「……そうだよ」
剛がふてくされたように答える。
「おまえだって、じいちゃんの烏帽子の下の角を見せられたこと、覚えてるだろ? オレたちが、まだほんの小さなガキだったときのことだけどよ」
「……」
「あのとき驚いているオレたちに、じいちゃんは、おまえたちふたりも、大人になれば角が生えるんだって、そう言ったじゃねえか」
「……」
「……おまえたちは人とは暮らせねえ」
「……」
「さびしい山に籠もって、人と交わらず、鬼は鬼だけで暮らすしかねえんだって、じいちゃんはそう言っただろう?」
健は黙ってそれを聞いていた。さっき男が助かりそうだと言ってあんなにうれしそうだったのに、すっかりうなだれている。そして、急に口元を抑えると咳き込み始めた。
剛は、すっかり体を起こして、そんな健を不満そうに見ながら、独り言のように言った。
「じいちゃんは、あのとき、人と交わって暮らせば、鬼はきっと人の血を吸うようになるって言ったよな。鬼は人の血をすするもんだって、そう言ってたよな」
「……」
「健の咳には、どんな薬草も効かねえ。……だったら、健の病には、血が必要なんだよ。人の血をたっぷりすすれば、そんな咳はきっと治るんだ……。いや、治るに決まってる。健。鬼に必要なのは、人の血なんだよ!」
「……」
「だから、おまえはあいつの血を飲まなきゃならねえ」
そういう剛の声には、相手に有無を言わせぬ強い調子があった。だが健は咳き込みながら、懸命に首を横に振った。
「……そんなのいやだ……」
「いやだって言ったってしょうがねえんだよ! 明日には、あいつの喉をかっ切って、血をすするんだ。いいな」
「いやだ……」
咳の下から健が叫んだ。
「……オレ、血なんかいらない! 咳なんか治らなくていい!」
「健!」
「絶対にそんなことしない! そんなことをしたらきっと、オレも剛もその場でほんとうに鬼になる!」
「……」
「オレ、たとえいつか角が生えたって、絶対に人の命を取ったりしない」
「……」
「オレ、そんなことするなら死んだ方がましなんだ!」
闇の中にも、健の必死な瞳がはっきり見えた。剛は一瞬黙って、それから怒鳴った。
「……勝手にしろ!」
腹立たしげにそう言うと、剛は夜着をひっかぶってまた横になった。
健は、咳き込みながら、そんな剛の枕元に座ったままだった。やがて、剛の耳に、咳に混じった健のつぶやきが聞こえた。
「……剛……」
剛は、答えない。
やがて、健が咳をしたまま立ち上がった。
夜着の下で、剛がぴくりと体を動かしかけた。
だが、剛は結局なにも言わず、起きあがりもしなかった。
闇の中で、健が隣の部屋に戻り、ときどき小さく咳き込みながら、男の傷口の薬を取り替えてやっている気配がした。
ひとりの男が藪をかきわけて歩いて来た。
竹を固く編んだ大きな箱を背負い、こざっぱりした旅装に、揉み烏帽子をかぶっている。年は二十歳をいくつか過ぎたところだろうか、一日歩いて来たのだろうが、その足取りはまだ確かである。
男が立ち止まってつぶやく。
「……やっと着いたか」
遠く木々の向こうに、剛と健の住まう、朽ちかけた館の屋根が見えていた。
屋敷の手前で男が立ち止まり、盛りの野菊を眺めていると、ちょうど水を汲んで帰ってきた健と顔を合わせた。
人の気配に、一瞬警戒した表情の健だったが、薬箱を背負った男の姿を確認すると、顔がぱっと明るくなった。
「薬屋さん!」
肩に担いだ水桶を置くと、健はうれしそうに薬屋に駆け寄った。
「よう、半年ぶりか。ここは菊がすげえな」
薬屋が、きさくな笑顔を健に向ける。
「元気かい。……と、なんかおまえ、痩せたなあ」
そう言いながら、薬屋は、心配そうに健の顔をのぞき込んだ。
健は、うつむく。
「全く、薬採りが病気になっちゃ、笑い話じゃすまねえぜ」
「……どこも悪くないよ」
「……ならいいんだけどよ」
「……うん。大丈夫だよ」
再び水桶を担ぎ、健と男は並んで歩き出した。健が、歩きながら小さく咳をする。男は、そんな健を横目で見て、言った。
「咳が治らねえな」
「……」
「無理するなよ。胸の病も最初は咳からだ」
屋敷の土間に向かいながら、健が小さな声で尋ねた。
「薬屋さん」
「……んん?」
「……胸の病って、かかったら、絶対治らないものなの?」
男が、ちらりと健を見る。
「いや、そう決まったもんでもないよ」
「……」
「とりたててなにもしないうちに、いつのまにか治ってる、そういうしぶといヤツもいるにはいるんだ」
「……へえ」
「いくら大事にしてもダメなことがたいがいだけどな。助かるのは気の持ちようか、もともとの体が強いのか、俺にもわからねえ」
「ふうん」
病がいつのまにか治ることもあると聞いて、健の顔色が少し明るくなったようだった。
暗い土間に入ると、健はすぐに水桶の水を大きな瓶にあけ始めた。
薬屋は背負った荷を降ろすと、板敷きの向こうに誰かが寝ているのに気がついた。
「……おい」
薬屋の声が低くなる。
「どうしたんだ。剛のヤツ、どっかで怪我でもしたのかい」
健は、薬屋の視線の先に気がついて、水をあける手を休めた。
「違う」
「違うって。じゃ、あれは……?」
「剛が怪我人を拾って来たんだ。山で崖から落ちて、倒れてたんだって」
「……」
「血止め草で血は止めた。傷口からすごい熱が出たけど、それも薬草で熱を取ってるうちに、この頃はだいぶおさまって来たんだよ」
健の口調が、自慢そうだ。
「……ほう」
薬屋は話に興味を持ったらしく、わらじを解き、足をすすぐのもそこそこに、怪我人の枕元に陣取ると、男の額に手を当てたり、湿布の具合を見たりしはじめた。健も、新しい水を茶碗に入れて、やってきた。
「こりゃ、崖から落ちただけかい」
「う、うん……」
刀傷のことは言わない方がいいような気がして、健は言葉を濁した。
「ずいぶん高いところから落ちたから、体中すごい怪我だけど……」
「そうか。怪我して何日くらい経つ」
「十日近くなるかなあ……」
「眠ったきりか」
「うん。ときどき口を水でしめしてやる」
そう言いながら、健が、水を茶匙に入れて、怪我人の口元に持っていった。垂れた水が唇にたまり、少しずつは口の中に入る。
「なるほどな……」
「この人助かるかなあ。……薬屋さんはどう思う?」
「ん? そうさな」
薬屋は考える表情になったが、心配そうな健の表情を見ると、安心させるような笑顔になった。
「ああ、だいぶいいようだ。ここまで世話するのは大変だったろう。おまえがやったのか」
「うん」
「こんな山の中に住みながらえれえもんだな。健、おまえは、医師(くすし)になれるな」
大袈裟に誉められて、健は、にこにこする。薬屋は、まだ怪我人の顔をみつめている。
「……どうしたの?」
「いや。……こいつはさむらいかい?」
「わからない。でも、もとは、立派な着物を着ていたよ」
「ふうん……」
薬屋が生返事を返したとき、外から元気な声が聞こえた。
「よう、薬屋!」
暮れかけた濡れ縁の外には、背負い籠をしょい、片手に死んだウサギの耳を握った剛が、こちらを見て笑顔で立っていた。
「さすが薬屋だ、ここに来る頃合いを見計るのがうまいな。今まで採った薬草の干したのがたまってる」
「そうか、そりゃ楽しみだ。暗くなる前に見せて貰おう」
薬屋もすぐ立ち上がって外に出る。
「おまえの採る薬草はいつも一級品だからな。ここまで足を伸ばす甲斐があるってもんだ」
それを聞くと、剛はいたずらっぽい顔になって、薬屋を見て言った。
「薬草ばかりじゃねえ、こないだ来たとき薬屋が欲しいって言ってた白茸、あれをたくさん見つけたんだ」
「ほんとかい」
「ほんとだよ。おい、健」
「なに」
「ウサギだよ、おまえ、さばいとけ。薬屋に一度これを食わせてやろう」
「……うん」
健に死んだウサギを手渡すと、剛は機嫌のいい顔を薬屋に向けた。
「薬屋、今日はもう遅い、ここに泊まって行け」
「いいのか?」
薬屋は怪我人をちょっと気にしたが、剛はまるで気にしていない顔で答えた。
「いいに決まってる」
「そうか、じゃあ……。悪いがそうさせてもらうとするか」
すぐに、剛と薬屋は連れだって干した薬草をしまってある納屋に向かって行った。
この気のいい薬屋は、三年ほど前、剛が薬草を市に出しに行ったときに偶然知り合った相手だった。そのとき薬屋は、剛が、人の行かない山奥までおそれずに足を伸ばし、滅多に手に入らない薬草を取って来ることを知って、それからは、剛と健の住まいまで薬草を買い付けに来るようになったのである。
薬屋は、人を警戒させない、やさしい男だった。剛が、健をのぞいてたったひとり、気を許している人間でもあった。
怪我人が来てから毎日不機嫌だった剛も、薬屋が来たのを知って機嫌が直ったようだった。健はほっとして外に出た。獣をさばくのは不得手な仕事だったが仕方がない。健は、ウサギの耳をつかまえて持ち上げると、目を閉じたウサギに謝った。
「……ごめんね」
「これが、さっきおまえが取ってきたウサギか」
椀の中の肉片を箸で取り上げて、薬屋が尋ねる。
「ああ、そうだよ。食ったことないかい」
「ない」
「食って見ろよ、うまいぜ」
「……よし」
薪がはぜる囲炉裏の傍らに座った薬屋が、思い切ったようにそれを口に入れた。入れて、もぐもぐと口を動かす。
「どうだ、味は」
「うーむ」
薬屋は首をひねって、
「妙な心地だな。獣の肉なんて食ったことねえからなあ。烏賊とか、蛸ならあるけどよ」
と言う。
「なんだよ、それ」
剛が尋ねる。
「おまえ、烏賊や蛸を知らねえか」
「知らねえ」
汁をかき込みながら剛が答えた。
「オレも健も、山から出たことねえもん。春と秋に市(いち)で薬草を売る他は、せいぜい里の村に、村で取れる物を買いに行くくらいだ」
「そうか」
「里に行ったって、誰もオレとなんか口も利かねえし。ただ、金とものと取り替えるだけだけどよ」
「……そんなんで、よく金を騙し取られないな」
「へん」
バカにしたように、剛が言った。
「あいつらにオレらを騙す度胸なんかあるか。いつもびくびくしやがって……」
「? なんだ、それ」
剛の言い方になにかを感じて、薬屋が苦笑しながら聞き返した。
「……なんでもねえ! ……おい健、そいつのことはいいから、こっちに来ておまえも食えよ」
「……うん」
健はやってきたが、自分のぶんに少し口をつけると、それでまた怪我人のもとに立っていった。
「健はずいぶん熱心に怪我人を看てるんだな」
薬屋が剛に言った。
剛は、剣呑な目つきをちらっとあげて怪我人と健をにらんで、ふん、と鼻を鳴らした。
一度箱の中の物を取り出してから、薬屋は、剛から受け取った干した白茸の包みを大事そうにしまった。その上に薬草を束ねた物を順にしまい、別に商売物の薬の包みをきちんと重ねる。箱の中身は整然として、物によってちゃんと決まった位置があるらしかった。
薬屋が箱の中に荷を詰めるのを手伝いながら、健は、薬屋の荷の中に何冊かあった冊子を手に取った。そして、しばらくそれを見ている。
「どうした」
そんな健に気がついて、薬屋が声をかけた。
「ああ、それか」
健が手にしていたのは、大きめの字に、絵もついた、薄べったい冊子であった。
「これ、なに。なにが書いてあるの」
健がしげしげと冊子を眺めながら尋ねた。
「それはな、誰でも簡単に病を治すやり方が書いてあるんだ」
「ええ」
健が驚いて顔をあげた。
「そんな方法があるの」
「まあな」
薬屋はそう言ってにやりとする。
「あるようなないような。そういうのを気休めに知りたがる客も結構いるから、持って歩いてるんだ」
「へえ」
健は、よくわからぬながらも感心して冊子を眺めている。薬屋はそんな健の姿を眺めた。
「おまえ、字が読めるのか」
たずねられた健は、逆に薬屋にたずねた。
「薬屋さんは、読めるの」
「簡単なものならな。難しい字は読めねえ」
「ふうん」
健は、まだしげしげと冊子を眺めている。
「なんだかずいぶん気になるみてえだな。欲しいのか?」
薬屋がそう尋ねたとき、うしろから声がした。
「……いらねえよ、そんなもの」
いつのまにか、背負い子を手にした剛が戸口に立っていた。
「いらねえだろう、健」
だが、健の顔を見て、薬屋が言った。
「いいよ、これは健にやろう。たいしたものじゃねえが、馳走になった礼だよ」
「……いいの?」
健は冊子を受け取ったが、剛は不機嫌そうである。その顔を見て、
「おっと、一番大事なことを忘れるところだった」
薬屋が急に大声を出した。そして、懐から丈夫そうな銭入れを出す。
「白茸と薬草の代だ。また頼むぜ」
そう言うと、薬屋は、銭入れの中から、銀色に光る金を何枚も出して、剛に渡した。
「すげえな」
金を受け取って、それを眺め、剛がため息をついた。
「いつもの倍はある」
「ああ。もちろんだ。白茸ってのは滅多に取れないし、金持ちが珍重するものなんだ。おまえの取った白茸は、みんな極上品だったよ」
「……そうか」
剛は考えてから、顔を上げた。
「じゃあ、そいつはこの金で買うよ。どれくらいの銭だ」
そう言いながら、剛は健が手にしている冊子を顎で指した。
「それは、俺が健にやったんだから、いいよ」
薬屋は言ったが、剛は聞かなかった。
「オレははっきりしねえと嫌なんだ。金はちゃんと払う」
剛が言い張るので、薬屋はしょうがなく剛から幾ばくかの金を取った。
金を受け取り、薬箱を背負いながら、薬屋は笑う。
「全く、おまえは強情だな」
「……」
「今度は春に来るよ。それまでにまたいい薬草を取っといてくれ。わかってるな、いいのは全部俺に売るんだぜ。市に出すのは半端もんでいいんだ」
「ああ、わかってる」
「じゃあな、行くぜ」
「待てよ、オレも山に行くから、そこまでいっしょに行こう」
剛も、背負い子を背負って薬屋について行く。健が、ふたりを見送った。
「健、体に気をつけろよ」
薬屋が振り返って言った。
じきに、薬屋と剛は、野菊の花陰に見えなくなった。
(続く)
えーっと、言わなくてもわかると思うんですが、気のいい薬屋さんはイノッチですね(笑)。
(hirune 2000.3.11)
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