ふたりが戻ると、山拵えのじゅんを見て、健は目を丸くした。
「じゅん! 剛といっしょだったの!?」
「……ああ」
健は、剛とじゅんの顔を見比べる。
「まさか。剛と山に行ってたの。剛がじゅんを連れてったの」
剛もじゅんも、返事をしなかった。剛は、黙ったまま山拵えをほどきだした。
「無理だよ。じゅんはまだ体がほんとじゃないのに」
健は、珍しく怒った声を出した。
「剛だって、そんなことわかってると思ってた」
「オレが無理についていったのだ」
健の剣幕に驚いて、じゅんはあわてて言った。
「冬の山は、知らない人間が行けるところじゃないよ」
まだそう言う健に、じゅんは、素直にうなずいた。
「そのようだった。オレは行かぬほうが面倒がないようだ」
健は、ウサギをさばいている剛をちらっと見て、不満そうに言った。
「じゅんを連れてくなら、オレを連れてけばいいのに。山ならじゅんよりオレの方がよくわかってる」
剛もじゅんもなにも言わなかった。
あれから、じゅんは剛と山に行くことはあきらめた。
どのみち、剛とじゅんがふたりとも出かけて健をひとりきりにしておくことは、やめたほうがよかった。
じゅんは、空いた時間に健に文字を教えはじめた。
囲炉裏の灰に、じゅんが文字を書き、健はなんどもそれを手習いするのである。
はじめに「けん」「ごう」という文字を覚えたとき、健は、深い満足をたたえた瞳でじゅんを見上げた。
「見て」
「うむ」
「これでいい?」
「よく書けている」
健は、じっとその字を見つめた。
「これがオレたちの名前なんだね。オレたちの名前に字があるなんて、考えたことなかった」
「……」
「おもしろいね」
「おもしろいか」
「うん、おもしろい。……他にも、なにか教えてくれる?」
「……もちろんだ。オレの知ることはなんでも健に教えてやる」
「よかった」
健は、もう一度自分が書いた文字をながめて、うれしそうに言った。
「ごう、けん、だから次は「じゅん」だね」
冬の日が過ぎていった。
深い雪に降り込められると、3人は、屋敷のなかの小さな世界に閉じこもって暮らすより他になかった。
じゅんは、剛や健と共に毎日簡単でごく質素な食事を摂り、屋敷の中でできる仕事をした。また、暇があれは健に少しずつ字を教えた。
雪に閉ざされた小さな世界の中で、健が覚えた文字の数は増えていき、それと共に健の表情が確かに明るくなっていった。じゅんは、木を薄くけずり、炭を水で溶いて、健がものを書き残せるようにした。健は、自分の書けるようになった文字を少しずつ書きため、ときに、それを剛にも見せた。剛は面倒そうにそれを見たが、やめろとは言わなかった。
日毎に、食べ物も薪も、残りが少なくなっていった。だが、それが尽ききるまえに、雪は止み、日差しが長くなって、春がやって来た。
春の日差しと共に健が元気になってきたのが、じゅんには一番うれしいことだった。何も言わないけれど、それは剛も同じに違いなかった。じゅんは、暖かい春の日差しと同じくらいに、文字を覚えているという自信が、健に生気を与えたのだと思った。
いつか、山は生命の息吹にあふれ出していた。剛は連日山に出かけた。
暖かくなってから、じゅんは健とともに近場で食べ物を集めることにしていたが、ある日、顔色のよくなった健が、もっとうまい山菜のたくさん採れるところまで足を伸ばそうと言い出した。健の顔色のいいのを見て、じゅんは、健の歩くまま、うす緑に色づいた山の中を健についていった。
「春。山鳩。つくし。芹」
歩きながら健が声を出した。
「じゅん。今の、オレ、全部書けるよ」
「うむ」
「春が来て、オレはうれしい。……これも全部書ける」
そう言うと健は、笑って振り返った。
「春はいつもうれしいけど、じゅんと一緒だと、特にうれしい」
「……」
「オレが咳をするようになってから、剛はけしてオレを連れて出ないから……。ひとりきりで剛を待つのはすごくさびしいんだ。じゅんはいつもオレといてくれるから、うれしいんだよ」
「……」
「でも、オレ、自分でわかる。冬には、咳でこのまま息が止まるんじゃないかと思ったこともあったけど、このごろ、ほんとに具合がいいんだ。これは嘘じゃないよ」
念を押すように健が言った。それならやっぱり、病じゃないと言い張っていたのは嘘だったのかと言いたくなったが、じゅんは黙っていた。健はうれしそうに続けた。
「オレも、もうじきまた剛と一緒に山にいけるようになるよ」
ふたりが着いた渓流沿いには、おもしろいようにゼンマイやコゴミが生えていた。青く柔らかそうな芹もある。ふたりは夢中でそれを採った。
「こんなに食べられないね」
そう言いながら顔を上げた健は、めざとく、じゅんの持っている草を見て叫んだ。
「じゅん、それはだめ!」
「だめ、とは」
自分の手の中の芹を見て、じゅんが怪訝気に尋ねる。
「それは毒芹。芹と似てるけど、食ったら苦しんで死ぬよ」
死、と聞いてじゅんはあわててその草を放り投げた。そのようすを見て健はおかしそうに笑った。
「触っただけならなんともないよ。でも、じゅんが採ったものはあとでよく見なくちゃ危ないね」
「……不注意だ、すまぬ」
「しょうがないよ、はじめてなんだろ、こんなところで山菜摘みをするの。オレなんか、覚えてないくらいガキの頃からこんなことばっかりやってるもん。草のことならたくさん知ってる」
「そうか。そうだな」
「でも、見なよ」
健は、うれしそうに辺りを見回した。
「春っていいね。食べるものがこんなにいっぱいあって、あったかくって。これから菊の花が咲く頃までは、食べるものに困ることなんてないよ。それも、なんでも採りたてのうまいものが食べられるんだ」
「菊の咲く頃までは、か」
じゅんが繰り返すと、
「うん、菊が咲くと、しばらくしてあっと思う間に冬が来るけど」
健はそう答えて、それから思い出したように顔を上げた。
「秋になると屋敷のまわり中に野菊が咲くんだよ。そりゃあたくさん。じゅんは、見てないんだね」
「うむ」
「すごくきれいだよ。菊が咲くのは冬の前触れだけど、それでもやっぱり、オレは花なら菊がいちばん好きだ」
「……そうか」
「じゅんに、菊の咲くのを見せたい。今年はじゅんも一緒に菊を見よう」
「……」
その話をきっかけに、じゅんの口が重くなったようだった。だがそれにも気づかず、健はうきうきした気分のまま、背負い籠があふれそうになるまで山菜を摘んだ。摘むだけ摘むと、ふたりは、気持ちのよい緑の中に身を沈めて寝転がった。
「たまには剛もオレたちといっしょにこっちに来ればいいのに」
健が言った。
「この季節、剛は薬草を採らなきゃならないのはわかってるけど……」
そう小さく続けて、それからまた、健は楽しいことを思い出したように付け足した。
「ああ、そうだ。じゅん、春になったから、しばらくしたら薬屋さんが来るよ!」
「薬屋?」
「そう、薬屋さん。とてもいい人だよ。剛の採った薬草を買いに来るんだ。じゅんが元気になったのを見たらきっとびっくりする」
「……」
「オレ、薬屋さんが来たら、覚えた字を読んで聞かせるよ。……薬屋さんはそれにも驚くだろうし。薬屋さん、早く来ないかなあ」
楽しそうな健のそばで、じゅんは、なにか考えるような表情だったが、やがて、言った。
「その薬屋というのは、いつ来るのだ」
「薬屋さんが来る日? さあ、決まってないけど」
「市(いち)は、もうすぐだったな。それより前か」
「たぶん市よりはあとだと思う」
「そうか」
「うん。でも、それでも、もうすぐだよ」
「だが、市よりあとならば、オレはその薬屋には会えぬ」
「? どうして」
「忘れたのか。健が言ったのだぞ。春になったのだから、オレは市に行って、そこでオレを知る人間がいないか探さねばならぬ」
「え」
自分がじゅんに言った言葉をすっかり忘れていた健は、驚いて、寝転がっていた身を起こした。じゅんはとうに起きあがり、まぶしそうに草原を見回している。健は、意識を取り戻したばかりのじゅんが、身動きもままならない体で必死にどこかに行こうとしている姿を思い出し、また、じゅんが”じゅん”という名前を思い出したとき、自分が慰めのつもりで、春になったら市で素性を知る人間がみつかるかもしれないと言ったことがあったのも思い出した。
「でも……、市でもじゅんのことを知っている人には会えないかも知れないよ……」
「会えるまで探すしかない」
「もしかして、じゅん、市に出たきり、ここには戻らないつもりなの……?」
「……ああ。……この山は、健と剛の住む山だ。……オレが住むところではないと思う」
「そんなこと……」
健がかすれた声を出した。
「誰が言ったの……」
「誰に言われたわけでもない。自分でそう思ったのだ」
じゅんは、素直に言った。
「オレは、ここに来るまでの自分をなにも覚えていない。だから、今のオレには、ここでの暮らしが全部だ。健や剛とあの屋敷で過ごす以外、どうやって世を過ごせばいいのか、わからぬ」
「だったらずっと……」
そう言いかけてから、健は疑うようなまなざしで、じゅんを見た。
「……剛がなにか言ったの」
「いや……」
「剛が、オレたちのこと、なにか言ったの」
健がみつめる。
「なにか、じゅんとオレたちは違うってこと、言ったの」
健のまなざしを見て、じゅんはしばらく黙ったが、それから言った。
「違う。そのことではない」
「……」
「確かに剛は一度だけ妙なことを言ったことがある。だが、そのことを言っているのではない」
健のまなざしが、急に翳った。と思う間に、健は拳を握りしめて怒鳴った。
「オレ! 鬼じゃない!」
「……あたりまえだ」
じゅんは驚いて答えた。だが健は、また怒鳴った。
「オレも、剛も、鬼なんかじゃないよ! 人を傷つけたりしない。誰の血もすすったりしない……!」
「……わかっている」
すでに、じゅんの声は落ち着いていた。じゅんは、静かなまなざしのまま言った。
「健。この世に、鬼というものなどおらぬ。おのれのことをなにも覚えていないオレだが、ちゃんと覚えていることもたくさんある。オレは、鬼神を信じぬ」
「……」
「オレが信じるべきなのは、人の心だ」
「……じゅん」
「健。剛が、健と剛は鬼だと言ったのは、オレにはなにかわけがあることに思える。ふたりにしかわからぬわけがあるのだろう。……オレがふたりと自分が違うと言ったのは、そんな言葉が理由ではないのだ」
「……」
「……健。おまえは、知らない場所で剛のことを忘れて生きていけるか」
「……なに、突然……」
「オレにも、オレのいた場所があったはずだ。それを忘れて生きていていいはずがない。わかってくれるだろう?」
「……」
答えぬまま、すくっと健が立ち上がった。
「そんなもの」
「……」
「わかんないよ!」
「健」
「なんで今のままじゃダメなんだよ! ……誰かひとりだってじゅんを探しに山の中に来た?」
「……」
「じゅんはもう、死んだと思われてるんだよ。ううん、オレと剛が助けなかったら、ほんとに死んでたんだ!」
「……わかっている。だからふたりには感謝していると……」
「だったら! ここで暮らせばいいじゃないか! じゅんはここで生まれ変わったんだ。ここに来る前のじゅんのことなんか、オレ、どうでもいい!」
「……」
答えないじゅんを横目で見て、健は山菜でいっぱいになった背負い籠を背負った。
「健」
「オレ、先に帰る」
「健が帰るならオレも帰る」
「いい。ひとりで帰るから」
すねた健がそう言って、早足に歩き出した。じゅんは、あわてて自分も背負い籠を背負うと、健のあとを追った。
その夜、夕飯を食べる手を止めて、じゅんは剛に、今度の市に自分もついていってもいいかと尋ねた。それを聞くと、健は、箸を止めてじゅんをにらんだ。しかし、じゅんは健の方を見なかった。
「市に行けば、誰かオレの素性を知っている者に会うかも知れない」
じゅんがそう言うと、剛は、ちらっと健を見て黙ったが、結局「オレはかまわない」とつぶやいた。
健が唇を噛んでいるうちに、剛とじゅんは今度の市に出かけ、健が留守居をすることが決まった。決まったと言うより、剛がそう健に告げたのである。
「朝出て、夜には帰ってくる。咳もだいぶ収まったようだし、ひとりで待てるだろう、健」
剛が言うと、健は、さらに深く唇を噛んだ。
市の立つ日、3人は、まだ夜が明けるずっと前に起きた。剛とじゅんがこれから行く市は、ここから峠を三つも越えた、背後にこの国の領主の館を控えた豊かな郷で行われるからである。日が射してから出かけたのでは、市に着くのは昼頃になってしまう。
じゅんが館を出ると聞いたときからずっと不機嫌な健は、ふたりが出かける用意をする間も、ふくれっ面をして口を利かなかった。
暗い中で飯を食い、支度をし、剛とじゅんは荷を背負った。
「行くからな」
剛がそう健に声をかけた。じゅんは、すねてこちらを見もしない健の方に向き直り、頭を下げた。
「……世話になった。恩はけして忘れぬ」
健がなにも答えないと剛が言った。
「健」
「……」
「なにか、言え」
「……」
健がなにも言わないと、剛はもう健を相手にしかった。
「じゅん、行くぞ」
戸口を開けて剛が歩き出す。だが、じゅんも剛に続いて歩き出したとき、健が戸口を飛び出してきた。
「待って!」
じゅんが振り向き、剛が足を止めた。
「じゅん。もう戻らないなんて言わないで。ここは、オレと剛とじゅんの住むところだよ」
「……」
「じゅんだって、今の自分には、ここの暮らしが全部だって言ったろ」
「……」
「もし、じゅんの身寄りの人がみつかったなら、しかたがないと思う。そしたらじゅんは、その人たちのところに戻らなきゃならない。そんなこと、オレだってほんとはわかってる。でも、みつからなかったら、ここに戻って。今みたいにまたオレたちと暮らしてよ」
「健」
「お願いだよ、約束して。ねえ、剛、いいだろ。もし誰もじゅんのことを知っている人がみつからなかったら、じゅんをつれて戻って」
剛は、なにげない顔で健とじゅんの顔を見比べた。健が剛を見る。剛は答えた。
「……それは、オレが決めることじゃねえ」
「?」
「……それは、じゅんが自分で決めることだ。じゅんが戻ると言えば、オレは一緒に戻ってくるさ」
「じゃあ、剛はいいんだね」
「……」
「じゅん」
健は、再びじゅんを見た。健のまなざしを受け、じゅんは目を閉じ、それからゆっくりと目を開いて、答えた。
「……わかった。健」
「……」
「オレを知る者が誰もいなかったなら、オレはここに戻ろう」
「ほんと!」
健の表情がぱっと明るくなった。
「ほんとに戻って来る」
「ああ。戻ってくる」
「……ほんとだね」
「本当だ」
じゅんは、小さく笑った。
「誰もオレを知る者がいなければ、健と剛しか、オレに身寄りはないのだから」
じゅんの笑顔を見て、健にもやっと笑顔が戻った。それを見た剛が、行くぞ、と顎でじゅんをうながした。じゅんは頷き、剛とじゅんは、健の見送る中、まだ暗い中を歩き出した。
(続く)
「風の行方」も早いものでもう6回目になりました。どんどんアップしているのに書く方が追いつかないので、これはいつか連載に穴が空くぞと思い始めております(^^; 早く幼稚園が午後まで保育になって欲しい……。
(hirune 2000.4.10)
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