FROM rain(後編)
夏休みは地獄だった。普通なら、学校が休みで天国のはずだ。俺も教習所に通えるのはありがたかったが、給食がないのが何よりもつらかった。
それまでも、休みの日にはインスタント・ラーメンぐらいは作っていたが、毎日何か作るのは面倒だった。かと言って外食は金がかかる。残業すれば夕食も出してもらえたが、教習所に行くためには早めに仕事を上がらなくてはならなかった。
七月にはいってすぐ教習所に通い初め、学科はだいぶ取ってあったので助かった。実技も、日頃スタンドで車を動かしているので、全くの初心者よりは楽にこなすことができて、八月の末には念願の免許を手に入れた。スタンドの所長さんも喜んでくれて、一日くらいならスタンドの車を貸してくれると言った。俺は運転したくてたまらなかったので、免許を手に入れた次の日に、早めに上がらせてもらって車を借りた。
エアコンもなければカーステレオもない車で、少しくらいぶつけてもいいぞ、と言われた。けれど、ぶつけたら、腕を疑われて、お客さんの車の移動はさせてもらえなくなるだろう。俺はとばしたくなる気持ちを抑えてとにかく慎重に走らせた。
特に行きたい所があったわけではないので、知っている道だけを走らせた。俺が知っているのは、教習所の周りと、自分の部屋と学校の間の道だけだった。
俺は、もうすぐ二学期だし、学校を見に行ってみようと思ってとりあえず学校へ向かった。
バイト先から学校までは歩いて十五分ぐらいの距離なので、すぐについてしまった。
暑くて窓を開けていたので、学校が近づくと、グランドで部活をしている生徒のかけ声や、金属バットの音が聞こえてきた。
俺は門の前で車を止めてエンジンを切り、窓から中をのぞき込んだ。歩いてくる時とは感じが違うと思ったが、考えてみれば、学校に来るのはいつも五時過ぎで、こんな昼間に来たのは初めてだった。
「森田君じゃない」
突然声をかけられて驚いた。見ると、酒井さんが校門から出てきたところだった。目には入っていたはずなのに、いつもの調理用の服じゃなかったから気がつかなかったのだ。
酒井さんは近くに来ると、
「どうしたのこれ。森田君のなの」
と尋ねた。
「違います、職場のです」
「免許は持ってるの。一年生よね」
「……十八すぎてるんです」
「そうだったの。知らなかった」
「よかったら」
俺は思いきって言ってみた。
「駅まで送りますよ。免許取り立てだけど」
酒井さんはちょっと考えたが、
「ありがとう。乗せてもらう」
と言って助手席のドアを開けた。
俺はエンジンをかけながら言った。
「今日は運転の練習させてもらってるんです。とにかく慣れなくちゃいけないから。けど、行くとこなくて」
「だから学校に来たんだ」
「はい。酒井さんは仕事ですか」
「もうすぐ二学期だから、器具の点検に来たの」
「二学期も、給食、期待してます」
俺はそんなことを軽く口に出せる自分に驚いていた。
九月になり、給食にありつける生活が始まった。
夏休みが終わったら、岡田が髪を短くして金髪にしてきたのには驚いた。
俺はいつも配膳台が見える席に座り、酒井さんを見ていた。
新学期になってすぐに四年生の修学旅行があり、それに合わせて俺たちも遠足があった。日曜日に、一年から三年までそろってバスで行くというので、せっかくの休みの日に早起きしなくちゃいけないのは嫌だとみんな言っていたが、特別に酒井さんも行くと聞いて参加率はだいぶアップしたらしい。酒井さんは学校の職員ではなく、調理を委託されている業者の人なのだが、費用は自分持ちで参加することにしたらしい。担任が誘ったという噂もあって、井ノ原に追求されると、担任は笑って、
「参加者が増えれば、生徒一人あたりの負担が減るからな」
と言っていた。遠足にはもちろん俺も行った。朝八時に学校に着いてみて驚いたが、待っていたバスは一台だけだった。四年生をのぞけば四十人ぐらいなのだから当たり前だが、中学校の時のようにバスを連ねて行くイメージとはほど遠かった。
井ノ原も岡田も来たが、三宅は来なかった。やはり人が多いのがだめらしい。
酒井さんは一番前の席に養護の先生と並んで座っていた。
「酒井さん、ここ空いてますよ」
などと、自分の隣の席を指さして声をかけ、ほかの生徒からにらまれるやつもいた。
バスは三浦半島を通ってフェリーに乗り、千葉にわたって館山まで行った。行き先は、何だか珍しい植物がいっぱいある何とかパークとかいう所だった。帰りはアクアラインを通るため、海沿いの道を北に走った。
俺は何もかも珍しかったが、そんなことを正直に言うのもみっともないのでわざとつまらないような顔をしていた。
木更津に着くと、まだ時間があるというので、海岸で休憩することになった。
家族と潮干狩りに来たことがある、というやつもいて少しうらやましかった。みんなどやどやと降りて土産物屋の方へ歩いていったが、俺は職場へのお土産はもう買ってあったし、疲れてもいたので降りなかった。
日が傾いたせいだけじゃなく、空は暗くなってきていた。雨雲が近づいているらしい。そんなことを考えながら、窓からぼうっと砂浜の方を見ていると、突然ドアが開いた。
「お財布忘れちゃった」
そう言いながら入ってきたのは酒井さんだった。酒井さんは俺の顔を見て照れ笑いをした。一年生から順に前から座ることになっていたので、俺は入ってきた酒井さんの顔を近くで見ることになった。俺の表情も少し緩んだ。俺は、何か話したくて、外を見て、
「雨になりそうですね」
と言うと、酒井さんも窓ガラスに顔を当てた。
酒井さんをこんなに近くで見るのは初めてだった。その横顔を見たとき、俺は、酒井さんと俺には何か共通するものがあるような気がした。
「ほんとだ」
酒井さんがそう言ったとたん、土産物屋の方からわあっという声がした。何事かと思って目を向けると、夕立がバスに向かってやってくるところだった。外にいた連中が慌てて店に駆け込み、店員は外にあった品物にビニールシートをかけはじめた。
「すごい雨。夕立ね」
俺は酒井さんとバスに閉じこめられた格好になった。少しの間、二人で黙って夕立を見ていたが、酒井さんは俺の方を向くと、背もたれに顔を乗せ、
「森田君てさ、一人暮らし」
と聞いてきた。
「はい」
俺が頷くと、
「そう。なんか、私と同じような気がして。長野先生にちょっと聞いちゃった。私もね、子供の時から、ずっと家族っていうものに憧れてたの。それで焦りすぎて一回失敗しちゃったけどね」
「失敗って」
酒井さんは舌を出し、
「えへへ。まあいいじゃない。森田君、彼女いるの」
と言った。俺は黙って首を振った。しかし、その瞬間、俺には好きが人がいる、ということに気がついた。
「男の人って、ちょっとだけ年上の女性って、どうかな」
「どうって。つき合うのにですか」
「うん。私と森田君ぐらい歳が離れてたら話にならないけど、二つか三つぐらいなら大丈夫かな」
「さあ……」
酒井さんは窓の外に目を向け、
「でもだめよね。年上だっていうことは知ってるけど、昔のことわかったら嫌いになっちゃうわよね」
俺は何と言えばいいのかわからなかった。やっとのことで、
「僕なら……」
と言いかけたが、その時、雨は少し小やみになり、みんながバスに向かって走ってくるのが目に入った。
「もっとみんなと」
酒井さんはまた俺を見て言った。
「話すようにしたほうがいいんじゃない。いつも黙って食べてるもの。どうせなら楽しく食べてね」
俺は黙って頷いた。僕なら……。その次に言いたかった言葉を口にすることはできなかった。
遠足の後、自分の気持ちに気づいてしまった俺は、少し明るくなった。
給食の時、できるだけみんなと話をするようにした。ただ、酒井さんが配膳台の所にいる時には、どうしてもそっちが気になった。
四年生が修学旅行から帰ってきて最初の給食の時。俺が席について食べ始めると、四年生が入ってきた。四年生の酒井ファンの中にはお土産を買ってきたのもいて、酒井さんに渡していた。一番最後が坂本だった。見ていると、坂本は、
「これ」
とだけ言って小さな包みを差し出した。それを受け取った酒井さんの表情を見て、バスの中で彼女が何を言っていたのかやっと理解できた。
長いと思っていた二学期も終わってみればあっという間だった。
全日制と合同で文化祭もあったが、給食はないので俺は行かなかった。後で聞くと、岡田と井ノ原は二人ともギターがひけるので、二人でライブに出たりしたらしい。俺のクラスでは三宅も休んだという話だった。
年末は忙しかった。冬休みにはいると朝から晩まで洗車ばかりやっていた。水洗いは機械がしてくれるが、ワックスと拭き上げは人間がやらなくちゃならない。車はきれいになるが、俺はすっかり手が荒れてしまった。
大晦日も残業して、元日だけ休んだ。スタンドは二日から営業なので、正月らしい正月はない。俺はすることもないし、二日からずっと働いた。所長さんがお年玉をくれたのがうれしかった。例によって、給食のない日々だったが、毎日残業できたので、夕食にありつくことはできた。
三学期は実質的には二ヶ月しかない。これもあっという間に過ぎていった。
四年生は二月にはいると試験があり、その後はもうこなかった。正直なことを言うと、坂本が来なくなるのが俺にはうれしかった。
そんなある日、いつものように配膳台の方を見ながら給食を食べていると、井ノ原が担任に話しかけているのが耳に入った。
「アメリカに行くんだってね」
「そうらしい。偉いもんだ。がんばって定時制を卒業して次はアメリカで勉強だっていうんだから」
俺は誰の話かと思って、
「誰が」
と聞いてみた。井ノ原は俺を見て、
「四年の坂本さんだよ」
と言った。
「大変やろな。一人で外国暮らしなんて」
岡田が口をはさんだ。
「ま、俺も一人で外国暮らししとるようなもんやけどな」
「おい、大阪は外国なのかよ」
「そら日本とアメリカほどは違わんけど、たまに言葉が通じんと、ほんま心細うなることあるで」
「だったら標準語使えよ」
「いやや」
俺は、井ノ原の岡田の会話を聞きながら、配膳台の方を気にしていた。
卒業式の日は給食に赤飯が出た。
卒業式の場所は体育館だった。演壇もあって式典らしかったし、広いのはよかったが、寒くて困った。
俺は坂本が卒業証書を受け取るのをじっと見ていた。もうあいつは学校に来ない。日本にもいなくなる。それでどうなるわけでもないことは自分でもわかっていたが、やはりうれしかった。
春休みになると俺は残業するようになった。俺にとって残業は金と夕食を手に入れる手段だったから、喜んで残業した。
ある日、バイトが終わって駅に向かっていると、突然、
「森田君」
と声をかけられた。その声ですぐ酒井さんだとわかった。振り向くと、コートを着た酒井さんが立っていた。
「学校だったの」
「バイトの帰りです」
酒井さんは俺のそばに来た。顔を見ると目が赤かった。少し酔っているようにも見えた。
酒井さんも駅に行く途中だったらしく。俺と並んで歩き出した。
「森田君のアパート、近いの」
「二つ目の駅です」
「今日、泊めて」
俺は驚いて酒井さんの顔を見たが、酒井さんは俺を見ようとはしなかった。
「大丈夫よ、何もしないから」
「何もって、逆でしょう」
俺は無理に笑った。
「でも……狭いし、汚いし」
「平気よ」
断りきれずにいるうちに、酒井さんは俺の部屋についてきてしまった。風呂のない六畳一間の汚いアパートだ。家具らしいものは何もないので二人でいても窮屈ではなかったが、気詰まりだった。
「ずっと一人なの」
「はい」
「私も子供の頃からずっと一人よ」
酒井さんはコートを脱ぐと、勝手に押入から毛布を出し、壁にもたれて膝を抱え、頭からすっぽり毛布をかぶった。
俺は自分も布団を出し、反対側の壁にもたれて布団を羽織るように体にかけた。
「何か、あったんですか」
自分でも間抜けな質問だと思ったが、そう聞くしかなかった。何かあったに決まってるのに。
「アメリカに行っちゃったの」
毛布の中から酒井さんの声だけが聞こえた。
「あの人が」
「あの人って、四年生だった人ですか」
「知ってるでしょ」
「はい」
少しの沈黙の後、酒井さんは言った。
「電気消して。泣いてるところは見られたくないの」
俺は電気を消し、また布団を羽織った。
「一緒には行けないし。やっぱりだめだった」
「行かないでくれって言ってみれば」
「そんなこと言えるわけないじゃない。そんなことしたら、あの人、私のせいで夢をあきらめたことになるもの。ずっと前から、アメリカでミュージカルの勉強するんだって言ってがんばってたんだもの」
俺は何も言えなかった。
「二年で帰ってくるから待っててくれって言われたけど、そんなに待っていられないって言っちゃった」
「どうして」
「帰ってきた時には、私なんかの手の届かない人になってるもの。今までつき合ってくれただけでいいの。もういいの。バツイチってことも隠したままだったし」
「僕なら……」
坂本のことしか頭にない酒井さんに、その先を続けて言うことはできなかった。
次の日の朝起きてみると、もう酒井さんはいなかった。
うずくまったままの変な体勢で寝たので、体調はよくなかったが、俺はいつものようにバイトに行った。
二年生になり、新学期が始まった。また給食にありつける生活が始まったが、酒井さんはもういなかった。
「うちはもう募集停止で、生徒が減るだけだから調理員さんも一人減らしたんだって」
担任の言葉を聞いて、俺も岡田も井ノ原も口をとがらせた。加藤あいはそれを見て笑った。定時制は募集停止になったので、新入生が入ってこないのは知っていたが、それでこんなことになるとは思っていなかった。
「僕もがっかりだよ」
担任も心底がっかりしているようだった。
俺は、酒井さんはあの時にはこうなることを知っていたんだな、と思った。
そして、俺が酒井さんに会うことはもうなかった。
俺は今、あの時と同じように海を見ている。中古車だけど、自分で買った車であの時と同じ海を見に来たんだ。
酒井さんがいなくなって三年。俺は定時制高校を卒業した。岡田も三宅も加藤あいも卒業した。井ノ原も一緒に卒業できた。担任は、留年させると事務処理が面倒だから卒業させたんだと言っていた。
あれから坂本がどうなったのか俺は知らない。もしかしたらミュージカルの役者になっているのかもしれないけど、俺はそういうものに興味がないのでわからない。酒井さんがどこにいるのかもわからない。
こうして海を見ていると、あの学校にいる時に経験したことが何もかも夢のようだ。
「雨、やまないね」
助手席から声がした。
「そうだな。前に来た時も夕立だった」
俺は助手席に目を向けた。座っているのはもちろん酒井さんじゃない。でも、笑顔がよく似ている。歯を見せる笑顔ではなく、唇をきゅっと横に引く笑顔だ。俺は最初その唇を見た時、酒井さんを思いだした。でも、今、助手席にいるのは酒井さんじゃない。
彼女は言った。
「また連れてきてくれる」
「もちろん。また一緒に来よう」
「ありがとう」
彼女は俺の視線を避けるようにしてそう言った。
誰だってわけありなんだ。今俺の隣にいる彼女が何か隠していたっていい。俺は何を知っても言うだろう。あの時言えなかった、「僕なら……」の続きを。
この小説のアイディアは、3月にアクアラインを見に行って、木更津で食事をしたことがきっかけで生まれました。TOKIQには会えなかったけど、ここを舞台にしたらどうか、と思ったのです。ただし、食事をしただけで、あまり海は見ていないので、実際にこの小説に登場するような場所があるかどうかは分かりません。
(1999.6.12 hongming)
前編へ | ホームへ |