[さ]

佐堂狐山

 杵築神社の後方東側にあった小さな塚状の土地を言う。俗称を狐山、正式には佐堂生が塚と言う。宮寺の土壇の跡と考えられる。開発にともない現在はその跡地に「佐堂生が塚跡」の石碑が立つ。

佐麻多度神社

 この神社は、式内社で当地山畑の産土神である。祭神は不祥で、旧社地は100m上の扇状地の谷口天神山にあったが、明治31年(1898)現地へと移った。
 境内には力石(165Kg)があり、明治初期にはこの石を持ち上げて力くらべをたのしんだ。

三堂学舎祉

 明治11年に吉川橦里の開いた塾で、町の人々に漢籍を講義し、初め塾生は10名であった。橦里は吉川武次郎といい、木戸村の生まれで、長じて京都に行き、池田陶所や貫名海屋に師事し、一時は海屋の養子となったが、のち大阪に出て中国貿易を計画して失敗し、郷里木戸村に帰って書を講じた。明治34年2月没、墓碑は常光寺の境内にある。今の碑は、改築されたブロック塀の中にはめ込まれている。

志紀

史跡めぐりコース(約6.5Km)

JR志紀駅前〜西村市郎衛門碑〜弓削神社(弓削)〜神剣神社(田井中)〜五条宮趾〜天王寺屋地蔵〜定善寺〜渋川神社〜JR八尾駅前

 

信貴山城址

高安山の山頂部の小字を出城という。松永弾正久秀の出城が築かれた所という。山頂部は大きく削平されていて、三つの部分に分かれる。本丸、二の丸、三の丸といわれる曲輪(くるわ)で典型的な中世山城となっている。

  

信貴道

 教興寺四つ辻から信貴山毘沙門天ヘ向かう参詣道で、今も町石や道標が数多く残っている。

渋川神社

 植松にある式内社で天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)および饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつる。もとは長瀬川を隔てて東岸、安中の東部にあったのが天文2年(1533)5月の大洪水で全域流出した。のち、ようやく元亀3年(1572)にいたって、もとのお旅所であった今の地に移建されたと伝わる。

釈迦寺山跡

 真観寺の東北、おおよそ300mにある。白髭大神、釈迦丸大神の碑がある。古くは大きな榎木が繁り、周囲には朱を塗った玉垣がめぐらされてあった、一説には戦国時代畠山昭高建立の釈迦寺の跡と伝わる。

シュミイ地蔵

 恩智地域の東高野街道に面して東側の地蔵堂にある。俗にシュミイ地蔵と称し高さ136cmの花崗岩石に、高さ1mの地蔵菩薩の立像が陽刻されてある。

俊徳丸鏡塚

 俊徳丸の塚と伝え、この付近を長者屋敷という。謡曲弱法師や浄瑠璃合邦ケ辻で名高い俊徳丸の故地として有名である。

 しかし、この塚は本来は横穴式石室墳であって、玄室の奥には石塔がある。表には実川延若寄進の焼香台がある。

真観寺

 亀井にあり、万松山真観禅寺と称し臨済宗南禅寺金地院末で、八尾地蔵常光寺とは兄弟寺である。応永1年(1394)管領畠山尾張守満家の発願によって、叔父の南禅寺大業徳基禅師を開山として創建したもの。

 境内墓地には、三好長慶、同義継の墓を初めとして、その一族の墓碑と考えられる小五輪塔群がある。

心合寺山古墳

 大竹の西方にあり、環濠式前方後円墳で5世紀頃のものといわれ古墳時代中期に属し、この種の古墳の大阪府下における北限のものである。

神妙椋

 勝軍寺の境内にある椋の老樹を神妙椋と称し、周囲を玉垣でめぐらしてある。聖徳太子が、物部守屋を攻めた時、非常に苦戦となって危うくなった時に、太子がふとこの椋の木の側によると幹が割れていてその身をかくまわれて危難を免れ、ついに守屋を討ち滅ぼすことが出来た。このため神妙椋としてまつり寺号を椋樹山と称する。
 この椋の老樹、今はわずかに形を残すのみである。

慈願寺

 福井山と号し、弘安3年(1280)久宝寺村に建立。慶弔11年(1606)東本願寺につき森本行誓ら17人衆によって八尾に移り、院家として八尾御坊大信寺の役寺になり南御堂、橘御堂と称された。(本町

寺内町

 市内には本願寺蓮如上人の布教によって、八尾御坊大信寺を中心とした「八尾寺内町」久宝寺御坊顕証寺を中心とした「久宝寺寺内町」萱振御坊恵光寺を中心とした「萱振寺内町」という環濠集落が戦国時代に形成された。



十三街道

十三街道は大阪玉造から八尾市の神立をへて十三峠をこえ奈良に向かう。

市内に道標が残っている。

常光寺

 臨済宗南禅寺派の寺院で山号は「初日山」。狂言『八尾』、『八尾地蔵』で知られている。縁起によれば藤原又五郎太夫盛継という人物が病にかかったが、草堂に祀られていた地蔵菩薩像を信仰していたおかげですぐに本復し、これを知った近隣諸衆の参詣が増え、至徳2年(1385)に東郷と西郷の住人によって寺域が広げられ、新しいお堂が建てられた。この時期の室町将軍・足利義満は「初日山」と「常光寺」の扁額を送り、造営事業の協力をしている。そして、至徳3年(1386)には地蔵菩薩像が新堂に安置された。これが現在の常光寺になったとされている。この縁起に登場する藤原又五郎太夫盛継と伝えられる人物像と「旦那又五郎太夫」の銘のある鰐口、そして地蔵菩薩立像が八尾市の指定有形文化財となっている。また大坂夏の陣(1615)のときに藤原高虎は寺の縁側で首実験をし、その縁板は現在血天井として残されている。他に藤堂家の家臣70余人の墓や楠木正行の家臣であったといわれる八尾別当顕幸の五輪塔がある。毎年8月23・24日行われる地蔵盆会は有名で、河内音頭による盆踊りは河内の名物である。

神宮寺小太郎塚

 神宮寺の南端、八王子神社の傍にある。神宮寺小太郎は、当地の豪族で恩智左近と共に南朝方として戦功があった。

神宮寺墓地

 行基菩薩の作った、いわゆる河内七墓の一つ。戦国時代末の天文、元亀、天正などの年号の入った小五輪塔が無数にある。

神光寺

 曹洞宗蔭涼寺末で、医王山薬師院神光寺と称する。現在の建物は享保年間(1716〜1736)に万徹和尚の再建と伝える。本堂前の扁額の「天玄堂」の文字は徳川光国が帰依した東皇心越の書である。また、本堂北角の墓地には江戸時代の町人塾である「懐徳堂」や「含翠堂」の創始者達の墓碑が建てられている。現在、参道には桜並木があり、山門から大阪平野が見渡せるため、春は賑わいをみせる。

善光寺

 垣内字堂の上にあり、不断山善光寺と称し、融通念仏宗大念仏寺末で、弥陀三尊仏を本尊とする。
 その昔推古天皇の時、信濃の本田善光が、難波の堀江に投げ捨てられた仏像を拾い、そのお告げによって信濃に帰る途中、垣内に一泊した縁によって、善光は信濃に善光寺を建立するとすぐ翌年に、再び垣内に来て、その分身をまつり一寺を建てたという。それゆえ信濃の善光寺に対して、ここを俗に元善光寺といわれている。

○善光寺のお通夜(ぜんこうじのおつうや)

 垣内の善光寺で行われる年中行事で、毎年4月と9月の両月の16日の夜行われる。 16日の夕方から善男善女群参し、蝋燭講(ろうそくこう)の世話役は、長い柄のついたかごを廻してお賽銭を集めて灯明をささげ、念仏講の人々は念仏踊りを奉納、深夜ともなると色々な芸が出て賑わい、お通夜が行われて、夜明けとお共に読経の後、本尊の御開帳が行われて、血脈が授けられて行事は終わる。
古くは東高野街道筋を、楽音寺あたりからの参詣の人々の列がひきもきらず終夜続いたという。

善光寺の楠(ぜんこうじのくす)

 経内にある大楠樹で、幹回り6.27m、高さ25mあり、およそ800年の樹齢を保っているもので、昭和24年大阪府顕彰天然記念物に指定されている。本田善光が、信濃に帰って再び垣内に来たとき、そのついて来た杖をここにつきさしたものが、芽を出して大きくなったものと伝説がある。昭和61年4月、八尾市保全樹木に指定された。



[た]

大聖勝軍寺

 国道25号線(旧奈良街道)沿いにある。門前には「仏法元始・聖徳太子古戦場」の大石柱が立っている。聖徳太子の開基とされる。墓のある叡福寺を上の太子、野中寺を中の太子というのに対し、下の太子または太子堂とも呼ばれている。現在の太子堂は文禄年間(1592〜95年)の再建である。本尊は太子がみずから刻んだ植髪像があり、その脇に弓矢をもつ四天王像を祀る。多くの仏像、寺宝をもち、なかでも「木造二臂如意輪観音思惟半跏像」、「胎内仏金銅菩薩思惟半跏像」、「木造日夫坐像」、「木造毘沙門天像」、「色々威胴丸、兜、広袖付」が府指定有形文化財となっている。境内には椋の老樹があり、神妙椋と称して玉垣がめぐらしてある。太子が物部守屋を攻めて苦戦となり身があやうくなったとき、この木のそばに寄られると、木の幹がわれ開いたので太子はそのなかにかくれて危難をまぬがれたという。付近には守屋の首を洗った守屋池や鏑矢塚、弓代塚などがある。

高地蔵

 多嘉地蔵とも記し、光明寺門前にある。もと廃西方寺の石仏で、東方の字京良塚の立石街道沿いにあったのを移したものという。高さ214cm、半肉彫りの立像の両側に、南無阿弥陀仏 文明三辛卯十一月日 八尾西方寺福舎院金剛仏子高範とある。文明3年(1471)のもので、市内有数の石仏の一つである。

高塚地蔵

 西郡と萱振との間、八尾北高校の西側にある。高さ130cmの船形の自然石に地蔵菩薩の立像が半肉彫りしてあり、鎌倉時代正安3年(1301)のもので、市内でも古い石仏である。

高安城址

 高安山は俗に鉢伏山ともいい、標高488m陸地測量の三角店の標識がある。ケーブル高安山駅終点の北方にあり極めて見晴らしよく、西は大坂平野が一望出来ると共に、また東は平群谷となり、大和平野の飛鳥の土地もよく見晴らせる所にある。

 日本書紀によると百済救援に向かった日本軍が、白村江(はくすきのえ)の戦いで唐の大軍に大敗し、百済は全く新羅(しらぎ)のために滅ぼされ、かえって日本は、唐、新羅の侵攻に備えねばならない情勢となり、讃岐の屋島と共に、天智天皇はその6年(667)に、この高安山に上られ、ここに高安城を築き、また烽火台がおかれた。城はここから信貴山大門池に至るかなり広い地域にわたり、峰々を連ねて柵が構えられ、その後、天智天皇9年に修理した時には、米や塩の貯蔵庫が置かれた。

 のち文武天皇の大宝1年(701)には、高安城は廃止され、その後和銅5年(712)には高安烽(とぶひ)もまた廃止されて、高見烽が生駒山のすぐ南の天照山におかれた。

なお、高安城は古代では「たかやすのき」と読む。

高安千塚古墳群

 服部川の東方山服、扇状地一帯は、後期横穴式石室古墳の群集地で、高安千塚の名で呼ばれ府下最大の遺跡地である。高安古墳群と通称される。

 この辺りでは俗に塚穴といわれ、円丘状の小高い土盛りの中に、大部分は西南向きに、ぽっかりと口を開いて大きな石組の入り口が見える。この付近一帯でおよそ150基を数えるほど密集していて、すべて小型のものである。標高110〜200m位の地域に最も多く、標高380mの辺りにも僅かにある。

高安山

 高安山は俗に鉢伏山ともいい、標高488m陸地測量の三角店の標識がある。ケーブル高安山駅終点の北方にあり極めて見晴らしよく、西は大坂平野が一望出来ると共に、また東は平群谷となり、大和平野の飛鳥の土地もよく見晴らせる所にある。

 高安山は、市民の憩いの山として一年中ハイキングの人々に親しまれている。高安城は、この高安山頂から信貴山にかけての山地に営まれた。

竹渕神社

 天照皇大神宮を祭る。昔は水田の中、周囲を濠で囲まれた神社であったが、住宅地が接近してきたため、昭和44年、周濠(宮池)の一部をうめたてて神域を広くした。竹渕の名は、神武天皇が長髓彦に襲われたとき、この地にあった大竹薮にかくれて難を逃れたという言い伝えによる。

立石街道

 八尾から山本を通って山手の服部川に通じる旧道を立石街道と言う。この道は八尾の東はづれ、現在の本町2丁目のところで庄之内から刑部をへて教興寺へぬける信貴道とわかれる。

玉祖神社

 神立の東方山腹にある式内社で、玉祖明神とか高安明神といわれている。高安11カ村の氏神で、和銅3年(710)周防国から分霊を勧請したもので、その際住吉の津に上陸し、恩智神社に泊った後、ここにまつったという。
櫛明玉命を祭神とする。玉祖氏の氏神で、古くからこの辺一帯に玉造部の人々が住んでいたので、その祖神をまつったものであろう。ここを通る十三街道の起点が、大阪の玉造である事も、その地名からして何らかの関連性があったのであろう。

 向山の付近で玉石の破片が時に発見されている。神社の宮寺として、僧壱演の開基と伝える薗光寺竹之坊が、石段下すぐ右側の地にあったが、明治初年の神仏分離の際に廃寺となった。
 もと神体であったという男女二体の神像が現在保管されていて、昭和40年1月大阪府重用美術品に指定された。
 男神像の服装の襟の立っている形が特異なものである。また、文治1年(1185)12月の北条時政の政札があり、重要文化財に指定されている。
社殿は享保10年(1725)の再建と伝え、風雨におかされてはいるが、その極彩色の装飾がなお美しい。 また、玉祖神社は寺宝が多くある。慶長の石灯籠(豊臣秀頼寄進)、北条時政制札(1185)、男女神像などがり、さらに八尾市内の三大樹として名高い。玉祖神社の楠がある。

大信寺

 真宗東本願寺の別院。慶長11年(1606)久宝寺村の森本七郎兵衛ら17人衆は、東西両本願寺の分立に際し、東本願寺に属し村を出て八尾庄4町4方を与えられて開発移住し八尾御坊を建立し寺内町をつくり八尾発展の基を開いた。(本町)

大門地蔵

 植松中之町の真宗称念寺門前の地蔵堂にある。龍華寺の大門のところにまつられてあったものという。現在仏頭に当たる部分が欠如しているが高さ126cmの花崗岩に立像の地蔵菩薩が半肉彫りされてある。昔何物かに袈裟切りに会ったために仏頭を欠いているものと伝わる。

力石

 山畑の佐麻多度神社境内に残っているものである。一般に村の鎮守の境内とか、集会所前の広場などにあって、村の若者達が、夏の暑さのつれづれに、夕方からここに集まって、この力石を持ち上げて各々の力をためし、力比べをした。

 村の青年たちの娯楽であり、また体験にも役立った。さし石ともいう。 石の重さによって、1石3斗石、1石石、麦石等と称されて、大体に各々その重さが決まっていた。またさし上げ方も、肩上げ、両ざしなどとあげかたを規定しているのがならわしだった。山本の労働会館前にも数個保存されている。

使い場

 平野川筋には、江戸時代に柏原船が運行し大坂京橋と柏原間の物資の運送が行われた。使い場は平野川沿いの村で物資の揚げ降ろしをしたところである。

都夫久美神社

 式内社の神社で、都夫久美という社名は新撰姓氏録の河地神別に見える積組連という氏族の名に由来すると思われる。創立の年代は未詳である。

 神社名になっている積組連は、物部氏の一族で高安山麓に住んで、この神社を氏神と仰ぎ奉っていた。本社はこのように古い伝統のある神社であるが物部氏の滅亡のため一族の積組氏の勢力も振るわなかったので、その氏神である本社も大社になることができなかったものと思われる。明治40年12月6日、神社統合で玉祖神社に合併された。御神体は玉祖神社へ移され社殿は佐麻多度神社の境内末社である天満宮の本殿として移築された。

 その後昭和49年10月13日、65年ぶりに社殿を新築、復興し、御神体も玉祖神社から帰った。この神社にも力石が2つ残っている。

天台院

 紫雲山天台院といい、比叡山にある天台宗総本山延暦寺の末である。開基は南朝の勤王僧として没した文観上人と伝えられるが、つまびらかではない。天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論(しゃくまかこうろん)」の奥書きによれば、上人は南朝2代に仕えた小野大僧正文観坊弘真として、太平12年(1357)10月9日、同時住生院において80歳で入滅したとある。これにより、上人は後宇多天皇の弘保1年(1278)、即ち鎌倉では執権北条時宗のころに誕生したことがわかる。上人は播磨国法華山一乗寺で天台数学を学び、さらに真言律を北条寺で修め、壮年四天王寺に遊び、また河内国に錫をとどめていたという。このとき河内に小庵を結んだとあるが、これが天台院であろうか。

 境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があるが、この上人は八宗兼学の大徳といわれ、この院に幽接すること6年、村人から仏のごとく敬愛されたという。いまこの碑の前方に知恵の沸く水といわれる井戸があるが、銘水「智道の水」として名高い。

 今東光和尚が本山から特命住職として派遣されたのは昭和26年である。当時の天台院はボロボロであったが、今ではコンクリート製の立派なお寺となっていて、その面影はない。和尚はこの天台院で住職として、作家として、また政治家として24年間も住み、河内を舞台とした数々の名作を生み一躍この地は世の脚光を浴び、天台院は河内の新名所としなった。昭和52年佐倉市で没し、墓は東京上野の東叡山寛永寺第三霊園にある。

天王寺屋地蔵尊

天王の森

 恩智神社の旧社地で、お祭りの時の御旅所となる。天王の森というが、現在はほとんどが、広場となっている。広場中央には境外末社の八坂社(祇園社)の小さな祠がある。祇園社の神は明治以前は牛頭天王と言った。天王の森の名は、この牛頭天王に由来すると思われる。神社では、織田信長の時に牛頭天王を祀ったとするが、「恩智社代々言伝書」などからみると、中世の神仏混淆の時代に恩智一の宮の祭神として牛頭天王を祀った時期があったとものと思われる。


桃林堂・板倉家住宅

 八尾で最古の町家と考えられている。この町家は江戸時代より河内木綿を扱う木綿問屋の家であったが、大正時代に板倉氏が買い取り、桃林堂の本宅となった。母屋は切妻萱葺き屋根のいわゆる高塀造りの典型的建物である。
 もとの土間の部分は今は店舗になっていて大きく改造されている。しかし居間の部分はよく建築当時の四件間取りの形式が残っている。建築年代は18世紀前期までさかのぼる可能性もある。平成11年2月、国の登録文化財に選ばれた。

伴林光平碑

 大正3年50年忌に、光平の住んでいた教恩寺の跡に、伴林会によって立てられたもので、表に贈従四位伴林君光平碑とあり、裏面には長文の碑銘が刻まれている。

ドルメン古墳

 高安古墳群のうち北部地区のかたまりの中の古墳の一つ。封土がなくなり、羨道や玄室のほとんどの石が持ち去られて一枚の大きな天定石とそれを支える両側の積石のみが残る。

 この形があたかもヨーロッパに見られるドルメンという新石器時代の墓に似ているので名づけられた。明治時代、坪井正五郎博士が人類学雑誌にドルメンの名を持って発表したことに始まる。まわりの古墳は、ほとんどなくなっている。


八尾物語