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垣内一里塚

 

 東高野街道から垣内に入る傍らにある。高さ1mの塚状の地の上に一本松が生い茂っている。これを一里塚という。また街道に面して高さ150cmの自然石に"法華塔"とある碑が建っている。江戸時代文化7年(1810)6月15日の建立である。

 善根時、四条、楽音寺にも古くは残っていたようであるが、今はいずれもなくなっていて、ここのみがその名残を示しているものである。
東高野街道は、俗に京街道とも称し、京都と高野山の間の往還路であり、また熊野権現参詣の陸路でもあって、平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の歴代天皇を始め、諸公家たちの高野信仰、熊野信仰のために、幾度となく行列美々しく通り過ぎていったことであろう。
 鎌倉末から南北朝時代には、京都と南朝方の軍勢の出会い道となり、戦国時代には、畠山一族、三好一族などの合戦の通路となり、はては元和の大阪夏の陣と、その重要性は大きなものがあった。
江戸時代には、貝原益軒がその著「南遊紀行」に、"河内の山の根の道"と呼んでいることもまたこれを語るものである

鏡塚古墳

大竹の西方、東高野街道のすぐ傍にある。標高17mのところにあり、俗に松山とか腹痛山といわれ、古くは多くの松樹が繁り、またここの土をいじると腹痛を起こすという伝説がある。

古墳時代中期末の環濠式前方後円墳かといわれる。以前に半ば以上採土されたが、その跡に小神祀をまつり、入口の所には「鏡塚寶山神社」の碑が建てられて、大阪府史跡として保存されることとなった。墳丘の上部には粘土槨が残り、また火葬跡が2ヶ所発見され、石櫃の蓋の破片が出土している。これもこの古墳の跡に、後にここで火葬が行われて相ついで葬られたものである。

昭和34年4月大阪府顕彰史跡に指定された。

柏村新田

 玉串川すなわち旧大和川の河床地で、宝永1年(1704)大和川付け替え後、太田の柏原仁兵衛の開墾したところで苗字の一字をとって柏村新田と称した。鎮守稲荷神社がその名残を残している。

加津良神社

 もと牛頭天王と称され、この地方の産土神(うぶすなのかみ)とされた。式内社である。萱振の地名は、この神社の祭事のとき神前で萱の松明(たいまつ)を振って神を鎮めたということに由来している。毘沙門堂、その他伽藍の旧跡がある。

鏑矢塚

 八尾市立病院西側に鏑矢塚と記した碑がある。もとは塚状の地であった。物部守屋を迹見赤檮(とみのいちい)が鏑矢をもって射ぬいた鏑矢が落ちたところ。その矢を記念として埋めた所と伝える。

萱振遺跡

 古楠根川ともいうべき河川の左岸部に築かれた弥生時代から室町時代にかけての遺跡。昭和57年、大阪府八尾北高等学校の設計にともなって発掘調査された。主な出土遺構には古墳時代前期の方形墳(かやふり1号墳)、方形周溝墳、奈良時代の掘立柱建物群、刳船を転用した井戸などがある。

時代別遺構、遺物の概略

縄文時代
 弥生時代前期の自然河川の覆土である砂層から数片の縄文晩期の土器片が出土。

弥生時代前期
 弥生時代前期の土器片、サヌカイト片が出土(摩滅しており、付近の遺跡から流れてきたものと考えられる。)

弥生時代中期
 大畦畔状の遺構と多数の足跡と溝が検出。

弥生時代後期
 大量の土器や木製品、植物遺体等出土。絵画文や胴部穿孔を含む大量の土器が出土。

古墳時代初期
 祭祀遺構かと考えられる布留式土器の集積が検出。滑石製の勾石、臼玉が出土。

古墳時代前期
1 辺27mの方墳(幅約5mの浅い周濠を伴う)。鰭付円筒埴輪が0.8〜1m間隔で並べられていたらしい。4・5本に1本の割合で朝顔形円筒埴輪をまじえていたらしい。

奈良時代
 遺構は6棟以上の掘立柱建物が主軸を東西南北に合わせて配置されている。
規模は柱間寸法2.1〜3mほどで2×4間程度のものが多く、3×4間の大きな倉庫を含んでいる。
 建物群の中心で井戸が1基検出されたが、これは井戸枠に刳船を転用したものである。
 8世紀中頃の土器、須恵器、墨書土器、製塩土器などが多量に出土した。
遺物には他に銅製帯び金具(丸鞆)があるが大きさから7位相当の官人のものである。

平安時代
 井戸が1基。曲物を井戸枠としており、底から黒色土器碗が出土。

鎌倉・室町時代
 多数の井戸が検出。(ほとんど曲物を井戸枠としている。
また、奈良・平安時代の瓦片を積み上げた井戸も検出されており、瓦の由来に関して西郡廃寺との関連も考えられる。)

萱振1号古墳

 古墳時代前期の方形墳。古墳の検出された畑は、もともと「高塚」の畑と呼ばれていて、周囲の水田から一段高くなっていた。

近くに高塚地蔵もある。古墳は一辺約26mの方墳で、幅5mほどの周濠がめぐっていた。墳丘はすでに削平されていた。墳丘の縁辺には直径40cmの鰭付円筒埴輪、家形埴輪、草摺形埴輪などの破片が混じっていた。このうち靱形埴輪は、高さ約180cm、最大幅110cm巨大なものである。これは全長200mをこえる前方後円墳である奈良県宮山古墳出土のものよりさらに大きく精緻で、日本最大のものである。直弧文が美しい。河内平野の小規模な方墳にともなって発見されたことは非常に興味深い。埋葬主体部は残っていなかった。


萱振環濠集落

 萱振の町は周囲を幅2〜3mの環濠が今もめぐっている。これを環濠集落と言う。大和川の低地部であるため、排水や水よけのために環濠をめぐらしたとも言えるし、また浄土真宗の恵光寺を中心とした一向宗徒の村であったので戦国末期に防備をかねて、こうした形態になったとも考えられる。このため村の入り口は限られていた。古い入り口は東口、西南から入る西口(もと南口)がある。西口は八尾西郷からの入り口で、入り口近くの外側をシロンドと言う。もとは一段低い土地であったと言うので萱振城の所在地と言うより環濠の広い部分に当たっていたと考えられる。

河内県庁

 明治2年1月、河内県が設置され大信寺内の対面所に県庁が置かれ、知事らが赴任した。同年8月、堺県の設置にともない河内県は廃止となった。大信寺境内に県庁址碑があり昭和45年に大阪府の史跡に指定された。(本町)

河内木綿

 大和川の付け替えによって、旧川筋の新田を利用し綿つくりが盛んになったようである。農家の副業として手紡ぎ、手織りの商品が取引され寺内町には木綿問屋、肥料しょうが軒を連ね河内随一の市街地が形成された。しかし、近代紡績の発達や、安い輸入綿に市場を奪われ衰退した。

環山楼

 江戸の中期、。当時、八尾の豪商だった石田利清がつくった郷塾。
命名は儒者伊藤東涯、学舎から高安、二上、金剛の山並みを一望し、その景観をめで環山楼と名づけた。

感応院

 恩智神社社々殿のの直ぐ下の所にある。天川山感応院と称し、真言宗高野山普門院末で、もとは恩智神社の神宮寺で、不動明王を本尊とする。俗に神宮寺の名で通っている。
 観音堂には木像十一面観音をまつり、材は母木(おものぎ)といわれ、平安時代のもので、重要文化財に指定されている。


木村重成墓

 元和元年(1615)5月6日早暁、大坂城から若江に進んだ木村重成は、激戦の後、井伊隊の庵原朝昌(いはらともまさ)の槍につかれて戦死した。遺骸はここらに葬られて塚がつくられた。宝暦14年(1764)重成の150回忌に当たって、重成の首を貰い受けた安東長三郎の子孫の次輝が、その菩提を弔うためににここに墓碑を立てた。
 墓石を削って飲むと、勇気が出、勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸くなっている。また墓前の松の葉を布団の下に敷いて寝ると、子供の寝小便や夫の浮気に効があると伝える。

久宝寺城址

 字城土居(あざしろんど)とよばれた。
畠山満基の居城とつたえられ道頓堀を開いた安井氏の祖先と言われる。

教興寺

 獅子吼山大慈三昧院教興寺(ししくさんだいじさんまんいんきょうこうじ)と称し、一名高安寺ともいい、俗には藪寺の名で知られている。真言律宗西大寺末で、古く秦寺といわれ、聖徳太子が物部守屋を討ち滅ぼされたとき、秦川勝に命じて建立させたものと伝える。
 境内の南方に寺池、大門池と称する池が今もあって、その昔はいわゆる臨池式伽藍の形式をもった大寺院であった。大通寺、梅岩寺、意満寺などはその塔頭であったという。

 鎌倉時代に西大寺の叡尊が、南河内方面に布教の帰途、信貴坂から見えたあまりに荒れ果てた当寺の姿を見てこれを尋ね、その由緒ある寺院である事を聞いて発願し、各地に浄財を募ってこの寺を復興した。そしてここに仏舎利を納め、また蒙古幸福の大祈願を行った。
 足利直義が諸国に安国寺及び利生塔を設けたが、その中河内の国は利生塔は、当寺に設けられたといわれる。しかし永禄5年(1562)ここに陣を取った河内の国の守護畠山高政は、三好義興と松永久秀の軍勢が押し寄せた為、いわゆる教興寺合戦となり、あえなく敗れて退き、教興寺は焼かれてしまった。
 江戸時代になって、延宝7年(1769)に寛彦浄巌和尚が当寺に入り、これを再興した。浄巌は錦部郡鬼住村の人で、高野山に上り、真言律を極め、梵語を研究した学者で、五代将軍綱吉やその側用人柳沢吉保の信仰を得て、江戸に行き、瑞雲寺や霊雲寺を建立し、元禄10年(1697)には、高弟蓮体和尚にこの教興寺を譲って江戸に移り住んだ。有名な僧契沖も鬼住の延命寺で浄巌和尚に灌頂をうけ、悉雲の教えを受けた一人である。また近松門左衛門も当寺に住み、その墓もあったといわれている。
 しかし明治18年の大暴風雨のため、本堂も崩壊してしまったので、客殿を仮本堂として現在にいたっている

切支丹墓碑

 もと西郷墓地にあった。高さ85cm、砂岩で船形をなし表面周辺を縁取りした中に大きく花十字を刻し、IHS,満所、MANTIO(但しNは逆字になっている。)天正十壬午年五月二十六日とある。昭和10年重要美術品に指定された。
 八尾城主池田丹後守教正は、教名シメアンという切支丹で従臣800人はすべて切支丹だったと言う。

この墓碑は当地域におけるキリシタン最盛期の遺物として貴重なものである。(本町6 岡村邸にある)
八尾城址碑

楽山上人墓

 楽山上人は、堺の生まれで、自ら地蔵菩薩の再誕と信念を持ち、8歳で仏門に入り、初め晃山と号した。20歳の時、木戸村清慶寺に入り荒れ寺を復興し大和の詮海和上に師事し、また高井田長栄寺の智憧和上に真言律を受けた。

 常に念仏加持によって足の不自由な人々をなおすなどの奇瑞をあらわし、八尾の生き地蔵といわれ弘化3年(1846)には光格天皇の皇后新清和門院の病気を加持祈祷して験があった。その際の拝領品は今に寺宝として残っている。
 浄源坊墓地の大きな石地蔵は、その墓で今に信仰厚く、墓前のかめの水は歯痛に効験があるとの信仰がある。

樟本神社

樟本神社(北木の本)

樟本神社(木の本)

樟本神社(南木の本)

 北木の本、木の本、南木の本にそれぞれ一社ずつある。式内社で、延喜式に「樟本神社三座」とある。この辺一帯は物部氏の住地であったから、その祖神をまつったものであろう。

黒谷高札場

 いま黒谷の旧庄屋坂本の門前にある。江戸時代かに幕府や領主などからの御達しやお触れ書き等を板に写して、こうした高い所に掲げて示した所からこれを高札といい、その場所を高札場といった。一般民衆にお達し書などを周知せしめるためにの施設である。

 年貢の免定を初め、禁止の条項とか、色々の法令を記したものなどが掲げられ、明治6年(1873)まで使用された。
この高札場は、文字通り屋敷そのものが高くなっている為、高さ170cmの石垣の上に、立派に瓦着きの屋根をもって、正面幅150cmの高札場が、設けられていて、下から仰ぎ見るようにされている理想的なものである。
 かつては大竹の松本家の門前にもあったが、いつのまにか取り除かれてしまって、いま市内ではこれが唯一の珍しいものである。


顕証寺

 真宗西本願寺別院で、連枝の格式をもつ。文明2年(1470)蓮如上人布教の後、西証寺を建立。子実順を住持としたが、その子実真が早世したので、近江大津の顕証寺蓮淳を向かえて住持とした。顕証寺と改め河内十二坊の総支配をつとめ寺内町をつくり安井氏にその寺内の支配をゆだねた。

神立茶屋辻

 茶屋辻は、神立の十三峠道に当たる辻をいい、昔ここに茶屋がならんでいた事による名である。いわゆる業平伝説で名高い所である。

許麻神社

 もと牛頭天王と称され、式内社で、渋川郡6座の一である。古く巨麻荘といい、河内国諸藩の大狛連の住地で、その祖神をまつったものと伝わる。

許麻橋地蔵

 久宝寺寺内の南口、許麻橋ぎわにある。ここより外を出屋敷と言う。
堂内の石仏は、高さ62cmの光背形の花崗岩に地蔵菩薩の立像が半肉彫りされている。

五条宮址


 奈良街道から田井中に分岐する角、西南の田圃の中にある。高さ1m、周囲5m四方の塚状の地で、上に小祠がまつってある。俗に五条宮と呼ばれている。

 この地は旧大和川の縁辺に当たる所で、先年付近の土中から奈良時代の古河原が発見された。五条宮寺と伝える。現在は地名をとって老原廃寺という。古く田井中村は、この付近にあって栄えていたのが、のちに今の所に移ったものといわれる。

権現社

 黒谷地区の氏神で、熊野神社とも言う。熊野権現を祀つる。明治5年に教興寺村の天照大神高座神社に合祀されたが、今はもどる。
 信貴山へ登る古道(信貴道)が神社の南側を通って山道となる。今は、この古道はほとんど消えている。
 町石は寛政13年(1801)のものが、寺池そばの三町石から始まって4、6、7町石と残っている


八尾物語