第1回

 朝霧のなかに、崖を降りる人影が見えた。
 はるか下は渓流。一歩足を滑らせれば、命も危ない断崖である。だが、その人影は器用に岩場に足をかけ、露に濡れた草をつかみ、みがるく崖を降りてゆく。
 人影は、じきに崖の途中の岩にしがみつくように生えた古木にたどりついた。
 一度ゆっくりその木を見上げてから、人影は、そっと気をつけながら古木に上りだす。幹を上り枝に辿りつくと、彼は腰に差した短い刃物を取り出した。今度は、枝についた白いものをその刃物でこそげ取って、それを、腰の脇に下げた籠に入れる。
 しばらく人影が夢中で仕事を続けていると、岩の影から、小さなイタチが驚いたような顔をのぞかせた。
 人影は、イタチなど目に入らぬように作業を続ける。イタチは、興味深そうにその姿を見守った。
 それは、痩せた体つきの、敏捷そうな若者であった。長い髪をうしろで乱雑にひとつにまとめ、細い腕や脚は露わに、袖無しの短い着物を身につけている。
 しばらくして、
 「……これだけ取れば」
 若者はつぶやくと、用心しながらも、かろやかに岩場に飛び降りた。
 だが、彼が来たときと同じに崖に手をかけ、元来た方へ戻ろうとしたとき、どこからか人の叫び声が聞こえ、それと共にざっと羽音がして、鳥の群が崖の上の木立からいっせいに空に飛び立った。
 若者は動きを止め、眉をしかめて崖の上を見上げた。
 崖の上から渓谷に響きわたる、男たちの叫び声、罵声、争い合う気配。
 そのうち、大きな物音とともに、木々の合間から、大小の石くれと共に人間の体が落とされたのが見えた。それは若者からはよく見えない岩の向こうに転がり、ちょっとして、渓流に落ちた気配がした。
 だが、それだけではない。すぐにもうひとり、人間の体が崖に飛び出した岩に当たるごとに撥ねるように転がりながら、落ちてきた。
 一瞬身構えた若者は、その体が目の前を落ちていってたのを見ても声一つたてずに、じっと古木の陰に身を寄せたまま崖の上を用心深くうかがった。
 木の間に、崖の下をのぞく、髭面の顔がちらりと見えた。岩場に潜んだ若者の表情が、ますます険しくなる。若者は、じっとその場で息を殺した。

 どのくらい経ったのか、物音がしなくなってずいぶん経つ。さっきのイタチがどこからか再び顔をのぞかせた。それを見て、若者は再び崖の上を見上げた。すでになんの気配もない。見えるのは、なにごともなく静まった木立と、その向こうに広がる曇った空だけである。
 若者は、今度は身を乗り出して崖の下をのぞいた。さっき、人の落ちた水音が一度しかしなかったのを覚えていたのだ。
 ちょうど、あとの人間が落ちたあたりの崖の途中に、上からは陰になってよく見えない大きな岩の突起があるのを、若者は知っていた。
 ちょっとだけ考えてから、若者は再び敏捷に崖を下った。
 崖を回り込むと、岩の突起にひっかかった人間が見えてきた。それは、やはり、今若者の目の前を落ちていった男に違いなかった。男は血糊にまみれ、身動き一つしない。おそらくもう死んでいるのだろう。
 岩を伝って死体の側に近づくと、若者は、平気な顔で死人の顔をのぞきこんだ。
 ぐったりと目を閉じている男の風体は、確かに侍らしかった。よく見れば、彼の体が血だらけなのは崖から落ちたせいだけではなかった。体に何カ所も斬りつけられた深い傷跡がある。
 若者は、まじまじと血だらけの死体をみつめると、不意に舌を出し、その首筋の血糊を、ぺろりとなめた。
 血をなめて、若者は小首をかしげる。まるで、ものを食べて、食った物がうまいかどうか考えている、そんな表情である。
 どうやら、人の血なんてたいしてうまくもないと若者が結論づけたらしい、そのとき。
 死体と思ったその体が、かすかに動いた。
 若者ははっとして手を引き、血だらけの男をみつめた。
 「うう……」
 男がうめき声をあげる。若者は、眉をひそめ、血だらけのその男を警戒してみつめた。だが、それだけだった。男は、苦しげに顔をしかめたまま、また動かなくなった。
 若者は、伺うように男をみつめていた。しばらくそうするうちに、傷ついた男をみつめる若者の表情は、なにかを思いついたらしい笑顔へと変わった。



 山あいに、朽ちかけた屋敷が見える。
 屋敷のまわりは、一面の野菊の群。
 白、黄、紫と、可憐な小菊に取り巻かれたその屋敷は、遠目には、どこか優雅な面影のある建物のようにも見えた。おそらくもとは、由緒のある家柄の者が家人と共に暮らしていた屋敷であるには違いない。
 だが近くに寄れば、それが今はほとんど朽ち、破れて草が生え、すでに廃墟と呼んでもいいことがわかった。これはすでに過去の遺物なのであろう。こんなところにまだ人が住むとはとても見えない。
 だが、そんな屋敷にも、人は住んでいた。
 ひとり、屋敷の中から出てきた人影が、菊の隙間になにかをみつけて、歩みをそっと止めた。
 そこにいたのは、小さな木鼠だった。菊の花を荒らしたものであろう、あたりにうす紅の小さな花びらが散っている。人間にみつめられ、木鼠は、急に動けなくなったとでも言うように、じっとその場にすくんで、人間を見返した。
 人影は、落ちた椎の実をみつけるとそれを拾い、木の実を乗せた手のひらを木鼠に向けた。木鼠は、不思議そうに首をかしげ、それからおそれもせずに近寄ってくると、その手のひらから木の実を取る。
 「……」
 人間が、うれしそうに表情をゆるめる。
 木鼠は、そんな人間の顔を見ながら、忙しく口を動かした。
 「かわいい……」
 そんなつぶやきが、人間の口からこぼれた。
 だが、それもしばしのことだった。
 なにかの気配を感じたらしい。
 木鼠は、その小さな頭をはっと持ち上げると、またたくまに、野菊の群の中に姿を消した。
 「……健」
 うしろから不機嫌な声が聞こえた。
 「なんだよ、その格好。どこに行くつもりなんだ」
 健と呼ばれた人影は、返事をしない。それどころか振り返ろうともしなかった。
 「遠出するなと言ってるだろ」
 怒ったようにそう言うのは、朝方、崖で見かけた、小柄で敏捷な若者だった。
 「……」
 答えずに、健と呼ばれた方は、空の背籠を背負ったまま、立ち上がろうとする。
 しかし不意に、健は咳きこみはじめた。そのまま、健は立ち上がれずに、座り込んで咳きこみ続けた。もうひとりは、不機嫌そうに、咳きこむ健を見下ろしながら、つぶやいた。
 「だから、おまえは家の中でおとなしくしてりゃいいんだよ」
 咳が止まると、健は手の甲で口元を拭いながら、まだかすれた声で言い返した。
 「ほっとけよ、こんなのなんでもないんだから」
 「どこが」
 「ひとりでここで剛を待ってるの、嫌いなんだ。一緒に行った方がいい」
 「……」
 「……いつも剛ばっかり山に出てたいへんだろ。オレも手伝いたいんだ」
 さっきの木鼠にも似た黒い瞳を上げて、健が言った。
 「ふん」
 相手は、バカにしたように返事する。
 「おまえなんかのことあてにしてねえよ。オレひとりのほうがよっぽど気楽だ」
 「……」
 「オレひとりならどんな山奥でも行けるしな。健がいっしょだとそうは行かねえ」
 「……」
 そう言う相手を不満そうな顔で見た健は、急にはっとした声をあげた。
 「剛! ……どうしたの、血が出てる!」
 突然の健の言葉に、剛と呼ばれた方がかえって驚いて、自分の体を見た。健は剛にかけよると、剛の血の付いた腕や体を見回した。
 「腕も足も擦り傷だらけじゃないか。どこまで行ってたんだよ」
 「なんでもねえよ」
 面倒そうに剛が言う。
 「だって。血が着物にまでべったり……」
 そう言うと、健の声がみるみる心配そうになった。
 「こんなにたくさん。これ、擦り傷の血じゃないよ。剛、どうしたの、どこ怪我したの!?」
 「ああ、この血のことか。……運ぶ途中でついちまったんだな」
 「……運ぶ?」
 健の怪訝な声に、剛はにやっと笑った。
 「ちょっといいものを拾ったんだ」
 「……」
 「裏に置いてある。健、来いよ」

 剛の後について屋敷の裏手につくと、健は驚いて叫んだ。
 「誰か倒れてる!」
 「うん」
 平然とした顔の剛を置いたまま、健は、あわてて血だらけのまま野菊の中に横たえられている男に駆け寄った。男は、顔も、着物も血だらけである。一目で大怪我をしていることが見て取れた。男の側に跪いて、健は剛を見上げた。
 「もしかして、剛についてる血は、この人の血なの」
 剛がうなずく。
 健は、おそるおそる男傷口に手をふれた。男は、顔をしかめたまま、身動き一つしなかった。
 「……まだ少し血が出てきてる」
 そう言いながら、健は男の胸に耳を当て、鼓動を確かめた。
 「やっぱり生きてる」
 「ああ」
 剛が気のない返事をする。
 「ああじゃないだろ。なんでこんなところに放って置いたの。中に運んで手当しなきゃ」
 「……なんで」
 「なんでって、この人怪我して死にそうなんだよ」
 「いいじゃないか、死んだって。……あのまま山にほっといたらどうせ死んだんだから」
 「……」
 「だけど、そのままじゃもったいないから、苦労してここまで持ってきたんだぜ」
 「もったいない?」
 「そうだよ。こいつの血、おまえに飲ませようと思って」
 なんとなく得意げに剛が言う。だが、その言葉を聞くと、健はとがめるように剛をみつめ、立ち上がった。
 「……剛……」
 「なんだよ」
 「まさか、剛がこの人にこんなことしたの……?」
 剛は、ちょっと眉をあげた。
 「オレが? こいつを?」
 「そう」
 「やるわけねえだろ」
 「嘘つけ。剛は狐とかウサギとか平気で殺すじゃない」
 「狐やウサギといっしょにするなよ。これは人間だぞ」
 「そうだよ。人間だよ」
 「だからなんだよ」
 「怪我人なんだ。手当しなきゃいけないよ!」
 「手当だって?」
 「そう」
 「バカなこと言うなよ。これは、おまえの薬なんだ。おまえに血を飲ませようと思ってオレがわざわざ山からかかえて来たんだぞ。すげえ重かった」
 「なんだよ……。薬って」
 健が聞き返した。心なしか、その声が小さい。
 「だから。人の血を飲めばきっとおまえの体はよくなるんだよ。わかってるだろ? オレたちは……」
 剛が最後まで言い終わらないうちに、健が大声を出した。
 「オレ、中に連れてく!」
 「……健」
 「死にそうな人をこのままにしておけないよ」
 剛は、健の言葉を無視するようにそっぽを向いた。
 「いいだろ? オレが手当する。剛に迷惑かけないから」
 剛はなにも答えない。
 健は、そんな剛にかまわずに、男を背中におぶい、ひきずるようにして、屋敷に向かった。
 「……健! 人のことより、自分の体を考えろ!」
 健の背中に、剛が怒鳴る声が聞こえた。



 怪我人を寝かせ、傷口を洗い、血止めの薬草を貼り、健はつききりでその世話をした。剛は始終不機嫌だったが、怪我人の世話に夢中になっている健は、剛のことなど気にとめなかった。夜が更けると、剛はさっさと先に寝たが、健は寝ようとせず、怪我に張り付けた薬草がすぐ乾くのを、丁寧に取り替えていた。
 「……おい、……もう寝ろよ」
 住める場所などほとんどない荒れ屋敷である。怪我人を寝かせた部屋が、この屋敷のなかでは一番ましな部屋だった。すぐ隣の囲炉裏を切った板敷きに夜着をひろげて横になっていた剛が、身を起こすと、とうとう健に声をかけた。
 「剛、まだ起きてたの」
 突然の剛の声に驚いて、健が言う。
 「起きてるよ。そこでガサガサやるから寝られねえよ」
 「ああ……、ごめん」
 健は男から離れると、剛の側にやってきて、うれしそうに言った。
 「……ねえ、あの人、血が止まったよ」
 「へえ、死んだんじゃねえのか」
 剛がうそぶく。
 「死なないよ! もしかしたら助かるかも。もし助かったら、それは剛が助けたんだよ」
 「……なんで」
 「だって、あの人を山から助けてきたのは剛だろ」
 「……へん」 
 剛はまた夜着をかぶって目を閉じ、寝ようとするみたいにした。
 「助かるといいなあ」
 健がつぶやく。目をつぶったまま、剛がつぶやく。
 「……おまえ、変だぞ。こんなことにすごくムキになって。あんなヤツを助けるってことがそんなにうれしいのかよ」
 「うれしいよ」
 健が言う。
 「人の命を助けられたら、うれしいじゃない」
 「……」
 「……オレでもなにかの役に立つって気がする」
 「……」
 「オレって、小さい頃からいつも役たたずだったろ」
 「……」
 「いつも剛にすまなくってさ」
 「……」
 「ごめん。ほんとは剛の役に立てればいいんだけど、なんでも剛の方がうまいし、それにこのごろはずっと……」
 「いいんだよ」
 剛が急に身を起こし、きつい声を出した。
 「そんなこと、関係ねえだろ」
 「……」
 「オレたちは、ここでふたりで生きていくしかねえんだから」
 「……」
 「……オレら、里になんか住めねえ。わかってるだろ」
 「……」
 しばらく、健も剛もなにも言わなかった。
 「オレたちが、鬼だから?」
 健がぽつりとつぶやいた。

(続く)


 うー、久しぶりの連載です。これ、ほんとーに書くのに時間がかかってます。もちろん、はじまっちゃったからにはお休みしないで毎週アップしたいとは思っているのですが……。

(2000.3.4 hirune)

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