STRANGER under The MOON

後編


 「これで、わたしがこんな夜にひとりで修道院に向かっている訳がおわかりになりまして?」
 娘は言った。
 「……あなたがお願いしたとして、修道院の先生はあなたの言うことを聞いてくださるんでしょうか」
 若者が尋ねた。しかしそう言われると、娘はうつむいて、
 「……だめかもしれません」
 と言った。そしてそれからすぐに、なげやりのように言った。
 「いいえ、きっとだめですわ。親の決めた結婚から逃げ出してきた娘に頼られても、先生達は困るだけでしょうから」
 「……」
 「そんなこと、わかっています。……でもわたし、どこだってよかったんです。どうせわたしには、他に行くところがどこにもないんですもの」
 「……」
 それでふたりの会話はまたとぎれた。馬車のなかに沈黙がよみがえった。
 若者は、再び窓の外に視線を移した。それきり若者は娘の方を見なかった。
 しばらくしてとうとう、我慢できなくなったように娘が言った。
 「ほら、言ったようにつまらない話でしたでしょう? でもあなたから話をせがまれたんですよ? お聞かせくださいませんこと? 今のわたしの話を聞いてどう思われましたの?」
 言いながら、娘は相手の様子をうかがった。
 若者は娘の上に視線を落とし、それから、
 「そうですね」
 と肯定でもなく否定でもなく言った。
 「結婚相手のかたは、どうやらごく普通の田舎の紳士のようだ。親から受け継いだ土地を汲々と守り、小作人達から厳しく金を取り立てる。暮らしには困らないが、きっと妻や子ども達にいばりちらすような人になるんでしょう」
 「……」
 それから、若者は表情も変えずに続けた。
 「でも、なにもそのかたが特別なわけじゃありません。現にあなたのお義母さんだって、そんなあなたのお父さんと結婚して、うまくやってるじゃありませんか。金はないよりあるほうがいい。そのかたと結婚すればあなたは食べるものに苦労することもないし、地主の奥さんとしてみんなに丁重に扱ってもらえますよ。僕は、ご両親の言うとおり、あなたはそのかたと結婚するのがいいと思いますよ」
 「……」
 「悪いことは言いません。お嬢さん、次の駅で引き帰されたらどうですか?」
 そっけなく若者はそう言った。それを聞くと、娘はうなだれた。
 「では……、あなたは……、わたしのとった行動は間違っているとおっしゃるのね」
 「まあ、そうです」
 若者が冷たく答えた。
 すると、娘は急に顔を上げ、さっきまでとは比べものにならない、必死な様子で言った。
 「それでは聞かせてください。あなたは、愛情というものをどうお考えなんですの? 幸福というものをどうお考えなんですの?」
 「……」
 「わたし、あの男を愛していません」
 「……」
 「それに、貧しい小作人達から取り立てた金で安穏に暮らすような生活をしたいとも思いませんわ」
 話すうちに、娘の口調は絶望的になった。
 「わたしは愛することの出来る人と結婚したかっただけですわ。義母はわたしに、わたしみたいに夢見がちの娘は、ひどいめに会う前に分別のある男と結婚するのがいいと言いました。でも、金めあての分別なんて、愛とはもっとも遠いところにあるものですわ……」
 娘の瞳から涙がこぼれ落ちた。しかし娘が悲しそうに涙をこぼす様子を目の当たりにしても、若者の瞳に同情の色が宿る気配はなかった。
 「……愛ですって?」
 若者はつぶやいた。
 「愛なんて、お金よりもっとはかないものですよ」
 だが、そのときだった。
 さっと白い光の筋が若者を照らした。
 若者ははっとして窓の外を眺めた。
 いつのまにか空は黒い雲が切れはじめ、合間から月の光が差したのだった。
 「……!」
 若者は、呆然と目を見張って空を見上げた。そして次の瞬間、若者は馬車の座席に身を沈めると、恐ろしい物を見たように顔を両手で覆い、なにかうめきながら肩をふるわせた。若者のかぶっていた帽子は床に転がり落ちた。娘は驚いて若者に声をかけた。
 「どうなすったんですの? ご気分でも悪くなったんですの?」
 しかし若者は頭を横に振った。
 「……なんでも……」
 若者はうめくように言った。
 「……なんでもありません」
 しかし若者は苦しげに胸をおさえたままだった。
 「お病気ですの? わたしになにかできまして?」
 心配になった娘は思わず若者のそばにひざまづくようにして、若者を見上げた。若者はやっと顔を上げて娘を見返した。
 ふいに娘は、身動きできなくなって、若者の瞳に見入った。
 帽子の影を失った若者の瞳は、燃えるように娘を見つめていた。帽子がないと、若者の頭が、逆立つように豊かな亜麻色の髪に取り巻かれているのがわかった。それはなにかの動物の毛並みのようにも見えたが、若者の暗く燃える情熱そのもののようにも見えた。
 娘を見つめる若者には寸分の隙もなかった。すべてに惹きつけられて、娘は、みじろぎひとつできなくなった。
 「僕はちょっとした持病を持っているんです」
 胸を押さえて落ち着こうとしながら、若者は言った。
 「……」
 「でも今夜は、あの黒い雲のおかげで発作から免れたと思いこんでいたんですが……」
 そのうちに、若者の表情からは苦悶の影が消えはじめた。すると今度は、若者の表情は奇妙に明るくなってきた。若者は微笑んで娘に言った。
 「ご心配をかけて申し訳ありません。もう大丈夫です」
 だが、娘はそんな若者を見つめたままだった。すると、若者は娘の目を見返しながら言った。
 「では、今度は僕の番ですね。僕がなぜこうして旅をしているのか、あなたにお聞かせするとしましょう」
 「……」
 「……僕は、旅をしながら、僕を心から愛してくれる人を捜しているんです」
 娘から目をそらさずに、若者は甘くささやいた。
 「……あなたのようなかたにはもう美しい恋人がいらっしゃるでしょうに……」
 娘は消え入りそうな声で反論した。若者は首を横に振った。
 「いいえ、そうなんです。……確かに僕は今までに何度か、僕を心から愛するという若い娘に出会ったことがあります」
 「……」
 「彼女たちはみな、可憐で美しく、純情でやさしかった。……そう、あなたのように」
 「……」
 「そして彼女たちは、それぞれに僕に愛を誓ってくれました。いつまでも変わらぬ、命懸けても悔いない愛を」
 「……」
 「……ですが、いつもその約束は破られました」
 「……」
 「彼女たちがほんとうに欲しかったのは僕の愛ではなかったんですよ……」
 「……まあ」
 娘は息を詰めて若者の瞳を見返しながら、ためいきのような声を出した。
 「さっきあなたの結婚について僕がなぜあんなことを言ったのか、これでおわかりでしょう? それで僕は、人間には愛なんかより毎日続く退屈な生活のほうが大切なんだってことがわかったんです。僕を愛する人なんて、この世界にはいるはずがありません」
 若者の声が暗くなった。その声を聞くと、娘は言わずにはいられなくなった。
 「若い娘がみんながみんなそうだとはお決めにならないでください。……それは、そういうかたもいるでしょうけど、……わたしは違いますわ……」
 若者は首を横に振った。
 「いいえ、あなたもきっと最後には、愛より他のもののほうが価値があると言うようになるんです。……ケンリーヌ、よくお聞きなさい。これは忠告です。幸せになりたいならあなたは自分の家に戻ったほうがいい」
 「いいえ、いいえ」
 娘は必死で叫んだ。
 「戻りません。家に戻ったらわたし、永遠に幸せになんかなれません。わたし、あの男と結婚するくらいなら死んだほうがましなんですわ!」
 「……」
 「でもこのまま修道院に行ったって、さっき言ったとおり、騒ぎの嫌いな先生達は、わたしを連れ戻しに来た父に引き渡してしまうでしょう。……お願いです、旅のお方!」
 娘は必死な瞳で若者を見つめた。娘のその瞳には奇妙な輝きが宿り、娘を今までの頼りなげなようすとは別人のように見せていた。
 「教えてください、あなたはどこへ向かわれるの?」
 「……」
 「お願いです、あなた、わたしをお連れになっては下さりません?」
 「……」
 「お願いです、わたしの愛を試してはみては下さりませんこと? わたしが他の娘達のように愛よりか安楽な生活を選ぶかどうかを……!」
 娘はひざまづいたまま若者の瞳を見上げた。
 「こんな気持ちははじめてですの。わたし、すべての愛をあなたに捧げますわ……! お願いです、わたしを受け入れるとおっしゃって……!」
 娘を見て、若者はやさしく言った。
 「……本気で僕にそうおっしゃってくださるんですか?」
 娘が黙って頷くと、若者は娘の手を取り、しばらく娘の瞳を見つめたのち、娘の白い華奢な手に唇を寄せた。
 「どうやら……。僕にはあなたが必要なようです、ケンリーヌ」
 やがて若者は娘の手から唇を離した。そして、今度は娘の顎に自分の細い冷たい指をあてがいながら、ささやいた。
 「……やさしいケンリーヌ。後悔してももう遅いんですよ。あなたは僕から逃げられない。あなたはもう、ご自分でご自分の運命を選んだんですから」
 娘は答えた。
 「わたし、けして後悔しませんわ」


 じきに馬車は次の駅に着いた。田舎町は、暗く、誰もいなかった。たったふたりの客は揃ってその駅で降りた。娘に荷物を渡しながら、御者はこっそりと言った。
 「これからあの若いかたとご一緒されるんで?」
 「……ええ」
 娘はにっこりと笑って頷いた。
 「もともとお知り合いだったようにも見えませんでしたがね」
 御者は目深く帽子をかぶった若者をちらちらと見ながら娘に言った。
 「お嬢さん、あんたは世間知らずなんだ。悪いことは言わない、うちに帰りなさい」
 「……なんのことかわかりませんわ」
 娘は上気させた顔で言った。
 「わたしには、帰るところなんてないんですもの」
 やがて若者はなにも言わずに娘の荷物を受け取った。ふたりはよりそって歩き出した。御者は危うい気持ちでそれを見送った。
 ふたりが歩き出すと、空が明るくなった。さっきから雲の切れ間に月がときどき姿を現していたのだが、今度こそ雲はすっかり流れ去ったようだった。月がくっきりと丸い姿を現した。すると、若者がふいに振り向いた。
 御者に最後の挨拶でもするつもりだろうか、若者は目深くかぶっていた帽子をゆっくりと片手で脱いだ。
 御者はそのときはじめて、帽子を脱いだ若者を見た。帽子を取ると、逆立った若者の髪が満月の光を浴びてキラキラ輝いた。驚いた顔の御者を見て、若者は口元をにやりとゆがませた。月は突然赤く色を変え、若者の瞳も赤く光った。
 「!?」
 御者は驚きのあまり目を見開いた。
 「お嬢さん……!」
 それでも彼は、必死で叫んだ。
 「……お逃げなさい、早く……!」
 え、と言うように、娘は顔をこちらに向けようとした。
 そのとき、どこからかけたたましい笑い声が聞こえたかと思うと、今度は恐ろしい獣の咆哮が空に響き渡った。若者のマントが翻った。御者の目に、娘のあどけない驚愕の表情が映った。そして恐ろしいひとときのあとは、ただ、赤い凶々しい月の光があたりに満ちているだけだった。御者は眼を見開いたまま、呆然とその場に立ちつくした。
 

 「おい! おいどうした!」
 人の声で、御者は我に返った。
 「これはどこに向かう馬車だ」
 御者は、馬鹿のようにのろのろと声がする方を振り向いた。するとそこには三十才ほどの、鋭い風貌をした紳士が立っていた。御者はひっと声をあげ、震え声で言った。
 「……わっしを食わねえでください。わっしはなにもしてねえんで!」
 「なんなんだ、いったい」
 紳士は不機嫌そうに顔をしかめた。
 「なんで俺がおまえを食うんだ」
 しかし、御者はまだ、ガタガタと歯を震わせていた。
 「……じゃあ旦那は”あれ”じゃあねえんですかい」
 「”あれ”ってなんだ」
 紳士は不機嫌そうな様子のまま、尋ねた。
 「……狼」
 御者は蚊の鳴くような声で答えた。
 「なんだと」
 紳士は怪訝げに眉をひそめた。
 「おまえ、今、なんて言った」
 「狼ですよ、旦那!」
 御者は、今度はやけっぱちのような大きな声を出した。
 「わっしは見ました。若い男がわっしの目の前で狼に変わったんでさ。そのうえそいつは、連れの娘の喉笛をくわえて、飛ぶようにどこかに駆けて行っちまったんでさ」
 紳士は黙った。
 「ほんとうですぜ。……ついさっきわっしはそれをこの眼で見たんでさ!」
 紳士に信じて貰おうと、御者は必死で言い募った。
 「ああ、旦那だって自分の目であれを見たらわっしを疑ったりできなかったのに。丸い月が赤くなって、するてえとこう、その月の光を受けた男の目が赤く光ったんでさ。口元からはにょきっと白い牙が出てきて、あっと思う間にそいつは燃えるような毛並みの、恐ろしい狼に変わっちまったんでさ!」
 「……さっきと言ったな!」
 黙って話を聞いていた紳士がいきなり怒鳴ってそう言った。
 「へ、へえ……」
 返事をしかけて御者はとまどった。ついさっきのようにも思えるし、ずいぶん前だったような気がする。自分はどれくらい呆然と我を忘れていたのだろう。御者は考えるうちにそれがほんとうだったのか夢だったのかさえもなんだかわからなくなってきた。だが、紳士はまた怒鳴った。
 「その若い男はきっと、痩せて小柄で髪は亜麻色で、なにかを射抜くような目をしてたことだろうな!」
 と言った。
 「……へ、へえ」
 御者は頷いた。
 「それで、そいつはどっちに行ったんだ!?」
 「あ、あっちでさ……」
 御者は指差した。
 「よし」
 紳士は頷いた。
 「この馬車をそちらに出せるか」
 「それはできねえ」
 御者はあわてて首を振った。
 「そうか」
 御者の答えを聞くと、紳士はすぐに、くるっときびすを返し、御者に背中を向けて急ぎ足に歩き出した。御者はあわててその背中に声をかけた。
 「旦那! これはいったい……」
 紳士は振り返り、そして怒鳴った。
 「……俺はその狼を捜しているんだ。満月の夜に若い娘を食らう、人の姿をした狼をな! ……あいつめ! 今夜は逃がさんぞ! これ以上好き勝手はさせん!」
 そしてまた、紳士はこうも怒鳴った。
 「……夜出歩く若い娘に会ったらよく言っておけ! 狼に食われたくなかったら、親の言うことを聞いて家でおとなしくしているのがいちばんだとな!」
 すぐに紳士は歩き出し、もう振り向かなかった。御者は、やせぎすな紳士の後ろ姿を見送った。

 ……満月の夜に若い娘を食らう、人の姿をした狼……。
 御者はそのとき急に、狼に連れ去られる娘のすでに意識を失った顔、幸福にうっとりと目を閉じたように見えたあの顔を思い出した。
 そして、狼のほうがあの獲物を選んだのだろうか。もしかすると獲物のほうが自分を食らう者を選んだのではなかろうかと、そんなことをふと思ったのである。  

(終わり)

 大時代のフランスの小説みたいなムードが出せたら……、と思って書いたんですけど、どうも読みにくいなあ、誰か読むかなあと思っていたら、「こういう感じが好きだ」と言ってくださる方がいて、あららよかったと安心しました(笑)。最後の紳士はまーくんということでお願いします(笑)。

(2001.4.30 hirune)

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