STRANGER under The MOON
前編
まだ日暮れどきだと言うのに、空にかかる黒雲のせいですでにあたりは夜のように暗かった。
リヨンに向かう乗合馬車は小さな駅に止まった。その駅では、顔をコートのフードで隠すようにした若い娘が馬車を待っていた。
娘は、御者に頼んで小さな手荷物を屋根に乗せてもらった。それから自分も馬車に乗ろうとしたが、娘には誰も連れがいなかった。それに気がついた馬車の客の痩せた若者が立ち上がって娘に手を差しのべた。その手をおずおずとつかんで娘は馬車に乗り込み、それから誰か来ないかと言うように、馬車の後ろを振り返った。
娘が乗り込むと、馬車はすぐに動き出した。娘は固い窮屈な馬車の座席に座り、青ざめた顔で深いため息をついた。それからまた何度か落ち着かないように馬車の後ろを振り返った。
しばらくして娘は、斜め前の席に座った若者が自分を見ているような気がした。だが、娘が顔を上げると、若者は娘のことを見てはいなかった。若者は窓に肘をつくようにして、暗い窓の外を眺めていた。
数個の駅を通過しても、馬車の客は娘と若者のふたりきりのままだった。
娘は、ずっと外を見たままの若者を見た。若者は、黒いスーツの上に旅装用のマントを羽織り、やはり旅装用の黒い帽子を深くかぶっていた。それは旅行する若い男なら誰でもするような服装だったが、その若者が着ていると、他の誰とも違う感じがした。顔は帽子の影になってよく見えなかったが、ほっそりとした体つきは服の上からもわかった。しかし、この若者がどこでどういう暮らしをしている若者なのか、娘にはちょっと見当がつかなかった。
「……どうかしましたか?」
突然若者は娘に声をかけた。
「……え?」
娘はびっくりして聞き返した。
「僕に、どこかおかしなところでもありますか?」
そう言うと若者は自分の服装を見回した。
「……い、いいえ」
自分が、少し長すぎる間若者を見ていたことに気がついて、娘はあわてて首を横に振った。
「そんなことありません。どこもおかしくありませんわ」
そう言われても若者は、まだ娘の方をじっと見ていた。娘は落ち着かない気分になった。
「あの、あなたがさっきからずっと真剣に窓の外をご覧になっていたので」
娘はどうにかこうにか思いついた言い訳を口にした。
「わたし、窓の外になにか見えるのかしらと思っただけなんです」
娘はどきどきした。
すると、若者が言った。
「……月です」
「え……?」
「僕は、月を見ていたんです」
若者はそう言った。
「……月?」
娘はその言葉に誘われたように窓の外に目をやった。
「月が見えますの? ……さっきまで空は、黒い雲でまっくらでしたけど」
「そうですね、幸いにも今夜の月は雲で見えません」
若者が言った。なんだか歌うような調子だった。驚いた娘は、思わず言い返した。
「まあ、だってあなた、今確かに月を見ていたとおっしゃったわ」
すると、そんな娘を見て若者はおかしそうに笑った。娘ははっとした。気まぐれな若い男にからかわれたのだ。娘は恥ずかしくなってうつむいた。しばらく娘がそうしていると、若者の声が聞こえた。
「笑ったりしてすみません」
「……」
「月が見えないのがうれしかったんです。それに、あなたみたいにおとなしそうな方が、あんなことにむきになるとは思いませんでした」
「……」
若者の声は、からかっているようではなかった。娘は顔を上げて若者を見た。若者の瞳は帽子の影でよく見えないが、それでも若者が口元に柔らかな微笑を浮かべているのがわかった。その笑顔だけで娘は急に安心した気持ちになった。
「おひとりでどこに行かれるんですか」
若者が尋ねた。それを聞くと娘は暗い表情になったが、やがて答えた。
「……修道院ですわ」
「修道院」
若者は繰り返した。
「誰かお知り合いでも尋ねるんですか?」
そう言われて、娘はあいまいにうなずいた。
「……ええ、まあ」
ふたりは黙った。田舎道を走る馬車の車輪がガラガラと音を立ててふたりを揺らした。
やがて若者がぽつりと言った。
「なにか事情がおありのようですね」
「……」
「よければ、あなたがどんな訳で修道院に向かわれるのか、僕に話を聞かせてもらえませんか」
「……まあ」
娘は驚いて聞き返した。
「あなた、わたしのお話をお聞きになりたいっておっしゃるの?」
「そうですよ」
うなずいて、若者はまたかすかに微笑んだようだった。
「……あなたに話してもどうにもなりませんわ」
娘はうつむいて言ったが、若者は、
「ただの好奇心です。今夜僕は気分がいい。それでちょっと人の話を聞いてみたくなったんです。おいやなら別にいいんですよ」
と言った。
そのあとはもう、若者はなにも言わず、また窓の外を眺めだした。しかし娘は落ち着かなくなり、やがて、
「ちっとも楽しい話ではないんですよ」
と前置きして、自分の話を話し出した。
娘は名をケンリーヌと言い、地方の地主の娘だった。
父親は田舎の地主らしい頑固な男で、歳は五十を越えていたが、母親のほうは、娘より十ちょっと年上なだけだった。
「あなたのほんとうのお母さんではないんですね?」
若者が尋ねた。
「はい。わたしを生んだ母は、わたしが十のとき病気で亡くなったんです」
そう言うと娘の表情が悲しそうに曇った。
継母には小さな男の子がひとりいた。腹違いではあったが、その男の子が娘のたったひとりの兄弟だった。父と継母と小さな弟。この三人が自分の家族だと娘は言った。
田舎の村でも地主同士にはいろいろとつきあいがあり、父親と母親はなにかと出かけることが多かった。寄宿舎のついた女学校を出てからは、娘はずっと家にいて、習い事をしたり家事の手伝いをしたりしていた。母親が出かけている間は、娘が小さな弟の相手をしてやった。娘は弟をかわいがっていた。娘は少し得意そうに言った。
「弟は五つになったばかりですが、金髪の巻き毛で、目が青くて、天使のようにかわいい子なんですの」
そう言った娘の、フードからのぞいた髪の束は、ただの茶色で、目の色も同じだった。若者がふとその髪に目をやったことに気がついて、娘は少し恥ずかしそうに言った。
「わたしは、生んだ母に似て、残念ですが金髪ではないんです……」
若者は言った。
「僕はあんまり黄色いのより、あなたの髪みたいな色の方が好きですね」
娘は、若者の帽子から飛び出た髪の色を見た。小さなランプに照らされた若者の髪は娘の髪と似た栗色だった。
娘はまた、話を続けた。
数ヶ月前のことだった。娘は両親とともに、近在の屋敷の夕食会に呼ばれた。
娘は、その日のために新しいドレスを作ってもらえることになった。珍しく奮発してリボンやレースをあしらったドレスをこしらえてもらい、娘はどきどきした。そして、それを来て出席する夕食会を楽しみに待った。こんなドレスを着て行ったら、そこでなにかすばらしい出逢いがあるような気がしたのである。
しかし、それは結局のところ、ただの田舎の地主仲間の集まりのようなものだった。夫婦で呼ばれた客もあったし、ひとりで来た客もあった。しかし若い客は娘の他に誰もおらず、話題と言っては、今年の作物の収穫量だの、土地代を払わない困った小作人だののことばかりだった。楽しいことなどなにもなく、娘は疲れただけで自分の家に帰った。
だが、しばらくしてから、父親はにこにこ顔で娘を自分の部屋に呼び、たいへんなことを言い出した。
「この間ごいっしょに食事したお客の中におまえをたいへん気に入った方がある。お金持ちで立派な方で、ぜひおまえを貰いたいと言っていらっしゃるんだ」
娘は驚いた。あの客のなかにどんな男がいたろうかと懸命に思い出そうとしたが、娘には、誰もみな退屈そうな中年男だったことしか思い出せなかった。娘は父親に、自分はまだ若いし結婚なんてまだしたくない、ぜひ断ってくださいと頼んだ。だが、それを聞くと父親は機嫌を悪くした。
じきに、両親がその男を夕食に呼んだ。娘は両親に言われて嫌々食事の席に着いた。それはいったい何歳なのかわからない、陰気な男だった。男はときたま、不器用に娘に話しかけようとしたが、娘はひとことも返事をしなかった。それは、全く話の弾まない、気の遠くなりそうにつまらない食事の時間だった。
娘は、ひとことも口を利かなかったことで、男は自分が気に入らなくなっただろうと思った。だが、そんなことにはならなかった。男は、人を通じて正式に結婚を申し込んできた。
両親は、娘を呼んで、結婚相手は金にきちんとしていることが一番大事であること、あの男がどれほど金にはきちんとしているか、あの男と結婚すればこれからどれほど安楽に暮らせるかを話して聞かせた。
また父親は、自分が今、土地を広げようとして男に金を借りていること、その際男は気前よく金を貸してくれたこと、こんな立派な行いはこのせつ珍しいこともその話に付け加えた。
それを聞いても娘はまだ首を縦に振れなかった。父親は怒って、義母に、娘に言うことを聞かすようにと言いつけて部屋を出て行った。
娘は、歳の近い母親なら自分の気持ちがわかってくれるかもしれないと思った。
「お義母さま」
娘はすがるように言った。
「あのかたはわたしよりはるかに年上ですわ。わたしはあのかたには似つかわしくないんじゃないでしょうか」
すると母親は、とがめるように娘に言った。
「あのかたがあなたには似つかわしくないと言うの? ケンリーヌ。あのひとは見てくれはよくないし、気の利く人でもないけど、ちゃんとした土地持ちなのよ」
「でも……」
「あなたはよく弟におとぎ話を聞かせてるわね。でもおとぎ話みたいな結婚なんてほんとうにはないのよ。あなたみたいに世間知らずで夢を見がちな娘は、いつか男にひどいめに会わされるわ。そうならないうちに早く、分別のある歳の離れた男の人と結婚するのが一番いいのよ」
「……」
「実を言うと、お父さまはもうあちらにお返事をしてしまわれたの。あなたがあのかたと結婚するのは、もう決まっていることなのよ」
結婚がすでに決まっていると聞いて、娘は声も出なかった。
「あんまり言うことを聞かないとお父さまがどれだけ癇癪を起こすか、あなたもよくわかってるでしょ。わたしもお父さまも、あなたの幸せを考えて決めたことなのよ。早くお父さまのところへ言って、結婚しますと言ってらっしゃい」
次の日の朝、娘は泣きはらした顔で父親の部屋に行って、あのかたと結婚しますと返事をした。父親はとたんに機嫌がよくなった。
だが男は、結婚がはっきり決まると、とたんに娘に横柄な態度を取るようになった。
一度はあきらめて結婚することにした娘だったが、男が態度を変えるのを見るうちに、やっぱりどうしても結婚したくないという気持ちが湧きあがってきた。
娘は何度か、結婚をやめるわけには行かないかどうか、それとなく義母に話を持ちかけてみた。だが、その返事はとりつくしまもなかった。父親に向かって結婚をやめたいと言ったって絶対に許されないと言うことは、娘にはよくわかっていた。
そうこうするうちに日は過ぎた。結婚の日取りまでもう半月もなくなった。
娘はこのごろは食欲も出ず、気分が悪くて部屋に籠もっていることが多かったが、結婚前の娘はときどき気鬱になるからと、両親は別段深く心配もしなかった。
今日も娘は、家族に、食事はいらないから寝かせておいてと言い置いて部屋に閉じこもった。
娘の最後の頼みの綱は、修道院だった。
娘の通っていた女学校は、修道院に併設されていて、教師のなかにも修道女がたくさんいた。修道女達なら、自分に同情してくれるかもしれないと娘は思った。
娘はこっそりと家を抜け出した。
そして娘は、乗合馬車の駅までを必死で歩いた。運のいいことに、雲が重くたちこめた夜のように暗い午後だったので、娘は誰にも見とがめられずに、あの駅に着くことが出来たのだった……。
次回の後編で終わる小品です。
(2001.4.21 hirune)
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