(後編)
「あけましておめでとうございます」
カウンターの中にいた快彦は、律子に声をかけられて振り向いた。
「何がおめでとうだよ。正月なんてとっくに終わってるじゃねえか」
「だって、今年初めて会ったんだもの」
「はいはい。おめでとうございます。座れよ」
律子が腰を下ろすと、快彦はコーヒーを出した。
「ちょっと飲んでみてくれ」
「また実験?」
「うん。豆を変えてみた」
律子は一口飲むと、
「おいしいんじゃない」
と言い、じっと快彦を見た。
「何だよ。じろじろ見て」
「ずっとお父さんに会ってないんだって?」
「ああ。年末年始は忙しいんだよ」
「元気そうだったわよ」
「会ったのか」
「うん。こないだ出張があって近くに行ったから」
「そうか」
快彦は、後ろを向いてグラスを並べ始めた。
「息子の嫁さんにならないか、なんて言われちゃった」
快彦は答えない。
「私の十七歳の誕生日の時に、あんなこと言ってくれたのにね」
背中を向けたまま快彦は言った。
「もうやめてくれよ。あん時のことは。お互い子供だったんだし」
律子は黙ってカップを口に運んだ。
グラスを並べ終えると、快彦は律子の方へ向き直り、
「でも」
と声をかけた。
「ありがとな、親父のこと」
律子は少し笑顔を見せて頷いた。
「来月、講習会で東京に行くんだ。何かおみやげ買ってきてやろうか」
「いいなあ。何でもいい」
「じゃあ、東京タワーの置物とか」
「そんなのはやだあ。ヴィトンのバッグがいいな」
「お前な……。自分で買えよ」
昌行は奈々子と並んで歩いていた。昌行が食事に誘ったのだ。
「真面目なんですね、昌行さんて」
突然奈々子がそう言ったので昌行は奈々子の顔を見た。
「真面目? 何でまた急に」
「だって。何となく。ミーナってしっかりしてたし、真面目な人が好きだったんだ……。ミーナ、とっても幸せだったと思う」
「……」
「私も好きですよ」
奈々子は昌行の顔をちらっと見て言った。
「真面目な人」
「あ、ここだ」
昌行は何も聞いていなかったような顔をしてレストランを指さした。
カウンターの中でグラスを磨いている快彦の耳に、客の会話が聞こえている。
レストランは照明を落としており、カウンターの所だけが明るい。若い男と、中年の男が並んで座っていた。二人を水割りを頼んだが、若い男はグラスをもてあそぶだけで、ほとんど口をつけていない。
「東京が嫌になったのかね」
中年の男がそう言ったのを聞いて、快彦は若い男に目をやった。東京が嫌になるやつもいるのか。そう思ったが、もちろん表情には出さない。
「そういうわけじゃないんです。ただ、新しい土地に行ってみたいと思って。今いるところみたいな大きいところじゃなくて、小さいところで働いてみたいんです」
「小さいところは大変だよ」
すっかり顔を赤くした中年男は、水割りを飲み干すと、「おかわり」と言って、グラスを快彦に差し出した。グラスを受け取った快彦が新しい水割りを作っている間に、若い男に諭すように言う。
「来てみてわかったろうけど、このあたりは寒いしね。」
「でも温泉がありますよね。今日も発表がありましたけど、温泉療法にも興味があるんです」
中年男は快彦からグラスを受け取ると、一口飲んだ。
「具体的な患者さんがいるの」
「ええ、まあ」
素知らぬ顔をして聞いていたが、快彦は、心の中で、好きこのんでこんな所に来るやつもいるのか、と思っていた。
昌行は自分の部屋で眠れぬまま闇を見つめていた。
闇の中で美奈子は笑顔で昌行に手を振っている。しかし、いつのまにその顔は奈々子に変わっていた。
「ミーナ、君が選んでくれた人なのか」
昌行はつぶやいた。
診察室。博は玲奈の足を診ていた。二人とも、診察の時は医者と患者になりきっていた。
「最近寒いけど、痛みますか」
「時々」
「そう。骨はすっかり治ってるから、あとは筋肉の使い方ですね。暖めてから意識して動かすといい」
「はい」
「温泉療法というのもあるし。新潟あたりの温泉なら、新幹線ですぐ行けますよ」
「温泉は好きだけど、寒いのは嫌いです」
「そう……」
博は少し目を伏せた。
「前にも言ったけど、来週、東京に行くんだ」
カウンターの前でモップをかけていた快彦は、律子が来たのを見て声をかけた。
「いいなあ」
「だけど、仕事だぜ。バレンタインとホワイト・デー用のカクテルの講習会だもん」
「少しは自由時間もあるんでしょ」
「ああ、講習会は、一日目の午後と夜と次の日の午前中だ。近くからくるやつはそれから仕事だろう。俺は休暇もらったけど」
「わたしも行きたいなー」
「一緒に行くか」
快彦はモップを片づけながら軽くそう言ったが、律子は目を丸くした。
「え、な、何。いきなり泊まるの!」
カウンターの中に入った快彦は苦笑した。
「馬鹿野郎。何考えてんだよ。次の日に日帰りで行けばいいだろ。俺は泊まりがけで講習会なんだから」
「馬鹿でわるかったわね。何よ、毎年チョコあげてるのに」
「だってあんなの、信用金庫の義理チョコじゃねえか」
「チョコが経費で買えるわけないでしょ」
「フロントのみんなにもやってるだろ」
「そりゃあ、お得意さまだもの。ふーん、もしかして、自分にだけくれって言ってるの」
「そんなこと言ってねえよ」
「いつもあげるだけで、ホワイト・デーに何か貰ったことなかったなあ」
「悪かったよ。今日は前払いでココア飲ませてやるよ」
「また実験?」
「まあな」
レストラン。向かい合って座っている昌行と奈々子。年が明けてから二人は週末には一緒に食事をしていた。昌行が誘わずにいると、奈々子から電話があった。
「ミーナとも、ここに来たの」
「ううん」
昌行は首を振った。
「ここは今日初めて。新しいところにも目を向けないとね」
奈々子にはその言葉に何か意味が込められているように思えた。
「わたし……」
「え?」
「わたしも、そう思います」
「……」
会話がとぎれた時、知っている顔が目に入り、奈々子は思わず「あっ」と声をあげた。昌行がいぶかしげに奈々子を見たが、奈々子はあわてて、
「知ってる人にそっくりな人がいて」
と言ってごまかした。昌行は病院を恨んでいるかもしれない。担当医だった長野がいることは言わない方がいい。
奈々子の視線の先で、博は玲奈と向かい合って座っていた。
博が思い詰めたような表情だったので、玲奈は不安を抱えていた。
「君には済まないと思うんだけれど」
玲奈は何も言わず、次の言葉を待ったが、涙は見せないようにしようと心に決めた。
「僕は、新潟に行くことにした」
「そう」
つとめて冷静に答えたつもりだったが、声は震えていた。
「君は寒いところは嫌いだって、このあいだ言ってたけど……」
玲奈は頷いた。
「僕は、小さい病院で、地域に密着した仕事をしてみたいんだ」
「いいことだと……思うわ」
「うん。で、君のことなんだけど……」
ぎごちない笑顔を作って玲奈は言った。
「わたしなら大丈夫よ」
博はじっと玲奈の顔を見た。
「大丈夫。心配しないで」
重ねて言うと、博はほっとしたような笑顔を見せた。
「よかった。嫌だって言われたらどうしようかと思ってた」
玲奈は目をそらしたが、博の次の言葉に再び視線を戻した。
「できるだけ早いうちに君のご両親の所に挨拶に行くよ。僕の親にはもう言ってあるんだ」
何を言っているのか理解できず、玲奈は呆然と博を見つめた。
「寒いけどさ、温泉が家までひけるんだ。温泉療法が君の足にもきっと効果があると思う。しばらくは引っ越しなんかでバタバタするけど、君とご両親さえよければ、連休には迎えに来るよ。式は後になるけど」
涙を手で押さえ、玲奈は頷いた。
その玲奈を、少し離れた窓際の席から見て、律子は、
「ね、あそこの女の人、泣いてるよ」
と言った。快彦の講習会に合わせて休暇を取ったのだ。テーブルを隔てて座っていた快彦も少し体をねじって目を向けたが、
「他の人のことなんかじろじろ見るなよ」
と言った。
「えへへ」
律子はちょっと舌を出して笑った。
「何か、今日は忙しかったな」
「半日だけだもんね。これから新潟まで帰るんだし。でも楽しかった」
「楽しかったけど、俺は疲れたよ」
「今度は泊まりがけで来たいなあ」
「おおっ、随分大胆なこと言うな」
「え? 違う、そういう意味じゃないよ」
律子は顔を赤くした。快彦は話を変えて、
「でもなあ、こうやって来てみると、何も東京でなくても、っていう気にもなるな」
「何言ってんの」
「講習会でさ、結構すごいやつが何人もいたんだけど、聞いたこともないような田舎のホテルのバーテンだったりしてさ。結局、都会でなくちゃだめだってこともないらしい。ま、都会には都会のいいところがいっぱいあるんだろうけどな」
「何マジになってんのよ」
「俺だってたまには考えるさ」
律子は感心して快彦の顔を見つめたが、中央のテーブルから、
「ああ、食った食った」
という声が聞こえてそちらへ目を向けた。
中央のテーブルには三人の少年が座っていた。その中の一人に目を留めて、律子はため息をついた。
「さすが東京には美少年ていうのがいるのね」
快彦も体をねじって三人を見た。こちらに向いて座っているのは一人で、胸元から銀色のアクセサリーがのぞいている。あとの二人は背を向け、一人はニット帽をかぶり、一人は短い髪を金色に染めていた。三人は空になった皿を前にして話している。
「ガイドブックの通り、えらい豪華なとこやな」
「豪華すぎて、バイト代がパーだよ」
「それよりも、もうすぐバレンタイン・デーだっていうのに、何で男三人でこんなとこ来なくちゃならないんだよ」
「まあええやん。もしかしてバレンタインに告白されて、ホワイト・デーに来ることになるかもしれんで。予行演習ちゅうことや」
「別に女の子なしだっていいだろ」
「よくねえよ」
「僕は気にならないよ」
「何でだよ」
「何でって、何ででも。男だけだっていいじゃないか」
「あれっ。雪や、雪降っとる」
その言葉に律子と快彦もガラスの向こうを見た。ガラスの向こうでは白い粉雪が舞い降りてきていた。
「ほんとだ。雪。雪が降ってる」
律子もつい興奮してそう言った。
「新潟の人間が雪見て興奮するなよ」
そういいながらも快彦も雪を目で追った。
「東京でも粉雪が降るんだな」
「今日は寒かったもんね」
三人の少年は雪を見るとすぐに会計を済ませ、外へ飛び出した。
昌行と奈々子も続いて外に出た。
昌行も奈々子も両手を広げて粉雪を手に受けてみた。量は少なく、傘の必要はなかった。
「行こう」
昌行が足を踏み出すと、奈々子は隣に並び、昌行の肘の当たりにそっと腕を回した。しかし、昌行はその手をすっとはずす。奈々子ははっとして昌行の顔を見たが、昌行は前を見たまま何も言わず、そのまま手を奈々子の肩に回した。奈々子は微笑んで腕を昌行の背中に回し、二人は寄り添って粉雪の舞う中を歩き始めた。
これはつい最近書いたものですが、だいたいの構想は、一年以上前に「コバルト・ブルー」を書いたときから、頭の中にありました。
最後の、6人が居合わせるレストランのシーンと、二人が寄り添って歩き始めるというのが先に頭の中に浮かび、それに合わせて話を作っていきました。
読み返してみると、「コバルト・ブルー」は随分稚拙な感じがしますが、一年たってもあまり進歩していないような気もしますね。
私の中では、「MIRACLE STARTER」はこういうイメージの曲なのです。
hongming(1999.1.22)
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