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「社長。来週のスケジュールです。ここに置いておきます」 てきぱきとそう言い、坂本が書類を机に置く。老眼鏡を掛けた社長は、窓を向いて別の書類を読みながら、それに生返事をした。 「ああ、ありがとう」 しかし、坂本が社長室を出ようとしたとき、社長はくるりと椅子を回して坂本を呼び止めた。 「坂本」 「はい」 「昨日、准一から家内に連絡が入ったそうだ」 「それはよろしゅうございました」 「君が手を回したんだね」 「はい、まあ……」 坂本は、あいまいに言葉をにごした。 「会ったのか、准一に。どうしているんだ、あいつは」 「ちょっと人に頼んでありまして……。昔からのつきあいで、信頼できる人間です。准一くんは元気なようです。ご安心ください」 「そうか。だがね、電話で准一は家内に、どうしてもうちには戻らないと言ったらしいんだよ。大学にも戻らないと言っている。それでちょっと困ってしまってね」 「そうですか……」 「君、知っているんだろう。准一がどこにいるのか。教えてくれないか」 「社長ご自身ががお会いになるつもりですか」 「……うむ」 「もう少しお時間をいただけませんか。実は、私が頼んだ人間というのが、准一くんにかなり信頼されるようになっておりまして。そちらから話を持っていくと、准一くんは案外素直におうちに戻るようになるような気がするのです。今無理に連れ戻すと、かえって気持ちを閉ざされるかもしれません」 「……そうだな……」 社長は考えながらうなずいた。 「今日、うちに電話しました。おふくろに戻るように言われたけれど、断りました。大学にちゃんと行くようにも言われましたけど、それも出来ないと言いました。長く電話するといろいろうるさいから、また電話すると言って切りました。 これでいいですか? ちゃんとうちに電話したんだから、もうつきあわないなんて言わないでください。 明日から受験勉強をはじめるつもりです。お金のことは心配ですが、成績が良ければ奨学金をもらえると思います。毎月バイトのお金も貯めてるし。俺、がんばりますから。長野さんがいれば、がんばれます」 畳に敷いたふとんの上に寝転がりながら、准一はメールを打っていた。ふとんの枕元には、新しく買ったらしい大学の入試問題集が置いてあった。 「……ではではおやすみなさい。あなたの准一より……」 「じゅーんちゃん!」 「わっ」 いきなり後ろから抱きつかれて、准一はびっくりして携帯を手から離した。 「ただいま」 「井ノ原くん!」 「誰にメールしてたの? 見せて。なになに、あなたの准一い? ひやー」 「返せ! 返せ!」 「長野さんがいればがんばれます、か。熱いね〜」 「……!!」 准一は、憤激した顔で井ノ原の手から自分の携帯を取り戻した。 「そんな怒るなよ〜」 「……。帰ったら帰ったと言ってよ」 「だってここ、俺の部屋だぜ」 「それはそうだけど。俺だってちゃんと部屋代入れてる。……それに井ノ原くん、このごろ泊まって来ることが多いから」 「それそれ」 「なに、それそれって」 「俺さ、今度、彼女と一緒に暮らそうと思って」 「え……」 「行ったり来たりするの面倒だし、金も無駄だし」 「ふたりでここに住むの」 「ここには住まないよ。向こうのが広くてきれいなんだ。俺が向こうに行く。でもまだここの契約は1年残ってるから、それまで准ちゃんここに住んだらどう? 部屋代は払ってもらうけど、敷金礼金はなしだから」 「うーん……」 「恋人出来たんだろう? ひとりで住んだほうが都合いいんじゃない?」 そう言って井ノ原はにやりと笑った。 「そう……、だなー……」 准一はちょっぴり想像してみる。でもすぐに、こんな古い四畳半と三畳の部屋に長野が来るのが想像できなくて、頭をぷるぷると横に振る。 「……長野さんにはしゃれたマンションとかじゃないと似合わないな。こんなとこじゃなあ……」 「なに?」 冷蔵庫から牛乳を取り出して、井ノ原が訊いた。 「……なんでもない!」 井ノ原快彦は、准一の中学の二個先輩だった。 今でもそうだが井ノ原は、中学の頃から、准一には頭がおかしいんじゃないかと思えるくらいに気さくで人付き合いのいい人間だった。准一をどうして知ったのか、三年生のくせに、一年生の准一に勉強を尋ねてきたりした。准一が教えると、「おまえほんとうに頭いいんだな」と感心していた。年上ながら、准一にとってはほとんど唯一気の置けない友達だった。 そのうち井ノ原のうちが引っ越して、全く交流はなくなっていたのだが、二ヶ月前に偶然街で会った。井ノ原はひとり暮らしをしながら古着屋で働いているということだった。 学校の成績が悪い代わりに井ノ原には、准一にはよくわからない、おしゃれのセンスがすごく良いところがあった。古着屋の仕事が天職みたいで、すでに店もかなり任せられているようだった。デザイナーの卵をやっているという彼女にも会わせてくれた。自分の力で毎日を楽しく過ごしている井ノ原が准一にはうらやましく、その井ノ原に、新しい家になじめないことを話すと、井ノ原はなんでもないように「嫌な家なら出ちゃったら」と言った。井ノ原にそう言われると、准一はすぐにそれをすんなり納得したのだった。 すぐに話はまとまり、3年ぶりに会ったというのに、井ノ原は准一を自分のアパートに住まわしてくれた。 高校でもそれなりに友達はできたけれど、それはみんな、T大をめざして成績を競い合うライバルでもあり、心を許しているとは言えなかった。やっぱり一番気の置けないのは井ノ原だと准一は思い、井ノ原に感謝していた。 「で、どんな人?」 「え?」 「その、長野さんって人だよ。准ちゃんの好きな人だろ」 牛乳を飲みながら井ノ原が尋ねた。 「長野さんのこと? そうだなー……」 准一は急に夢見るような表情になった。 「すっごくきれいな人なんだ。なんていうのかな、あの、写真で、「紗がかかってる」っていうのあるだろ? ああいう感じ。長野さんのまわりはふんわりした紗がかかってる。それだけじゃない、そこから光が出てるみたいなんだ。ほんとうだって。いつもやさしくって……。普通の人じゃないんだよ。どっからか舞い降りてきたんじゃないかっていうような……。うまく説明できないけど、そう、俺のサンシャイン……。どう? わかった? 井ノ原くん」 「あ、ああ。ちょっとだけな……」 「こりゃあ相当やられてるな」と、ここまで来ると、恋人が出来て良かったというよりなんだかかわいそうな気になって、井ノ原は准一にうなずいて見せた。 「おまえがそこまで言うんだから、いい人なんだろうな」 「だから、いい人なんてもんじゃないんだって。そんじょそこらにいるような人じゃないんだから」 「わかったわかった。そう言えば、言うの忘れてたけど、かなり前、俺の店におまえの知り合いが来たことがあったよ。高校の時の友達とか言って、会いたいっていうんで、とりあえずバイト先の店だけ教えてやったけど」 「え? オーシャンフロアを教えたの?」 「そう。誰か来なかった?」 「誰も」 きょとんとしてから、准一は尋ねた。 「どんなヤツ?」 「なんか、普通。おまえと同じ歳くらいで。顔も名前も平凡だったから、もう忘れちった」 「誰だろう」 准一は首を傾げた。 「ま、いいか……」 先に着いた坂本がひとりでビールを飲みだしたところへ、長野がやって来た。 「よう。来たか。まあ座れよ」 坂本が椅子を勧めると、長野はためらいがちに座った。 「どうした。元気がないな」 「……」 「いつもお疲れさん。助かってるよ」 坂本は長野のグラスにビールを注いだ。 「准一くんのほうからうちに連絡が行ったそうだ。社長が喜んでた。おまえがそうするように言ってくれたんだろう」 「……」 「よし、まずは乾杯だ」 坂本はグラスを挙げた。しかし、長野はグラスを手に取ろうとはしなかった。 「どうしたんだよ」 いつもと違う長野の様子に、坂本は怪訝気に尋ねた。長野はうつむいたまま答えた。 「僕はすぐ帰る。用件だけ言いに来たんだ」 そこへ、仲居がお造りの皿を持ってきた。 「はいどうぞ。うにとあわびでございます」 「……長野、忙しいのか? でも少しくらいならいいだろ。一杯飲んで食ってけよ。ここのは活きがいいんだ。おねえさん、ビールもう一本。それとその、今日のおすすめっていうの」 「わかりました」 愛想よく返事をして、仲居が去っていく。 「高価そうな店じゃないか。いいのか」 長野が店を見渡す。 「いいんだよ。経費で落ちるから」 「僕と話すのも社用なのか?」 「いいじゃないか、そういう立場になったんだから。それより、准一くんのことだ。今はどうしてる? 彼。大学に戻りそうかい?」 「いや……」 「なんだ」 ビールを飲みながら坂本が無造作に尋ねる。長野は一瞬ためらってから、言った。 「……僕はもう、やめる」 「なにを」 「准一くんと会うこと」 「なんだって」 長野の言葉に驚いた坂本は、勢いよくグラスをテーブルに置いた。 「それだけ言いに来たんだ。じゃ、僕はこれで帰るから」 「おい、待てよ!」 坂本は、長野を無理矢理座らせた。 「座れよ。どういうことだ」 「どういうことって、そういうことだよ。もう、彼とは連絡を取らない。これ以上続けたら酷だ」 「道を踏み外しそうな青少年をまた大学で勉強させようとするののどこが酷だ」 「准一くんは道を踏み外すような子じゃないよ。確かに今彼は悩んでいるけれど、すでに新しい自分の夢を持ち始めている。しかも、両親の力を借りないでそれをやり遂げようとし始めているんだ。もう、そっとしておいたほうがいい。僕はこれ以上関わらない方がいいんだ」 「なんで」 「……」 「准一くんがおまえのことを好きになっているからか?」 「……。とにかく、もう会わない。……そのほうがいいと思うんだ」 「ガキとちょっとつきあうくらい、そんな深刻に考えることか? たまにいっしょに食事するくらいがなんだってんだ。じゃあ、これまではなんで俺の頼みを引き受けてたんだ」 そう言われると、長野は言葉に詰まったようだった。 「それは……。たまたま彼に出会ったとき、とてもいい青年だと思ったからだ。あとであの子が君のとこの社長さんの息子さんだと知って驚いたよ。おごったところの全くない、純粋そのものの男の子だった。だから、最初君に彼と会うように頼まれたときは、それが彼のためになるならいいだろうと思ったんだ。……そのときはまさか、こんなにいつまでもつきあうようになるなんて思わなかったから……」 「だから。いいじゃないか、別に。ずっとつきあったって。おまえは要領が悪いからな。血はつながっていないが、社長は彼を自分のひとり息子と思って大事にしてるんだ。とりあえず彼を社長の言うようにしておいて、そのうち結婚でも何でもしたら玉の輿なんだぞ。そうなったら、せいぜい俺を引き立ててくれよな」 それを聞くと、長野は乾いた声で小さく笑ってつぶやいた。 「僕が、……結婚?」 そんな長野を見ると、一瞬、坂本の顔に同情の影が走った。坂本は、こちらを見ようとしない長野の横顔に向かって言った。 「長野」 「……」 「留奈さんが亡くなったのはもう三年も前だ」 「……」 「いい加減忘れろよ」 しかし、長野は頭を横に振った。 「忘れられない」 「……」 「いや、忘れたくないんだ。留奈が亡くなったのは、結婚式のたった十日前だった。……それに」 「……」 「留奈には肉親がいない。あいつには、僕しかいないんだ……」 そう言うと、長野はおもむろに立ち上がった。 「じゃあ。僕は准一くんからは手を引いたからね」 「長野」 ちょうど料理を運んできた仲居とすれ違うようにして、長野は店を出ていった。 「あらあら、お連れさまはもうお帰りですか?」 仲居は、取り残されたような坂本を見た。 「とても素敵な方でしたのに……。坂本さん、もしかしてふられちゃったんですか」 坂本は仲居に肩をすくめて見せた。 店を出てひとりで歩き出した長野は、すぐに立ち止まった。内ポケットから携帯を取り出す。携帯の着信ランプは青く点滅していた。 ためらいながら、長野はメールを開いた。 「追伸。一緒に住んでいる井ノ原くんがアパートを出ると言いだしました。そうすると俺ひとりになるんです。井ノ原くんはいないときも多かったけど、いざ部屋を出ると言われたらとてもさびしかった。今度はいつ会えますか?」 |
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