私たちの夢を誘う"幻の城"、発見!

 

 "幻の高安城"は、天智天皇が築いた古代の山城である。日本書紀によると、この時期同じ目的で対馬・北九州・瀬戸内の要所にも同様の山城が築かれたが、高安城は王城の地飛鳥を守る最後の砦(とりで)として重要な位置を占めていた。幸い大陸からの侵攻はなかったものの、城は34年間維持され、大宝元年(701年)、廃城となったらしい。

 以来1300年、その位置や規模もわからない"幻の城"だったが・・・

 

 高安山は八尾市の東端で生駒山脈の南端にあるなだらかな山だ。大阪府と奈良県の境をなし、山頂のすぐ西に大阪管区気象台の高安山気象レーダー観測所がある。四国、中国、紀伊半島の雲の動きを観測し、持に西日本を襲う台風の見張番として活躍している。

 その白い気象レーダーがシンボルの高安山。6つの高安山ハイキングコースはそれぞれの趣で、ケーブルカーを利用すれば、山頂まで一気に登ることもでき、大阪平野はもちろん、運がよければ明石大橋を見ることもできる。

 
"幻の城"高安城は、昭和53年4月、高安山の東方、生駒郡平群町の山中で、八尾の市民グループ「高安城を探る会(棚橋利光会長)」が倉庫跡と思われる礎石群を発見し大きな話題になった。

 その後、橿原考古学研究所の発掘調査の結果、この礎石建物は廃城後の奈良時代初期(730年頃)のものであることが判明した。

 それでは倉庫跡ではなく城跡はどこにあるのか。その後も市民グループ「高安城を探る会」は"幻の城"高安城発見の夢を追いつづけた。

 

 あれから、およそ20余年を経て平成11年6月、ようやく全貌があらわになろうとしている・・・
 

 
大和朝廷最後の砦 高安城、幻の城壁 大阪・奈良府県境で発見
 古代朝鮮半島・百済の白村江(はくすきえ)の戦い(六六三)で敗れた大和朝廷が中国・唐の侵攻に備え、都を守る〈最後のとりで〉として築いた高安城の城壁とみられる石垣の一部が、大阪・奈良府県境の高安山(四八八m)の七か所で発見され、調査した奈良県立橿原考古学研究所の奥田尚・共同研究員らが十九日、大仮市で開かれた研究会で発表した。

 城域は南北2.1km東西1,2kmに復元できる。高安城はこれまで輪郭すらわかっておらず、幻の城壁の発見で、当時の緊迫した軍事情勢が浮き彫りになった。

日本書紀を裏付け
 奥田研究員と米田敏幸・大阪府八尾市教委文化財課係長が今年3月、高安山頂の北西300m(標高約380m付近)で、一辺が二1〜3mの方形の大きな花こう岩を二段積みした石垣が約100m続いているのを発見。

 石垣は、尾根先端を造成したと見られる平たん地を巡っていた。その後、さらに約300m間隔で五か所にわたり石垣を確認。いずれも同じ標高上にあり、五段分が残っている所もあった。大阪平野側がら攻めにくいよう、西側の城壁は稜線上でなく斜面に築かれていた。

 「横積み」と呼ぱれる石の積み方で、同時代の古墳の石室と共通するうえ、大きさなども古代の山城・鬼ノ城(岡山県総社市)と類似。「日本書紀」では天智天皇六年(六六七)に「倭国の高安の城を築く」とあり、奥田研究員らはこの石垣が高安城の城壁ど判断。高さは十m以上と推定される。

 山頂の東約1Hの奈良県平群町久安寺でも、幅十五m、高さ八mの土塁状の土手に石垣を加えた施設を長さ二十mにわたり確認。水門らしい地形も残り、ここが城壁の東辺とみられる。

 白村江の戦いで百済・日本連合軍は唐・新羅に敗れ、百済は滅亡。朝廷は国土防衛のため、対馬、筑後、讃岐など西日本の少なくとも六か所に山城を築造。高安城は首都直近の拠点だった。

 山尾幸久・立命館大名誉教授(古代史)の話「唐と敵対する対外的な緊張状況の対応に全力を傾けた天智天皇の政治のあり方が目に見える。日本書紀の記述が具体性を帯びてきた。


 
高安山(大阪・奈良府県境)の

斜面に埋まった巨大な石垣群・・・。」

 日本書紀に記された〈首都防衛〉のとりで・高安城の城壁の全容が十九日、大阪での古代学研究会で公表されると、研究者らはその威容に驚きの声を上げた。

 一九七○年代に地元の考古学ファンらの会が〃幻の城〃の探索に立ち上がり、奈良県立橿原考古学研究所も調査に乗り出した。激動の古代の軍事状況を物語りながら、二十年以上も見つからなかったモニュメントが二人の研究者の地道な踏査で初めて姿を現した。

 

 「おもしろいものがあるぞ」。今年三月十八日。小学校教諭をしながら同研究所の共同研究員を務める奥日尚さん(52)が大阪府八尾市教委の米田敏幸さん(43)と中腹にある高安古墳群の調査に出かけた時のこと。米田さんが振り向くと、古墳の南10mの草むらから石列がのぞいていた。

 以来、休日ごとに踏査を続けた。山道から外れた急斜面。立ち木にすがって斜面を下り、はうように上った。写真を撮ろうとしてがけから滑り落ちたことも。調査のたぴに石垣群が見つかり二人は、研究者らが探し続けた高安城に「間違いない」と確信を抱いた。

 西側斜面の六か所は方形に張り出した尾根の先端を平たんに整地し、それをめぐるように石垣が築かれていた。そこには他の古代城と同様、高い櫓を建てていたのか。ここに上れぱ今も大阪湾岸が一望でき、当時は、瀬戸内海を船で攻めてくる軍勢を監視していたのだろうか。

城壁が南北2.1kmにわたって山の西側斜面に連なり、所々に櫓が突き出すという壮大な城は、山全体が巨大な要塞のように見えたはずで、大和朝廷の威信をかけて築造したものにふさわしい。

 七六年に八尾市の高校教諭らがファンに呼ぴかけて「高安城を探る会」を結成したのが城の探索の始まり。二年後に奈良県平群町久安寺で倉庫群跡を見つけた。岩永憲一郎会長は「今も月一回は探索しており、石が多い所があるのは気づいていたが、急しゆんで防御施設はないと考えてきた。虚をつかれた」と驚く。

 同研究所などが調査委員会をつくり、八二年から九六年まで十七回、周辺を発掘。参加した菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)は「今回の成果を確実にするため一刻も早く測量や発掘調査をすべきだ」といい、森浩一・同志社大名誉教授(同)は「粘り強く歩き回った結果だ。足で稼ぐ考古学の基本を見せつけられた」と評価した。

(1999.6.20 讀賣新聞より)


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