満開佐倉文庫への感想


みなさんから満開佐倉文庫とかかわりのあった感想が寄せられています。これは満開佐倉文庫の評価ではないかと思っています。

                                            【新設 2006年12月3日】


4月3日 
これまで連載小説「城下町慕情」を掲載してくれた黒田碧さんの「あとがき」を、3月20日で紹介しました。あのときは、「あとがき」を紹介するだけでしたので、今回、私の感想を話します。
 まずは、ごくろうさまでした。このようなホームページに書き下ろしの小説を書いていただいたことに感謝申し上げます。
 連載は、毎月ほとんど途切れることなく2年半にも及びました。ですから、連載をお願いしたときから考えれば3年近くは経っているものと思います。
 この間、黒田さんにとっては大変なご苦労があったことを知りました。お会いしたときには、そのような素振りは見せず、にこやかに「お願いします。」と原稿を置いていってくれました。
 原稿は夜中に打ちますが、いつも「この先はどうなるのだろうか」と楽しみにしていました。時には、私が主人公の彰になったような錯覚に陥ることもありました。
 黒田さんからいつものように原稿をいただきながら、「次回が最終回になるかな・・・」といわれたときには、寂しさを覚えました。  そして、最終回を打ち終えたときには、無事に原稿を出せたことに安堵しました。

 ホームページ「満開佐倉文庫」の目的は、佐倉が出てくる本を集めるということでした。しかし、集めるだけでは物足りないと思うようになりました。そして、ホームページで佐倉が出てくる小説を連載したいと思うようになったのです。
 ホームページの可能性というのでしょうか、それは満開佐倉文庫の可能性と言い換えることもできると思いますが、ホームページでどれだけできるのかということを試してみたいと思いました。そのようなことで佐倉が出てくる小説を書ける人を探していました。
 黒田さんとは思いがけないところで出会い、構想を話して、もう3年経ってしまったのです。
 あっという間の3年間でした。黒田さんの、これからのご活躍を期待します。


 3月28日 
 Y2さんからメールあり
 佐倉市から、「佐倉通」の認定証が届きました。  こんな賞状です。

 *
 Y2さんから、以前、「市の広報紙『こうほう佐倉』で募集した『佐倉通』の試験に合格し、『佐倉通』認定を受けることが出来ました。貴文庫の情報を利用していなかったら解答出来なかった設問もいくつかありました。遅くなりましたが、ご報告とお礼とさせていただきます。」というメールをいただいていました。

 〈返信〉
 よかったですね。満開佐倉文庫がこのような形でお役に立てたことは、うれしいことです。これからも、満開佐倉文庫をご利用ください。


 3月20日 
 黒田碧さんの連載小説『城下町慕情』最終回を掲載しました。黒田さんには、2年半に渡り連載をしていただきました。その間、いろいろなご苦労があったと、あとがきに書かれています。本当にありがとうございました。
 私も、黒田さんとの思い出を書きたいことがありますが、本日は小説の「あとがき」のみを掲載させていただきます。

 あとがき
 こんなに長い期間、連載するとは当初考えてもみませんでした。中盤に差しかかる頃、癌が見つかり手術をしました。また、母が倒れ入院し、退院後も続けて二度の骨折で一時は寝たきりの介護も覚悟したほどです。その母の介護は姉 たちと、介護保険で公の皆さんの手助けもあって、何とか切り抜けてきました。幸い母は寝たきりにはならずに済みました。私はこのたった二年間で、人生の曲がり角を何度も経験しながらこの小説を書き進めて参りました。連載を読ん でくださっている方々におきましては、話の進行が途切れてご迷惑をおかけいたしましたことを深くお詫び申し上げます。
 インターネット図書館での小説連載は初めての体験ではありましたが、とても楽しく書き進めることができました。高校時代の友人数人と沖縄旅行した時も、ホテルのパソコンで検索して自分の小説に出会ったときは(当たり前のことで あっても)、やっぱりとっても感動いたしました。
 人は誰でも、大切な思い出を一つくらいは心の小箱にしまってあるのではないでしょうか?そして、そんな切ない思い出は、死ぬまで鮮烈に心の奥底で生き続けているのです。そんな切ない想いをこの小説に託しました。もし機会がありまし たら立原道造の『夏の弔い』という詩をお読みください。ここからヒントをいただいて『城下町慕情』を書きました。
 この作品を、佐倉を愛する方々と、佐倉高出身の方々と、そして『満開佐倉文庫』の読書の方々へお贈り致します。
 またパソコンが使えない私の原稿を毎回打ち込んでくださった館主様にも、この場を借りまして改めてお礼を申し上げます。長い間、本当にありがとうございました。


 2月16日
 えりっぷさんからメールあり
 以前、山のことを調べたいとおっしゃっておられていたと記憶していますが、ちょっと面白い本を見つけました。
 谷有二著「山の名前の謎解き事典」青春文庫です。事典とはありますが、古文書や伝説いろいろなパターンでの山の名の由来を解明しています。佐倉山は載っていませんが、いかに名前の由来を探しだすのが大変かがわかりました。
 また、想像力も必要だということも。少し余裕ができたら会津風土記など取り寄せてみたいと思います。

 〈返信〉
 「佐倉」をキーワードとして読書をしながら、関連した本へ読書が広がっていくことはすばらしいことですね。「佐倉」を探しながら、「佐倉」を離れていっても良いんですね。
 私は、「佐倉探し」の読書を、一つの読書法(「地域探しの読書法」と呼んでいます)と考えていますが、結果として「佐倉」が見つからなくても良いと思います。
 大きく見れば、「佐倉」を探しながら読書が好きになれば良いのですから。
 「佐倉」を探しながら出会えなかったという話も面白いですね。とにかく「佐倉」に当たる確率のほうが極端に少ないのですから、がっかりした話などがいろいろあると思います。これからもメールをお待ちしています。


 2007年2月12日
 Y2さんからメールあり
 満開佐倉文庫 館主さま
 このたび、市の広報紙「こうほう佐倉」で募集した「佐倉通」の試験に合格し、「佐倉通」認定を受けることが出来ました。
 貴文庫の情報を利用していなかったら解答出来なかった設問もいくつかありました。遅くなりましたが、ご報告とお礼とさせていただきます。


 〈返信〉
 おめでとうございます。
 このようなことで当ホームページが活用されることは、館主にとってありがたいことです。Y2さんの感想をいただいて、満開佐倉文庫を運営していてよかったと思います。
 これからも、どんどんご利用ください。Y2さんの、「佐倉通」としてのご活躍を期待しています。


 2006年11月30日
 スナフキンさんから佐倉本情報のメールあり
 寒さが身に染みる季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。久しぶりに佐倉本情報をメールします。
 「町医北村宗哲」佐藤雅美 角川書店 2006.8(「跡をゆるりと尋ね三省」の章、p.195〜198)主人公の北村宗哲は、江戸時代の医者という設定で、「ひょっとすると佐倉本か?」と職場で話題になり、時代小説は苦手なのですが、何とか辛抱して読んでみたら、ビンゴでした。
 しかし、「堀田様のご家来衆の貧乏ぶりは・・・」など「佐倉藩」について、あまりよい印象ではない表現で、そういう話を読んだのは初めてだったので、ちょっとびっくりしました。でも、これが一般的な見方、なのでしょうか?
 佐藤雅美の作品には、(「開国」もありますが)この主人公北村宗哲と同一人物であるような設定の主人公が出てくるもの(啓順シリーズ?)もあり、こちらもひょっとすると・・・?時代小説が好きで、佐藤氏の作品のファンの方がいたら、ぜひ、読んでみていただけたら、と思います。

 <返信>
 本を見ただけで、”佐倉本ではないか”と職場で話題になって、ありがたいですね。そして不得意なジャンルの本でも読み出す。これこそ、まさに私が願っていた「佐倉(本)探しという読書方法」「地域探しの読書法」です。
 つまり、ただ「読書をしなさい」といっても、なかなかできるものではありません。本を読むには何か読み出す動機が必要であり、その一つに地域をテーマにした「佐倉(本)探し」という読書法があっても良いのではないかと考えています。
 そして、自ら「佐倉」に出会えた喜びに浸れます。自ら地域の文字を探せたという喜びは、「教えられた」ことよりも格段も上の喜びであると考えます。さらに郷土への愛着も生まれてくることでしょう。
満開佐倉文庫は、そのようなことをみなさんと楽しみながらやっていきたいと開設しています。
 スナフキンさんから情報をいただいたとき、スナフキンさんの「佐倉を探した」という喜びが見えるようでした。それから、スナフキンさんや職場の皆さまにも、佐倉本探しの”感”が備わったようです。これからの探索を楽しみにしています。

 さて幕末に堀田正睦が佐倉藩主となったころの貧乏ぶりは、かなりのものでありました。もっとも、それは佐倉藩に限ってのことではなく、「武士は食わねど高楊枝」と世間でいわれるようでしたから、多くの藩でも似たり寄ったりであったと思います。
 佐倉藩の場合、『佐倉市史』巻1、591ページあたりから藩士の困窮ぶりが記されています。だからこそ、堀田正睦は藩政改革を断行したのであり(その中でも、藩士が文武に励まなければ、さらに給料を引かれるという「一術免許ノ制」は学問隆盛の基礎となりました)、そこから(結果的に)多くの人材を輩出したというストーリーにつながっていきます。


 2006年6月1日
 銀狐さんからメールあり
 堀田正睦暗殺情報について。まず、一番分かりやすく話が構築されて、世間的に多くの目に触れる可能性のある情報発信源ですが、司馬遼太郎が江藤新平を描いた『歳月』という小説に次のような件がありました。
 「藩士深川亮蔵という者がかって幕府の老中堀田備中守を暗殺しようとして事成らず捕縛された」と。つまり肥前佐賀の上士の深川亮蔵が暗殺を計画し藩に捕まったというのです。
 著名な作家の作品ですから、このあたりが噂の原点かもしれませんね。
 この点は、単に司馬遼太郎の作文かとも思ったのですが、西日本新聞社が刊行した『大隈重信』(大園隆二郎著)の中で、大隈が後年語った「深川が安政5年、堀田備中守が上京して条約の批准を奏詣し、かつ、勢い猛烈であった京都の攘夷論者を圧迫しようとした時、堀田を刺そうとして岩倉などに会見した」と述べたとされていることを発見しました。
 深川亮蔵は実在の人物でどうも八街の開拓にまで関係のある面白い人物のようです。水戸藩の隠密の件もあり、幕末の佐倉周辺はヤッパリ大変面白いと再認識いたしました。

 〈返信〉
 佐倉では語られない話です。それだけ、他藩にとっては重要な人物と見られていた証ですね。
 佐倉や佐倉ゆかりの人物について、私たちの知らない他地域で誰かが語っていることがあります。佐倉本探しというのは、地元のつながりや故人のつながりからでは発見できないような本を、「佐倉」という言葉をキーワードにして全国の資料を手に入れようとするところに一つの「ねらい」があります。
 他地域の人が書いた佐倉の評価は客観的であったり、批判的であったりしますが、そのような資料もあってこそ佐倉の実像が見えてくるのではないかと考えています。本メールは、「地域探しの読書法」の一つの成果を具体的に示す好例です。




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