[な]

長柄神社跡地

 古代には、長柄氏の氏神。江戸時代には庄之内村、東郷村の立会い氏神。八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)を祭る。明治40年10月9日、矢作神社に合祀される。昭和7年10月、東郷・庄之内の氏子が「式内長柄神社址」の石碑を建てる。

西郡廃寺址

 天神社境内の手水鉢は、西郡廃寺の搭心礎である。錦織連の居住地で、その寺院の地と伝え、八間堂の字名がある。

西ノ山古墳

 楽音寺のすぐ東方の独立丘陵を利用したもので、標高70mの所、もとは楽音寺の村落が、この東側にあったので西ノ山と呼ばれていたものが、後に村落が現在の地に移った後も、そのまま西ノ山の名が残ったものと伝えられる。

 前期に属する前方後円墳で、明治14年開墾中に後円部から朱詰めの石棺が発見され、その中から人骨、勾玉、刀剣、銅鏃などが出土した。

 現在後円部は高さ9m、直径27mあり触れると祟りがあるとして雑草の茂るままに放置されており、前方部は高さ5m、長さ28mあり耕されて植木畑となっている。

日羅寺

 高樹山日羅寺と称し黄檗宗で、南木の本の樟本神社境内にある。薬師如来を本尊とし、今その厨子は、延宝8年(1680)平野の豪家末吉勘兵衛利長の寄進によるものである。日羅が百済から帰朝して、阿都の桑市に地を与えられ住み、ここに一寺を建立して薬師如来をまつったのが始まりである。

沼の宝殿神社

 八尾市内にある神社建築では一番古く、江戸時代前期のものと見られている。一間社流造檜皮葺(いっけんしゃながれづくりひわだふき)で、覆屋内に保護されている。

 本殿は宝永7年、拝殿は正徳元年、表門・鐘楼は明治元年に再建された。

念仏寺

 念仏寺は龍興山念仏寺といい、融通念仏宗である。もと久宝寺の末院と伝える。

 寺伝によると、観音院は聖徳太子の守屋征伐のさい、祈願寺として創建され、観音像も太子の御作と伝える。


[は]

八王寺神社

 神宮寺の南端にある。古く常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)と称し、式内社で、宝亀7年(776)夏4月に、河内国大県郡の人正六位上赤染人足ら13人に常世連の姓を与えられていることがあり、この辺りに住人で、その祖神をまつったものであろう。
 今に安産の神として信仰厚く、宮座の風習が残っていて、宮座四家あり、その年の当家の家に願って、社殿のほうきでさすってもらうと、安産の効果著しいといわれている。


服部川八幡宮

 高安八幡宮ともいい御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、菅原道真公である。

 明治7年、玉祖神社に合祀されたが戦後分離独立し、旧地に遷座した。境内には江戸時代後期、清慶寺を復興した楽山上人建立の石造地蔵像がある。

 また、現在服部川会館に移置されている力石4個は、以前この境内にあったものである。

梅岩寺

 教興寺字岩にある。寿福山と号し、黄檗宗宇治万福寺末で、聖観音を本尊とする。もとは教興寺の一坊であったようで、庫裡の後方の畑地から教興寺の古瓦が出土している。山門の"寿福山"の扁額は、隠元禅師の筆である。
本堂北方の高台を国見台と称し、西方に摂、河の平野を一望の中に見ることが出来る。境内に横穴式石室を持つ古墳多く、国見台ももとは古墳であった。旧参道北側の所に古墳が2基あって、その中の西側の古墳は石室奥壁には、石棚を設けてある珍しいものである。
今は境内に桜樹多く、桜の名所として知られ、春桜花の頃には花見客で賑わう。

福万寺城址

 三十八神社の地をいう。城は南北朝時代に佐々木盛綱8世の孫、佐々木二郎盛恵の築いた所と伝える。
その城址に観請されたものと伝え、三十八神社は、天照大神、八幡大神、春日大神をまつる。俗に福万寺の総社と呼ばれ、前面は特に広い路となっている。

二俣

 旧大和川が、玉串川、長瀬川に分水するところで宝永1年(1704)10月、今米村の中甚兵衛らの40余年にわたる請願が幕府を動かし、川筋がつけかえられた後、東弓削や弓削の人々によって開墾され、二俣新田と名づけられた。

宝積寺址

 龍華操車場跡地の東辺、北側に渋川の天神社があり、鉄道線路を隔ててその南方の地域は、宝積寺と称し立派な寺院のあった所と伝わる。この地から白鳳時代の搭心礎が出土した。物部氏の氏寺という説もある。

法蔵寺

 信貴山口駅を降りて郡川の東方山腹にあり「大覚山法蔵寺」と称し、池田の曹洞宗陽松庵末で、正観音を本尊とする。江戸時代の中頃、ここには極楽寺という寺があった。

 寛延元年(1748)土佐の長宗我部氏の子孫の好山和尚が来て、この地に法蔵寺を建立、二世益州和尚共によく寺塔を整えた。

 境内に八尾環山楼主石田利清を初め石田一族の墓碑群がある。今は無縁仏になっている。

 また付近に古墳多く、山門前を東方に石段を上がると「清涼塔」がある。開山好山和尚の墓である。墓碑の下方は、巨大な後期の両袖式横穴式石室を持つ古墳で「開山塚」といわれ全長14mあり羨道の入り口は石段のすぐ下の所にある模式的な古墳である。

 付近はすべて植木畑で四季折々に風情がある。


[ま]

松の馬場

 東高野街道から、神立玉祖神社への参道で、街道に面して石の大鳥居があり、これからおよそ500mの間、以前は大きな松並木道になっていた。
 寛正1年(1460)閏9月、畠山政長が、当時若江城に居た畠山義就を討とうとして、大和の龍田に陣取りした時に、義就は逆に先手をうってこれを撃退しようとし、家臣遊佐国助らをして、この松の馬場に進出し、ここから二手に分かれて龍田に向かい、神南山の大合戦となった。
 義就は自らその後詰の軍として、この馬場に出陣してきたが、神南山の戦いに味方の不利を聞き、その救援のために急いで雁多尾畑(かりんどうばた)方面に廻ったが、時既に遅く、自らもまた敗退して西琳寺から嶽山城に逃げた。

万葉植物公園

 恩智城址公園の東側、高安山のふもとに万葉集に詠まれた草花や樹木を集め昭和59年に開園。

 アヤメグサ、フジバカマ、ツユクサなどの草花やカラタチ、ミツマタ、ウノハナなどの植物約80種500本が植えられている。

水呑地蔵

 神立から十三峠道の七曲りの急坂を登った東方山腹にある。立派な地蔵堂の南側に小祠があり石地蔵の前に二つのつぼがあって、こんこんと清水が涌き出ている。

 俗に弘法水と称し、弘法大師がこの峠を越える旅人のために祈願して得た霊水と伝わる。のち承和3年(863)に僧壱演が、ここに地蔵菩薩を安置して堂宇を設けたという。

 この清水は脚気など諸病に効験があるとして、日々七曲りの急坂を登る参拝者絶えず霊水としての信仰が厚い。現在、本堂に奉られている地蔵尊は元禄7年(1694)のものである。

御野県主神社

 この地は三野郷といい、玉櫛庄に属した三野県主の住地で、その祖神角凝魂命(つぬごりたまのみこと)、天湯川田奈命(あまゆかわたなのみこと)を祀り、式内社であった。
 県主は県の族長をいい、県は一説には皇族の直領地とし、または国造の支配する国に属する下級組織とされる。その美努連(みぬのむらじ)の本拠であった。正和3年(1314)には七条院領美濃勅旨田があり、永禄8年(1565)には美濃勅旨本役が八尾常光寺に寄進されている。


都塚

 河内志に「荒墳五有都塚村有紙園塚、弁才天塚等号」とある。都留美島神社の地を都塚、北方村の入り口を大塚、融心寺内のを祇園塚と呼んでいる。古く10塚あったので、なまって都塚となったという。古瓦片が多い。神社は式内社で、もと南方にあったのを、ここに移したものと伝える。

向山古墳

 大竹の東方にあり、独立丘陵上に設けられた西南方に面する前方後円墳で、後円部はほとんど採土され、また上部はすべて開墾され、植木畑となっている。標高70mの所にあり、前期古墳に属するものである。
 後円部の南側下部に、池に面して瓦窯址が発見され、竪穴式のものであったが、ほとんど破壊されてしまった。

 平安時代から鎌倉時代にかけての古瓦が、その下の池の中から発見されている。八尾市内では現在唯一の瓦窯址である。
 また付近から玉石の残片が出土することがあり、やはり、玉祖連に関連する古墳であろう。


目ナシ地蔵

 恩智神社の石鳥居のすぐ東側の所にある。俗に目ナシ地蔵といわれ、自然石のままの姿をしているものである。一説に恩智城の見付石といわれている。今はここに地蔵としてまつられている。



物部守屋墓

 市立病院の前方、奈良街道(国道25号線)に面してある。物部守屋大連を葬った所で河内鑑名所記や河内名所図会には、小さな塚上の岡の上に一本松のある姿が描かれている。
 明治の初め堺県知事小河一敏(おがわかずとし)が改めて立派な墓碑を建て、表に「物部守屋大連墳」と刻し、周囲に玉垣をつくり、左側に石灯籠一基を献じ、正面に石鳥居を設けた。

守屋池

 勝軍寺の門前にある小さな池。迹見赤檮(とみのいちい)が物部守屋を鏑矢をもって射たときにこの池で守屋の首を洗い太子に見せたという。俗に守屋首洗い池という。

八尾物語