JUST FOR YOU

(第1回)

 ゆらり。
 あたりが揺らいだような気がして、博は周りを見回した。准一も、訝しげに周りを見回している。准一は、博に胸ぐらをつかまれたままだ。
 二人は、人気のない夜の公園にいた。
 蛍光灯の明かりが二人を照らしている。二人がいるところからは、歩道は見えず、木立を通して、ライトをつけた車が走っていくのが見えるだけだった。
 しかし。博は道路の方を見て、あることに気が付いた。
 車はみんな止まったままだ。何台もの車が停止したままでいる。
 さらに周りを見回し、上を見た博は、准一の胸ぐらをつかんでいた右手を離してしまった。
 静止している。
 さっきまで、蛍光灯の光を中心に、蛾や羽虫が円を描くように飛び回っていた。それがみな空中で静止している。羽ばたいているところをとらえた写真のように。
 准一は、自由になり、一歩離れると、耳に手を当て、つぶやいた。
「なんも聞こえん」
 准一の声に、博ははっとした。
「本当だ」
 一切の音が消えていた。准一と博の声以外の音はなかった。二人は完全な静寂の中にいた。
「どないしたんやろ」
 准一は不安そうに博を見た。ついさっきまで二人の心にあった感情は、すでにほかの感情に取って代わられていた。博も准一を見た。
 その瞬間。
 あらゆる光が二人から遠のいていき、完全な闇が二人を包んだ。

 あの日。
 六月半ばのあの日、博はどうすればいいのかわからなくなった。腹を立てもした。妹にも、気づかずにいた自分にも。
 その日、博が帰ってきた時、妹の幸(さち)は入浴中だった。
 スーツの上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめて、冷蔵庫の麦茶をコップについでいると、テーブルの上に置いたままの通帳が目に入った。家計用の通帳だ。博が幸に預けているものだ。
 博は、麦茶を飲みながら、幸のやりくりぶりを拝見しようと、ぱらぱらとめくって数字を見ていった。
 見ていくと、四月以降は残高が多くなっていた。
 幸が高校三年生になってからだ。
 電気代もガス代も、値下げになったという話は聞かないが。そう思って、毎月引き落とされているものの金額を調べていくと、毎月引き落とされているはずのもののなかに、四月になってからは引き落とされていないものがあった。引き落とされたのは三月が最後だった。
「お帰りなさい」
 パジャマを着て、頭にタオルを巻いた幸が出てきた。パジャマには、芽を出したばかりの双葉がまき散らされている。今までは、そのパジャマを見るたびに、妹はまだまだこれからの子供なんだ、と思っていた。
 しかし、今日は違った。
 博は、じっと幸を見た。
 幸は博の手にある通帳を見て、
「けっこう節約してるでしょ」
と言い、自分もコップに麦茶をついだ。
「ちょっと座ってごらん」
 博は努めて冷静に声をかけたが、幸の顔には不安が浮かんだ。
「どうしたの」
 幸は、テーブルを隔てた席に座り、博の顔色を窺った。博は、通帳を開き、幸の方に向けてテーブルに置いた。
「どうして授業料が引き落とされてないんだ」
 幸は黙って通帳を見た。
「どういうことなんだ。免除してもらったのか。授業料ぐらいなら心配いらないんだぞ」
 幸は、通帳を見たまま首を振った。
「お前、まさか、やめちゃったんじゃないだろうな」
 幸は顔を伏せたまま頷いた。
「やめたのか」
 幸はまた頷いた。博は大きく息を吸い、そして吐き出した。全く気づかぬうちに、想像もしなかったことになっていた。
「どうして、どうして勝手にやめたんだ」
「だって、わたし……」
 幸はやっと博の顔を見た。
「冗談じゃないよ。なんで勝手にやめたんだ。続けていれば、来年はそのまま大学に入れたんだぞ」
「わたし、大学なんて行きたくない」
 幸の声は震えていた。
「無理に行けとは言わないよ。でも、高校ぐらい……」
「早く美容師になりたいの」
 幸は博の言葉を遮った。
「わたし、前から言ってたでしょ。学校やめて美容師になりたいって」
「やめていいとは言わなかったぞ」
「でも、わたしは働きたかったの」
「働くのは俺の仕事だ。お前は学校に行ってればいいんだ。まだお金の心配はいらない。お前にはお金の心配はさせない。俺は今まで一度だってお前にお金のことで心配させたことはないはずだ」
「それはわかってる。いつも感謝してる。でもね、わたしはやりたいことがあるの」
「なんで勝手にやめたんだって聞いてるんだ」
「だって、いくら言ってもわかってくれないじゃない」
 幸は立ち上がった。目には涙を浮かべている。それを見て、博は言葉を飲んだが、怒りは収まらず、にらみつけた。
「お休みなさい」
 そう言い捨てて、幸は去った。
 博は、ダイニングキッチンに一人残された。カウンターの向こうに、リビングルームが見える。3LDKのマンション。保険金をのぞくと、これが、両親が二人に残してくれた唯一の遺産だった。
 三年前、博が大学を卒業した年に、両親は交通事故で亡くなっていた。信号待ちをしていて、トラックに追突され、前に止まっていたバスとの間で押しつぶされたのだ。
 残った肉親は、中学三年生だった妹一人。
 あの日から、俺は歯を食いしばってがんばってきたんだ。葬儀も、加害者との交渉も、俺はできるだけのことをした。妹は俺が守るんだ。いつもそう思っていたのに。
 コップには麦茶が残っていた。博は棚からウイスキーのボトルを出すと、その麦茶にウイスキーをつぎ足した。
 なぜだ。なぜ、こんなことに。

 翌朝、幸は制服を着ずに朝食を出してくれた。いつもは、高校の制服を着て、博の朝食を作っていたのだが、やめたことが明らかになった以上、高校へ行っているふりをする必要はなくなったのだ。
「四月からずっと、朝だけ制服を着てたのか」
 コーヒーカップを手にとり、博は幸に声をかけた。
「うん」
 幸は、自分の皿を持って来て、前に座った。しかし、自分の分には手を付けず、うなだれている。
「昼間、美容院で働いてるのか」
「うん」
 博は溜め息をついた。
「ごめんね、お兄ちゃん」
 博は黙ってベーコンエッグとトーストを口に運び、無理矢理飲み込んだ。
 食べ終えるまで、気まずい沈黙が続く。食事というのはこんなに時間のかかるものだったのか。
 言いたいことがいくらでもあるような気がするのに、言葉になるものはない。
 トーストの最後のかけらをコーヒーで流し込むと、博は立ち上がった。
「ごちそうさま。じゃ、行って来る。今日も晩ご飯はいらない」
「うん。いってらっしゃい」
 幸の声は震えていた。
 駅まで道は体が覚えている。博の頭は幸のことで一杯だった。
 たしかに、幸は、高校へは行かないで、就職したいと言っていた。美容師になりたいと言っていた。小さいときから、髪をいじるのが好きで、自分の髪であれこれ試していた。
 しかし、博も中学校の担任も進学を勧めた。特に博は、大学へそのまま進学できる高校を勧めた。いや、その高校への進学を命じた。両親がいないことで引け目なんか感じさせるもんか。今にして思えば、力みすぎていたんだろうか。
 それにしても。
 勝手に退学することはないだろう。あと一年で卒業なのに。
 高校をやめて美容師になりたい、という希望は何度か聞かされていた。しかし、いつもはねつけていた。働くっていうのは、そんなに甘いもんじゃない。あこがれだけでつとまるもんじゃない。そんなこと考える暇があったら勉強しろ。いつもそう言っていた。
 幸が勝手に高校を退学し、美容院で働き始めたことは博をいらいらさせた。
 仕事の間も、少し時間ができると幸のことを考えていた。食欲がなく、昼食は食べなかった。
 おまけに梅雨入り以来蒸し暑い日が続き、外回りに出るとサマースーツも着ていられないほどだった。
 その日は、仕事の後、有紀と会うことになっていたが、会ってからの予定をたてることもできなかった。
 有紀との待ち合わせ場所は、いつも本屋だ。本屋なら、どちらかが遅れてもあまり退屈しなくて済むからだ。
 その日は、博が先に本屋に着いた。
 しかし、その日、博は、中には入らず、入口の前で有紀を待っていた。幸のことで頭が一杯で、面白そうな本を探してみる気もしない。
 少し遅れてきた有紀は、博の顔を見て、少し不安になったようだった。大きな目が博の顔をのぞき込む。
「遅れてごめんなさい」
 博は無理に笑顔を見せて首を振り、腕時計を見た。幸のことを考えていたので、有紀が遅れたのかどうか分からなかったのだ。
 有紀はたしかに十五分遅れて来たのだった。有紀も自分の時計を見た。アナログ式で、博の腕のものと同じデザインのものだ。
「怒ってるの」
「違うよ。とりあえず、何か食べよう」
 あまり食欲はなかったが、食べないわけにはいかない。明日も仕事だ。
 博が歩き出すと、有紀も肩を並べて歩き出したが、博の表情を気にしているのがわかった。
「怒ってるように見えるか」
 赤信号で立ち止まった博がそう尋ねると、有紀は頷いた。
「確かに怒ってるよ。……妹に」
「幸ちゃんに?」
「うん」
 信号が青に変わり、博は歩き出した。そして、歩きながら、昨晩のことを話して聞かせた。
 その後、博は、食事の間も、幸のことばかり話していた。有紀はひたすら聞き役に徹していた。
 話が一段落ついたところで、有紀は言った。
「で、どうすればいいと思うの」
「それが分からないから困ってるんだよ」
「でも、幸ちゃん、うらやましいなあ」
「何でだよ」
「だって、今、わたしといても、幸ちゃんのことばっかり考えてるでしょ」
 有紀はすねたように博を見た。博は苦笑した。
「そうだな。ごめん。今日はもう、妹の話はやめるよ」
「わたしのことも、幸ちゃんと同じくらい考えてね」
「考える、考える」
 どうしようもない。それが結論だ。結局、幸がしたことを受け入れるしかないのだ。いまさら退学の取り消しはできないだろう。有紀もそう言いたかったのだろう、と、博は思った。
 そして、しばらくの間は、表面上は平穏だった。
 もちろん、時々、幸が勝手に中退したことを思い出して腹を立ててはいたが、それについてはもう言わないことにしていた。幸には幸の人生がある。いつも無理矢理自分にそう言い聞かせていた。
 しかし、一週間後、得意先から会社への帰り道。
 ハンバーガー・ショップのガラス越しに、見覚えのある髪型が目に入った。
 幸だ。朝食の時、短い三つ編みにしていた。その髪型の幸が、中にいた。隣に誰かいるらしい。博は立ち止まった。隣には若い男がいた。短い髪を金色に染めている。その男の額がやけに白く見えた。
 二人は何か話しながら、コーラを飲んでいた。幸が男を見る目は、ただの友達ではない、といっているように思えた。博には全く気づいていない。
 博は、どうすればいいのか分からなかったが、とりあえず、すぐに立ち去った。妹だって年頃だ。ボーイ・フレンドがいても不思議はない。理性ではそう思ったが、感情は許さなかった。
 ふざけるな。勝手に中退して、勝手に男と一緒にコーラなんか飲みやがって。だいたい、あんな色の髪にする奴なんかろくでもない奴に決まってる。よりによってあんな男とつきあうことはないだろう。
 その怒りは長時間持続し、仕事が終わった後、有紀と会っても収まらなかった。
「いいじゃない、ボーイ・フレンドぐらいいたって」
 食後のコーヒーを飲みながら、有紀は言った。博も有紀もスーツ姿で、絵に描いたようなサラリーマンとOLのカップルだった。
「それだけ幸ちゃんがかわいいってことよ」
「でも、相手がどんなやつかわからないんだよ。心配になるよ」
「ここで心配してどうなるのよ。そんなに心配なら、その時乗り込んでって、俺の妹に手を出すなって言ってやればよかったのに」
「そんなことできるわけないだろう」
 有紀はカップを置くと、両手を組み、その上に顎を乗せて博を見つめた。大きな目が、博をじっと見る。
「いつも幸ちゃんのことばっかりね。そんなに大事なの」
「大事に決まってるだろう」
 博は、コーヒーをぐいっと飲み干した。苦いのはコーヒーが濃かったせいではない。
 有紀は少し目を伏せていった。
「もし、わたしか幸ちゃんか、どっちかとらなくちゃいけなくなったら、どうするの」
「ばかなこと言うなよ。君のことは大切だと思ってるよ。だけど、幸はたった一人の肉親なんだよ」
「そう、わかった」
 有紀は立ち上がり、バッグを手にした。
「さようなら」
 そう言うと、早足に立ち去ろうとした。博はあわてて立ち上がった。
「待てよ」
 しかし、有紀は立ち止まらず、無言でドアを抜けていった。
 最悪だ。
 博は再び腰を下ろし、コップの水を口に含んだ。
 こうなったのも、あの金髪野郎のせいだ。
 その夜、博がマンションに帰ったときには、幸は自分の部屋にいた。あの夜以来、できるだけ顔を合わせないようにしているようだった。博は、昼間のことを問いただすわけにもいかず、上着だけ脱いで、いらいらしたまま自分のベッドに体を横たえた。
 腕の、アナログ式の時計を見て、博は有紀のことを思い出した。
 とりあえず、有紀にはあやまっておかなくては。
 ベルトにつけたホルダーから携帯電話を出し、登録してある番号にかけた。すぐに有紀が出た。
「あ、僕。さっきはごめん」
「幸ちゃんはどうしたの」
「まだ顔を合わせてない。幸のことばかり気にかけてて、ごめん」
「……」
「悪かった。君といても、妹のことばかり言って」
 有紀はすすり泣いているようだった。博は何と言えばいいかわからなかった。
「わたしも……」
 途切れ途切れに、有紀が言った。
「ごめんなさい。……なんか……やきもち……。親代わりなんだからって……。わかってあげようと思うんだけど……」
「僕も、気負いすぎてるんだよ。だから、つい気になっちゃう」
「ごめんね。でも、いつも幸ちゃんのことばっかり……」
「そんなに幸のことばかり言ってるかな」
「言ってる。幸がああした、幸がこうしたって……。だからよけい……」
「そうか……。でも、やっぱり、どうしても気になって」
「……」
「妹にやきもちなんか焼くなよ。ただ、あいつが勝手に高校やめたり、男と一緒にいたりしたから、つい……」
「ほら、また……」
「しょうがないだろう。たった一人の妹なんだから」
「……わたしはたった一人じゃないの?」
「何言ってるんだよ。君の代わりなんていないよ」
「でも……。幸ちゃんのほうが大切でしょ」
「なんでそんなこと言うんだよ」
 博はつい怒鳴ってしまった。そして、しまった、と思った瞬間、電話は切れた。
 最悪の上に最悪だ。博は頭の中に浮かんだ金髪男をにらみつけた。
 しかし、十日後。さらに博の神経を逆なですることが起こった。
 同僚と夕食をとりながら軽く飲んだ日の夜。
 マンションの近くの公園が見えるところまで来ると、手を繋いで出てきた二人連れが目に入った。一人はワンピース姿。一人は開襟シャツにGパン。
 その二人が誰かは、すぐに分かった。
 一人は幸だ。そして、もう一人はあの金髪野郎。
 博が立ち止まり、離れたところから見ていると、公園の入口で二人は手を離し、幸は笑顔で男に手を振り、マンションの方へ歩いていった。男は、駅へ向かうらしく、博の方へ歩いてきた。博は無言で歩み寄り、男の行く手をふさぐようにして立ち止まった。
 男は不審そうに博を見た。
「幸と何してた」
 博は精一杯ドスの聞いた声を出そうとしたが、かすれ声になってしまった。
「あんた誰やねん」
 相手は関西弁だった。
「俺は幸の兄だ」
「兄さんやったんか。お、俺、岡田といいます。岡田准一です」
 博は、無意識のうちに相手の胸ぐらをつかんでいた。
「話がある」
 そのまま、公園の中に相手を押し戻し、蛍光灯の下まで来た。准一は、緊張した顔で、おとなしく胸ぐらをつかまれたままついてきた。
 蛍光灯の周りを虫が飛んでいる。木立を通して、車の音が聞こえてくる。
 二人は向き合って立った。
「お前は高校生か」
「もう卒業しました」
「それなら、大学生か」
「ま、まだ……」
「まだ何だ」
「浪人……」
「髪なんか染めてるから浪人するんだ」
 准一は、不快だという気持ちを表情に表した。博は相手をにらみつけた。
 その瞬間。
 ゆらり、と、あたりが揺らいだような気がしたのだ。


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