第3回

 歩き出して屋敷が見えなくなると、薬屋が隣の剛に、遠慮がちな声をかけた。
 「……なあ」
 「なんだよ」
 「健のことだが」
 剛は黙った。
 「顔色は悪いし、あの咳だ。あれは、胸をやられてるな」
 「……」
 「と言っても、俺にもどうしてやることもできねえが。あんな怪我人の世話なんかしてちゃ、余計体に悪いだろう」
 「……わかってるよ。俺だってやめろって言った。薬草取りだって、ずっと出してねえ。あいつひとりで山奥に入って咳の発作で倒れでもしたらとんでもねえから。言っても寝てもいねえから、家まわりの仕事と、水汲みくらいはさせてるけど」
 「……そうだよなあ」
 薬屋の心配そうな顔は晴れなかった。
 「それにな、健が看てるあの怪我人だが」
 「怪我人?」
 「ああ。ありゃ、崖から落ちてだいぶ頭を打ってるようだな」
 「……」
 「あのままぼんやりと寝てるばかりで気持ちが戻らなけりゃ、いくら介抱しても、結局は死ぬしかねえだろう」
 「……そうか」
 「健はだいぶ熱心に看病してるから、そう言うのもかわいそうだと思ってそれは言わなかったんだが」
 「……」
 剛は答えなかった。自分の見立てが剛の気に入らなかったのかと思い、薬屋はすまなそうな声になった。
 「おまえがあの男を助けたんだったな。すまねえ、余計なことを言っちまって」
 だが、剛は振り返って、乱暴に言った。
 「オレは別に助けるつもりであいつを拾ったんじゃねえよ」
 「……?」
 「あんなヤツ、早くくたばりゃいい。どうせ死ぬなら、早くしてもらいてえ」
 冗談でも強がりでもなく、本気の言い方である。薬屋はぽかんとして、それから言った。
 「えれえはっきりしてるな、おまえは」
 「ふふん」
 「そんなことを言うくらいなら、どうして怪我人を拾ったりしたんだ」
 剛はまた答えなかった。ただ、目をそらし、口元をゆがませて、妙な感じに笑うだけである。ときたま、剛はこんな表情をする。そんなとき薬屋は、剛から、「あんたに言ってもしょうがない」と言われた気がするのである。
 「なにかワケがあるのか……?」
 「……ワケなんかねえよ」
 「そうかな」
 「……薬屋。麓の里でオレたちの話聞いたことねえのかい」
 不意に剛が尋ねた。
 「そうさな。別にないよ」
 「……ふうん」
 「オレはあちこちに薬の売り買いに行くからな。薬草を買いに山に登るのもここだけじゃねえから、一度場所を聞けばどこでもだいたいの見当ってもんがつく。普通の人間にはわからない山道も、人が通った跡がすぐわかるんだ」
 そう言って、薬屋は剛の顔を横目で見る。
 「……ふうん」
 剛は生意気な顔をひっこめた。ふと、薬屋は別の心配を思い出した。
 「そういや、ここらの近くでご領主さんが亡くなったんだってな」
 「へえ」
 「知らねえのか。つい何日か前だぜ。来る途中、この近くの街道で聞いたばかりだ」
 「……知らねえ」
 「そうか」
 薬屋は、ちょっとためらって、それから言った。
 「ここらももしかしたら、そのうち戦(いくさ)に巻き込まれるかも知れねえぜ」
 「こんな山の中だ。戦なんかオレと健には関係ねえよ」
 「……そうかもな。だが、戦となれば物騒だ。あちこちに関が設けられて簡単には出歩けなくなる。この近くで戦が起こったら、俺は、当分はおまえらのところに行けなくなるかもしれねえよ」
 その言葉に、剛は、薬屋の顔を見た。薬屋はちょっといい気持ちである。
 「どうした、剛。俺が行かないと困るか」
 「そりゃ。薬草はあんたに売るのが一番儲かるし」
 「おいおい。金のことだけか」
 「そうじゃねえけど」
 剛は、そうつぶやいて、しばらく黙ったが、とうとう空を見上げ、ふっきるように言った。
 「あんたが来られねえんなら来られねえで、しょうがねえな。どうにかするよ」
 「……それだけかよ」
 目の前が少し開け、山を下りるための、道とも言えない道筋が見えた。恨めしそうな薬屋の声も気にせず、剛は、立ち止まった。
 「あんたはこっちだな。オレはこの上に薪を取りに行く」
 そう言うと、剛は、別れも言わず、山を登りだした。
 「おい!」
 あわてて薬屋は、その背中に怒鳴った。
 「剛! もし戦が起こってなにかあったら、健といっしょに俺のところに来い。俺はこうやっていつも出歩いているが、親父がちゃんと店を構えているから。場所は前に言っただろう。親父にもおまえらの話はしてあるし……、おまえらふたりの居場所くらい、いくらでもあるんだ。……おい、聞こえたか?」
 わかったのか、わからないのか、振り向きもせず、山の中に剛の姿は見えなくなった。
 仕方なく歩き出し、しばらくして、薬屋には、剛がなにを急いでいたのかがやっとわかった。ふと振り向くと、山をかなり登った見晴らしのいい場所に小さく、手をかざしてこちらを見送る剛の姿が見えたからである。


 背負い子の薪がいっぱいになって、剛は一度屋敷に戻った。
 薪はすでに土間一面に並べてあるが、一冬を過ごすにはまだまだ足りない。剛が新たに薪を積んでいると、それに気づいた健が、なにも言わずに草鞋を履いて、納屋に向かって走って行った。薪を置いた剛がまた山に向かおうとすると、健は、自分も背負い子を背負って立っていた。
 「……」
 「オレも行くよ」
 「いいよ」
 「行くよ」
 「また咳き込むからいいよ」
 「大丈夫だよ」
 「……」
 「薬屋さんがね、咳はひとりでに直ることがあるって言ってたよ。オレもだいじょぶだと思うんだ」
 「……。いいから、おまえは来なくていい」
 そう健に言い捨てて、剛は再び山に向かった。
 だが、再び剛が薪を背負って屋敷に戻ったとき、健の姿は見えなかった。
 「……健! 健!」
 呼んでも誰も答えない。しばらく待っても、健が帰ってくる様子はなかった。さっき、来なくていいと言ったのに、勝手に山にでかけたに違いない。
 探しに行こうかと思ったが、それにはまだ早いと思われた。じきに平気な顔で帰って来るかも知れない。そうしたら、勝手に遠くまで出るなと怒鳴りつけてやる。
 いらつく気持ちを抑えながら薪を並べだして、不意に剛は妙な気持ちがした。
 剛は、手を止めて振り返った。昼でも暗い部屋の隅に、見たことのないものが自分を見ている。剛は、それを見つめ返した。
 一度も目を開いたことのない怪我人が、痩せこけた顔をこちらに向け、ぎょろついた目を開いて、剛を見ていたのである。
 剛は、かがんでいた身をおそるおそる起こした。
 ぎょろぎょろした目が黙って自分を見ている。薄気味が悪い。そろそろと、剛は、怪我人に近づいた。それにつれて、怪我人の視線も動いた。
 とうとう怪我人の傍らに座ると、剛は、怪我人の瞳をしげしげと見た。連れてきてから、剛は全く怪我人の世話をしていないので、こんなふうに怪我人の顔を見るのははじめてだった。倒れているのをみつけたときに若い男だと思った記憶があったが、やつれ果てた怪我人の顔からは、もう年などわからなかった。
 「おい」
 乾いた声で剛は言った。
 「……おまえ、死にたいのか? オレにひと思いに殺して欲しいか?」
 怪我人は、剛をじっと見る。怪我人が薄く口を開く。言葉を発するためではない。なにか口に入れて欲しいのだ。
 剛は、そんな怪我人を見て、口元をゆがめた。
 「おもしれえな」
 誰にともなく剛はつぶやく。
 「健は、人を殺して血をすすったりしたら、それでオレたちは鬼になるって言ったけど」
 怪我人はむろん、なにも答えない。
 「おまえの方こそ、餓鬼とか言う鬼みたいだぜ?」
 口元をゆがませたまま、剛が手を伸ばした。剛の手は怪我人の喉もとを通り過ぎ、健が置いていった椀から茶匙を取り上げた。剛は怪我人から目を逸らさぬまま匙でゆっくりと水をすくい、怪我人の口元に持っていった。匙が口に届くと、怪我人がぴちゃぴちゃと水をすすった。
 剛はその様子をバカにしたようにじっと見た。しばらくして外から物音が聞こえた。
 剛はあわてもせず土間に降りた。剛が素知らぬ顔で再び薪を並べ始めたとき、健が帰って来た。
 「剛、帰ってたの」
 健は、少し息を切らせていたが、咳は出なかったようすだった。
 「これ置いたら、またいっしょに行くから。待ってて」
 「さっき、おまえはいいと言ったろ」
 「……」
 「勝手に出るな」
 剛は、空になった自分の背負い子を背負った。
 「ここにいろよ」
 「大丈夫だって。平気だったろ。また行くよ」
 なにげなくそう言いながら、健は薪を降ろしている。
 「ここにいろ!」
 剛が怒鳴ったので、健は驚いて顔を上げた。
 「オレの言うことを聞けよ。わかったな!」
 怒ったようにそう言って、剛は足早に出ていった。


 次に剛が帰ってくると、いきなり健が飛びついてきた。
 「剛!」
 「なんだよ」
 うるさそうな剛にかまわず、健は喜びに輝いた表情で叫んだ。
 「目を覚ました!」
 「……何が」
 「何って、剛が連れてきた怪我人に決まってるだろ。帰ったら目を覚ましてた。オレの顔を見たよ」
 「……そうか」
 「うん。でも、なにも言わなかった。なにか食べるかって聞いたけど、よくわからないみたいでまた眠っちまった。でもオレ、粥を煮たよ」
 「……」
 「米はないから黍の粥だけどね……。今度起きたら食べさせてやるんだ。粥が食えればもう助かるよ!」
 「……」
 「ねえ、剛、そう思うだろ? あの人、助かるよね?」
 「……バカだな」
 「……?」
 「これから冬になるって言うのに、なんの役にも立たない怪我人を抱え込んでどうするんだよ。食い扶持が一人増えたら、食い物はそれだけなくなるんだぞ」
 「……あ」
 「だから酔狂なことはやめとけって言ったんだ」
 「……」
 「おまえがどうしてもあいつの血をすすりたくないなら、それはしょうがねえ。だが、絶対に飯は食わせるな」
 「……」
 「あのままほっておけ。二、三日で死ぬだろう」
 「……」
 「はじめから、なにもしなければすぐ死んだんだ。あきらめろ」
 健はしばらく黙って、それから静かに言った。
 「オレの分を食わすよ」
 「……健」
 もうこの話はしたくないと言うように、剛が横を向いた。だが、健は言い募った。
 「剛の迷惑にはならないようにするよ」
 「……」
 「オレ、明日から山に出て、剛に負けないくらい働く」
 「……」
 「……それでももし冬の間に食う物がなくなったら、そのときは……」
 「……」
 「オレがここを出てくよ」
 それを聞いてみるみる剛の表情が険しくなった。
 「それは、オレをおどしてんのか!」
 怒鳴られて、健はびくっと身をすくめる。
 「あいつを置いて、おまえが出てくって言うのか。冗談じゃねえ!」
 剛が、手にしていた背負い子を土間に叩きつけた。それがぶつかって、せっかく積んだ薪の山がガラガラと崩れた。
 「……ふざけるな!」
 そう言い捨てて、剛は後も見ずに土間を出ていった。
 健は、泣きそうな顔で出ていく剛を見送った。
 しばらくして健が振り返ると、怪我人が、黙ってこちらを見ていた。
 「……起きたんだね」
 健はちょっと目をこすって、それから急いで椀を取ってくると、囲炉裏にかけた鍋から、ごく薄い粥をよそった。
 健は、ゆっくりと怪我人の傍らに座った。衰弱しきった怪我人は、ぼんやりと視線だけを動かした。
 「口を開けて」
 健が言う。
 わかったのかわからないのか、怪我人は、目を閉じて口を開いた。
 湯の中に点々と黍を浮かせた貧しい粥が、怪我人の口元に運ばれた。そっと口に入れられたその粥を、怪我人は飲み込んだ。


 その日、怪我人は何度もうっすらと目を覚まし、そのたびに健は水と薄い粥を与えた。それを嚥下しては怪我人はまた眠った。
 そうして日が暮れ、夜になっても、剛は帰って来なかった。
 怪我人に最後の粥を食べさせ、静かに眠り込んだのを確認してから、健は、着物の上に、山で獲った獣の皮をはぎあわせてこしらえた妙な袖無しを羽織って、外に出た。
 外に出るとあたりを見回し、それから健は、納屋の中をのぞいた。干した肉だのなめした皮だのが吊り下がった獣臭い納屋の中に、剛の気配はなかった。
 短い山の秋はもう終わりに近づいているのだろう。今夜は、冬を予感させる寒さである。健は、もう一度あたりを見回した。息が白い。空には、星が出始めている。
 健は心配そうに眉を潜めたが、さほどあわてているわけではなかった。剛がどれほど用心深いか、一番よく知っているのは健だった。
 健は、ゆっくりと屋敷の角を曲がり曲がりして、廃屋の中を見回った。
 剛の姿はなかなかみつからない。ふいに健は立ち止まってくしゃみをした。すると、
 「……なにしに出てきた」
 どこからか声がした。健がキョロキョロすると、暗がりの中から、もう一度声がした。
 「おまえは帰ってあいつの面倒でも見てろ」
 健がのぞくと、暗い中に、寝転がった剛らしい影が見えた。それを見て、健は安堵した。
 「ああ、よかった」
 「なんだよ」
 「だって、帰って来ないから」
 「オレが帰らないからなんだって言うんだよ」
 「心配に決まってるだろ」
 「ふん」
 「山でなにかあったかと思うじゃない」
 「オレがそんなへまするかよ」
 「……うん。でも」
 健は、小さな声で付け足した。
 「もし、剛まで山から帰ってこなかったら、って思うと。……オレ、ひとりで待ってるときはいつもそれ考えてる」
 「……」
 健は、足元に気をつけながら、剛の姿のあるあたりに近づいた。
 剛は抜け目なく、風の入らない場所を選んで枯れ葉をしきつめ、納屋から持ち出した暖かな毛皮にくるまっていた。健は、剛の隣に立つと、それを眺めると、あきれて言った。
 「なんだよ、剛。ここで暮らすみたいに」
 「いいじゃねえか。凍え死にたくねえからな」
 剛は、ガジガジと干し肉までかじりながらそう答える。健は、そんな剛の隣に座り込んであたりを見回した。
 「……でも、なんだかおもしろいね。家の中と全然感じが違う。ねえ、そう言えば」
 「……」
 「小さい頃はじいちゃんにおこられて、ふたりでよく外に出されたね」
 「……」
 「剛はそのころから、出されるときはいつも、ちゃんと食べるものをくすねてきてたよね」
 思い出して健はくすりと笑い、それから真面目な顔になって言った。
 「……もう四年になるんだね。じいちゃんが山から帰って来なかった冬から……」
 「……そうかな」
 「そうだよ」
 「ふうん」
 「……」
 「いいから。おまえは戻ってろよ。咳が出るだろ」
 「平気だよ」 
 そう言うと健はまた笑って、剛のくるまっている、ざらついた鹿皮のしっかりしたぬくもりの中に入ってきた。大きく崩れた屋根の間から星が見えるが、ちっとも寒くなかった。お互いの体温をすぐそばに感じながら、ふたりは星を見上げた。
 「ほんとうにもうじき大人になると、オレたちも鬼になるのかな」
 健がつぶやいた。剛が答えないと、健は、剛を見て、言った。
 「剛、オレね、このごろは、オレたちは鬼にならなくてすむんじゃないかと思う」
 「……なんで」
 「オレ、血なんてすすりたいとも思わないし、もうじき大人でも、角が生えそうとも思わない」
 「……」
 「じいちゃんは、オレたちの親のことなんかなにも話さなかった。ただいつも、おまえたちも鬼になるんだって、そう言って怖い顔したけど。でも、じいちゃんだって人の血を吸ったりはしてなかったと思う。あのころは小さかったからなんでも信じたけど、今思うと、角のことをのぞけば、じいちゃんが鬼だったなんて信じられない」
 「……」
 「このごろは、じいちゃんはオレたちに嘘をついてたんじゃないかと思うんだ。嘘って言うか……、あのころはオレたちがまだなにもわからい子どもだったから。でも、ほんとうのことを教えてくれる前にじいちゃんは死んじゃったんだ。……ねえ、剛はどう思う? じいちゃんの話、なにがほんとでなにが嘘だったと思う?」

(続く)


「風の行方」は結構長くなりそうです。10回以上になるのは確かかな。

(hirune 2000.3.18)

「風の行方」トップに戻る メインのページへ 第4回へ