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「確かに、准一は新しい妻の連れ子だ」 目の前のソファに座った男が言った。 「しかし、家内と結婚した今は、准一はわたしにとっても大事なひとり息子になった。そう思うだろう? 坂本」 「はい。もちろんです、社長」 坂本はうなずいた。社長は満足そうに微笑んだ。 「あの子はとても頭のいい子でね。現役で有名国立大に入ったんだ。わたしは彼に、将来はうちの会社に入って活躍してもらいたいと期待しているんだよ」 そのとき、40代半ばほどの女性が、コーヒーの載った盆を持って部屋に入ってきた。社長は女性の方に顔を向けながら、言った。 「紹介するよ。これが新しい妻。准一の母親だ」 坂本は、自分の前にコーヒーを置いてくれた新しい社長夫人に頭を下げた。社長は半年前に前夫人と離婚し、つい一ヶ月ほど前、この新夫人と再婚したのだった。 社長が再婚するという話を聞いたとき、坂本は最初、若い美人と結婚するのかと想像した。しかし、初めて見た新しい社長夫人は、むしろ前の社長夫人よりも地味な女性だった。そう言えば、夫を亡くし女手一つで子どもを育てる苦労をしてきたとかで、お嬢さん育ちの前夫人よりも気配りのできる女性だと、上役達が噂しているのは聞いたことがあった。 社長が続けた。 「さて、話はその、准一のことだ」 准一という息子の名前が出ると、夫の後ろに座った社長夫人は心配そうな顔になった。 「どうも、これが私と結婚したことがおもしろくないらしい。わたしのことをなかなかお父さんとも呼ばない。ずっと私と顔を合わせるのを避けていたようだった」 社長夫人は、申し訳なさそうな顔になって、じっとうつむいた。 「そしてとうとう。一週間前に、ひとりで生活するという置き手紙をして家を出たきり連絡が取れない。携帯も変えたらしい。大学にも行っていないようで、どうしようもないんだ」 「お心当たりは」 坂本が尋ねた。 「わかりません」 社長夫人は首を横に振った。 「連絡の取れる准一のお友達に、それとなく尋ねてみました。あんまり騒ぎ立てても帰りにくいだろうと思って……。でも、誰も知らないようでした」 「生活費はどうしているんでしょう」 「それもわかりません。どうやって生活しているのか、それも心配で……」 「そうですか。准一くんのお写真でもお持ちではないですか」 「ございます」 社長夫人は前もって用意していたらしく、一枚の写真を坂本に差し出した。 「これが准一ですわ」 「……。おかわいらしい方ですね」 「ええ……」 そこで社長が口を挟んだ。 「わたしは、前の妻との間に子どもを持たなかった。だから、まだ親子になって日も浅いが、准一をこの家のたったひとりの跡継ぎと思って大事にするつもりなのだ」 社長夫人はうつむいたままその言葉を聞いていた。血のつながらない息子をこれだけ気にかけてくれる夫というものはそういないだろう。社長は、このつつましやかな新しい奥さんを心から愛しているのだなと、坂本は思った。 「どうかね、坂本。君だから頼むのだが、准一を探してみてはくれないか。おおごとにしてあの子の将来に水を差すようなことになってはならんから、ごく内々でだ」 「はい」 「もし、うちに帰るのが嫌なら、別にマンションでもなんでも借りてやる。だから、探してとりあえずは大学に戻る気になるようにしてくれないか」 坂本はうなずいた。 「わたしの後継者として、准一の前途は洋々としている。つまらないことで人生を棒に振るようなことをさせるわけにはいかん。君も写真を見たように、准一は目立ってきれいな顔をしているんだ。つまらんことでふらふらしている間に変な女にひっかかったり、……ああ、このごろは男と言うこともあるか……、とにかく、変な女や男にひっかかったりして道を踏み外すようなことになったら大変だ。准一を探し当てたら、そういったことの無いように気をつけて見守るのも君の役目だ」 「わかりました」 坂本が返事をすると、社長は表情を崩し、傍らに座っている夫人に向かってこう言った。 「安心しなさい。坂本は頼りになる男なんだ。私はいつも、難しい仕事はこの男に頼むことにしている。坂本がいなければ、わたしはまだ副社長のままだったろうな」 「そんなことは。すべて社長の実力です」 「ほら、口もうまいだろう」 社長は笑い声をあげた。 「では、わたしはこれで」 坂本が部屋を出ようとすると、夫人は坂本に向かって深々と頭を下げた。 「准一をよろしくお願いします」 そしてドアを開こうとした坂本の背中に、再び社長の太い声が飛んできた。 「これは大事な仕事だぞ、坂本。わたしが准一を、ほんとうの息子のように思っていることを忘れるなよ」 坂本はゆっくりとふりむいた。そして黙って頭を下げてから、社長の私宅の応接室を出た。 (まえがきにも書きましたが、このお話の世界では同性どうしの結婚が合法化されており、ちまたでは男性同士のカップルが普通に存在しているのです!) |
「ほら!」 いきなり脇から、カクテルのグラスの載ったトレイを押しつけられた。 「これ持ってけよ」 「持ってけって、どこへ……?」 准一はとまどった声を出した。 「知るか」 先輩のウエイターが、意地悪そうに言った。そして脇に立って見ていたウエイター仲間と共に、とまどった准一の顔を見て、声を立てて笑った。 「いつもすましやがって」 「おまえ、T大生なんだってなあ。そんなに頭がいいなら、なんだってわかるんじゃねえのか」 むっとして准一は相手を見返した。しかし、准一がなにか言い返す前に支配人の声がした。 「なにやってるんだ。遊んでると時給から差し引くぞ」 するとふたりのウエイターは、あっと言う間に水差しを持ってフロアに出ていってしまった。 「ほら、おまえもぼんやりするな。そのカクテルを持っていくんだろう」 支配人は早口にそう言うと、忙しそうに厨房に入っていく。しょうがなく准一は、そのままトレイを持って、ぼんやりとフロアに向かって歩き出した。 「そう言われてたって……」 准一は立ちつくした。 ビルのワンフロアいっぱいを使った薄暗いパブだった。足元からの青い照明で、まるで海の底にでもいるような雰囲気が醸し出されている。准一はふと、自分が海の中で迷ったような気分になる。 10日ほど前、准一は、はじめてこの店で働きだした。 はじめに支配人が准一を「T大生だ」と紹介したときから、先輩ウエイター達のどうもおもしろくなさそうな視線は感じていた。しかし、先輩達からのいじめがひどくなったのは、准一が客に携帯の番号が書かれたコースターを手渡されたとき、どうすればいいのかよくわからなくて相談した時からであった。 先輩達はおもしろくなさそうにそのコースターを准一から取り上げて真ん中からそれを破ると、顔をゆがめて「ちょっと顔がいいと思って」と吐き捨てるように言った。それから彼らは機会があるごとに、准一に意地悪をするようになったのだった。 准一はため息をついた。時給の高いバイトはたいへんだ。これなら、昼間にやっている、引っ越しのバイトの方がずっと楽だった。 しょうがなく、先輩にカクテルの持って行き場を尋ねようと足の方向を変えたとき、准一はなにかにけつまずいた。 「わっ」 准一がよろけると、カクテルは、きれいに光りながら床にこぼれた。 「あ……」 「邪魔なんだよ!」 顔を上げると、先輩ウエイターがこっちを見ていた。准一はカクテルのこぼれた床を見た。……今、確かに足をひっかけられた。 「ほんとにとろいな。ほら、こぼれてるぞ。早くかたづけろよ」 くやしくって返事ができない。しかし、そのときだった。 「彼は、君の足につまずいたんだよ」 耳慣れない声が聞こえた。准一は振り向いた。 「僕はそこで見てたよ」 「なに言って……」 不機嫌そうな声を出して、先輩ウエイターも振り向いた。しかし、そこにあったのは極上にやさしそうな笑顔だった。 「そうだったよ。ちゃんと見てたんだからほんとうだ」 そう言ってにっこりと笑いかけられ、准一にぶつかったウエイターは、言い返しもできずに顔を赤らめた。相手がもう一度尋ねる。 「どうだった? 君。違うかな?」 「……も、もしかすると……」 先輩ウエイターが小さい声で答えた。 「まちがってぶつかったかもしれません……」 優しい声は、また言った。 「そう? まちがいは誰にでもあるね。でも、そういうときは、相手のせいにしないで自分から謝らないと」 言われて、ウエイターは横目で准一を見た。 「ほら」 うながされた先輩ウエイターは、しぶしぶ准一に謝った。 「……悪かったよ」 しかし准一は、そのウエイターのほうを見ていなかった。准一は、やさしい微笑みの人を見ていた。その人はまた、やさしく言った。 「じゃあ君、ここをきれいにしてくれないか」 「は、はい」 先輩はまるで人が変わったような素直な返事をしてその場を離れた。床を拭くものを取りに行ったようだ。 「そして君は」 そう言ってその人は、くるっと准一のほうに向き直った。 「こぼした飲み物の代わりをもう一度もらって来ないといけないね」 「……」 それは、男の人だった。年は、すごく若いわけでも、年輩なわけでもなかった。准一より十歳くらい年上だろうか。27,8くらいに見える。すらっとした体に、スーツがよく似合っている。 准一は、その人の顔から目が離せなくなった。だって、とんでもなくきれいな顔をしているのだ。やさしい栗色の髪、ミルクみたいな肌、まつげの長い目。だけどちっとも女々しくない。なんかこう、西洋の絵画に描かれた、大人の天使みたいな感じ……。 「だけど、その必要はないかも」 その人がそう言った。今まで、ぼうっと見とれていただけの准一は、意味が分からずにあせった。 「な、なにがですか!?」 その人は、こぼれたカクテルを指さした。 「だってそれ、僕の頼んだムーンライトみたいだもの」 「あ……」 やっと准一は我に戻った。 「すみません、俺、お客さまの飲み物をこぼしちゃったんですね。新しいのお持ちします」 「いいんだ。もう帰るつもりだったんだ。伝票だけもらうから」 「そんな! ダメです! すぐ持って行きますから、待っててください!」 「でも」 「あの、今、俺、すごく助かりました。……お客さまが見ててくれたおかげで。じゃないとまた怒られるところだったから……。それで、あの、だから……。もっとここにいてください!」 するとその人は、ちょっと茶色がかった瞳でじっと准一を見て、ごくかすかに微笑んだ。 「なんか。……おもしろいね、君」 「……」 「……俺は前にも、君みたいな人を知ってた気がする……」 「……?」 それからその人は、また、あの、極上の笑顔を准一に見せた。 「……君がそんなに言うなら、もうちょっといようかな」 「はい!」 「あの席に座ってる」 「わかりました。すぐお持ちします!」 「元気いいね」 その人はまた微笑んだ。准一は急に、胸が苦しくなったような気がした。 |
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