MIRACLE STARTER

(前編)

 残暑も消えた頃。
 病院の受け付けの前で、奈々子は顔見知りの看護婦を見つけた。声をかけると、幸い向こうも奈々子を覚えていた。
「わたしと同じ部屋にいた、天久美奈子さんの実家の住所を教えてもらえないかと思って。急に連絡が取れなくなっちゃったんです」
 看護婦は困った顔をした。
「天久さん……。そうなの……。でも、そういうことは教えられないの」
 奈々子の表情に、看護婦は少し気の毒になったらしく、
「でも、封筒に手紙を入れてもってきたら、私が宛名を書いて出してあげる。返事が来ればそれでわかるでしょ」
と言った。
「ありがとうございます」
 奈々子が感謝して両手を会わせた時、見覚えのある医者の姿が見えた。
 外来診察の時間が終わったばかりで、待合室の人影は少ない。
「長野先生……」
 看護婦も振り向いて長野を見た。長野は患者を送ってきたようだった。その患者は片足を引きずって歩いている。
「あの患者さんね」
と、看護婦は言った。
「長野先生の彼女らしいのよ」
 奈々子は驚いて看護婦の顔を見た。看護婦はいたずらっぽい表情をしていたが、嘘ではないらしい。確かに患者は、若い女性だった。
「えーっ、そんなあ」
「でも、いつも彼女だけ特別扱いだもの」
「そうなんだ……。なんか、がっかり」
 二人に見られていることなど気づかず、長野は玲奈と一緒に外へ出ようとした。
「ここで大丈夫」
「タクシー乗り場まで送るよ」
「ううん。もういい。変に思われるもの」
「患者に親切にするのは医者の務めだよ」
「わたしが患者だから親切にしてくれるの」
「そんなわけじゃないよ」
「じゃ、また来ます」
「うん。今度電話するよ」
 手を振って自動ドアの向こうへ歩いていく姿を見送る長野。その長野を奈々子はじっと見ていた。

「こんにちは」
 その声に、ホテルのフロントにいた男が振り向いた。
「ああ、律ちゃん。こんにちは」
「こないだの書類、持ってきました」
「ありがとう。彼氏ならカウンターにいるよ」
「彼氏なんかじゃありませんよ」
 口をとがらせながらも、律子は書類の入った封筒を渡すと、バーのカウンターに足を向けた。
 カウンターの中では快彦がティーカップを手にし、首を傾げて何か考えていたが、律子に気がつくと、
「よう、いいとこに来た。ちょっとこれ飲んでみて」
と言って、紅茶をカップに注いで出した。
「あら、ごちそうしてくれるの」
「いや、実験材料になって貰う」
「何よそれ」
「まあ、飲んでみてくれ」
「変な物入ってないでしょうね」
「さあね」
 律子は腰を下ろすと、紅茶を一口飲んでみた。
「普通の紅茶みたいだけど」
 快彦は、もう一つカップを出すと別のポットから紅茶を注ぎ、
「こっちと比べてみて」
と言って差し出した。
 言われるままに律子はそれを一口飲んでみた。
「おんなじじゃないの」
 快彦はほっとしたような表情を見せた。
「そうだよな。そんなに違わないよな」
「どうしたの」
「少しでも経費を節減するために、安い紅茶に変えようかなと思ってね。ブランド物の方が高級な味がするっていうわけじゃないみたいだし」
「そうなんだ」
 律子はまた両方飲み比べて、
「やっぱり同じよ」
と言うと、少し声を落とし、
「どこも大変よね」
と言って快彦を見た。快彦は紅茶のラベルを見ている。
「あのね……」
 律子の声に、快彦が顔を向けた。
「お父さんの所、大変みたいよ」
「何でそんなこと知ってるんだよ」
「そりゃあ、うちだって金融機関だもの」
「親父は親父だ。俺には関係ない」
 快彦は律子の前にあった二つのカップを取り上げると、中身をあけて洗い始めた。
「でも、心配でしょ」
「関係ねえって言ってるだろ。何だよ、田舎の信用金庫のくせに」
「地元に密着してるからよけい分かるのよ」
 快彦はもう何も言わなかった。律子は黙ってカウンターから離れた。

 車の中。
 運転席の博は黙って海を見ていた。助手席の玲奈も黙っていた。
 フロントガラスには雨が次々に落ちてきた。
「降ってきちゃったね」
 博の声に玲奈は黙って頷いた。
 あの時も雨だった……。博はあの日のことを思い出していた。
 あの日、研修医だった博は車で出張に行こうとして、バスを待っている玲奈に気づいた。そして、迷うことなくそばへ車を寄せ、窓を開けて声をかけた。
「駅までなら送りますよ」
 玲奈は驚いたようだったが、長野であることを知ると、
「いいんですか、長野先生」
と笑顔を見せた。そして、助手席に玲奈を乗せ、駅へ向かう途中で……。
「あの日も雨だったわね」
 博の心を読んだかのように玲奈が言った。博ははっとして玲奈の顔を見た。
「長野先生、最近元気がないみたいだけど」
「二人きりの時に長野先生はやめてくれよ」
 博は少し笑顔を見せた。
「ちょっとね。ショックなことがあって」
「何かあったの」
「僕の手術でウィルスに感染した患者さんがいて……。亡くなったんだ」
「博さんのせいなの」
「そういうわけじゃない。まさか製剤が感染しているとは思わなかったんだ」
「それなら……」
「でも責任を感じるよ」
 博はまた前へ視線を向けた。鈍い色の海が雨でゆがんで見える。
「責任……。博さんて、責任とるの、好きよね」
 驚いて顔を向けた博に、玲奈が言葉を続けた。
「だから私とも……。ぶつけられただけなのに、事故にあった責任を感じてるんでしょう……」
「違うよ!」
 博は自分でも自分の声の強さに驚いた。玲奈は顔をそむけ、涙を拭いた。
「ごめん」
 博は手を伸ばして玲奈の手を握り、
「帰ろう」
と声をかけた。玲奈は黙って頷いた。

「電話だよ」
 声をかけられて昌行は書類から顔を上げた。
「そっちに回すから」
 すぐに昌行の机の上の電話が鳴った。
「はい、お電話代わりました。坂本です」
「坂本昌行さん、ですか」
 相手は、若い女性のようだった。緊張しているのか、声が少しかすれている。
「はい、そうですが」
「天久美奈子さん、ご存知ですよね」
「はい……」
「あのう、わたし、去年病院で同じ部屋に入院していたんです」
 相手は名前を名乗ったが、奈々子という名は聞き取れたが、姓はよく聞き取れなかった。
「……」
「それで、もし美奈子さんの連絡先を教えてもらえないかと思って」
「それは……僕にもわからないんです」
「えっ、じゃあ、もう……」
 相手は、昌行は美奈子と別れたと思ったのだろう。昌行はそれについては説明せず、尋ねた。
「ミーナの、彼女の写真、持っていませんか」
「写真? どういうことですか」
「ちょっと事情があって」

 夕方。
 喫茶店の窓際の席で、ぼうっと外を見ていた昌行は、声をかけられてはっとした。
「坂本さんですか」
「はい」
 坂本は思わず立ち上がった。現れたのは美奈子と同じくらいの歳の女性だった。
「あ、どうぞ」
 テーブルを隔てた席を勧め、自分も腰を下ろすと、名刺を出した。
「坂本です」
 相手はそれを受け取ると、自分も名刺を出した。つい習慣で両手で受け取る。そこには、「沢詩奈々子」と書かれていた。
「これは……さわしさんですか」
「たくし、です。私もミーナもすぐに読んでもらえない名字だったんですぐ仲良くなれました」
「そうだったんですか。あの、写真は……」
 奈々子は首を振った。
「だめでした。入院したばかりの時は写真をとってたのに、その時はミーナはまだ入院してなくて」
 気落ちした様子の昌行を見て、奈々子は尋ねた。
「ミーナに何かあったんですか」
 昌行は一瞬迷ったが、美奈子が病院でウィルスに感染し、それがもとで死んだということだけを簡単に説明した。
「僕の所にも写真も一枚も残ってなくて。実家もわからないし」
「そういうことだったんですか……」
 奈々子の目から涙がこぼれた。昌行は涙をこらえて窓の外に目を向けたが、ふと気づいて奈々子に尋ねた。
「よく僕の会社がわかりましたね」
 奈々子は涙を拭くと、答えた。
「一度聞いたことがあって。ずっと忘れていたんですけど、夢を見て思い出して」
「夢? ミーナの」
 頷くと、奈々子は昌行の名刺を手に取り、会社の名前を指でなぞった。
「会社の名前を思い出して電話してみたんです」
 ミーナの夢……。昌行は心の中でつぶやいた。
「最近ですか」
「ちょっと前です。ええと……」
 奈々子が口に出した日付を聞いて昌行はじっと奈々子をみつめてしまった。それは、昌行があの時の海岸へ一人で行った日だった。

「手伝いに来たよ」
 快彦が声をかけると、父親が振り向いた。軽トラックの荷台に荷物を載せているところだった。
「来てくれたのか。仕事は」
「昼間はひまだから」
 快彦は隣に並んで、段ボール箱を押し上げた。
「とうとう潰れちまったよ」
「うん……」
 父親が経営していたガソリンスタンドは、律子の話通り、経営が悪化し、廃業していた。今日は、新しい職場に住み込むための引っ越しだった。
「やっぱりな、大手には勝てないよ。お前も、俺のあとを継がなくて正解だったな」
「うん……」
 父親は一人で話し続けた。快彦が来たのがうれしいのか、それとも自分の城を失ったのが寂しいのか。
「まあ、こんな不景気の時にすぐ仕事が見つかったんだからありがたいよ。住み込みだから、飯の心配もない」
「うちからだって通えるだろ」
「いやあ、一人で飯を作って食うってのは、面倒だし、寂しいもんだ。それに、お前だって住み込みじゃないか。うちから通えるのに」
「ホテルの仕事は夜がおそいから」
「そうだな。景気はどうだ」
「良くないね」
「でもあの子は、お前のところはまあまあじゃないかって言ってたぞ」
「あの子?」
「律子ちゃんだよ」
「勝手にほかの客のことしゃべってるのか」
「親子だからだろう。あの子はいい子だよ。俺の仕事も紹介してくれたし」
「偶然だろ」
「そりゃあ、そうだが」
 父親は、隣の市のタクシー会社で、整備の仕事を中心に受け持つことになっていた。律子が、人を捜しているという話を聞きつけて教えてくれたのだ。
「あれはいい子だ。しっかりしているし。どうだ、所帯を持ったら。家はあるんだから、二人で住めばいい。もう落ち着いてもいいだろう」
 荷物はもうなかった。快彦はそれには答えず、先に助手席に乗り込むと、
「いつまでもこんなド田舎にいるつもりはねえよ」
とつぶやいた。

 クリスマス・イブ。
 昌行は、コートのポケットに手を入れたまま歩いていた。特に行くところもない。ただアパートに帰るだけだ。
 あれから何度か奈々子から電話があった。いつも美奈子のことだった。病院を通じて手紙を出したが、返事が来ないこと、もと住んでいたアパートの管理人も何も教えてくれないことなど、奈々子がもたらす情報は、たいてい、もう美奈子について知ることはできない、ということばかりだったが、時にはたわいのない自分の話のこともあった。
「クリスマスもお正月も、ずっとひまなんですよ」
 そんなことも言っていた。
 一度、昌行は奈々子に尋ねてみた。
「ミーナの夢って、どんな夢だったの」
「それが……。夢の中にミーナが出てきて、『昌行さんに会いに行ってあげて』って」
「会いに行ってあげて……」
「そうなんです。信じられないかもしれないけど」
 あの日、海を見に行った昌行を見て、美奈子は奈々子の夢に現れたのだろうか。
 そのことを聞いた夜、昌行は美奈子の夢を見た。夢の中の美奈子は昌行に向かって笑顔で手を振っているのだが、手を伸ばせばのばすほど遠ざかり、とうとう見えなくなってしまう夢だった。
 夢のことを思い出しながら、レストランの前を通りかかると、中からかすかに聞き覚えのある曲が聞こえてきた。
「ジョン・レノンか」
 昌行はそうつぶやいて立ち止まり、中に目をやったが、すぐに足を早めて立ち去った。
 年が明けたら、奈々子に電話してみよう。そんなことを考えながら。

 レストランの中では、博と玲奈が向かい合って座っていた。今日は博も玲奈も笑顔だった。
「今度、学会で新潟に行くんだ。何かおみやげに欲しい物ない?」
「何かおいしい物がいいな。新潟って、寒いんでしょう」
「寒いだろうね。いつもは雪不足なのに、今年に限って大雪らしいよ」
「大丈夫なの」
「新幹線は動いてるから。せっかくだから、温泉に入って休んでくるよ」
「いつも疲れてるみたいだものね」
 その言葉に、博は少し視線を落とした。
「あ、ごめんなさい」
 博は玲奈に笑顔を見せ、
「いいんだ。実際疲れてたし。いろいろあって……。何か、深刻な話になっちゃうけど」
 玲奈も少し顔をこわばらせた。
「医者になる時に、一番になろうと思ってたんだ。患者さんにとって一番いい医者になろうと思ってた。今年はずっと、一番になるはずなのが、こんな結末じゃいやだと思ってた」
 玲奈は博をじっと見つめた。博は玲奈の表情をほぐそうと、グラスを手にした玲奈の手に軽く触れた。
「でも、一番なんていうのは他人との比較なんだよね。そんなことにこだわってちゃいけないと思うんだ。来年は、とにかく自分も人も幸せにできるようにがんばるよ。変に犠牲的精神みたいなものを持って無理しちゃいけないよね」
 玲奈は笑顔で頷いたが、その陰に、「犠牲的精神」という言葉に傷ついた玲奈がいることに博は気づいていなかった。

(続く)


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