河内音頭のヒストリー
 ところで河内音頭の盆踊りというのは、唄の文句にあるように七百年も昔から唄い継がれたものなのか?

 正式な文献が残らない民衆芸なので何時頃から始まったものか、起源については、いろいろの説がある。恐ろしい疫病の神々などの祟りを恐れて、隣村から燐村へと踊ってはやしたてて、それらの神々を浮かれさせ、疫病神を送り捨てたという古代の風習を伝えたものであるという説。

 また、古代に、男も女も互いに歌い合って意中の人を求めて楽しんだ歌垣(うたがき)からだという説などあるが、盆踊りは死者の霊を祭るところから出ている。念仏踊りの歌詞に 『盆に御座れ盆にや御座れ死んだ仏も盆に来る』という歌があるように、仏の供養が盆踊りの目的であったが、だんだんと恋歌や誘惑の歌も唄われ、また、瓦版的のものも唄われるようになり、夜更けまで踊って散会していたのが、夜明け近くまで踊るようになつたという。

 八尾においては、河内音頭といえば、常光寺の境内で行なわれる地蔵盆踊りの音頭である。「八尾の流し」と呼ばれるこの音頭は、ゆったりしたテンポで素朴な味わいがあり、室町時代初期の同寺再建の折り、都から材木を運んだときの“木遣り音頭”が元歌だと伝えられているが・・・

 では何故ゆったりとした御詠歌のような唄がリズムある浪曲調になったのだろうか?現代の河内音頭は江州音頭(ごうしゅうおんど)の変化したものであるというのが定説である。

  その江州音頭というのは、天正十四年七月十七日、滋賀県犬上郡豊郷村の千樹寺が再建され、その落慶法要が営なまれた際。住職の根誉上人が余興として参拝の人たちに、経文を面白く節付けして歌い、それに手踊りまでして見せたのが、人気を呼ぴ、これを習って人々が踊るようになり、年中行事となったということである。

 これは経文に節付けをした念仏踊りであった。これが江戸時代に入って、初期には宗教から離れ、俗化して、歌祭文として門付けの芸人達が歌うようになった。

 江州音頭は、門付け芸人の歌祭文より生まれたが、明治初年頃に滋賀県八日市の市場町に住んでいた通称「歌寅」と言われた西沢寅吉という歌好きの人が、市場町に古くから伝わっていた踊りやクドキ文句に歌祭文をミックスして、独得のクドキ、つまり音頭化して今日の江州音頭が産まれた。

 そしてこの歌寅は、自分から桜川大乗と名乗り、盆踊りの季節だけでなく平常も座敷に招かれて演じていたという。今日この流れを汲む者はすべて桜川を名乗っている。江州音頭は、音頭の間に「デレンヤデン」と言いながら、錫杖を振って間を取るのが正調である。

 同時期、河内の音頭も北河内に「歌亀」が義太夫節の文句に節付けして歌い始めた「交野節」がうまれ、その後、南河内には明治26年に富田林町の人力車夫「岩井梅吉」が従来の音頭に派手な江州音頭の節を加味して大太鼓を用いて早口、流し、改良、平節などという12種類の唄い方を使い当時の事件「河内十人切り」をよみこんだ。

 これが流行を呼んで河内音頭といえばこれを代表するもののように信じられるようになった。

 浪曲のほうに目を向けると、明治39年には、九州から彗星の加く桃中軒雲石衛門が現われて、義士伝を美声と特殊の節回しで語って大衆を魅了し、同四十一年に大阪から吉田奈良丸、東都から京山小圓が上京して、関西節の艶麗さを加えて、非常な好評を博した。

 明治から大正に入り河内音頭の世界でも、この関西節の京山幸枝の節を多分に採り入れ、昭和初期には大阪、平野の初音家太三郎さんの「平野節」がうまれたが、一般にはこれも河内音頭とよばれ現代の河内音頭の母胎がほぼ出来上がると言える。

 戦後、河内音頭の知名度が一躍全国レベルにまで高まって行ったは、その初音家の稽古場に出入りしていた鉄砲光三郎が「鉄砲節」という名でレコードをだし、つまり現在の河内音頭(新河内音頭 鉄砲節)が生まれたのである。

 この鉄砲光三郎による鉄砲節「民謡河内音頭」が昭和30年代に流行歌としてヒットを飛ばし河内音頭イコール鉄砲節と日本中に認知させてしまった。

 その後も三味線と太鼓の伴奏に時代とともにエレキギターなどが加わり、パーカッションやシンセサイザーなども取り入れ、現代のワールドミュージックと呼ばれる音楽に変化しているのは衆知の事実であり、八尾出身の河内家菊水丸が現代の河内音頭「カーキン音頭」をTVCMで全国に認知させたのも記憶に新しい。
 今後も、時代の変化とともに「河内の音頭」は変身を続け、伝統や古典を無視した進化する日本の民俗芸能の一端を担いつづけることであることを願っている。

八尾WEBサーチ
八尾物語 HOME
OFF 八尾物語