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明治31年(1898) |
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3月26日、父・武平(当時31歳)、母・綾(31歳)の長男として、横浜市伊勢町に生まれる。父は日本郵船、欧州行路の船長をしていたため、小学校時代は転校にあけくれた。 |
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明治40年(1907) |
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函館、小樽、横浜と転々としたあと、大阪に住む叔父、木村一、方に寄宿。陸軍軍人だった叔父の厳格な教育に反抗した。 |
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大正3年(1914) |
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関西学院中等部2年の1学期に退学になる。神学部の院長の娘と恋愛事件を起こしたというのがその理由だった。兵庫県立豊岡中学校に転校、2学期に恋愛事件をキッカケに教師を殴って退学処分を受けた。上京し、東京・小石川にいた叔父の斎藤方に寄宿。大平洋画塾に通い、画家を志す。暮、父より勘当される。 |
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大正9年(1920) |
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文学活動の中で、川端康成と出会う。テンプラ学生として東大の講議を受けていたのもこの頃。豊岡中学時代、放校の理由になった相手、岡本直子嬢の病死を知る。 |
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大正10年(1921) |
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川端康成らの第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『女人転身』『童女』などの作品を次々と発表。 |
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大正12年(1923) |
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1月、創刊された「文芸春秋」の同人となり、随筆などを多数発表。 |
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大正14年(1925) |
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『痩せた花嫁』(創作集)を金星堂より刊行。新聞・文芸誌等で積極的に作品を発表する。 |
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昭和5年(1930) |
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5月、東京・浅草寺伝法院で、大森亮順大僧正を戒師に出家。以後、昭和8年まで比叡山延暦寺に籠り、修行。 |
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昭和9年(1934) |
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比叡山より下り、茨城県安楽寺に入る。 |
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昭和13年(1938) |
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「運命学」に『易学史』を連載。日本で初めての本格的な研究で、専門の漢学者からも高い評価を受けた。 |
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昭和21年(1946) |
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11月、蜂谷きよと結婚 |
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昭和26年(1951) |
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大阪府八尾市中野の天台院の住職となる。 闘鶏に興じる今和尚(左より3人目) |
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昭和31年(1956) |
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1月、中外日報社社長に就任。母・綾、死去。『お吟さま』を、裏千家家元の機関誌「淡交」に連載。10月完結。 |
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昭和32年(1957) |
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1月、『お吟さま』により、第36回直木賞を受賞。20数年ぶりの文壇復帰として話題を集めるとともに、新聞、週刊誌に多数の連載を開始。 |
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昭和33年(1958) |
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帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短大の講師を委嘱され、比較文学を講議。 |
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昭和36年(1961) |
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1月、大阪府貝塚市の天台宗水間寺住職に就任。 |
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昭和40年(1965) |
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『東光太平記』を産経新聞に連載。12月、権大僧正となり、岩手県平泉町の天台宗東北大本山中尊寺の貫主に就任。 |
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昭和43年(1968) |
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7月、参議院選挙に全国区より立候補して当選。昭和49年まで1期を勤める。 |
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昭和47年(1972) |
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4月、親友・川端康成を失う。 |
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昭和48年(1973) |
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11月、瀬戸内晴美氏出家剃髪。法名寂聴。 |
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昭和52年(1977) |
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9月19日、示寂。戒名は大文頴心院大僧正東光春聴大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう) |
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