先週の人権講話の感想の中に,私たちが持っている学校差別・偏差値差別の意見が幾つかみられました。はたして「偏差値」をどうとらえているのでしょうか?
偏差値は悪くない,偏差値に左右される人間が悪い
「なんでもいいからどこかの学校に入りたい」「学校に入りさえすればいいのだ」「自分は行きたくないけど親が言うから…」「受験に失敗したらはずかしいから…」そんな態度の受験そのものを問いたいと思います。
実は,そのなさけない態度の受験生をなんとかめんどうみましょうとの親心でできたのが,とりもなおさず「偏差値」というものなのです。なんでもいいからどこかに入れるような,それもなるべく失敗しないような学校選び。そのための目安。それが「偏差値」というものなでしょう。「偏差値」が問題なのではあり ません。「偏差値」なんてものをたよりにしている生徒が問題なのです。「偏差値」なんてものに右往左往させられている受験生が問題なのです。
学校が人を選ぶのではなく,人が学校を選ぶのだ
自分が行きたいと思った学校に応募者が多ければ入りにくいのは当たり前。失敗なんて話ではないはずです。あるいはどう考えても理解できないような問題を出す学校は,こちらから願い下げ。よもや試験問題は軽く出来たところで,自分のセンスに合わなかった学校はやっぱりキャンセル。あるいは,そもそも学力だけで判断するような学校は選ばない。無意味な努力をしなくてはいけなさそうな学校は遠慮する。そんなはっきりした学校選びの態度を持つべきだと思います。さらに言えば,自分が本当に入りたいと思う学校はどこか,自分はそこに入って何をしたいのか,あるいは自分は本当に学校に入りたいのか,学習・学問を続けたいのか,その学校が持っているサークルなどでしたいということがあるのかなどなど,もっと積極的に考えてみるべきだと思います。
そして積極的に考えた結果,「学校へは行かない,学校は必要ない」という答えが出ることだって十分ありえると思います。行きたくなったら,必要を感じたら,そのとき学校へ行くということもありえます。それがあたりまえになれば,「偏差値」なんて自然消滅します。必要の意味が無くなるからです。
「学校はどちら?」って聞くような人の偏差値が低いのだ
学校に行っていないと恥かしいから,とか,いい学校に入れば出世できることになっているから,とか考えて,それをまた「偏差値」なんてものをたよりにして右往左往しているような人がいるとしたら,まさに,その人自身の「考え方の偏差値」そのものがそうとう低いと言わなくてはなりません。