならない。
 力では達也と智也にかなう者はない。二人が押すと、どんな船も軽く動いた。
 剛太は、力ではかなわなくとも、身の軽さでは二人に負けなかった。船から船へ飛び移り、とも綱を確かめ、結びなおしたりして忙しく朝を過ごした。
 昨日に比べるとだいぶ涼しくなったようだったが、それでも汗が流れた。
 やがて水は落ち着き、いつもの水位になった。
 仕事が一区切りつくと、達也は飯を食いに戻ったが、智也は、窪地に鯉でも残されていないかと、河原を見て歩いていた。
 剛太は少し上流へ行った。そして、昨日の畑に足を踏み入れた。
 畑の主がいたら、胡瓜の代を払おうと思ったのだが、畑に人影はなかった。
 昨日と同じように、胡瓜がいくつもぶら下がっている。
 剛太は、形のいいのを選んでもぎ取り、いぼを取ると、へたのところを折って捨てた。
 それから、その胡瓜を手にしたまま、土手の上に戻り、利根川に目をやった。川は、陽光を受け、きらめきながら流れていく。
 姫は、今日、この川を渡っていくのだろう。
 胡瓜を一口かじった。青臭い味が口の中に広がる。
 姫と一緒に食べたときほどうまいとは思えなかった。

(終)


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