鉄ちゃんクラブ


鉄道大好きな司書さんが、佐倉の鉄道に関した話をしています。

                     【2006年5月20日 新設】 【2007年2月14日 更新】
 

 2007年2月13日
  ホームタウン佐倉さんからメールあり
 2月1日千葉ー木更津間に「SLちばDC号」、3,4,10,11,12,13日木更津ー館山間に「SL南房総号」がD51498により運転されたことはご存知と思いますが、私も2月1日と11日に撮影に出向きました。
 どこもかしこもすごいカメラ持参の凄い人出で、なかには那古船形付近で線路に寝そべった60歳代の馬鹿者もいた(目撃者のブログでの情報によれば、夫婦連れの近所の人とか。警察官が注意したとかいいますが列車往来妨害罪で検束すべきでしょう)ようですが、本当の鉄道フアンであれば、可能であっても線路に寝て写した写真などはアングル的にも撮らないでしょう。
 危険で何度も列車が急停車とも新聞に書いてありましたが、僅かばかりの不心得者のお陰で、千葉では今後SLは走らないことになることを恐れます。

 それはともかく機関車側面に表示の配置区名標札が2月1日は千葉機関区を示す「千」でありましたが、2月11日は佐倉機関区を表す「佐」でした。実際は高崎に配置ですから「高」の筈ですが、千葉県下を走るので粋なサービスといえましょう。
 ただしD51は新小岩ー千葉ー佐倉間の貨物列車を牽引していましたが、佐倉機関区にも千葉機関区にも配置はされていませんでした。「SL南房総号」の写真を駄作ですがお眼に掛けます。
 D51498配置区標は「佐」 SL南房総号・館山駅 SL南房総号・保田付近
 ご笑覧ください。

 〈返信〉
 線路で寝そべられては、列車全体を撮ろうとした人にとって、その人がじゃまになって絵にならなかったでしょうね。カメラを趣味とする者として、みんなの迷惑になる撮り方はやめてもらいたいですね。
 ホームタウン佐倉さんは鉄道を撮りなれているだけにアングルが良いですね。それから「佐」の字が良いですね。記念になります。ありがとうございました。


 12月5日
 Uさんからメールあり
 僕のメールがトップ・ページに掲載されていますね。ありがとうございます。近年、はしだのりひこさんの話題について語ることが少なかったので、嬉しかったです。
 また、「鉄ちゃんクラブ」も読みました。みなさん、さすがですね。SLのことからあれだけ推理してしまうのですから。『さすらい人の子守唄』が出た時、僕は小6でした。
 この曲、『風』よりも好きでした。それでレコードを学校まで持っていったんです。そしたら、たまたまそのジャケをSL好きの友人が見て「あ、これは千葉の佐倉機関区で撮影したものだ!」って教えてくれたんです。
 もちろん、その時はまだアルバム『未完成』は発売されていなくて、ジャケ写の場所を僕は特定すらできていませんでした。「どうして判るの?」ときいたら、機関車で判るという様なことを確かその時友人は言っていた記憶があります。
 あまり仲がよかった訳ではないその友人は、中2の時、佐倉機関区まで行ってSLの写真を撮ってきました。その写真を僕も1枚もらったのですが、残念ながら今はありません。この友人はその後無事現在のJRに就職しております。そんな事を「鉄ちゃんクラブ」を読みながら思い出してしまいました。
 さて、残念ながら何故彼らが佐倉機関区でジャケ写撮影をしたかはわかりませんが、シューベルツやアルバム『未完成』のコンセプトは「旅」ですから、それを象徴するSLが必要だったのかもしれませんね。
 僕は最初、彼らは京都のグループですから、京都周辺のSLを撮ったのだろうと思っていたのですが、前記の友人に佐倉だと教えられたのです。
 前のメールで撮影時期は昭和44年の3月〜5月だろうと推理しましたが、あらためて『未完成』を調べてみたら、レコーディングが昭和44年の4月中旬ぐらいまでかかっているのが判りました。おそらくはそのレコーディングが終了してからジャケ写撮影だろうと思われますので、撮影は昭和44年の4月中旬〜5月までとの絞込みも可能なのではないかと思います。
 はしださんとは僕の地元のラジオ局の仕事やライブで来るたびに、特に1972年〜75年にかけてお会いできていたのですが、ついにこの時のジャケ写が何故佐倉だったのか訊くことを忘れていたことが今考えると残念です。
 ただ、はしださんはこう言っていました。(73年現在)「あの『さすらい人の子守唄』は僕が作った曲の中でも、傑作中の傑作だと自負してるよ」と。
 『さすらい人の子守唄』って、よくよく聴き込んでみると駆け落ちの歌ですよね。そのイメージがSLと結び付くのでしょうね。この時駆け落ちした若い二人はSLに乗ってどこまで行ったのでしょうか?
 はしださんは後に『花嫁』でも夜汽車に乗せていますが、もしかすると、この時の撮影が北山さんやはしださんにSLの強烈なインパクトを与えたのかなとも思ってしまいます。
 この時の撮影、メンバーや北山さん、広野さんはカメラマンの方にアングルはどうだこうだと五月蠅く注文したみたいですよ。それだけ沢山の枚数を佐倉機関区で撮影した証明でもあると思います。
 で、もうひとつ気にかかったのは、亀田さんからのメールに「『未完成』の中に機関車の横で撮ったモノクロ写真があって・・・」とあったのですが、(あれ、『未完成』の中にSLの横で撮ったモノクロ写真ってあったっけ?)と思い、『未完成』を手持ちの4枚分を探してみたのですが、アルバムには機関車横のモノクロ写真はなかったのです。
 もしかしたらシングル『さすらい人の子守唄』の裏面ジャケのことですか?あれならモノクロですよね。でも発見もあったんです。アルバム『未完成』はブックレットになっているので、ジャケットが開きます。その開いたすぐのカラーポートレートが機関車横を楽器を持って移動して行くメンバーが写っているのですが、後に再発されたシングル『朝日の前に/白い鳥にのって』は、おそらくこの次あたりの撮影だと思われ、カメラに向かいメンバーが顔を向けているアングルの物が使われています。
 またまたつまらないことを書いてしまい赤面の至りです。どうか今後ともよろしくお願いいたします。

 <返信>
 失礼しました。『未完成』の写真は、カラーでした。「メンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いている写真です。」というUさんの言葉が印象に残っていて、そのような写真であったと記憶していたので、現品を確認せずに記憶で書いてしまいました。モノクロとカラーを混同してしまいました。おっしゃるとおりです。失礼しました。
 ところで、今、気づいたのですが、Uさんは北山修氏と話をしたり、はしだのりひこさんとお会いしているようですが、そのような関係の方とお見受けしました。これからも、よろしくお願いします。

 ☆☆☆
 鉄ちゃんクラブのみなさまへ。Uさんが「この時のジャケ写が何故佐倉だったのか訊くことを忘れていた」とあります。私の頼りない記憶によれば(あまり信用できません)、東京近郊で機関区の残っているところは佐倉しかなかった。だから佐倉で撮影した、というような(?)、いわないような(?)・・・。
 そこで、みなさまの中で、東京近郊の機関区の閉鎖年月について調べていただける人はいないでしょうか、というお願いです。
よろしくお願いします。

 えりっぷさんからメールあり。
 雑談ですが。フォクルセターズ後の北山修さんは大学にもどり、精神科医になられてます。いろいろカウンセリングの本や癒しの本をかかれてますよ。

 <返信>
 ありがとうございました。


 12月4日
 Uさんからメールあり
 僕のメールに返信をくださいまして、ありがとうございます。少し補足させてください。
 僕はフォーククルセダーズ(フォークル)の時から、はしだのりひこさんと北山修さんのファンでした。だから、シングル『さすらい人の子守唄』とアルバム『未完成』が出た時から、このジャケットの撮影は千葉の佐倉機関区だと知っていました。
 また1970年の頃、北山修さんが深夜放送のDJをやっていた頃、「シューベルツのレコードのジャケットの撮影には全て同行した・・・」と言っていました。それで、1971年の頃、サインをもらうわずかの隙に北山さんに確認できたのですが、確かにあの『さすらい人の子守唄』のジャケ写撮影には同行したそうです。
 また、他にはフォークルの時から彼らのレコードジャケットをデザインしていた広野勝さんも(アルバム『未完成』のジャケも彼のデザイン。アルバムの中のイラストも描いています)同行していたそうです。
 亀田さんも北山修さんが好きな様ですが、嬉しく思います。はしだのりひこ&シューベルツは以下のレコードをリリースしました。
 シングル
 @風
 Aさすらい人の子守唄  (佐倉で撮影した写真が初めて使われた)
 B朝日の前に
 C白い鳥にのって
 D一人ぼっちの旅(これは解散が決定し、端田宣彦とシューベルツ名義。D〜Gは同時発売)
 E杉田二郎とシューベルツ名義のシングル
 F越智ゆうじとシューベルツ名義のシングル
 G井上博とシューベルツ名義のシングル
 H朝日の前に/白い鳥にのって(解散後に再発されたベストカップリングシングル。「佐倉」で撮った別の写真を使用。アルバム『未完成』の中に載っている写真を別アングルで撮ったもの)
 <4曲入り>
 @さすらい人の子守唄(シングルとは別の写真を使用)

 <アルバム>
 @未完成(佐倉で撮影された写真満載。表面ジャケはアメリカのフォーク・ロックグループ、ザ・バーズを意識しているのでは・・・と当時話題になった。裏ジャケは後、CD時代になった時のベスト盤にも使用されましたね)
 Aリサイタル(ライブ盤)
 B天地創造
 Cさよならコンサート(ライブ盤)
 Dはしだのりひことシューベルツのすべて(解散後の1972年に発売された2枚組ベスト盤)
 Eはしだのりひことシューベルツ(カレッジ・ポップス・オリジナルストックシリーズの1枚としてリリースされた20曲入りベスト盤。シングルAと同じ写真を引き伸ばして使用)
 その他Eに先立つ2、3年前に@が再発されています。オリジナル盤に付いていたポートレートなどは付いてなく、表と裏ジャケだけの作りでした)
 以上はレコード時代で後はCD時代に突入します。

 <返信>
 新たな情報、ありがとうございました。私も、フォーククルセダーズが大好きで、レコードを聴いたり、下手なギターを弾いて歌っていました。懐かしいですね。今でもカラオケで歌っています(笑)。
 それから情けないことに、「さすらい人の子守唄」のレコードは買いましたが、当時、佐倉機関区で撮影されたことは知りませんでした。
 また何かありましたら、教えてください。


 12月3日
 Uさんから初メールあり
 管理人 さま
 初めまして。Uと申します。僕は、はしだのりひこさんの大ファンで、はしださんで検索していたら、こちらの『写真撮影他』に行き着きました。
 さて、はしだのりひことシューベルツが佐倉機関区で写真撮影したのは昭和44年のことと思われます。何故ならこのグループは昭和43年暮れに結成され、昭和44年1月にデビュー曲の『風』をリリース。
 で、佐倉機関区で撮った写真がはじめて使われた第2弾の『さすらい人の子守唄』のリリースが昭和44年の6月1日ですから、撮影は昭和44年の1月から5月までの間と思われ、またジャケットの服装などから推理して昭和44年の3月〜5月の頃ではなかったかとも思われます。
 また、ここで撮った写真が使用された、はしだのりひことシューベルツのレコードジャケットは僕の知っている限り他にも2種類あります。
 それは1980年代に出た、カレッジ・ポップス・オリジナルストックシリーズのCとして出た「はしだのりひことシューベルツ」集でここでのジャケ写はシングルの『さすらい人の子守唄』のものを引き伸ばして使っています。
 もう1枚は、シューベルツ解散後の昭和45、6年ごろ、シングルでベスト・カップリング・シリーズとして再発された『朝日の前に/白い鳥に乗って』。はしだのりひことシューベルツです。ここでの写真は、まったく初出のもので、メンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いている写真です。
 とにかくシューベルツは、この佐倉機関区で撮った写真がよくレコードジャケットに使われました。この撮影ではメンバー4人の他に作詞者(風やさすらい人の子守唄等の)の北山修さんも同行していました。
 はしださんのファンなので書かずにはいられませんでした。失礼します。

 <返信>
 はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。このたびはメールをいただいましてありがとうございました。また私の知らない情報をいただきましてありがとうございました。
 『朝日の前に/白い鳥に乗って』は見ていませんが、『未完成』のジャケットの中にメンバー4人が楽器をかかえて機関車の横を歩いているカラー写真(訂正)がありました。そのような写真を何枚も撮っていたんでしょうね。北山修氏も同行していたなんて感激です。
 これからも、よろしくお願いします。


 11月23日
 えりっぷさんからメールあり。
 最近古本を集めだしてしまいました。「指導物語」がらみです。昭和17年管書房刊の「映画の表現」沢村勉著を今日手に入れてよんでいます。
 中に「指導物語脚色記」がのっていたので。特に佐倉関係もありませんが。最初のシナリオは沢村さんの初年兵の日常を紹介したいとの思いがでてしまって、兵隊を描きすぎたとのこと。
 「書き終へて、製作者の森田信義氏から指導されるもののほうは書けているが、指導するもののほうが書き足りないといわれどきりとした。慌てて機関士の側にたちなおり、最初の30枚ばかりとそのほかも数箇所書き直した。兵隊の描写を少なくし、機関士の描写にとりかえたのである。」とありました。

 <返信>
 そうでしたか。映画を観るときには思い出しましょう。ありがとうございました。


 11月19日
 Iさんから初メール
 鉄ちゃんクラブ内容の件です(5月20日〜5月31日情報 はしだのりひことシューベルツの記事)。
 C58289の履歴:昭和22年9月15日一関機関区で水害により履歴簿汚損、以前の履歴不明。昭和36年3月9日佐倉機関区。
 C58166の履歴:昭和14年10月2日新鶴見機関区 昭和16年10月30日千葉機関区 昭和29年11月1日佐倉機関区。
 たまたま「鉄ちゃんクラブ」拝見しました。小生、佐倉にいた58677の調査をライフワークにしています。

 <返信>
 はじめまして。満開佐倉文庫を運営している亀田雄岳と申します。このたびは貴重な情報をお寄せいただきましてありがとうございました。これからも、佐倉に関した情報がありましたら、お寄せください。まずは、お礼申し上げます。


 11月12日
 えりっぷさんからメールあり。
 映画「指導物語」その後です。撮影をした宮島義勇氏の著書『天皇とよばれた男』(2002年10月 愛育社)を県立からとりよせて読んでます。
 第一部戦前戦中篇 V戦争とキャメラマンのp92から94まで指導物語のことが書いてあります。「『指導物語』は陸軍の鉄道部隊と国鉄の機関士の話で3月末にクランクインし北京に行ったのは4月中旬だった。
 (中略 )しかし北京にいた約一ヶ月の間僕たちは思想問題にはまったく触れなかった。京漢線の開封・石太線の大原のあたりまで鉄道隊の保線状況を見て回ったが作戦関係から1カットも撮影できずに帰国した。
 (中略 )国内での撮影を再開してからは千葉機関区が全面的に協力してくれて機関車の平行運転や二両連結などのダイヤを組み機関車が撮影機を付ける装備を作ってくれて僕は自由に撮影することができた。」
 佐倉出てきません。残念。。。

 <返信>
 北京にいったのは、どのような理由だったのでしょうかね。@『指導物語』の一部に北京郊外のロケをいれたかったのでしょうか。Aそれとも単なる息抜きだったのでしょうか。
 「指導物語」に北京を入れたかったのだが、作戦関係で入れられなかったとなると、話が面白くなっていくのですが・・・


 10月25日
 えりっぷさんからいただいたメール、3日分を掲載させていただきます。

 映画「指導物語」に関連した話です。指導物語の著者上田広氏は千葉県長生郡出身の人で七歳のとき千葉市に住んだということ。千葉市立図書館に色々所蔵があるようです。
 文学碑黄塵碑というのが一宮市に建てられたとあります。(「津軽海峡」昭和56年大正出版刊)上田さんは鉄道教習所機械科を卒業後国鉄職員となった方で戦争文学というより「鉄道を素材に数多い小説を書かれたユニークな存在」(同上)ということです。
 佐倉と直接関係なくてすみません。途中報告でした。

 いつも自分勝手な報告メールにおつきあいいただきありがとうございます。今日から祭りですね。天気よさそうでよかったです。私は残念ながら今日も明日も仕事でいけません。三日目も多分疲れきって休んでいると思います。
 最近運命ということばが時折うかんできます。映画指導物語の関係者を調べるなかでなんと学生時代に講義をうけた恩師の本にめぐりあいました。
 「演劇の青春」という本で阿木翁助という人がその人です。著書の中で丸山定夫さんのことにふれておられもし学生のころ阿木先生に丸山さんのことをお聞きしたら話してくださったのではと思ったりします。
 このホームページにめぐりあえたおかげで色々学ぶことの喜びを再認識しました。こちらこそありがとうございます。


 今日テレビの生中継で秋祭り鑑賞?です。狭い道にすごい人手ですね。
 続きです。「戦争と日本映画 講座日本映画4」岩波書店刊 の中で「戦争のなかのヒーロー」に藤田進さんのことばがありました。
(廣澤榮さんとの対談で)「ぼくは自分の作品の中で何がいいかとよく聞かれますけど。ぼくは第一に「指導物語」を挙げるんですよ」。実際に現場にかかわった人のことばなのでちょっとうれしいですね。
 同じ本の中に、「真実を撮る」で宮島義勇さんが「指導物語」のことをほんのすこし語っておられますが、千葉で撮ったとしかいわれておらず残念ながら佐倉の名はありません。
 機関車の横にカメラがついてる写真とクレーンに宮島さんがのって機関車を撮っているらしい写真とがのっています。場所はわかりませんが。多分ご存知のことかともおもいましたがご報告でした。

 <返信>
 えりっぷさんの熱意に圧倒されます。ありがとうございました。


  10月23日
 Eさんからメールあり
 こんばんは。映画「指導物語」の件です。手元にビデオがないので私は検証できませんが、劇中の2両が並走するシーンで、中央の大きな屋根の家が写っていた様に記憶しています。
 あの家ではないかと思う家の画像を送信します。ついでに、分岐点の写真も添付します。2両が分かれていくシーンの角度が検証できるかと思います。

 <返信>
 初メール、ありがとうございます。
 少し前、sendagiさんと、ホームタウン佐倉さんが話していた「指導物語」の導入部分のロケ地はどこかという件ですね(「鉄ちゃんクラブ」参照)。その家が特定できれば、ロケが成田線であったのか、総武本線であったのかがわかりますね。
 写真を元に検証していきましょう。なお写真はプライバシーの問題があるので掲載しません。いずれ、、鉄ちゃんクラブの人たちにもお見せする機会がくるでしょう。


 10月6日
 ホームタウン佐倉さんからメールあり
 長く当地を走っていた113系電車の大半が211系電車に代わることになりましたので、お知らせします。
 既に試運転列車が走っていますから、ご存知かとも思いますが、211系電車70両14編成が現在千葉以東を走っている113系電車と近く置き換えになります。
 10月21日から営業開始予定ですが、5両編成が基本ですから現在の113系電車6両編成と比較すると1両減少と言うことになります。もっともJR側の説明では定員は5両でも211系の方が多いそうですが、座席は現在のセミクロスシートからすべてロングシートに変りますから、確実に着席の機会は少なくなります。
 首都圏では座ることより詰め込む方がサービスと考えているようなので、「厭なら乗るな」「座りたければ特急でどうぞ」なのでしょう。サービスダウンなので公式にはまだ何の発表もされていません。
 車輌は新車ではなく、高崎線からのお古です。しかも総武本線、成田線列車の7割を置き換えて、残りは内房、外房、東金線を置き換えるというのですから、新型特急への置き換えが1年以上遅れたのとは逆にサービスダウンの方は、やはりこちらが先で、JRの千葉ー銚子間軽視は改まりません。沿線地方自治体や議会からの陳情や決議であれば影響もあるでしょうが、乗客はいくら不満を持っていても無視され続けているのが現状でしょう。
 ・・・
 10月1日〜3日から来年春から架け替え工事が始まる山陰本線餘部橋梁の撮影に行って来ました。完成は5年後とのことで、並行してコンクリート橋梁が建設されるそうです。
 そのため最近は訪問する鉄ちゃんが多く、餘部駅脇の山の中腹にある撮影場所には、私の訪問した日にも40人くらいが集まり、小さな場所から人がこぼれそう落ちそうでした。ただし半数は餘部鉄橋ブームのにわか鉄チャン(高齢者グループが多く、女性カメラマンが多いのにも驚きました)で、2本の列車を撮っただけで、さっさと帰っていきました。
 もっとも一日粘っていても10本程度の列車しか撮影できないのですが…。佐倉のはるか区域外ですが、駄作を2枚添付しました。
 山陰本線餘部橋梁1 山陰本線餘部橋梁2


9月24日
 ホームタウン佐倉さんから、メールあり。
 sendagi様がご指摘の映画「指導物語」の最初と終了近くのシーンに登場するC58217とC58218の並走のロケ地ですが、私も同様に感じていました。「レイルマガジン」 誌10月号を読んだ時に「先を争う東西成田線の分岐点に差しかかる(中略)成田はY字状に伸びる成田線の中心で、下に佐倉、左に我孫子、右に銚子を配しているが、東 西両線が並走する成田駅から北方500mあたりまで複線にも見える珍しい線形であつた」とあって、成田で並走ロケが行われたように記されていましたので、疑問を生じ たのです。
 そこで「指導物語」のビデオを改めて見直してみました。両機が並走する場面は画面に向かって左側は広い水田、右側は水田を挟んで丘陵が迫る地形です。また二つの 線路はかなり直線区間を走ってから、緩やかに分岐しますが、両方の列車はしばらくは相互に見ることができます。また列車がわかれて走って行く、分岐点の遠望では 手前の列車が、やや上り勾配を登っていることが判明します。これらは佐倉から南酒々井へ向かう地形に酷似しています。
 一方、成田では発車するとすぐに左へ急カーブし、直線区間はありません。さらに地形的にも線路際の片方は崖で落ち込んでおり、片側は高い土手になっています。 しかも撮影当時は成田鉄道多古線の線路が並行して敷設されていましたから、構内を外れれば三線になっていた筈です。さらに我孫子方面への線路は分岐するとすぐに 土手でさえぎられ見えなくなりますし、発車直後のカーブではあのようなスピードがだせる筈はありません。 実際にロケをみていたわけではありませんが、地形、線路状態から考えて、並走部分は佐倉駅から総武本線、成田線分岐点までの3.4キロの区間で撮影したと判断して差 し支えないと思います。
 また、成田での発車の際に「あの場所は2本の列車のスピードが(中略)つい競争になってしまう」との回顧談も掲載されて、同時発車の際に速さを競ったように書かれ ていますが、念のため「時間表」昭和15年10月号で調べてみると銚子行き、我孫子行きの同時刻発車はありません。最短でも4分の差があり、現在以上に定時発車がやか ましかった時代に並走の機会が沢山あったとも思えません。
 総武本線と成田線では、列車は両国ー佐倉間が併結運転で、下りは佐倉駅1番線(現2番線)に到着すると前方に連結の総武本線列車が後方の成田線列車を切り離して、 先に発車した後に、新らたに機関車を連結した成田線列車が、追いかける形で5分〜10分後に発車しましたから、映画のように両線列車が競争するシーンは下り列車の場 合は絶対にありませんでした。ただし、上りの場合は佐倉到着が1〜3分差でしたから、片方の列車が遅れれば並走しました。当時は総武本線列車が3番線(現4番線)に 着くと機関車は外され、成田線列車は一旦2番線(現3番線)に到着後に、転線して3番線に停車中の総武本線列車の前部に改めて連結し、一本の列車として両国へ向けて発 車しました。この方式は昭和24年頃に総武本線列車が上り側、成田線列車が下り側に連結とそれまでと逆になりましたが、昭和26年のダイヤ改正で、別々に運転されるま で続きました。その後準急や急行が運転されるようになると再び両線列車の併結運転が復活し、上りの場合は並走が見られるようになりました。昭和20年代の蒸気時代を 含め並走している様子は私も何度か実見しています。

 8月23日
 sendagiさんから、メールあり。
 こんばんは。sendagiです。6月のオフ会後としては、初のメールです。つまりパソコンが復活してからは初めてです。
 ここ数年、ほぼ毎号購入している雑誌、レールマガジンの最新号を買ったのですが、その中に、映画「指導物語」について触れている記事がありました。  蒸気機関車の乗務員のドキュメンタリーの連載とでもいうのでしょうか。連載「SL甲組」の肖像・・・というのがあって、連載といっても取り上げる路線とか機関区は、毎回別々なのですが、今回は、鉄道聯隊についてでした。
 かつて所属していたことがある人の苦労話や、当時の写真などで構成されています。
 ここで、鉄道聯隊が舞台となった映画「指導物語」について若干触れており、映画のシーンの写真や説明に2ページほど費やされているのですが、そこで、あのC58の牽く2本の列車が併走するシーンは、成田駅北方、つまり成田駅から銚子方面と我孫子方面にそれぞれ延びる線路が、駅からしばらく並行しているところで撮影されたような記述がありました。
 たしかに当時の佐倉と同じく、それぞれ単線でしばらく並行してはいますが、違いますね。私の記憶では、成田駅のすぐ西側は、成田ニュータウンができる前は谷のように窪んだ地形で、それが我孫子方面に向かう線路に沿って続いていて、映画で見た併走シーンとは、印象がだいぶ違う。もちろん、ニュータウンはともかく、撮影当時となると、私はまだ、私は影も形もなかったんですけどね。
 しかし、あっちこっちでいろいろなカットを撮っておいて、良かったものを使うとか、時間の都合で編集段階でボツにしたとか、そういうことも考えられるので、成田線のそこでもなんかしらロケはあったのかも知れません。
 まぁ、最後の併走シーンは佐倉としても、私自身、映画のはじめから終わりまで、じっくり通して観たことがないので。
 余計な話ですが、今は三線になった佐倉駅下り方では、タイミングが合えば、併走は見られますね。
 夕方にジョギングで高岡の踏切りあたりまで行くと、時間ははっきり覚えていませんが、成田線上りの成田エクスプレスと総武線上り各駅停車が、たまに併走しています。
 佐倉駅通過の成田エクスプレスのほうが速度が速いので、並んだと思う間もなくすぐに離れてしまいますけど。

 6月11日
 オフ会のとき、N・Mさんから「佐倉の音」はどうですか?という話がありました。
 見せられたものは、LPレコード「関東SLの旅」(1972年 キングレコード)で、@佐倉駅構内入換(「ハチロク」の音) A総武線の音、その他の鉄道の音が収録されています。
 私は驚いてしまいました。へぇー、「音」もいいものだな。そこで、「佐倉の音」も収集範囲とすることにしました。収集範囲が広がっていきます。


 6月10日
満開佐倉文庫開設6周年記念のオフ会を中央公民館で行ないました。当日の参加者は5人でした。まず、昨年の満開佐倉文庫の活動について、「年報」から説明をしました。
 続いて、ホームページで話題となっていた鉄道の話に移りました。
 @はしだのりひことシューベルツのレコード・ジャケットが国鉄時代の佐倉機関区で撮られたということについては、「蒸気機関車に付けられたプレート番号から佐倉機関区であった」と、全員一致で確認しました。
 A小林旭・宍戸錠が佐倉駅の引き込み線でロケしたという映画「縄張(しま)はもらった」についてはビデオを確認し、全員一致で「現在、法務局近くにあった引込み線近くである」という結論になりました。
 会議終了後、現地視察を行い、「だいたいこの辺であっただろう」という確認をしました。
 その後、2次会の中で、各人の「鉄道こだわり歴」に花が咲きました。そして、次回は各人の「鉄道お宝品」を持ち寄って話をしようということになりました。
 どのような「お宝」が出てくるのか、わくわくします。もちろん、館主としても、相手の「お宝」に対して、どのような「こ宝」を出そうかと、あれこれ悩むことになります。でも、この時間が楽しいんですね。コレクターとしては。

 6月7日
ホームタウン佐倉さんからメールあり。
 小林旭の佐倉ロケの情報ありがとうございました。昭和43年8月2日という撮影月日から判断して、佐倉駅引込み線のどの付近であったのか、ほぼ見当を付けましたが、6月10日のオフ会で、謎解きをしてみましょう。ただし、あくまでも推定です。
 映画をみていないので、当っていないかも知れません。的外れであればお笑いください。

 6月6日
sendagiさんからメールあり。
 おはようございます。
 HPは昨日見ました。新聞記事で確証が得られているってのがいいですね。
 ところで、その映画、私も調べてみましたが、VHSは出てますね。ビデオのパッケージ写真にはそれらしいカットは見当たりませんでした。このビデオはレンタル向け専用らしく、価格が高い。しかし、今レンタル屋に行ってもなさそうな気がします。

<返信>
 ありがとうございました。DVDばかりに気をとられていました。今、見つけましたので、注文しました。

 6月5日
 fukikohassyさんから佐倉情報あり。
 館主さま。
 ごぶさたしています。古い新聞に小林旭と宍戸錠が佐倉市六崎地区(国鉄駅引き込み線)で格闘シーンがあったという記事を見つけました。
 昭和43年9月8日付、千葉日報に出ています。「先月2日、小林旭は既報のとおり小編成のロケ班とともに千葉市へ早朝到着。千葉刑務所を舞台に出所するシーンを撮影。
 続いて午前11時から佐倉市六崎地区(国鉄駅引き込み線)で宍戸錠とのからみで格闘シーンを撮影、紅一点のニューフェース久本由紀も加わって、炎天下、勇ましいロケを行なった」
 映画の題名は「縄張(シマ)はもらった」で、10月に千葉日活で封切られたそうです。

 <返信>
 知りませんでした。また新しい発見ですね。さっそくDVDがあるかどうか探したのですが見つかりませんでした。まだDVDになっていないようです。残念。
 「渡り鳥シリーズ」だとDVDになっているものがあるんですが・・・。

 ☆☆☆
 そのようなわけで、「鉄ちゃんクラブ」のみなさま、今週のオフ会には、これも話題にしたいと思います。
 鉄道雑誌などに紹介されていないでしょうか。
 『近代映画』という雑誌があったと思いますが、この辺からもアプローチしてみましょうか。

 6月2日
 七つの子さんからメールあり。
 ご無沙汰しております。
 ここのところ、続けての鉄道の話題を楽しく拝読しておりました。佐倉機関区の、あの懐かしいツンと鼻をつく煙の匂いが蘇ってくるようです。
 手許に、昭和44年2月発行の「季刊 蒸気機関車」という雑誌があります。 蒸気全廃を目前にした佐倉機関区の特集が組んでありましたので、この雑誌だけは手放せず、保存していました。
 この時期、佐倉機関区には、C57が11両、C58が21両、そして8620は5両 配置されていたようですね。
 10日のオフ会は、野暮用がありましてパスさせていただこうと思っていたのですが、鉄道のお話を聞けるとあれば、万障差し繰って(笑)、参加させていただきます。

 <返信>
 オフ会に、この雑誌をお持ちになると、盛り上がるでしょう。
 七つの子さんを入れると、当日参加する「鉄ちゃん」が4人になります。
 「佐倉情報ライブラリー」の中に「鉄ちゃんクラブ」という項目をつくりました。佐倉の鉄道の話をして、盛り上がってください。

 5月31日
 ホームタウン佐倉さんからメールあり。
 ごぶさたしております。
 「鉄ちゃん」の一員として認定していただいたようで、有難うございました。
 C58166とC58289がだいぶ話題になっているようですから、久しぶりに「佐倉の鉄道噺」を下記に書きました。どうぞよろしく。
 なお6月10日のオフ会には参加させていただきます。てっちゃんの皆さんは出席されるのかなぁ?

 はしだのりひことシューベルツの写真ジャケットに描かれているC58166とC58289がだいぶ話題になっているようです。
 C58166は昭和14年9月、C58289は昭和16年9月にそれぞれ汽車会社で製造されました。製造番号は1800と2074です。最初にどこの機関区へ配置されたか、資料がありません。
 昭和20年8月(終戦時)にはC58166は千葉機関区、C58289は一ノ関機関区に配置されています。C58166は千葉機関区にその後も引き続き配置されていますから、おそらく房総東西線(現外房・内房線)で使用されていたのでしょう。昭和30年3月現在の配置表からは佐倉機関区に所属し、昭和44年3月現在までそのままです。
 C58289は昭和36年3月現在配置表から佐倉機関区へ所属しています。それ以前にどこに配置されていたのかは、これも資料がなく動きは不明です。やはり昭和44年3月現在まで佐倉機関区に配置です。
 したがって、ジャットの写真撮影は昭和36年3月以降でしょうが、これの発売がいつかわかれば、おそらくその直前に撮影ということになりましょう。両機ともに昭和45年3月現在配置表では、番号が記載されていませんから、県下の蒸気機関車全廃に伴い、廃車されたものと思いますが廃車年月日は調べてありません。
 sendagiさんの書かれた煙突上の回転火ノ子止めは、千葉鉄道管理局管内の機関車の大半は取り付けていました。
 映画「点と線」に登場したC58もこの回転火ノ子止め付きでした。戦後まで総武線や成田線はハチロクの天下でC58の引く列車はありませんでした。佐倉機関区へ初めて配置されたのは、昭和24年3月配置表からで、C5898,C58139,C58150,C58156,C58179,C58328,C58395の7両です。(ただし昭和23年3月配置表が手元にないため昭和22年3月配置表からの推定です)

 <返信>
 ここしばらく、鉄道の話で盛り上がっていましたので、いつ、ホームタウン佐倉さんが参加されるのか心待ちにしていました。オフ会には、sendagiさん、N・Mさんも参加予定ですから、オフ会も盛り上がるでしょう。

 はしだのりひことシューベルツの「さすらい人の子守唄」は、昭和44年(1969)6月の発売です。「風」は、昭和44年1月の発売です。
 気になっていたことがあります。sendagiさんが探してくれたブログに、「風」と題名を書いた下に、C58の機関車が写っているのです。
 ただジャケットの写真ではないと思うのです。というのも、私も「風」を買ったので、ジャケットの写真を薄ら覚えています。確か、枯葉の中にグループがいたような感じであったと記憶しています。
 ブログを書いた人がどのような理由で、「風」の下にC58機関車を並べたのか興味の覚えるところでもあります。

 5月26日
 先日のオークションで落札した、はしだのりひことシューベルのレコードが届く。
 シングル盤は、「さすらい人のも子守唄」のレコードで蒸気機関車に乗った写真。
 この写真は、先日、sendagiさんからメールをいただいたCP盤の写真と蒸気機関車に乗ったところまでは同じですが、角度が違っています。
 LP盤は、未完成というレコード名で、広角レンズでグループと蒸気機関車を撮った写真。この裏面にある蒸気機関車とグループが写った写真が、CDにありました。
 どうも文章が舌足らずですが、要は4枚のレコード盤とCDに、4枚の佐倉機関区で撮った写真がジャケットに使われているという話でした。

 5月23日
 sendagiさんから一昨日の内容についてメールあり。
 前回送信した内容の訂正、補足があります。まぁ、読んで軽く流すだけでもいいですけど。
 上野駅で最後まで見られたSLが成田線直通列車のC57(1969年3月15日)・・・これはいいです。千葉駅で最後まで見られたSL・・・正確にはこれがちょっと複雑でした。
 1969年7月10日・・・房総西線の最後のSL旅客列車。この列車が千葉駅を出発するシーンの写真は、千葉市史についての写真集などにはたいてい掲載されていました。私も小学校3年のときに学校教材の資料集で見ました。
 1969年8月20日・・・房総東線の最後のSL旅客列車。両国発勝浦行で、両国発としてはこれが最後だったようです。
 1969年9月30日・・総武本線のSL旅客列車。千葉発銚子行で、これが千葉駅での旅客列車としては最後だったようです。
 1970年3月15日・・・蘇我-越中島間のSL貨物列車。千葉駅を通過しています。D51の貨物列車でした。
 上記のうち、貨物のD51以外は、各線の最後を飾った機関車はいずれもC57。結局C57なのは同じです。
 また、1972年に鉄道100年記念のイベントが各地で開催されましたが、このとき総武本線・成田線に運転されたSLは、やはりC57でした。SL全廃の後、山口線で復活したC57-1号機でした。
 そんなわけで、千葉県内ではC58が多数活躍していたにもかかわらず、「さよなら列車」のような、おいしいところ(?)は、やっぱりC57ばかりでした・・・ということです。
  C58-166号機については、副灯のない時代(ステーも無い時)の写真を見つけましたが・・まぁそれだけで、あのジャケット写真に関しての新たな発見には至っていません。
 <返信>
 C58が出てこないのは少々さびしいところもありますが、文庫としては「佐倉機関区で撮影されたジャケット」ということで、充分に価値があります。
 これからも継続して探してください。ありがとうございました。まもなく、オークションで落札した品物が送られてくると思います。お楽しみに。

 5月22日
 sendagiさんからメールをいただいて気づいたのですが、満開佐倉文庫の司書さんは「てっちゃん」が多いなということです。
 最初の情報を教えてくれたTONGOさんや、N・Mさんがいます。それから「てっちゃん」といっては失礼になるホームタウン佐倉さんがいます。
 もう、4人がそろったときのオフ会は、鉄道の話で盛り上がりっぱなしです。
 はしだのりひことシューベルツのCD,ドーナツ盤、LP盤を落札しました。
 3枚ともジャケットの写真は違うのですが、さらにsendagiさんが昨日、紹介してくれたHPにある写真とは違っています。
 つまり、佐倉機関区で撮った、はしだのりひことシューベルツのジャケット写真は4枚あるということになります。詳細は、品物が届いてから掲載します。

 5月21日
 sendagiさんからメールあり。
 はしだのりひことシューベルツが撮影に使った機関車はC58の166号機です。
 C58の166号機の写真は、SLの写真を掲載しているHPを適当にあたって、これだけ見つけました。

 (Webサイト 閉鎖)
   ご自由にどうぞとのことなので、ここに出ている写真を添付してあります。1967年12月3日撮影だそうです。
    つぎに、TONGO氏から教えてもらった、例のジャケットの写真の出ているHPですが、

 (Webサイト)
 ナンバープレートが隠れて見づらいですね。ほかのジャケットを探して見ますと、別のHPで、小さくしか出ていませんが、C58166らしいものはありました。
 メンバーの服装からして、同時に撮影されたものでしょう。(添付の写真です)
 ジャケットの写真ですと、C58166には副灯(中央のヘッドライトのほかに隣にもうひとつある予備灯)があります。
 1967年12月3日の写真には、副灯がないですが、取り付けるステーらしきものが写っており、修理か何かで、外していたのかもしれません。
 こういう装備は、同じ機関区の同じ形式でも、1両ごとにまちまちだったりします。同時期に佐倉機関区にいたC58のほかの写真を見ても、副灯の位置が違うものがあります。
 また、煙突が、皿を載せているかのように上が拡がっていますが、これは回転火の粉止め(多分)で、これはジャケットの写真も1967年12月の写真も同様ですね。
 別のHPで、鉄道図書刊行会の国鉄車両配置表の内容を掲載しているものがあり、それによると、1964年4月の配置表と、1969年3月の配置表で、166号機は佐倉機関区に所属していたとされ、少なくともこの間はずっと佐倉に所属していたと思われます。
 余計な話ですが、上野駅で最後まで見られたSLは常磐線から成田線への直通列車(1969年3月まで)で、これはC57。
 千葉駅で最後まで見られたSLは房総東線の列車(1969年8月)で、さよなら運転はこれもC57。おいしいところ(?)はC57に持っていかれています。C57だと、自分の家にある鉄道の本でも結構調べられるのですが、C58だと、自分の家にある鉄道雑誌では、特集が組まれたものはなかったです。
 本末転倒な話ながら、ジャケット撮影にC58でなくC57を選んでくれればよかったのに・・なんてことも、調べながら思いましたね。
 SLなら何でもよかったのか、C58が好きだったのか、それとも佐倉機関区に何かこだわりがあったのか、さらにはC58の166号機を選んだ理由でもあるのか、わかりません。
 HPでも雑誌でも、「ジャケット撮影エピソード」みたいなものを見つけられればズバリなのですが、今のところ見つけられなかった・・・
 C58というと、客貨両用の万能機で、比較的製造数も多く各地で使われながら、それでいて、特急列車の牽引などの華々しい経歴はほとんどなく、そのためか、詳しいデータや写真を多く掲載しているHPは、自分が探した限りでは、なかなか見つけられませんでした。
 なお、インターネットでの情報は、必ずしも正確でないことが珍しくないのでご了承ください。
 またなにかわかりましたらご連絡します。6月10日は参加いたします。よろしくお願いいたします。

 5月20日
 はしだのりひことシューベルツのレコードをオークションで発見。ドーナツ盤、LP盤、CDがあり、それぞれ機関車の角度が違っています。
 オークションの写真が小さいので、これが旧国鉄佐倉駅の機関区かどうかわかりません。とにかく手に入れたいと思います。

〔2006年〕
 5月18日
 TONGさんから佐倉情報
 はしだのりひことシューベルツというフォークグループが、かなり前にレコードを出しましたが、ジャケットの写真は旧国鉄佐倉駅の機関区で撮られたものです。
 <返信>
 ありがとうございました。さっそく、探してみます。


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