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曙川

 神護景運3年(769)称徳天皇は道鏡とともに弓削に行幸され、この地に平城京に対する西ノ京としての由義宮が造られることになった。
 由義宮は大県、若江、高安の三郡にまたがる大規模なものが予定されたが、天皇の死で造営は中止となった。由義宮、それに道鏡ら弓削一族の屋敷地、氏寺の弓削寺などの遺構が発見されていないのが残念である。

愛宕塚古墳

  河内七墓の一つである神立の共同墓地のすぐ西の所にある。巨石をもって作られた横穴式石室の円墳で、封土の高さ9m、直径22mあり、周囲はかなり削られて畑となり、上部も石室の天井石が露出している。
 古墳時代後期の代表的なもので、南面の横穴式片袖の石室をもつ。玄室は幅2.4m、奥行き6.8mあり、羨道は奥行き8.5mの部分が残っていて、その石組みは極めて巨大な石を用いている。
 高安地区における後期古墳としては最大の規模に属する物の一つである。一説に玉祖連の祖大荒木命の墓と伝えられ、神立古墳群の一つとして、心合寺山古墳と共に一系列をなすものと考えられる。

跡部神社

 亀井跡部にある。蘇我馬子が、聖徳太子と共に物部守屋をその阿都の館に攻めたとある阿都は、渋川を中心としたこの跡部あたりをさすものといわれ、その住地にあるこの跡部神社は、物部氏の一族阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつっているもので式内社である。

穴太神社

 安康天皇の設けられた御名代部(みなしろべ)である穴穂部の後とか、聖徳太子の生母間人穴太部皇后(はしひとのあなほべのこうごう)の生地であり、成人された地として、その産土神という。
 境内に散在する巨石は、廃千眼寺のもので、付近から鎌倉、室町時代の古瓦が出土する。 もと渡辺勘兵衛鎧掛けの松があった。元和1年(1615)大阪夏の陣に渡辺勘兵衛の陣所となったことによる。西南隅に“旧領主恩顧碑”がある。

油掛地蔵

 亀井真観寺の南方、村内の辻道に安置されている。高さ116cm光背形の花崗岩に、地蔵菩薩の立像が半肉彫りしてあり為口口寛尊大徳建立、文明13年辛牛12月18日と銘がある。俗に油地蔵と称し、願い事があれば、油をかけて祈ると効験があるとされて、現在油で塗りこめられている。

天照大神高座神社

教興寺字弁天山の山腹にあり、梅岩寺本堂の裏道から谷を通って通じる近道がある。式内社で、もと春日戸神と称したという。

稲城址

 南木の本光蓮寺門前に昭和14年建立の碑がある。聖徳太子が物部守屋をその居館のあった阿都に攻めよせた時、守屋は兵を集めて、この地に稲城を構えて立てこもり抗戦したといわれる。

今口地蔵堂

 久宝寺寺内町の今口門のあった所。そばに五輪塔がある。

岩戸神社

 高座神社の神殿傍ら同じく高い巨岩の中に、弁財天をまつる岩戸神社がある。岩屋弁天で名高く、もと木彫極彩色の弁財天像が御神体であったが、明治の初めの神仏分離後、教興寺本堂内に安置されている。古くは教興寺の鎮守であった。

植松

 旧大和川本流の長瀬川は植松、つまりJR八尾付近で大きく北に流れを変える。奈良・平安時代頃までは、植松付近から西へ分かれる流れがあり、平野川となっていたものといわれている。奈良時代、称徳天皇が弓削道鏡と遊覧した西の川や龍華寺は、この近くにあったとされる。

恵光寺

 大徳山と号し、真宗西本願寺末、文明2年(1470)蓮如上人が河内布教の後、6男蓮淳を開基として建立、 寺内町を作った。南に念仏橋がある。萱振御坊、柳の御坊といわれ、若江、河内2郡52ヶ寺の触頭をつとめた。萱振の名は、神社の祭日に、萱の松明を振り回して練り歩いた故事による。

 西南に字城土居という地があり、萱振城の跡と伝える。延元3年(1338)南朝方の高木遠盛が、北朝方の拠った当城を焼き払った。康正2年(1456)には、畠山政長、義就とここに争い、同族のことで、敵味方の別をはっきりするため幟(のぼり)をつくって旗印とした。旗差物の最初という。天文3年(1534)木沢長政と石山本願寺の争いに、また焼き払われた。

簷葡舎址

 比叡山で天台教学を修め京都で頼山陽に学んだ佛蓮が天保8年(1837)頃、植松の松林寺に来院して開いた幕末八尾を代表する私塾であった。

太田八幡宮

 太田地区の氏神で、もと免田神社といった。免田は字名。品陀別命(ほんだわけのみこと)をまつる。

おかげ灯篭

おかげ灯篭は花崗岩の小型のタカ灯篭で、台座に「おかげ」と大きく陰刻されている。竿は角柱で表面に「常夜燈」とあって、側面に天保二年卯三月建之とある。天保2年(1831)大窪の村人たちの伊勢神宮へのおかげ参りの記念に建立されたもので、市内では唯一の記念物である。

お逮夜市

 現在も毎月11日27日、大信寺周辺道路に開かれる露天。
古くは久宝寺御坊から八尾御坊の間の道筋両側に露天が出て賑わい奈良からも山越えで群参し河内の中心として栄えた。

おと越え

 おと越えは、おうと越えともいわれている。おと、おうと、おうとうを地名とすると、平群町信貴畑の大戸山が関係しよう。
市内各所に道標がある。

お初徳兵衛墓

 大通寺境内にあり、俗に夫婦塚といわれている。高さ120cmの花崗岩に表に「南無阿弥陀仏」の六字が陰刻してある。

 伝えによると、教興寺村のお初は大阪曾根崎につとめ木綿問屋の養子徳兵衛と恋仲になり、徳兵衛は教興寺の寺男として勤め、お初は年季のあけるまで勤めた跡、二人はめでたく夫婦となることが出来た。
 しかし、間もなく相次いで病死したので浄厳和尚はこれをあわれんで、ここに碑をたて手厚く回向した。
 この話を聞いた、近松門左衛門が「曽根崎心中」をつくったという。

 

恩智左近墓

 恩智地域内、東高野街道の傍に「恩智左近之旧跡」の碑があり、そのすぐ東上の所にある。高さ1mのクヅレ積みの上に石垣をめぐらし七重の形になった石塔が設けられている。これを恩智左近の墓といっている。当時の墓碑は五輪搭の形式であるので、これは後世に積んだものである。

 恩智氏はもと恩智神社の社家で、この地の豪族であった。恩智左近満一は、ここに恩智城を築き、楠木正成が北条氏と戦った時、正成方に味方して戦功を立て、楠木八臣の1人として称されていた。

 正成が湊川の戦に討死した後は、その子、正行(まさつら)を助けて足利氏に対抗し、南朝方を守ったが、延言2年(1337)7月熱病のために急死したと伝えられる。

 先年まで墓の傍に、9本桜といって1株が9本の幹に分かれた桜の古木があったが、今は枯れてまったく見られない。

恩智石器時代遺跡

 恩智神社のお旅所天王の森の所に、昭和18年に大阪府の建てた"恩智石器時代遺跡"の碑がある。
 この地を中心として、東高野街道から恩智川に至る間の付近一帯の地は、地下およそ3mの所から石器や弥生式土器類が出土する所である。恩智集落は、高安山麓の中でも最も広い扇状地の上にあり、西方前面には恩智川及び大和川即ち玉串川が流れて,川魚や貝類にめぐまれ、また良い水田地帯をなし、後方には恩智山一帯に獣類がえられ、飲料水に恵まれ、地理的に集落としての好い条件を備えた所である。天王の森の斜面には、石鏃が露出していたことがあり、地下からは常に土器が出土している

恩智城址

 東高野街道から東におよそ100m登った所にある。今は、正面に石段が設けられている恩智城は、中世恩智の豪族恩智左近満一の築く所と伝え、自然の高所を利用した城郭で、後方の高安連峰との間に堀を設けて要害となし、前方はるかに大阪平野を一望の下に見晴らしている。

 現在の城址といえるところは二の丸にあたるともいわれている。正平3年(1348)四条畷の戦いに、楠木正行が戦死し、この恩智城も北朝方のために陥れられたという。
 頂上はおよそ50m四方のひろい平坦地をなし、中央に"恩智城址"の碑がある。明治7年には、学制頒布による小学校の校舎がここに新築されたこともある。今は、桜樹が多く、桜の名所として、有名である。


恩智神社

 恩智の東方恩智山の中腹にある。河内二の宮といわれ、初め天児屋根命(あめのこやねのみこと)をまつっていたが、その祭神は枚岡に移されたので、五世の孫大御食津彦命(おおみけつひこのみこと)と大御食津姫命(おおみけつひめのみこと)をまつった。その後天児屋根命(あめのこやねのみこと)は枚岡から更に奈良の春日大社に移られたので、当社を俗に元春日と呼んでいる。
 式内社で、仁明天王の嘉祥3年(850)年には正三位を授けられている。古くは、今の、お旅所天王の森にあったが、恩智左近が恩智城を築いた時に、社殿が城山より下にあるのをはばかって、現在の地に移したと伝える。

 ○なお1月15日のお粥占の神事や、5月5日の芽巻の神事などが、古式ゆかしく行われていたが、今はすたれた。また6月30日の大@(おおはらえ)の祭には、御輿が大阪の住吉神社に渡御する儀式があり、その途中、加美の字春日のお旅所に一泊し、翌朝住吉大社についた。そして恩智神の不在中は、玉祖神社からその留守居に来られたという。これ玉祖明神が周防の国から移ってこられた時に、一時恩智神社に仮寓され、氏子の分け前として、玉祖明神から求められたもので、恩智神は明朝早く鉾を立てた所を境界とすることを約束された。玉祖明神はそれで朝早く来て夜の明けるのを待たれたところが白見塚といい、夜が明けてからそこから下って鉾を立てられた所を鉾立塚という。今に鉾立の地名がはずれにある。



恩智銅鐸出土地

 恩智字向谷の安養寺の裏山、字垣内山と称する所から、大正10年7月に採土中、高さ45cmの銅鐸が発見された。これは流水文で下端に鋸歯状の紋帯があり、その下の一方はには、他面には鹿の図が浮彫りされている珍しい文様のものである。
 またその後昭和24年1月には、その山の頂上付近で、開墾中に高さ39.5cmの銅鐸が出土した。これは袈裟襷文で、前の発見のものと相対するものと思われる。下の恩智集落に対して、上方のこの辺りは神聖な地として、大切な祭事の行われた地域であったのであろう。



八尾物語