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八尾空港

 昭和8年、阪神飛行学校として大正村に創設された。昭和14年、大正飛行場と改称された。昭和15年から陸軍専用飛行場となり、周辺の農地を強制収用して拡張された。敗戦とともに連合軍が占領したが、のち日本政府に返還された。昭和30年、政府は2本の滑走路を主体にして飛行場を整備し、八尾飛行場として開港した。

八尾地蔵大般若会

 八尾地蔵常光寺で、毎年4月大般若会がおごそかに執り行われ、本尊地蔵菩薩の宝前で多数の僧衆の集会によって大般若経の転読が行われる。
 その後お練りの供養がある。本堂から境内広場の中を一回りする形に設けられた渡り廊の上を、観音、勢至両菩薩の面をつけた信徒が先導となり、同じく地蔵菩薩の面をつけた本尊が練る。その後を集会の僧衆が続いて蓮華を散花し、ついでそれぞれに宝冠をつけ晴れ衣装で飾った数十人の稚児が練り歩き、本堂から出て再び本堂に戻るお練の行事が行われ、群参する参拝者でにぎわう。

八尾地蔵盆踊り

 古くから八尾地蔵の名で知られる常光寺で、毎年8月23日、24日の両日地蔵盆会が催され夜には盛大な盆踊りが行われる。この八尾地蔵の盆踊りをもとに伝わる音頭が、中河地地域の河内音頭として有名であり、いわゆるゆったりとした流し調で、俊徳丸やお染久松などの物語を詠みつづけて行く形式からきているものが多い。今も保存会の力で歌い継がれている。

八尾城址碑

 八尾神社社殿の裏にある。この地一帯を城町と呼び、東方に字木戸がある。八尾別当顕幸の拠城と伝え、楠木正成の戦死後は、ほとんど北朝方に占拠され延元2年(1337)10月南朝方の高木遠盛は、火矢を城内に射込み、学舎、仏閣、矢蔵、役所をことごとく焼いた。戦国末には、キリシタン大名池田丹後守教正の拠城であった。天正11年(1583)池田教正は美濃に移封され、城は廃された。

 なお八尾城所在地については、この碑に代表される八尾城西郷説のほか、八尾城八尾座説がある。これは長八尾村の一番南、旧大和川に面した地域に八尾城があったとする説である。「城ヶ後」「津官」などの小字名、堀跡と見られる池などから城があったとされる。

切支丹墓碑

八尾神社

 もと栗栖神社と称し、西郷、木戸両村の氏神である。祭神は宇摩志麻治命(うましまじのみこと)で物部氏の一族栗栖氏の住地としてその祖神をまつったものであろう。式内社で貞間4年(862)従五位下に叙せられ、古く牛頭天王と称した。明治41年八尾神社と改めた。

八尾天満宮

 八尾の天神さん。八尾寺内町の鎮守で、天穂日命(あまのほひのみこと)および菅原道真をまつる。
 恵比須神もまつられ八尾の八にちなんで八日戎としてにぎわっている。

矢作神社

 別宮八幡とも言われ式内社で経津主命(ふつぬしのみこと)をまつる。古く矢作連の居住地で、その祖神をまつったものであろう。
 境内に数本の大きなくすの木があり、社前の大イチョウは、幹に大きな乳房状突起が多く、この皮を煎じて飲むと母乳がよく出るとの俗信仰がある。
 なお、境内から出土したと伝える三角縁神獣鏡が伝わっている。これは八尾市の指定文化財となっている。

大和川

山本新田住友会所跡・山本小学校創設の地碑

 この地は大和川付替え後、宝永5年(1708)玉串川河川敷に生まれた山本新田を経営管理した会所跡である。山本新田は当初、山本庄兵衛・本山重英両人の開墾で、両人の名前から一字ずつとって山本新田と名づけられたといわれる。

 享保8年から大阪の住友氏が所有し、その後約250年を経た昭和15年(1940)まで住友所有地であった。会所跡は、その後山本八幡宮、さらに市に寄贈されて現在に至った。
 この間、明治6年(1873)、山本小学校の前身である河内第41番小学校もここに創設され、常に河内山本発展の中心であった。碑の横に力石を保存している。

山本八幡宮

 山本八幡宮の境内東側、玉串川ソ沿いにある。この地は玉串川を開墾した帯状の土地で、もとは新田に営まれた30軒余の寒村であった。宝永2年(1705)和泉の人で山中庄兵衛が、この新田の請負人となり、これに本山重英も参加して、この地を開発したという。
 現在5基の石灯籠があるが、このうち一対の灯籠に銘がある。この灯籠はもと神社の左右にあったが、神社改築後現地転へ移された。
 宝永5年(1708)検地を受け、この地は開発者山中・本山の姓をとり山本新田となり、その後享保13年(1728)に至って、大阪長堀の泉屋吉左衛門(住友)に移り、昭和15年9月まで同氏の所有であった。


由義神社

 祭神は素戔鳴尊(すさのうのみこと)で、古く牛頭天王といった。由義宮の設けられたときに勧請されたものと伝える。
 境内に由義宮旧址の碑がある。弓削道鏡が称徳天皇の信任をえ、その郷里に設けられた行宮で、神護景雲3年(769)西の京となし河内国は河内職とされた。宮域は大県、若江、高安の3郡にわたる広大なものであった。

弓削神社

 東弓削、西弓削二ヶ所にある。祭神は饒速日命(にぎはやひのみこと)と宇摩志麻治命(うましまじのみこと)。物部氏の祖神をまつり、物部氏一族弓削氏の本拠であった。弓削道鏡の出身地で、近くに由義宮、由義寺の跡が伝えられる。

弓代塚

 龍華中学の南方にある。高さ50cm周り4mの塚状に史跡弓代の碑がある。
 迹見赤檮(とみのいちい)が物部守屋を鏑矢をもって射たときに用いた弓を、記念として埋めた所と伝える。


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来迎寺

 聖衆山護念院来迎寺といい、浄土宗で阿弥陀如来を本尊としている。

 本来の由来は定かではないが、宝永6年(1709)4代目住職の筆という「開基建立之由縁」によると、現地に落ち着くまでには数ヶ所も変わっており創建は江戸時代の初期と思われる。

 付近一帯は高安古墳群で奥行き7mもある来迎寺塚がある。

龍華寺址

 安中小学校校庭に碑がある。昭和5年、龍華町の建碑によるもので、もとは西方の道傍に建てられていた。

麟角堂址



歴史民俗資料館

 文化財の保護・継承を目的とした「歴史民俗資料館」が昭和62年秋に開館した。この歴史民俗資料館は文化遺産の滅失、亡失、散逸を防止するとともに、収集保存された資料等を広く公開し、市民の文化財に対する理解と郷土愛を育む為の学習に提供される。



六ヵ地蔵

 八尾から庄之内を通って信貴山へ向かう道は、刑部の北で玉串川に達する。この玉串川西堤下に当たる刑部3丁目1番地小字茶屋之前にこの地蔵尊がある。
 ギ灰石の石棺の蓋を利用して作った石棺仏である。かなり風化していて顔形も分からず、時代も不明。六カについては八尾に関係する古地名の六カ辻郷、小字六辻口などとの関係が考えられる。


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八尾物語