お初、徳兵衛の墓

 近松心中物として映画や舞台で人気の「曽根崎心中」のお初、徳兵衛の墓が教典寺の南部にある大通寺境内にある。

 教興寺は寺名が地名に使われる程の名刹で、京都太泰の広隆寺を建立した大氏族である秦川勝が、聖徳太子の発願を受けて高安山麓一帯にお堂を建立し、仏教を興起させるとの意味で教興寺と名付けられたと言う。

 弘安三年(一二八○)には、戒律思想の民主化と共に庶艮の教化と救済に奔走したすぐれた社合事業家といわれる西大寺叡尊が、荒廃していた教興寺を再建し、多くの人々に菩薩戒を授けたとの記録が残っている。

 境内の東には寺池大門池と呼ばれる池があって、往時は広い地域に堂宇が建立されていて臨池式の堂塔配置がされていたと考えられ、大通寺もその一つであった。

 大通寺境内にある「お初徳兵衛の墓」は花崗岩の墓石で、文字面を舟形に枠取り加工し「南無阿弥陀仏」と陰刻したもので、俗に夫婦塚といわれている。

 

 教興寺村の娘お初は、大阪曽根崎につとめ、同じく大阪の木綿問屋の養子徳兵衛と恋仲になる。

 お初の父の病気見舞に、二人で村に帰ったとき、教興寺の浄厳和尚に相談、和尚のとりなしで夫婦になることができたが、夫婦になって間もなく、徳兵衛が病死し、後を追うようにお初も亡くなったので和尚はこれをあわれんで碑を建てゝ手厚く回向した。

 苦労を重ねてやっと夫婦になれたのに、幸うすく早死した二人の話を、浄厳和尚から聞いた近松門左衛門が作品として書き上げたのが浄瑠璃「曽根崎心中」と言われている。

 市内には多くのお寺があり、古くから仏教が盛んであったことがうかがえるが、お寺の和尚が庶民の生活の面倒をみながら、仏教の教えを伝えていたことが、この話からもうかがい知ることができる。


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