第5回

 翌朝、雪は止んでいた。
 剛は身支度をするとすぐに、積もった雪を漕いで出かける。
 「……いつも剛はどこに行くのだろう?」
 じゅんが健に問う。健は、
 「いろいろだけど、今日の支度は、沢だと思うよ」
 と答えた。
 「まだ根雪にはなってないから。寒鮒を取って来るつもりかも」
 「そうか……」
 「取っておけるものは取っておかないとね。いつ外に出られなくなるかわからないし」
 「……。すまぬ」
 じゅんが突然謝った。
 「え? なに?」
 「オレがいるために、剛が食い物を見つける苦労が増える」
 「ああ」
 健は笑う。
 「大丈夫だよ。食べるものはいっぱい貯めてあるんだ。こう見えて、オレたちってぬかりがないんだから」
 じきに健とじゅんは表に出て、雪を集めだした。だが、健が苦しそうなのを見て取って、じゅんは健を休ませようとした。
 「平気だよ」
 桶に雪を詰めながら、健が言った。
 「雪が降れば閉じこめられちゃうんだから、晴れてるときは働かないと」
 だが、そういう健の顔は、雪と同じように白かった。じゅんは黙ってそんな健の顔を見た。
 「あんたいて助かったよ。剛はなんでもうるさいし、すぐ怒るし。あんたと仕事するとやりやすい」
 そう言って、健は、
 「ああ、もう、あんたじゃなくて、じゅんだけど。いい名前だね、オレと似てる」
 と付け足した。
 ふたりで並んで桶を運びながら、准は、
 「健と剛というのもいい名前だ」
 と言った。
 「そうだね」
 「なにか、由来があるのか?」
 「由来?」
 「ああ。どういう字を書く?」
 「字って、さあ……」
 健は、首をかしげた。
 「字なんて読めないから、わかんないよ」
 固めた雪を水瓶に入れながら、不意に思いついて、健は尋ねた。
 「じゅんは字が読めるの」
 「……おそらく」
 「読めるの」
 「大丈夫だと思うが……」
 自分の素性すら忘れた者が文字を覚えているかどうか、少し自信がないらしく、じゅんはちょっとなにかを思い出すような顔をした。そして答えた。
 「大丈夫だ、覚えている」
 「へええ。……じゃあ、本なんかも読める」
 「ああ」
 「ふうん」
 健が、首をかしげて返事した。


 ふたりの仕事が一段落すると、健は、躊躇しながら、冊子を取りだしてきた。秋に薬屋が置いていった冊子である。
 それをじゅんに見せながら、健は尋ねた。
 「……これ読める?」
 じゅんが冊子を手に取る。
 「医方とある。これは、医術の本か?」
 「そう。薬屋さんがくれたんだ。病を治す方法がいろいろ書いてあるんだって。読んでみてくれる?」
 言われて、じゅんは、冊子を読み出した。健は、感心したように黙ってそれを聞いていた。じゅんが一区切りを読んで口を閉じると、健は、
 「……これを見て、読んでるんだね」
 本とじゅんの顔を見比べて、感心したように言う。
 「そうだ」
 「オレは見てもちっともわかんないのに。じゅんはすごいね。もっと聞かせて」
 じゅんは健の顔を見て、また、続きを読み出した。
 だが、突然、じゅんが読むのを止めた。
 「……どうしたの?」
 健が驚いて尋ねた。
 「健は自分で本を読めた方がよくはないか」
 「……え」
 「文字を覚えるのは、根気さえあればさほど難しいことではない。聞いてわかるとおり、この本は、病を治す方法と言っても、病の治るまじないみたいなことが載っているだけだ。病にはこういった気休めというものも必要だろうが、オレは、オレの怪我を治した健は、すでにこんなまじない以上の薬草の知識を持っているのではないかと思う」
 「……それは、薬草のことはじいちゃんに教わったからわかるけど……」
 「オレは、まじないなど信用できぬと思う。健の知識のほうがよっぽど役に立つ。げんに、健のおかげでオレはこうして元気になった」
 「……」
 「健は文字を覚えて、もっと立派な医術の本を読むといい。探せば、健の病を治す方法が載った本があるかもしれぬ。いや、それより、健の病を治せる医者がいるかもしれない。春になり、雪が溶けたら、健は山を下りてよき医者を訪ねてみたらどうだろうか」
 「……」
 「どうだろう」
 「無理だよ」
 健は即座に言った。
 「オレ、ここからは絶対に離れられない」
 「病を治すためでもか」
 「だから。オレ、別に病気じゃないよ。こんなの、病気のうちに入らない」
 「……」
 「じゅん。前にも言ったけど、オレのことで変なことを剛に言ったらダメだよ」
 「……告げ口などせぬ」
 「そんならいいけど」
 健が言うと、じゅんは、きっとした顔をあげた。
 「告げ口はせぬが、健はもう無理な仕事はするな。健がやらねばならないことはオレがかわりにやる。剛の仕事の手伝いも、教えられればできると思う。オレは、ただふたりの世話になっているわけにはいかぬ。体が動くようになった今、オレは出来るだけのことはする。そうせねば気がすまない」
 じゅんがこんなにたくさん話をしたのは、はじめてだった。健は、自分をみつめるじゅんのまっすぐな目に気圧されたように返事した。
 「……そう言ってくれるのはうれしいけど、自分だって怪我が……」
 「オレの怪我ならとっくに治っている」
 「まだだよ」
 「治っている」
 「……」
 自分も頑固な癖に、じゅんの頑固さに健は口をとがらせた。


 厳しさを増していく冬の中で、3人の生活が続いていった。
 自分で言ったとおり、じゅんは、健の仕事を健より先にやってしまうようになった。健の具合は相変わらずだったが、寒さのせいなのか、健の顔色はいっそう白く、心なしか透き通るようにさえ見える日さえあった。
 ある夜のことだった。その晩の咳は、いつも以上に長かった。それはいつまでも止まらなかった。床の中で目を覚ましたじゅんは、健の咳に気がつくと、起き出して、ずっと健の背中をさすってやった。健は痰が喉に絡んで、それが健本人にもどうしようもないのである。もどかしいながらも、じゅんには健の背中をさすることしかできなかった。長い時間のあと、やっと咳が収まると、疲れ切った健は、一言も口を利かずにうつらうつらと再び寝入った。とりあえず安心して、じゅんは健の側を離れ、自分の床に入ろうとした。剛は起き出してこなかった。だが、あんなに苦しそうな咳に剛も気づかないはずはない。じゅんは、自分の床にくるまったまま身動き一つしなかった剛のほうを見た。


 翌朝、じゅんが物音で目覚めると、健はまだぐっすりと寝入っていた。物音は、剛が身支度をしている音だった。じゅんは、健を起こさないように静かに、しかし、すばやく起き出して、剛に近づくと、尋ねた。
 「どこに行く」
 剛は、はじめて自分に話しかけてきたじゅんを一瞬驚いたように見たが、すぐに目をそらし、
 「……山だ」
 と答えた。
 「待て。オレも行く」
 じゅんはそう言うと、急いで用意をしだした。山に出かける剛の姿をマネして、綿入れの上に、剛か健が作ったらしい、ざらざらした荒い毛皮のついた外着を羽織り、笠をかぶり、やはり手作りの、不格好に大きな雪沓を履く。うさんくさい顔でそれを見ていた剛は、先にさっさと外に出た。じゅんは急いで剛のあとについて外に出て、
 「山で何を取るのだ」
 と尋ねた。剛は答えずに、
 「おまえの世話はしないぞ」
 と言った。
 「わかっている。迷惑はかけない。オレは、剛を手伝いたいのだ」
 じゅんの答を聞くと、剛はなんとも言えない顔をして、
 「手伝うだと?」
 とつぶやいた。
 「ああ」
 「……はん」
 剛はまたじゅんに背中を向け、雪のなかを、ゆっくりだが確かな足取りで歩き出した。しばらくすると剛は振り返って、
 「オレの足跡の上を歩け」
 とだけじゅんに言った。
 空気は冷たかったが、天気はよく、山は、あたり一面がキラキラ光っていた。だが、ここで暮らすうちに、こういった晴れの日の次が吹雪くものだということは、じゅんも気づいていた。剛は、雪に降り込められる前に罠場を見回っておくつもりらしかった。ふたりは黙って、鳥や小さな動物の足跡がある他は誰も入ったことのない、全く美しいと言ってよい雪の山のなかを歩いた。
 じゅんは、剛のする、どんな小さなことも見逃さないように気をつけた。どこにどんな罠場を仕掛けてあるのか。どこを通って歩くか。捕まえた獲物はどうするのか。また、剛はなにを持って来ているのか。
 だが、久しく遠出したことのないじゅんには、やはり剛と同じに歩くことは無理だった。じゅんが遠く遅れると、剛は、しょうがなさそうに立ち止まってじゅんを待った。そして、じゅんの姿が見えると、ちぇっと舌打ちしたそうに嫌な顔をして、また歩き出した。
 何度めかに剛の姿が見えなくなり、あせったじゅんは、少しでも剛に追いつこうと、大きく迂回した剛の踏み跡をはずれた。平坦に見える雪の中を、剛はなぜか遠回りをして上っていっていたからである。だが、しばらくして、じゅんは、なぜ剛がそこを迂回したのかを、体で理解することになった。
 無警戒に近道に踏み出したじゅんの足は雪の中をずぼずぼとどこまでも沈み、それから、ざくっと大きく剥がれた雪の固まりと共に転がって、気がついたとき、じゅんは深い雪の窪みに埋もれていた。
 助けを呼ぶのもはばかられ、じゅんはしばらく埋まったまま雪と格闘した。これしきのこと、自分でなんとか出来ると思った。だが、自分が上を向いているのか下を向いているのかもわからなくなって、じゅんは動くのを止めた。
 すぐ目の前の白い雪を見ながらじゅんは考えた。むやみに動くと余計にはまって出られないから、まずは、どこかにあるはずの手を動かして、少しずつ雪をどかす。だがいったい自分の手はどこにあるのか……。
 ……と思ったとき、じゅんは首根っこをつかまれ、頭が雪の外に出た。
 「バカヤロ!」
 自分も雪だらけになって立っていた剛が言った。
 「なんでオレを呼ばないんだよ!」
 「迷惑になると思った……」
 「最初っから迷惑なんだよ!」
 じゅんを雪からひっぱりだすと、剛はまた怒鳴った。
 「オレの言うことが聞けないなら、もうついてくるな!」
 「……すまぬ。もう手間はかけぬ」
 じゅんは頭を下げる。剛は疑わしそうにそんなじゅんを見て、また歩き出した。雪だらけのじゅんも歩き出す。剛が振り返ってまた怒鳴った。
 「雪を払え! 濡れて来るぞ」
 じゅんはあわてて体中の雪を払った。
 罠にかかったウサギを一匹見つけ、やっと剛は腰を下ろした。へとへとになったじゅんも座り込む。剛は袋から干し肉や木の実を炒ったものを取り出してかじりだした。じゅんはなにも持っていない。しょうがなく、じゅんは、座ったまま雪を手に取ると、それを口で溶かした。剛はまた、嫌そうな顔をしながらじゅんに食べ物を投げてよこした。
 「……これからも剛が山に来るときはついてきてもいいだろうか」
 肉をかじりながらじゅんはたずねた。
 「なんでだよ」
 ぼりぼりと木の実をかじりながら、剛が尋ねた。
 「いずれ、剛の代わりにオレが山に来られるようになれればよいと思っている」
 じゅんが答えると、剛は、あきれたような、バカにしたような顔でじゅんを見た。
 「おまえひとりでか」
 「……ああ」
 「……」
 「健の仕事ならもうだいたいわかる。剛の仕事も覚えられると思う」
 じゅんは懸命に言ったが、剛はもう、なにも言わない。じゅんの言うことをまともに相手にしていないらしい。じゅんは、本音を言うしかないと思った。
 「健の病がひどくなっているのだ。昨夜の咳だが……、あんなのは日中にいつもしている」
 うつむいて、じゅんが言った。
 「……おまえに関係ないだろう」
 剛が言う。
 「関係ないだって!?」
 驚いて、じゅんは顔を上げた。
 「なんで健の病がオレに関係ないんだ」
 「関係ないだろう。オレと健は子供の頃からずっといっしょだ。あの館でいっしょにじいちゃんに育てられ、じいちゃんが帰ってこなかった日からは、ふたりきりで暮らしてきた。健のことはオレのことだ。おまえには関係ない」
 「……健は、オレの命の恩人だ」
 「……」
 「剛も、そうだ。オレはふたりに感謝している。そして、おのれの名前も素性もわからぬ今、オレが知っている人間は、この世におぬしたちふたりしかおらぬ」
 「……」
 「関係なくなぞない」
 そう言って黙ったじゅんを、剛はしばらく黙って見てから、先をうながした。
 「……それで?」
 「……だが、剛の言うとおりだ。オレはふたりに助けられたよそ者に過ぎぬ」
 「……」
 「剛がオレを厄介者だと思っているのもわかっている。だが、この話だけは聞いてくれ。剛の仕事はオレがやる。剛は健についていてやって欲しいのだ」
 「……」
 「なにかあったとき、健が側にいて欲しいのはオレではなく、剛なのだ」
 「……ふうん」
 生返事をして、剛は立ち上がった。そして手早く辺りを片づけると、もう歩き出した。再び、じゅんは剛のあとをついて歩く。振り向きもせず剛が言った。
 「自分が厄介者だと知っている癖に、ずいぶん大きな口を利くんだな」
 「……悪いか」
 じゅんがはじめて言い返すと、剛は突然立ち止まってじゅんを見た。
 「……おまえ、健の病を治したいか」
 じゅんも立ち止まる。
 「もちろんだ」
 その答えに剛がにやっと笑う。
 「なあ。オレが、なんでおまえを拾ったと思う……?」
 「……?」
 不意に風が吹いて、明るい雪原の雪を舞い上がらせた。舞い上がった雪が、じゅんをめがけて吹き付けてくる。じゅんは手を挙げて雪をよけた。どこからか、剛の声が聞こえる。
 「……健におまえの血をすすらせてやるためだよ……」
 「……血を?」
 細めた目で剛を見る。剛の不思議な笑顔が目に入る。
 「そう。おまえの、赤くてなま暖かい血を」
 「……」
 「おまえ、オレたちがなんで、ふたりきりでこんな山の中に暮らしてると思うんだ」
 ますます雪が吹き付ける。じゅんはとうとう目をつぶった。
 荒れ果てた山家に棲みついた、ふたりの少年。じゅんはふたりを、自分より年下なようにも、また、遙か年上のようにも感じていた。どういうわけか、ふたりは自分とは別の時間のなかを生きてきたような気がするのである。
 世の常の理とは違ったところでふたりは生きてきたに違いない。ふたりは兄弟とも言えない。また、友達とも幼なじみとも言えない。ふたりは仲がいいどころか、いっしょにいても口も利かないでいることも多い。それでも、ふたりをふたつに分けることはできない。
 ……ふたりはなにかが同じなのだ。
 「オレたちは、この山に棲む鬼だよ」
 剛の声が言った。
 「……」
 「オレは、病の健に、おまえの血を飲ませようと思って、死にかけてるおまえを拾ったんだ」
 「……」
 「どうだ。おまえの血を健にやるか。首筋をすっぱり掻き切って、吹き出すその血を浴びるほど健に飲ませてやれるか。そうすりゃ、健の病が治ると言ったら」
 「……」
 「……どうなんだ?」
 ふっと風が止んだ。
 やっとじゅんが目を開くと、まぶしく光る雪原の中で、剛が自分を見つめていた。じゅんは、目を細めたまま剛を見つめ返した。
 じゅんの顔を見て、不意に、剛がくくっと喉の奥で嗤った。
 「なんだよ、その顔」
 「……」
 「……今の話、信じたのか」
 「……」
 「おまえ、鬼なんて、ほんとうにいると思ってるのかよ」
 剛は身をかがめ、さっきの風で飛んだじゅんの笠を拾って雪を払った。すでに辺りは、さっきまでの晴れた雪原に戻っている。
 「……ほら」
 「……」
 剛の渡す笠を受け取ろうとして、じゅんは、自分の手が震えていることに気がついた。
 「帰るぞ」
 剛はきびすを返し、そして振り向いた。
 「おまえが健のそばにいろ。おまえが健といっしょにいれば、オレは安心して山に来られる。おまえにできることなんてそんなもんだ」

(続く)


 歌番組でV6を見たいなあっ。新曲の発売、5月になっちゃったんですよねえ……。ふう。

(hirune 2000.4.1)

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