月姫蒼香誕生日記念SS 「玻璃佳譚 つきひめかたん」
文:吉海堂(吉海堂本舗)
絵:桜二等兵(うらしめ)
5/6 蜂蜜色にも似て
わかったことが、ある。
人間は緊張すると、苦痛からある程度解放される。たとえば肉体の損傷や空腹、睡眠不足。
弁解が許されるなら、尋常な覚悟ではロリータドレスに袖を通すことはできなかった。腕の良い仕立て屋は、あたしに休む暇を与えなかった。休む暇がないという事は、我慢を強いられることになる。我慢を強いられるというのは、つまり。
停止した思考は、緊張の糸を断つ。
痙攣し、小刻みに震える上半身。
あたし自身も意識していなかった、身体の異変。具体的には下腹部の膨圧感。
羽居の言葉を思い出す。
『女の子はねー、身体の構造上どーしても漏れやすいんだって』
だから恥ずかしがる必要はないんだよー?
あれは寄宿舎の浴槽での会話だったか。切羽詰ると過去の情報が脳内にあふれるという、まさしく走馬灯。 脳内を駆け巡る免罪の言葉。
『どーしても漏れやすいんだって』
『どーしても漏れやすいんだって』
『どーしても漏れやすいんだって』
『どーしても漏れやすいんだって』
『どーしても漏れやすいんだって』
『どーしても漏れやすいんだって』『どーしても漏れやすいんだって』『どーしても漏れやすいんだっ』『どーしても漏れやすいんだ』『どーしても漏れやすいん』『どーしても漏れやすい』『どーしても漏れやす』『どーしても漏れや』『どーしても漏れ』『どーしても漏』『どーしても』『どーして』『どーし』『どー』『ど』『漏』『漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏漏――――』
脳天気な羽居の言葉が頭の中で響く。わかってる、それは本能からの警告だ。
わかってる。
わかっているけど、身体はわかってくれない。
下唇を噛んで耐えようとしても、止まる事はない。構造上の問題。志貴に手を掴まれた瞬間、あたしは再び絶望した。
見られる。
人として恥ずかしい姿を、女として最も恥ずかしい姿を、好意を抱いた男に目撃される?
「だ……め――――」
涙が出そうになる。
身体の震えは止まらない。ショーツの布が、湿り気と熱を帯び始め。
「少しだけ我慢して、蒼香ちゃんっ」
信じられないことが起こった。
バネ仕掛けのように立ち上がった志貴は、あたしの身体をすくうように抱き上げて、駆け出していた。体術の達人のように、あたしは身体が半回転したのを自覚する前に加速を感じた。
顔が、志貴の胸に当たる。心臓が大きく鼓動し、ほぐれた緊張の糸が再び張りつめる。
「……間に合えっ」
切羽詰った志貴の言葉。
扉を蹴る音、蹴散らす音、開けて閉じる音。
僅かに三秒。
「蒼香ちゃん、急いで!」
気付けばあたしは洋式便座に腰掛けて、志貴は扉の向こうで叫んでいた。
実に手馴れた、匠の技。
感心するより先に生理現象は身体を支配し、あわててあたしは流水レバーを引き降ろした。
安物の布地は、あまり心地好いものではない。
近くのデパートに駆け込んで、吟味もせずに買ったと思しき地味な下着。
……シルクやレースのショーツとか、セクシー系ではないだけ良心的か。汚れた下着は、勿体無いけど捨てることにした。漏れたのは、ほんの少量。内股もスカートも無事なのは幸いだった。
深呼吸すること、三度。
そろそろ現実を直視しよう。
「――――慣れてるんだな、こういうの」
トイレに近いベンチに志貴は腰掛けていた。できるだけ平静を装って、なんでもありませんよって顔でぬるい缶コーヒーを口にしている。こんなことがあった直後だから、あたしに飲み物を勧めようとはしない。
「妹の世話で、ね。小さい頃に、何度か」
「遠野が?」
「いや……その、もう一人の妹の方」
言葉を濁す志貴。そういえば志貴が預けられた家に女の子が住んでいるという話は聞いている。この夏に遠野の屋敷に遊びに来て、随分と暴れまわったというのも。
「とにかく」
落ち着いたふりをして、あたしは咳払いをした。
「なぁ大将、ほかに言う事はないのか」
「ごめんなさい」
深々と頭を下げる、ナチュラルボーン・スケコマシ。
「でも、この辺は物騒だから気をつけて欲しいんだ。さっきも言ったけど、どこかへ行くなら、途中までついていくよ」
顔を上げた志貴の表情は、真面目だった。
「物騒」
からかいたくなるほどに真剣な顔。
「騒ぎになった吸血鬼が、まだこの街に潜んでいるとか」
軽い冗談のつもりで、その言葉を口にした。
「ははは」
志貴は、あたしの冗談に笑ってくれた。
隠し事がばれた時のような、乾いた笑い声で。先刻までとはまるで違う、引きつった笑顔で。
「遠野の化け物屋敷に居候しているんだ。吸血鬼の一人や二人、いまさら驚くほどのことでも」
あ、完全に沈黙した。
「……大将?」
「ごめん、蒼香ちゃん」
首筋に当たる、鈍い衝撃。
ネガとポジが反転する視界。
拡散して途切れていく意識。網膜が伝える最後の情報は、修道女の着るカソックを身につけた――――あたしは、いま何か見たか?
わからない。
……
……
ひどく眠く、心地好く、何も考えられない。
誰かの事を気にしていたはずなのに、何も、思い出せな
6/6 帽子屋の茶会
淹れたての紅茶の香りが鼻をくすぐる。
耳に届くのは、あたしの名前を呼ぶ声。
「……先輩、大丈夫ですか、先輩?」
心配そうな声。
これは分かる。あたしの肩を揺さぶりながら起こそうとするのは、アキラだろう。親にはぐれた子犬のように、なかなか必死な声だ。でも残念、今のあたしは物凄く眠い。
「先輩、風邪ひいちゃいますよ」
「大丈夫だよー、蒼香ちゃんなら。しっかり服着ているしー?」
「でも……」
その声は間違いなく羽居だ。いつもなら率先してあたしを起こす羽居が、珍しいこともあるものだ。
「羽居の言う通りよ。身体を冷やさないように暖房の用意もできているし、無理やり起こすのは野暮というもの」
「遠野先輩――――楽しそう、ですね」
本当に珍しい。
あのアキラが、遠野に対してあからさまに不満そうな声で反応するなんて。
「親友の意外な面を知って有意義な時間を過ごしているのは事実よ」
「あはははは、秋葉ちゃん鬼畜ぅ」
「失礼ね。それを言ったら、ここに居る全員が同罪よ」
鬼畜?
同罪?
物騒な単語に、あたしは違和感を抱いた。
親友とは、誰だろう? 意外な面を遠野に見せるのは? それが鬼畜で、傍観者が同罪となるような、そんな愉快で悲惨な目に遭っている間抜けは…… 間抜けは。
間抜
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「ァァァァアアアアアアアアアッ!」
悲鳴と共にあたしは飛び起きた。
そこは遠野家の応接室。
浅上の制服に身を包んだ遠野、羽居そしてアキラが紅茶の味と香りを楽しんでいる。
あたしは。
あたしの、衣装は。
「と……とっても素敵だと思います、先輩っ」
叫び声に驚いたのか、半分泣いているアキラが必死のフォローを入れようとする。しかし、あたしの目の前には鏡があった。起きたら直ぐに自分の姿を思い出せるように配慮した、お節介という名の策士がやったのだろう。
あたしは。
あたしは。
諸々のことを思い出すより早く駆け出した。
視界の隅には、応接室から走って逃げ出そうとしている朴念仁の後姿。
「オンドゥルルギットゥンデスカァァァァァァアッ!!」
悲鳴はそのまま絶叫となり、あたしは弁解も事実確認も一切無視して生涯最高のハイキックを志貴の延髄に炸裂させていた。
――――そこに意味を問うのは野暮というものだった。
なぜならば、それこそが主張であり理由であり信念である。悪趣味かどうかという議論は、着る前に尽くすべきものなのだ。覚悟を決めなければ袖を通せない衣装というのは、確かに存在する。
「……」
翌朝。
見覚えのないショーツを着用していることに気付いたあたしは、生涯二番目に優れたカカト落としを志貴の脳天に炸裂することになる。
――――repeat again?