佐倉本情報 
                                               【2006年1月1日〜 】

    佐倉本は、小説、雑誌、同人誌などに佐倉が一文字でも出てくる冊子の総称です。


 12月27日
 sさんから初情報
 久世光彦『蕭(しょう)々館日録』86頁に香取秀真の名が出てきます。
 ますます広がりを見せていますね。検索をしていると思わぬところで満開佐倉文庫に出会います。よいお年を

 12月25日
 えりっぷさんからメールあり
 いま江戸時代のあれこれというような本を映画「大奥」がらみで読んだりしてます。そのなかで安藤優一郎著『観光都市江戸の誕生』(2005年6月 新潮新書)をみつけました。
 「第四章成田ブランドを確立した戦略」の章にある「佐倉藩主・稲葉正通の政治的意図」というのがとても面白いです。今の成田山参詣の盛んにさせたルーツがのっていました。

 〈返信〉
 ありがとうございました。

 12月24日
 えりっぷさんからメールあり
 佐倉丸のことですが、移民関係から探ってみたところ見つけました。山田廸生(やまだみちお)著「船にみる日本人移民史」中公新書1998年刊にのっていました。
 「第一章明治・大正期の移民船 ペルー移民第一船佐倉丸 」の項目に「佐倉丸は日本郵船の船である。2953総トン。1887(明治20)年に英国で建造された鋼製汽船で、日清戦争のときに政府が購入し、戦後払い下げられたものだ。船名はそのころ歩兵第二連隊があった千葉県の佐倉にちなんでいる。日露戦争中に旅順港閉塞作戦で自沈し、壮烈な最期をとげた。」(53頁)佐倉です!

 〈返信〉
 ごくろうさまでした。ありがとうございます。来年の満開佐倉文庫情報大賞候補ですね。

 12月16日
 プライベートな忘年会を、蕎麦屋でやりました。この店は手打ち蕎麦ということで、当店が本に出ていますとのこと。  見せられた本は、大浦明編集『千葉のうまい蕎麦 73選』(2006年9月 1300円 幹書房)で、佐倉市では佐倉新町にある川瀬屋が紹介されていました。そして、川瀬屋でも手持ちの本を売っていただけるとのことで、さっそく1冊購入しました。
 まさか、ビールを飲みながら佐倉本に巡りあうとは思ってもみませんでした。

 12月14日
 Kさんからメールあり。
 ご無沙汰しております。いかが、お過ごしでしょうか?また、2冊ほど「佐倉本」です。
 中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(1988年 光人社)
「八日未明、コタバル上陸開始の報につづいて「淡路山丸」大火災。「綾戸山丸」「佐倉丸」も被弾と悲報が相ついだ。」(31頁)
「問題のコタバル上陸は第一回、第二回の上陸部隊は予定通りに着岸、第三回目の舟艇も半数くらいは上陸できたらしい。「綾戸山丸」「佐倉丸」はいったん避退、翌九日の未明、揚陸点にもどり、天明後に上陸を再開したが、このときはすでに飛行場の占領を終わっていた。」真珠湾攻撃の日、著者は第二艦隊参謀としてマレー沖海戦に従軍とのこと。「佐倉丸」の名の由来は、ネットで見ると「地名」とあるので、おそらくご当地のことでしょうか。

 宮部みゆき氏『蒲生邸事件』(1996年・毎日新聞社)、私は宮部さんの小説を初めて読みました。有名な本なので、館主さんはもうご存知だったかもしれません。読み始めてすぐ、P9「蒲生大将は、明治九年千葉県佐倉市の農家の次男として生まれました。」とありました。

<返信>
 宮部みゆきさんの本は把握していました。ありがとうございます。佐倉丸については、少々長くなりそうなので、後日、掲載いたします。

 12月13日
 T3さんから初メール
 植田多喜子『うずみ火』(1972年4月 仙石出版)「わたしは、目黒、大岡山の植松寿樹先生の門をくぐりました」(127頁)
 「分骨は、千葉県佐倉の、お家累代の御墓所に、お鎮まりなされた。お家は、佐倉藩の家老である」(260頁)

 <返信>
 植田多喜子氏の師は植松寿樹という人で、この植松という姓は佐倉藩家老職の姓で確かです。
 知りませんでした。ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。

 12月7日
 N・Mさんから佐倉本情報
 成田に住んでいますので、笙野頼子氏の『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』(2006年10月 1900円 集英社)を読んでいたら、佐倉が出てきました。
 「成田、それは千葉、内陸、北総、ウチのすぐ近く。でも成田と佐倉とは違う土地なのだ。私は越してからあまりに苛烈過ぎる佐倉の気温の中で、成田の農民の感じを想像するというアホな事をしていたのだけれど。」(16頁)
 「越した当初、佐倉は雲が早いので雪が少ないと友人が教えてくれた。私の住むところは夏最高気温三十五度、冬最低気温マイナス六度、特に家の近くは沼の冷気で冷えるため冬が辛い。が、今はたとえ寒いさ中でも、また真っ暗になった沼と山の間の道路を歩いていても、妙に、山に癒される。」(17頁)
 「佐倉市は住其ネットを拒否しなかったらしく私の分の番号も来ていた。都内のどっかの区は断っていたが。
  車は家の前の高台の、タイコ橋のように急な坂をくわっと下りて、私のいる町から沼のよく見える東の方向に走り出した。そのあたりは百メートル進むと最低気温が、一度下がる。江原台のいつもの猫の飯を買いに行くホームセンター、シャトレーゼの工場、を通り過ぎる。水道道路から成田街道に入り、周辺に川魚料理屋の多い橋を渡り、佐倉宗五郎を弾圧した佐倉のお城の、跡に建つ民俗歴史博物館を斜めに見て、山中の石段、頂上の鳥居をぼーっと認める。」(42頁)
 「その後車でマカタに行こうとしたら難渋した。というのもマカタは千葉に十八社あるから。そして周囲の緑の多いあたりの景色はというと実に似ている。同名の神社は佐倉駅から徒歩十五分のところにもあるし。」(72頁)
 「十月の下旬、佐倉の新興分譲受託の中で少し早い万聖節の前夜祭、ハロウィーンのパレードが行われていた。西洋から輸入した精霊の土俗由来の祭りが、佐倉という日本の、土俗の地で行われているのだった。」(100頁)
 「東京から来る人に佐倉の夜の暗さを、というか自然の良さを見せようと思っていた。寂しいところに住んだと思われているけれど、また最初は寂しかったけれど、私はもう佐倉が好きになっていた。初夏に電車で来る人は佐倉の手前で、車窓の緑に、歓声を上げる。家の近くまで来ると、なんだ住宅地じゃないですかというのだけれど、林や沼や山の気配は夜に濃くなる。それを知らせたい。」(101頁)
 「能は佐倉に来てからその薪能で見て好きになった。最初は取材であったが、その場で楽しめた。」(102頁)
 「以前に人に聞いて沼の方の小学校あたりは自然が残っているというので、兎や狸のいそうなところに行きたいというと、よく車に轢かれるというのでやや反省をする。沼に浮かぶ灯を見て、夜の道を走る。東京から帰ってきて八千代、四街道あたりで通る林の中とさして変わらない。沼の水と鉄塔の赤い灯を私は見慣れているし、湾岸道路を彼女は知っているはずだ。通りついでにナガシマの家をドライバーが教えてくれる。石の天狗像がある八幡神社の近くまで行く事にした。神社のところで下りて、下方の繁華街を見た。  帰ろうとすると、雷電為右衛門のお墓を見ませんか、と少し拍子抜け気味に私たちにドライバーが薦めた。」(108頁)
 「車で佐倉から世田谷美術館に行くところだった。」(133頁)

 <返信>
 ありがとうございました。この作品には、ずいぶん佐倉が語られていますね。ぜひ、皆様に一読を薦めます。

 11月30日
 スナフキンさんから佐倉本情報のメールあり
 寒さが身に染みる季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。久しぶりに佐倉本情報をメールします。
 「町医北村宗哲」佐藤雅美 角川書店 2006.8(「跡をゆるりと尋ね三省」の章、p.195〜198)主人公の北村宗哲は、江戸時代の医者という設定で、「ひょっとすると佐倉本か?」と職場で話題になり、時代小説は苦手なのですが、何とか辛抱して読んでみたら、ビンゴでした。
 しかし、「堀田様のご家来衆の貧乏ぶりは・・・」など「佐倉藩」について、あまりよい印象ではない表現で、そういう話を読んだのは初めてだったので、ちょっとびっくりしました。でも、これが一般的な見方、なのでしょうか?
 佐藤雅美の作品には、(「開国」もありますが)この主人公北村宗哲と同一人物であるような設定の主人公が出てくるもの(啓順シリーズ?)もあり、こちらもひょっとすると・・・?時代小説が好きで、佐藤氏の作品のファンの方がいたら、ぜひ、読んでみていただけたら、と思います。

 <返信>
 本を見ただけで、”佐倉本ではないか”と職場で話題になって、ありがたいですね。そして不得意なジャンルの本でも読み出す。これこそ、まさに私が願っていた「佐倉(本)探しという読書方法」「地域探しの読書法」です。
 つまり、ただ「読書をしなさい」といっても、なかなかできるものではありません。本を読むには何か読み出す動機が必要であり、その一つに地域をテーマにした「佐倉(本)探し」という読書法があっても良いのではないかと考えています。
 そして、自ら「佐倉」に出会えた喜びに浸れます。自ら地域の文字を探せたという喜びは、「教えられた」ことよりも数段上の喜びであると考えます。さらに郷土への愛着も生まれてくることでしょう。満開佐倉文庫は、そのようなことをみなさんと楽しみながらやっていきたいと開設しています。
 スナフキンさんから情報をいただいたとき、スナフキンさんの「佐倉を探した」という喜びが見えるようでした。それから、スナフキンさんや職場の皆さまにも、佐倉本探しの”感”が備わったようです。これからの探索を楽しみにしています。

 さて幕末に堀田正睦が佐倉藩主となったころの貧乏ぶりは、かなりのものでありました。もっとも、それは佐倉藩に限ってのことではなく、「武士は食わねど高楊枝」と世間でいわれるようでしたから、多くの藩でも似たり寄ったりであったと思います。
 佐倉藩の場合、『佐倉市史』巻1、591ページあたりから藩士の困窮ぶりが記されています。だからこそ、堀田正睦は藩政改革を断行したのであり(その中でも、藩士が文武に励まなければ、さらに給料を引かれるという「一術免許ノ制」は学問隆盛の基礎となりました)、そこから(結果的に)多くの人材を輩出したというストーリーにつながっていきます。

 佐藤雅美については、注意をしていましたが、忙しくて(と、都合の良い言い訳をしてしまいます)、なかなか読むことはできませんでした。
 別な話になりますが、つい先日、吉村昭の遺作「死顔」が出版されました。佐藤泰然のことが書かれています。

 11月26日
 佐倉本情報
 雑誌『鉄道ダイヤ情報』12月号 NO.272(2006年12月 交通新聞社)「里山の風 総武本線物井〜佐倉」として、カラーで8ページにわたって列車風景が紹介されています(撮影者 末吉邦男氏)。風景は春夏秋冬があり、大変に参考となりました。

 11月16日
 佐倉本情報
 樋口雄彦「資料紹介 『さくら』『千葉連隊区将校団報』『五七』の総目次」『国立歴史民俗博物館研究報告』第131集 所収(2006年3月 国立歴史民俗博物館)
 戦前、佐倉には連隊が駐屯していました。『さくら』は、佐倉連隊区司令部が発行した在郷軍人会向けの雑誌。『千葉連隊区将校団報』は「戦術の研究」を連載し、専門的な内容。『五七』は、歩兵第五十七連隊発行の雑誌。その目次紹介です。
 『さくら』の題字は、最初、「佐久良」とあり、後、「佐久羅」とも表記された。佐倉という漢字がどのように記されるのか、ということを調べるのも面白そうだ。

 11月13日
 T・Sさんから佐倉本情報あり
 情報紙『京成らいん』11月号(2006年10月 京成電鉄)佐倉城址公園のガイドと、佐倉市在住のモンキー・パンチさんが紹介されていました。
 「9年前にここに越してきたんですが、当時はとても静かでヒバリがさえずるようなところだったんです。今は、都会へのベッドタウンとなり、買い物の商店が充実した住みよい街となっています。」(6頁)

 11月11日
 峠の釜飯さんから佐倉本情報
 丸谷才一『挨拶はむづかしい』(1985年9月 860円 朝日新聞社)「新婦は、県立佐倉第一高等学校を経て、中央大学文学部、同大学院修士課程、博士課程を終えました。」(33頁)

 11月10日
 初メールあり
 はじめまして。浦安のYAMと申します。
 満開佐倉文庫とそのホームページ拝見させていただきました。すばらしい試みです。ぜひ協力させていただきたくメールさせていただきました。
 すでに、ご存知でしたら申し訳ありません。
 国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」『国枝史郎伝奇全集』巻六(1993年9月 未知谷)「彼は下総の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の忰であった。
 伊東の家柄は、足利時代に、下総、常陸等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流(ながれ)だったので、現在の領主、堀田備中守も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。」(278頁)

 徳富健次郎・蘆花『みみずのたはこと(上)』(1996年11月 岩波書店)「父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルバ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。」(29頁)
 「爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。」(287頁)

 <返信>
 はじめまして。メールをいただきましてありがとうございます。
 佐倉本情報、いずれも知りませんでした。関寛斎関係の本にも佐倉が出てきますね。私の収集から関寛斎という人物が漏れ落ちていました。
 それから満開佐倉文庫に協力してくれるとのこと、ありがたいです。こちらこそ、よろしくお願いします。

 11月9日
 作家からメールあり
 ただいま、出版予定の時代小説がアップ間近となり、その原稿にかかりきりになっておりまして。初メール以降一通も連絡せず、申し訳ありません(汗)。この依頼原稿が上梓された際には、またあらためてメール致しますね。

 <返信>
 ごぶさたしています。お元気のようで、なによりです。
 メール、気にしないでください。なかには、1年以上も音信不通の方もおります(笑)。それでも良いと思っています。
 満開佐倉文庫は、みなさまがホームページを訪れたとき(思い出したとき)、そこにあればいいのだと思っています。奈良の大仏様のようなものですね。
 時代小説が出版されるのを楽しみにしています。出版しましたら連絡ください。ホームページで紹介します。メッセージもいただけるとありがたいですね。
 当ホームページは、本が好きな人が集まっていますので話題になるでしょう。
 ☆☆☆
 作家からメールをいただき、あせっております(汗)。お名前は、出版されたときに紹介します。
 満開佐倉文庫は、佐倉が出てくる小説や、佐倉にゆかりのある作家を応援していきたいと考えています。

 11月8日
 佐倉本情報
 白鳥浩治『生きている印旛沼 ー民俗と自然ー』(2006年10月 2000円 崙書房出版)  第1章 印旛沼とその流域の概要 第2章 印旛沼周辺の人の営み 第3章 印旛沼とその周辺の自然特性 第4章 印旛沼とその周辺の自然改造 第5章 印旛沼流域の現状
 本書は研究書ですが読みやすく、また印旛沼を幅広い領域からとらえていますので入門書としても適しています。

 11月3日
 えりっぷさんからメールあり
 北村薫『ひとがた流し』(2006年7月 朝日新聞社)「佐倉のね、歴史民俗博物館に行ったんです。」(168頁)

 佐倉本情報をいただく。
 情報紙『hello BOSO(はろ〜房総)』2006.秋冬号(2006年11月 東京電力千葉支店)「キラリ!房総K佐倉・坂道さんぽ」に佐倉が見開きで紹介されています(2頁)。

 『こうほう佐倉』11月1日号(佐倉市)に、館主が趣味でつくった「佐倉本データ・ベース 2006」が佐倉市立図書館のホームページで見られると紹介されました。
 みなさんからいただいた情報を整理して、そのデータを図書館で使っていただけるならありがたいことです。私は、これを情報ボランティアだと思っています。
 そうか、そうすると、佐倉市立図書館への情報提供というのも、満開佐倉文庫の活動の一つになりますね。新たな活動として認識することにしましょう。実際に、やっているのですから。

 佐倉本情報
 まちづくりマガジン『すたっと』2006年10.11月号(2006年10月 高千穂ネットワーク)特集「本と映画に見る佐倉」に、満開佐倉文庫の話をしています。掲載するのを忘れていました。

 10月15日
 ホームタウン佐倉さんからメールあり
 中央図書館所蔵の徳永真一郎著『幕末閣僚伝』(PHP文庫、1989年11月PHP研究所刊)内容は幕末に活躍した堀田正睦ほか七名の幕府重臣の活躍を描いた歴史小説です。
 従来の薩長閥に都合のよい史観に基いたものではなく、幕府側からの好意的な視点で描かれています。堀田正睦には57ページ(p55〜112)が割かれているほか、阿部正弘(p31,45,46,47,49)、川路聖護(p149,165,167,169,170.171)、安藤信睦(p272,225)の項にも堀田正睦、堀田備中守、堀田、正睦などとして名前が挙がっています。

 10月2日
 れんとさんから佐倉本情報のメールあり
 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(2006年8月 1600円 講談社)
 「かつては単なる千葉県S倉支部に過ぎなかったからだ。しかし今では最後まで戦ったゆえに、本部である。S倉がである。
 そのS倉とは、縄文より人の暮らす、歴史の濃い土地である。反抗に彩られた受難の土地だった。戦うのに慣れている土地であった。『あーまたかー』という感じで気が付くと戦っているお国柄だった。まあ決して佐倉でない事を明言しておくがね。
 ヤマト官憲の『東征』に始まり、S倉惣五郎、N田闘争の気質を今に伝える聖地である。また江戸時代の後期には『西の長崎、東のS倉』と言われた蘭学に熱心な頭のいい土地で、理論、知育、先取の精神、ブランドも高かった。その上たまたま作者が住んでいるせいもあってこのように良く書かれてしまうのであった」(10頁)
 「ちなみに、この『うちどもら』という言葉は『自分たち、私ども』というような意味のS倉弁である。S倉が本部になってから十年近く、また巫女もあまり長々とS倉に住み着いているがために神の託宣にもこの、S倉弁が、混じるようになっている。」(31頁)
 このほかにも、何箇所かS倉が出てきますので、お読みください。

 9月25日
 佐倉本情報
 神渡良平『主題のある人生』(2005年5月 1700円 PHP研究所)「1992年、バルセロナ・オリンピックで有森裕子選手に銀メダルを、続く1996年のアトランタ・オリンピックでは有森選手に銅メダルを、2000年のシドニー・オリンピックでは高橋尚子選手にとうとう金メダルを獲得させ、女子マラソンの界の名伯楽と讃えられる小出義雄佐倉アスリート倶楽部監督(前・積水化学女子陸上部監督)の人生だ」(240頁)
 神渡氏は、佐倉市在住。

 9月22日
 七つの子さんからメールあり。
 おはようございます。実は、私は山車の変遷や構造については、あまり詳しくないのですが・・・
 千代田区教育委員会から発行された、「江戸型山車のゆくえ」(昭和55年発行)「続・江戸型山車のゆくえ」(平成11年発行)には、『神田明神祭礼絵巻』『江戸天下祭図屏風』などの絵巻物、浮世絵などが掲載されています。
 それによると、山車だけでなく、屋台や曳物も牛に引かせていたことが判ります。もちろん、すべて牛に引かせていたわけではないでしょうが・・・
 番付絵のほうは、山車の周りにいる人間が多く描かれていますので、牛は隠れて見えないカタチになっているのではないでしょうか。
 牛引きの山車は2輪ですので、前に傾けさせると牛に負担がかかるため、後ろに傾くようにしていたそうです。参考程度ですが、牛引きの山車図を添付いたします。

 <返信>
 ありがとうございました。
 私も、昭和55年発行の本はコピーした記憶があります。ただ、佐倉のところ数枚しか、コピーしていなかったようです。しかも、現在、自宅内不明。
 牛に曳かせていたとなると、ずいぶんのどかな祭りだったんですかね。人が曳いて賑やかになるのは、いつごろからなんでしょうね。

 9月21日
 七つの子さんからメールあり。
 ご無沙汰しています。さきごろ開催された国立歴史民俗博物館の企画展「佐倉連隊にみる戦争の時代」で、山車の写真をご覧になったでしょうか?
 『日清戦争の招魂祭』と題された一枚です。図録では43ページに掲載されています。この写真に、麻賀多神社祭礼の7本の山車が写っています。私が知る限り、最も古い山車の写真だと思うのですが、如何でしょうか。
 祭り好きな私の仲間うちでは、この写真をめぐって「ちょっとした大騒ぎ」になっています(笑)上町の「日本武尊」の山車が後ろに傾いているのは、この山車が二輪で、牛に曳かせていたものだという何よりの証拠だそうです。
  佐倉本の情報でなくて申し訳ありません。そろそろ祭礼も近くなってきましたので、心浮き立つままに記しました。

 <返信>
 私も図録を買いましたが、まさか日清戦争で「祭り」の山車とは気づきませんでした。私の知る限りでは、現在、山車が写ったものとしては、一番古い写真だと思います。
 山車が傾いているから牛に曳かせていた証拠とは、おそれいりました。こだわって見ていると、見えてくるものですね。祭りが近くなってきましたから、大いに盛り上がってください。
 ところで、山車を牛で曳くっていいますと、江戸時代は人が曳いていなかったんですか?『佐倉写真帖』に掲載されている、「山王御祭礼番附(万延元年) -部分-」の挿絵を見ても、牛が出ていませんが?

 9月20日
 Kさんからメールあり。   中谷俊雄『古代蓮』(2005年 新風社)P65.、89、111、123、125、126に「印旛沼」の語が出てきます。
 この本は、行田ハスや大賀ハスなどの古代ハスが本物かどうかを検証しようとしたものです。大賀ハス発見の報を、新聞社が誤って「印旛沼手賀沼干拓工事現場」と書いている話に出てきますが、内容的にも面白いものでした。

 <返信>
 さっそくリンクを修正していただきましてありがとうございました。『古代蓮』、面白そうなので探してみます。

 9月9日
 『新潮』(2006年10月 900円 新潮社)
 吉村昭氏の遺作「死顔」に蘭方医佐藤泰然の話が出ていました(36頁)。興味のある方には全文をお読みいただきたいので、ここに引用はいたしません。図書館でご覧ください。

 9月7日
 佐倉本情報
 佐伯泰英『秘剣孤座』(2005年9月 600円 祥伝社文庫)
 「佐倉街道の酒々井の辻で、商人の話が大袈裟でないことを知らされた。あちらこちらの街道から次々と成田山新勝寺の宿場町寺台に向かい、初詣での客が詰め掛けていた」(196頁)
 「『老中戸田様の佐倉城下を見物して参ろうか。どうせ道中、どこぞで一泊する旅よ、急ぐこともあるまいて』」(221頁)
 「かつて千葉氏がこの酒々井に本城の本佐倉城を、二里半ほど西に臼井城を配した要衝地であった」(221頁)
 「『佐倉に立ち寄り、城下を見物して参る』『それは奇遇にございますねえ、私もこれから佐倉城下でひと稼ぎと考えていたところですよ』」(233頁)
 「酒々井から佐倉までは一里八町(約四・八キロ)余りだ。佐倉藩は天正十八年(1590)八月、徳川家康の関東入封にともない、三浦義次が本佐倉に一万石で入封したのが始まりとされる。 以来、武田家、松平家、小笠原家、土井家、石川家、松平家、堀田家、大給松平家、大久保家と目まぐるしく代わって、貞享三年(1686)に武蔵国岩槻から戸田忠昌が転封してきて六万一千石で立家していた。 成田山新勝寺は代々の佐倉藩主の庇護の下に江戸で名が知られるようになっていったのだ。
 一松とやえが訪ねようとする佐倉城の主、戸田忠昌は元和元年(1615)から老中を務めていた。それだけに城下の賑わいも一際だった。
 二人は印旛沼を見下ろす丘陵地鹿島山を利して造られた老中所領の城を、町屋を見物して回った」(224頁)

 9月6日
 佐倉本情報
 柴田錬三郎「大峰ノ善鬼」『剣鬼』所収(2002年2月 新潮文庫)
 「小金原は、後年の佐倉炭の本場であるが、それは、二百年も後の寛政年間に、はじめて相模の炭焼きを迎えて、檪林を伐出させるようになってからのことである。
 千葉氏の領する、佐倉管轄の当時の小金原は、見渡すかぎり茫々たる原野であった」(79頁)

 9月1日
 N・Mさんから佐倉本情報
 古川薫『不逞の魂』(1989年8月 新潮文庫)「大築尚志は、旧佐倉藩主堀田家の家臣で、元沼津兵学校の学頭だった」(101頁)
 「日本公使館は、騎兵隊大通りにある。ロシア駐在特命全権公使・林董をはじめ公使館付陸軍武官・伊東主一少佐」(136頁)
 「武官を除いた公使館の顔ぶれは次のようであった。公使 林董」(154頁)

 8月31日
 雑誌『男の隠れ家 城下町迷宮 其之弐』10月号(2006年10月 680円 アイデア・ライフ)
 関東・関西 日帰りで行く小さな城下町の一つとして佐倉が取り上げられています。佐倉城、ひよどり坂、武家屋敷、木村屋、玉家、旧堀田家住宅などが出ていました(66頁)。
 本の体裁がすばらしいです。佐倉が栃木、川越、龍野などとともに全国的に取り上げられたので、さらに知られていくと思います。

 8月30日
  Sさん、T・Uさんから佐倉本情報のメールあり。
 雑誌『男の隠れ家』10月号に、佐倉が出ていると新聞広告にありました。

 8月28日
 N・Mさんから佐倉本情報。
 一坂太郎『幕末歴史散歩 京阪神篇』(2005年8月 中公新書)堀田正睦が朝廷に勅許をもらいにいく場面あり(45〜49頁)。
 藤田覚『幕末の天皇』(1994年9月 講談社選書)堀田正睦が朝廷に勅許をもらいにいく場面あり(171,172,175,178〜180,181,188,189頁)。

 まちづくりマガジン『すたっと』(2006 8・9月号 高千穂ネットワーク)佐倉周辺の情報を掲載。

 8月24日
 えりっぷさんからメールあり。
 ふたたびです。いろいろ書いてくださってありがとうございます。佐倉本の漫画のことで追加されてないようなのでお知らせします。
 昔から大和和紀さんのファンなので「にしむく士」全巻もってます。Bが1999年12月Cが2000年4月、そして最終巻Dは2001年6月に発行されてます。
 特に最終巻には江戸にでることになるエピソードが佐倉藩の当時のこととして回想ででてます。佐倉藩お馬廻り役をつとめる長兄の部屋住みで。などとでてました。ご報告まで。

 <返信>
 ありがとうございます。「にしむく士」3、4、5巻をいただいていたのですが、そのままになっていました。
 これからも、よろしくお願いします。

  峠の釜飯さんから雑誌情報。
 雑誌『武道』(2006年8月)立身流が載っていました。

  緑葉さんから佐倉本情報。
 平塚純一・山室真澄・石飛裕『里湖(さとうみ)モク採り物語 −50年前の水面下の世界』(2006年6月 1795円 生物研究社)印旛沼の記載がありました(75〜78頁)

  T・Uさんから佐倉本情報。
 千野原靖方『関東戦国史』(2006年2月 崙書房)「北条氏の下総佐倉領支配」(213〜221頁)、ほかにも本佐倉や臼井のことが少し載っています。

 8月22日
 えりっぷさんから佐倉情報。
 『図説蒸気機関車全史A』(2006年4月 学研)
 付録に昭和35年3月31日現在の各機関区のSL配置がのってます。無論佐倉機関区のも型番からのっていました。

 8月21日
 佐倉本情報。
 山倉洋和『もうひとつの「歴史散策」「佐倉連隊とその時代」を歩く』(2006年6月 500円)
 佐倉には、終戦まで連隊が駐屯したので、連隊に関した史跡があります。また戦争に参加した人の忠魂碑などがあります。市内に残るこれらの史跡を足で歩いて記した本です。

 千葉県高等学校教育研究会歴史部会編『千葉県の歴史散歩 歴史散12』(2006年5月 1200円 山川出版)
 佐倉では、海隣寺、佐倉城跡、麻賀多神社、佐倉武家屋敷、甚大寺、佐倉藩の洋学、旧堀田正倫邸・庭園、旧佐倉順天堂、佐倉高校鹿山文庫が紹介されています。とても読みやすい本で、初心者向けです。

 ふるさと文化研究会編『房総(千葉)学検定 公式テキストブック』(2006年4月 2600円 国書刊行会)
 印旛沼、佐倉市の歴史と見どころ、などがあります。

  8月20日
 佐倉本情報。
 北山悦史『やわひだ巡り』(2005年12月 657円 ベスト時代文庫)
 「佐倉藩士立花九八郎の娘である自分が、町人の娘であるなおに対してお高くとまってはいない」(6頁)
 「朝、佐倉を出て竜神で渡しに乗り、降りて少し来た街道筋で蕎麦を食べ、昼過ぎには成田に着いた」(11頁)
 「佐倉の町からた拓馬様を引き抜いたりしないで。子供たちにとって、拓馬様は宝物なんだから」(15頁)
 「左の田圃の向こう一面に、ススキの穂が金白色に光っている。ススキに混じって、葦の群れが認められる。そこは湿地帯だろう。
 その向こうには、印旛沼が広がっている」(30頁)
 「佐倉の麻賀多の杜の裏。穂が白くなりだしたススキに囲まれた草地。見上げる空は真っ青だった」(51頁)
 「公津台方で佐倉惣五郎が将軍直訴の大罪で処刑され、惣五郎の幼い子供たちが首を刎ねられてから、みんな人の命を大切にするようになった。
 罪を働いて臼井の処刑場で斬首に処されるならず者はいるにせよ、せいぜいがそんなもので、刃傷沙汰というものはとんと聞かない」(114頁)
 「拓馬は高崎川の西側の川沿いを、佐倉に向かっていた」(207頁)成人向け小説です。

   7月16日
 佐倉本情報。
 黒井克行『高橋尚子 夢はきっとかなう』(2006年7月7日 1200円 学習研究社)
 「高橋尚子は10年間師事してきた佐倉アスリート倶楽部・小出義雄代表の下を離れ、独力で今後の競技活動を続けることを決意しました」(163頁)とありました。

 れんとさんから佐倉本情報。
 雑誌『群像』第61巻 第8号(2006年8月1日 講談社)
 笙野頼子氏が「だいにっほん、ろんちくおげれつ記」を執筆。「S倉市嘘井駅前を歩いていた」「マカタの社を守るアオバズクは夜毎そこに降り立つ」「この季節沼は遠目には青灰色で線は硬く、色は柔らかく広がっている」などと、佐倉らしい町の風景が描かれています。

 7月1日
 なっちゃんからメールあり。
 先日、NHKのブックレビューを見ていたら「徳川さん宅の常識」という本が紹介されていました。著者の徳川善喜さんは、堀田家から養子になったということでした。近所の書店になかったので、今取り寄せているところです。「佐倉」が出てくるかもしれません。楽しみです。

 6月29日
 緑葉さんから佐倉本情報。
 『千葉県の歴史散歩』(2006年5月 山川出版)の新版が出ました。佐倉も出ています。

 展示図録『千葉の力士たちー利根川下流域の相撲文化ー』(2006年5月 千葉県立中央博物館大利根分館)に雷電がのっています。

 6月23日
 宮小路にある印旛広域市町村圏一部事務組合の地は、かつて順天堂と並ぶ私立済生堂病院があった。経営していた人物は第1回衆議院議員にもなる浜野昇。昇の養子になった人を浜野弥四郎という。
 稲場紀久雄『都市の医師 浜野弥四郎の軌跡』(1993年7月 水道産業新聞社)によると、弥四郎は成田生まれ。後に浜野昇の養子となる。弥四郎は明治時代、「その生涯を衛生工学に捧げた日本最初の技術者であり、都市の医師といえる存在であった」(426頁)。
 数日前、著者(?)は佐倉を訪れ、関係のある機関を回り、本を手渡したという。そして、某所の職員から私に電話があった。この本に私が描かれているというのだ。
 昭和58年、氏は弥四郎調査のため佐倉を訪れる。このとき私に話を聴いている、ということになっている。ところが、すでに私には記憶がない。また、氏も私のことは忘れているのだろうか、私を訪ねてくることはなかった。そのようなわけで、本を注文した。
 わずか数ページであるが、20数年前の自分に会いながら本を読み進めるというのも、くすぐったい気持ちになる。佐倉本を探していたら、若き日の自分が描かれている本に出会ってしまった。
 建物の配置や事務室のドア、事務室にいた職員の雰囲気、今は亡き人も登場して、まるでタイムスリップをしたような気持ちでした。

 6月22日
 駕篭舁さんが来訪。『広重の大江戸名所百景散歩』(1996年4月 叶l文社)を見せてくれる。さらに、池波正太郎編『鬼平犯科帳の世界』(1993年6月 文藝春秋)、童門冬二『幕末異聞「西郷さんの首」他』(2002年12月 中央公論新社)を見せていただく。
 『幕末異聞「西郷さんの首」他』には、「会津落城と二人の師範」の中に、「だから後日、土方歳三が、江戸城内で佐倉藩士依田学海に会った際、しみじみと、『もう槍や剣では戦争になりません』と述懐したというのも、おそらくは心底からの実感であったと思う」(39頁)とあります。
 このほか、いろいろな資料を見せていただきました。ありがとうございます。

 A・Yさんから手紙をいただく。
 先日はお世話になりました。下記の著作物に佐倉がでてきますので、ご報告いたします。
 松岡圭祐『蒼い瞳とニュアージュ』(2004年5月 小学館)「風車」「佐倉ふるさと広場」(115頁)
 川名登編著『千葉県の歴史 100話』(2006年1月 国書刊行会)佐倉市の項目としては「怨霊伝説を残した将門」「千葉一族最後の光彩」「印旛沼開発」など多数。

 6月16日
 駕篭舁さんからメールあり。
 先週は先約があってオフ会、佐倉学講座ともに出席できませんでした。
 毎月古文書を御教授いただいているT先生からご推奨を受けた中公新書の『幕府歩兵隊』を興味深く読みました。幕末を駆けぬけたプロレタリア兵士の実態がよく分かり、当時の官軍との戦いが実によく著されていると思います。
 その中には、土方歳三が依田学海との出会いで「これからは鉄砲でなければだめだ」という有名言葉も出てきます。その他、林董が戊辰戦争後に語った函館戦争後の内幕を語った話も載っていて面白い本です。

 これはもうご存知かと思いますが、読売新聞の「時代証言者」で、9日から長嶋茂雄氏の連載が始まっています。中学時代の思い出を言葉少なですが語っておられて興味深く読んでいます。20回くらい連載されると思います。

 <返信>
 ありがとうございました。さっそく注文しました。「幕末を駆けぬけたプロレタリア兵士」に興味を覚えました。幕府の兵士はフランス式の調練を受けており、その中に一人に元佐倉藩士小柴小次郎がいたのではないかと推察しています。
 また林董が語った内容は、董の日記『後は昔の記』からの引用だと思います。この中に、五稜郭内で坂本龍馬を切ったという人物に董は首を切ってもらいたいという話をしたことが綴られていたと思います。

 6月14日
 佐倉本情報。
 佐倉城は日本百名城の一つに選ばれたと聞いたのですが、それがどこに出ているの分かりませんでした。
 八幡和朗『日本の百名城』(2006年4月 KKベストセラーズ)を読んで、この本が出典(108頁)ということが分かりました。

 う沢喜久雄『房総酒蔵めぐり』(2005年8月 崙書房出版)佐倉の地酒「旭鶴」が紹介されています(85頁)。

 6月12日
 佐倉本情報。
 『佐倉市史研究』第19号(2006年3月 佐倉市)
 【特集】
 内田理彦「井野長割遺跡の国指定史跡報告」
 小倉和重「環状盛土遺構研究の一視点」
 田中大介「井野長割遺跡 昭和44年踏査時採集資料の紹介」
 【講演録】
 大豆生田稔「堀田農事試験場について」
 【資料紹介】
 外山信司「千葉県立中央図書館所蔵『釈奠(せきてん)儀略』について」
 【研究】
 古内茂「幕末佐倉藩絵師『河嶋雪航』とその弟子『林田雪桂』について」
 海野道義「千葉県佐倉高等学校の『鹿山文庫』所蔵の仏書について」

 6月9日
 佐倉本情報。
 雑誌『週刊新潮』(2006年6月15号 新潮社)「フォト アウトサイダー」という欄に、名庭園で知られた深川「旧佐倉藩主堀田邸」が紹介されていました。広い池と石橋のある写真と解説です。
 文章の出だしは「下総佐倉藩主・堀田正倫によって建築された旧堀田邸(千葉県佐倉市)が、早ければ今月中、遅くとも7月には重要文化財に指定される予定だ。そしてご覧の写真は東京・深川佐賀町にあった堀田正倫邸の庭園である」とあります。
 現在、佐賀町にあった旧堀田邸跡はコカコーラの駐車場あたりと思われ、当時の面影はありません。

 6月8日
 緑葉さんから佐倉本情報あり。
 雑誌『月刊 スティグマ』(006.4月号 第121号 千葉県人権啓発センター)「佐倉市立佐倉東小学校の取り組みから学んだこと」という小文がありました(8頁)。
 雑誌『千葉ウォーカー』(2006 NO13 6/7→6/20 角川書店)京成臼井駅前にあるラーメン店「麺屋青山」が紹介されています。

 K4さんから佐倉本情報あり。
 谷崎潤一郎の「少年」に、佐倉炭が出ていたと思います。

 佐倉本情報。
 『佐倉の湧き水物語 〜佐倉の湧き水30〜』(2006年3月 300円 佐倉市)市内にある湧き水がカラーで紹介されています。とても見やすい本です。

 『風媒花』(No.19 2006年3月 佐倉市教育委員会)
 内容
 浅井忠と俳句・・・前川公秀
 佐倉の里やまの自然を守る・・・中村俊彦
 佐倉高校記念館の建築構造・・・濱嶋正士
 明治の学舎・佐倉高校記念館の歴史・・・外山信司
 千葉氏と佐倉の中世・・・伊藤三郎
 佐倉・歌舞伎・今は幻・・・石井肇
 ほか

 6月7日
 ホームタウン佐倉さんからメールあり。
 佐倉本情報をひとつお知らせします。
 邦光史郎著『小説日本通史・時の旅人八の巻・幻の大日本帝国』平成8年6月祥伝社刊 (この本は佐倉南図書館で貸し出しを受けました)
 二・二六事件の顛末を描いた場面で、反乱部隊を鎮圧するために「作戦課長石原莞爾は、杉山参謀次長に呼ばれると『閣下、今、反乱軍の栗山中尉がピストルで威しましたが、そんな子供じみたことでクーデターはともかく、革新は無理です。すぐ、甲府と佐倉の部隊を呼んでください』と進言した。」(335P)と記載されています。
 佐倉第57連隊が、二・二六事件の鎮圧に東京へ出動したことは、知られていますが、この部分が出動の端緒となったのでしよう。ただ佐倉連隊の動向は、以後この小説には出てきません。

 <返信>
 ありがとうございました。オフ会を楽しみにしています。
 また、佐倉本情報をいただき、ありがとうございます。

   6月4日
 なっちゃんから、永橋爲成監修『建築家 吉村順三のことば100 建築は詩』をいただく。ありがとうございました。大切に保管します。

 6月3日
 なっちゃんから佐倉本情報のメールあり。
 館主さま、佐倉本にならないかもと思いましたが、「佐倉」を発見しましたのでお知らせします。

 永橋爲成監修『建築家 吉村順三のことば100 建築は詩』(2005年10月 彰国社刊)吉村順三氏のプロフィールに、「1941年 12月8日 建築事務所開設独立後の処女作品は、佐倉厚生園サナトリウム。」と書いてありました。
 吉村順三さんのことはほとんど知らなかったのですが、書店で何気なく手にとってパラパラとめくっていたら佐倉厚生園の文字が目にとびこんできて、即買ってしまいました。
 佐倉厚生園にサナトリウムがあったこと、名建築家といわれる吉村氏の独立後の処女作品が佐倉であること、初めて知りました。
この本は、吉村氏が生前に残した言葉を集めたものですが、日本建築への思いが、私にも伝わってきて大変よかったです。

 <返信>
 こんばんは。すばらしい佐倉本の発見です。プロフィールの中に出てくるので、小説・エッセイを対象とした佐倉本にはなりませんが、歴史の中で語られる佐倉本となることでしょう。
 佐倉にとって、歴史の証言となる1冊です。佐倉発見本とでもしましょう。ありがとうございました。

 6月1日
 銀狐さんからメールあり。
 こんばんは、館長様。銀狐です。  此方で宜しいのでしょうか、情報提供先は?
 素晴らしいホームページに面食らっております。何処からページを捲ったら良いのか宝の山を目の前にしたアリババのようです。
 早速ですが、堀田正睦暗殺情報について。以前、少しお話させていただきました。燃えカスかもしれませんが記させて頂きます。
 まず、一番分かりやすく話が構築されて、世間的に多くの目に触れる可能性のある情報発信源ですが、司馬遼太郎が江藤新平を描いた『歳月』という小説に次のような件がありました。
 「藩士深川亮蔵という者がかって幕府の老中堀田備中守を暗殺しようとして事成らず捕縛された」と。つまり肥前佐賀の上士の深川亮蔵が暗殺を計画し藩に捕まったというのです。
 著名な作家の作品ですから、このあたりが噂の原点かもしれませんね。
 この点は、単に司馬遼太郎の作文かとも思ったのですが、西日本新聞社が刊行した『大隈重信』(大園隆二郎著)の中で、大隈が後年語った「深川が安政5年、堀田備中守が上京して条約の批准を奏詣し、かつ、勢い猛烈であった京都の攘夷論者を圧迫しようとした時、堀田を刺そうとして岩倉などに会見した」と述べたとされていることを発見しました。
 深川亮蔵は実在の人物でどうも八街の開拓にまで関係のある面白い人物のようです。水戸藩の隠密の件もあり、幕末の佐倉周辺はヤッパリ大変面白いと再認識いたしました。

  <返信>
 堀田正睦の暗殺計画というものは、あまり佐倉では語られていません。ご研究を期待します。
 それから銀狐さんには司書になっていただきます。

  5月30日
 緑葉さんから佐倉本のメールあり。
 押尾忠『ふるさと探訪―下総台地の民俗―』(2006年3月 印刷 正文社)「第1章4 千葉氏の興亡と臼井城の攻防」「第1章5 佐倉藩の文化と四街道」、そのほか、佐倉市の民俗も各所に記されています。お薦めします。

 5月18日
 佐倉本情報
 雑誌『鉄道ダイヤ情報』(平成18年6月 交通新聞社)
 表紙が「物井〜佐倉」間を走る成田エクスプレス。また特集でエクスプレスが詳しく紹介されています。このうち数カット、佐倉周辺の写真もあるようです。

  5月16日
 峠の釜飯さんから佐倉本情報のメールあり。
 清水良典編『現代女性作家読本C 笙野頼子』(2006年2月 鼎書房)佐倉市在住の芥川賞作家笙野頼子氏の作品を紹介した本。
 この中で紹介された『愛別外猫雑記』『S倉迷妄通信』の2冊は、佐倉と読み取れる土地(S倉市、S倉と表現)が出てくる本で、解説にその辺のところが記されています。
 なお、年譜も掲載されており、平成6年、「タイムスリップ・コンビナート」で芥川賞を受賞。佐倉に転居したのが平成12年(2000年)。平成17年には佐倉が出てくる作品『金毘羅』で伊藤整文学賞を受賞とありました。

 5月14日
   緑葉さんから佐倉本情報あり。
 学海余滴研究会編『学海余滴』(2006年3月 5,800円 笠間書院)
 佐倉藩士であった依田学海の明治時代の日記。交流のあった明治の文人や旧佐倉藩士のことが記されていて貴重な書物です。佐倉のことを調べるなら必見の書。
 すでに出版されている学海の日記『学海日録』『墨水別墅雑録』と合わせて読むと深まります。

 5月6日
 Sさんから佐倉本情報。
 中嶋繁雄『物語大江戸牢屋敷』(平成13年2月 文春新書)「後日談がある。下総佐倉藩士で、のちに明治の劇作家として一家をなす依田学海は、安政6年(1859)11月8日の日記に、松陰の最期の模様を書き記している」(165頁)
 「一人は横浜無宿勝郎といわれる人物。元佐倉藩士の子に生まれるが同輩と相いれず、佐倉藩の分家足利家に転じた。
 しかし幕末転変の時節、思うところがあったのか、武士を捨てて横浜の商人の許に身を投ずる。そこで横浜支店をあずかるが、中国人との密貿易の嫌疑によって逮捕され、石川島人足寄場に収容される」(213頁)

 <返信>
 ありがとうございました。学海の日記は『学海日録』第2巻(55頁)(岩波書店)にあります。勝郎の話は、高島嘉右衛門が知り合った人物として記されている。この勝郎については思い当たるところがある。少し調べてみます。

   4月21日
   駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり。
 中公文庫『幕末維新異聞』に、永岡慶之助(福島県出身の作家)の「会津落城と二人の師範」というエッセーがあります。
 鳥羽伏見の戦からのちは、西洋銃砲で固めた薩長軍の装備に刀槍で立ち向う新選組や会津兵たちが、軍備の彼我の差によってまったく歯が立たず敗れていく過程をを書いていますが、その中に次のようなくだりがありました。
 「名うての新選組もまた、会津藩の別選組同様、胸の痛いほど無力感を味わされたのであった。だから後日、土方歳三が、江戸城内で佐倉藩士依田学海に会った際、しみじみと、『もう槍や剣では戦争になりません』と述懐したというのも、おそらくは心底からの実感であったと思う」
  中公文庫の後書きには、初出一覧『歴史と人物』1980年9月号とあります。

  <返信>
 知りませんでした。ありがとうございます。

  3月21日
 佐倉本について考えていることがある。
 これまで文中に一文字でも「佐倉」が出てくれば佐倉本と称してきた。ところが、収集する本が多くなるにつれ細目が必要になってきた。そこで、佐倉市民本という分類をしてきた。さらに、図録や雑誌まで増えてきた。ここで、少し、佐倉本を整理しておこう。
  佐倉本は佐倉という文字が出てくる本の総称である。しかし、これはみなさんから情報をいただくときの総称であり、近ごろ、言葉の意味としては次のように捉えている。
1、私が普段言う佐倉本とは、佐倉という文字が出てくる文芸書やノンフィクションの作品である。それは読書活動やまちづくりの参考となったり、このような作家にも描かれたのかと佐倉を見直すきっかけとなる本である。そして、佐倉がこのような本にも出てくるからお読みくださいと薦めたい本である。
 そもそも、佐倉本収集の発端は、佐倉が出てくる小説が多いと感じ、それを数値で表そうとしたことにある。
2、佐倉市民や、以前、佐倉に住んでいたことのある人が書いた本を佐倉市民本とする。佐倉にも各方面で活躍されている方々がおられるので、そのような本を紹介したい。
3、佐倉を研究するための本で、特段「佐倉研究本」とはいわないが、報告書、新書、論文、図録、研究書などであり、地域参考書とでも称しておこう。
4、雑誌、冊子などは気づいたところで集めている。

 このような本の情報を収集している。また、以前は長嶋氏を例にとった話も佐倉本に加えていた。しかし、そのような本は長嶋本の中で語られるもので、狭義の佐倉本からは除外しよう。
 俳句、短歌は勉強不足でわからないので、近年出版される本は佐倉市民本としておこう。児童書は新たなジャンルをつくりたい。とにかく本の種類はいろいろとある。

   3月17日
 佐倉本情報
 まちづくりマガジン『すたっと Stad』4号(2006・春号 高千穂ネットワーク)
 春のイベント情報が満載です。市内の公民館、図書館に置いてあります。無料。

 3月9日
 Iさんから佐倉本情報。
 宮部みゆき『震える岩』(1997年9月 講談社文庫)  「お初と仲良しの女中はお紺と言って、年は十五。奥向きの雑用を一手に引き受けている。佐倉のほうから一人で奉公に来ているしっかりした娘だ」(90頁)

   3月4日
 佐倉本情報。
 坂崎重盛『「秘めごと」礼賛』(2006年1月 800円 文春新書)
 ま、題からして想像のできる内容であり、その通りの話が綴られているが格調が高い。谷崎潤一郎、永井荷風、斉藤茂吉などの人物が取り上げられ、生活の二重性や女性に関した秘め事が記される。取り上げられた人物の一人に、旧佐倉藩士依田学海がいた。
 学海は神田小川町に住み、妾宅を向島に持っていた。学海は明治になって本宅と妾宅を行ったりきたりしながら暮らしていたのである。
 そして、本宅、妾宅で日記をつけ、本宅の日記は岩波書店から『学海日録』として、また妾宅の日記は『墨水別墅雑録』として吉川弘文館から出版されている。
 私は佐倉藩のことや依田学海のことを書く時には、この日記を引用しているが、愛妾のことは記していない。
 坂崎氏は、秘めごとの話だけではなく、学海の日記を評価しており、また幸田露伴のデビューエピソードを紹介している。
 良書であり、一読を薦めます。

 2月24日
 みなさんのご協力により、近ごろ佐倉本の情報が膨大になってきました。うれしい悲鳴です。
 ところで佐倉本を集めていると、それらの本の中で面白い括り方ができる本があるのではないかと思うようになってきました。その一つが昨日書いた「創作に富んだ面白い本」を集めて「満開佐倉文庫推薦図書」を選定したいということです。
 それから研究書ではありませんが、佐倉を発見する、あるいは佐倉を語る上で必要な本、という括り方ができる本もあるのではないかと考えるようになってきました。それはどういう本かというと、昨年度、情報大賞候補になった、なっちゃんの紹介してくれた杉本節子著『京町屋の四季』という本がヒントとなりました。
 この本はエッセイですが、以前、佐倉にあった奈良屋をたどれる本です。そのような本は、一つの括りとしておいたほうが便利であろうと考えます。そのような括り方、それを「(仮)佐倉発見本」とすることにしました。
 とにかく佐倉本情報が増えてきましたので、それらの本を大雑把に分類しておいた方がわかりやすいということです。しかし、分類といっても館主が考える基準で分けるのですからいい加減です。ま、これも佐倉本の楽しみ方と考えていただけば結構です。
 佐倉本探しは、「集める」から「整理する・分類する」という段階に入ったといえます。

  2月23日
 先日、村上元三の『河童将軍』は印旛沼が舞台であったことに驚いた。そこで、このような種の本を集めて満開佐倉文庫の推薦図書でもつくろうかと考えた。
 もちろん佐倉本で読んでほしい推薦書といえば、真っ先に司馬遼太郎の『胡蝶の夢』とか島尾敏雄の『死の棘』などを揚げるだろう。しかし、それは誰でも考えることで少しも面白くない。
 そうではなく、あまりにも創作に富んだ作品を選ぶという「遊び」があっても良いのではないかと思う。要は、「佐倉を描いたこんな面白い本があります。だかどうぞお読みください」という選定である。
 数冊も選べれば良い。そのようなことをしながら佐倉本探しが楽しくなれば良いのだから。そしてそれは読書を楽しむことにつながるのですから。


  2月22日
 sophie.eさんから佐倉本情報。
 小笠原喜康:チルドレンズ・ミュージアム研究会編著『博物館の学びをつくりだす』(2006年2月 1905円 ぎょうせい)
 第5章に佐倉市立美術館の「体感する美術」事業が取り上げられ、中村桃子・永山智子さんが執筆しています。

  2月21日
 N・Mさんから佐倉本情報。
 山本一力『いっぽん桜』(2005年10月 476円 新潮文庫)
 「『みなも知っての通り、おととし御老中の田沼様は印旛沼の開拓をお決めになられた』」(26頁)「『印旛沼の工事には途方もないカネがかかるため、これまで二度も途中で取り止めになっている』」(27頁)「『印旛沼への仕出しは、井筒屋さんはどれほどの数をまかなえるんでしょうかな』」(64頁)


  緑葉さんから佐倉本情報。
 櫻井秀勲『運命は35歳で決まる!』(2001年7月 三笠書房)
 「女性はほめられるほどがんばることは、シドニー・オリンピックの高橋尚子選手の例で知られている。彼女自身、名声を望んだわけではないが、結果として名声を得られる仕事に携わっていたことは事実であり、小出監督にしてもそれは同じだ」(214頁)
 「巨人軍の長嶋茂雄監督の片言隻語でさえメモしつづける女性記者もいる」(214頁)

 Y・Tさんから佐倉本情報。
 二村高史・宮田幸治『全国フシギ乗り物ツアー』(2005年10月 1400円 山海堂)
 「ニュータウンに作られたミニ新交通」という項目で、ユーカリが丘線を走る新交通システム「こあら1号」が紹介されています。(227頁)


  2月19日
  佐倉本情報。
 斉藤駿『なぜ通販で買うのですか』(2004年10月 700円 集英社新書)
 「黒住武市さんの労作『日本通信販売発達史』(同友館 1993年刊)によると、記録に残っているわが国最古の通信販売は、明治9年(1876年)に発行された『農業雑誌』の第8号だという」(19頁)
 この『農業雑誌』を発行していた人は、津田仙という人で佐倉生まれの人です。旧姓小島といい、幕臣の津田家の養子になります。娘は海外女子留学生となった津田梅子です。
 本書には、当時の郵便事情まで記されているので一読を勧めます。

  2月17日
 先日、ギムリさんから情報をいただいた『ポピュラー時代小説 第5巻 村上元三集』を、図書館から借りました。中に短編小説「河童将軍」がありました。
 ストーリが印旛沼に住む河童の話ですから、どこをとっても印旛沼の話です。あえて引用するならば、
 「河女の物語るところに依ると、いま印旛沼の水中に棲む河童は、元は利根川の上流、榛名山の麓を流れる烏川の淵に、年を経て安住していたのだが、人間のために逐われて利根川に逃げこみ、またそこでも利根川の水虎の迫害をうけ、やむなく長門川を経てこの沼に移ったものであるという」(167頁)
 ですね。印旛沼には、たとえ小説であろうと河童の話はないと思っていただけに新鮮です。でも、私は泉鏡花の小説「貝の穴に河童の居る事」を『満開佐倉文庫』に掲載しながら気に留めることはなかったのです。お恥ずかしい話です。来週には返却しますので、読みたい方は、図書館に予約しておいてください。

  2月16日
   <発信>
 飛鳥さんへ。
 榊原喜佐子『殿様と私』(草思社)を購入しました。確かに堀田正(政)倫ですね。おめでとうございます。情報大賞候補です。(2月11日の佐倉本探索日記参照)


  2月15日
 N・Mさんから佐倉本の寄贈あり。
 新宮正春『三ツ葉葵の剣士』(2000年5月 実業之日本社)「岩津殿となった三年後に、(*松平)忠輝は下総佐倉七万石に転じて従五位下上総介に任じられた」(55頁)

 2月14日
 飛鳥さんからメールあり(2月11日の続き)。
 私も、以前読んだ『徳川慶喜家の子ども部屋』が気になり、再び読み返して見ましたが、佐倉に関する記述は見当たりませんでした。

  <返信>
 『徳川慶喜家の子ども部屋』に出ていないとは、失礼しました。では、「徳川慶喜○○聞き書き」というような本はありませんでしたっけ。前の当主の名前が出ていたのです。何分古い話で、申し訳ありませんでした。


  2月11日
 ギムリさんからメールあり。
 芋銭はインターネットで絵が見られます。『河童将軍』は現在私が借りている『ポピュラー時代小説5〜村上元三集』に収録されています。志津分館の本です。数日後に返しますので、予約をされてはいかがでしょうか。
 県立で借りたのは、『県別河童小事典』でした。31巻目が千葉県で、県内の河童の話がいろいろ紹介されています。もう返却してしまったのですが、手賀沼も載っていると思います。

   <返信>
 ありがとうございました。さっそくインターネット予約しました。楽しみにしています。

  飛鳥さんから佐倉本情報のメールあり。
 おはようございます。オリンピックが始まりましたね。今、開会式が行われています。
 さて佐倉本の紹介です。
 榊原喜佐子『殿様と私』(2001年11月 草思社)著者は徳川慶喜の孫であり、前作に、『徳川慶喜家の子ども部屋』があります。
 『殿様と私』は榊原家(徳川四天王とよばれた、譜代大名)に昭和15年に嫁いでからの話です。明治になって、徳川家と譜代大名家の懇親会が行われ、堀田家も参加していたようです。
「御譜代会『徳川譜第懇親会紀事 弐冊』と表書きのある和綴じの本で、桐箱にはいっていた。・・・・第一回懇親会は(明治二十一年)二月二十六日と決定したという。
 当日参集したかたがたは、松平義生ら四公、井伊直憲・・・堀田政倫・・・といった諸公ら、総勢八十六名。・・・こうしたかたがたのお名前は音でよぶことが多い。」(56〜59頁)
「家には御譜代会の写真が一枚だけあった。」(57頁)
 「中央左寄りに徳川宗家の家達公、その隣が徳川慶喜公・・・」(写真下解説文より)ページ全面にその写真が載っています。
 堀田正倫の顔もあります。向かって左端、前から4、5列目。羽織袴姿です。
 著者は、写真の年代を、「明治三十五年の秋か、あるいはその翌年春ごろではないだろうか」(61頁)と推定しています。正倫はどんな気持ちで参加したのでしょうか・・・

 <返信>
  ありがとうございます。本は手に取った記憶がありますが、正倫のことは記憶にありません。『徳川慶喜家の子ども部屋』と勘違いしているのかも知れませんね。
 徳川慶喜は世が世であれば将軍たる人。正倫はどのような気持ちであったのでしょうね。早く写真を見てみます。


 2月10日
 ギムリさんから佐倉本情報。

 印旛沼にまつわる民話を調べていたら、小川芋銭の「河童百図」の中に「印旛沼の一本足」という河童の絵があることを知り、河童についての話がないかと『県別河童事典』(河童文庫)を県立図書館から取り寄せてみました。
 河童の伝説はなかったのですが、村上元三著『河童将軍』(昭和25年)が紹介されていました。臼井城の原氏に仕えていた侍が、印旛沼の河童族の頭となって、利根川から侵略してきた水虎族と戦う話です。古い作品なのでご存知かとも思いましたが、お知らせします。
 ところで、印旛沼に河童にまつわるお話はないでしょうか。ご存知でしたら、教えて下さい。

 <返信>
 小川芋銭の「河童百図」、村上元三著『河童将軍』は知りませんでした。特に村上元三著『河童将軍』は、ものすごい話ですね。もうギムリさんの解説を見ただけでもわくわくしてきます。
 印旛沼の河童の話は、小説ですが泉鏡花の「貝の穴に河童の居る事」という短編が『鏡花全集』巻23にあります。この河童は印旛沼、手賀沼の一族だそうです。  それにしても、やりましたね。情報大賞候補です。

 2月6日
 佐倉本情報。
 生島淳『駅伝がマラソンをダメにした』(2005年12月 700円 光文社新書)
 「日本の女子の強みは、小出義雄監督門下の有森、高橋を除いても、いろいろな企業や指導者の下から次々と世界クラスのランナーが出ていることである」(176頁)
 「小出義雄は、日本女子マラソン界を変えた指導者だと思う。オリンピックで二人のメダリストに三つのメダルを取らせ、しかもそのうちひとつは金メダルである。おまけに世界新記録もマークした。これだけの実績を上げた指導者は過去にいないし、こらからも出現しないかもしれない」(180頁)
 小出氏については、180頁〜183頁にかけて描かれています。帯に「本邦初!観戦者のための駅伝・マラソン批評」とあります。

  2月3日
 駕篭舁さんへ。

 連絡が遅れて申し訳ありません。
 『鬼平犯科帳』の堀田屋敷については、以前、Kさんから連絡をいただいたことがあり、 たぶん、この情報と同じであったのではないかと探していました。
 しかし、なかなか見つからず、今日まで経ってしまいました。みなさんからいただいた情報の多さに、今更ながら驚いています。
 今日、ようやく見つけました。そうしたら19巻の話ではなく、「鬼火」の巻でした。ホームページ、平成15年10月16日の佐倉本探索日記です。
 当日の日記には、
 『電子図書館 満開佐倉文庫』を読んだ方から佐倉本のご教示をいただきました。
 池波正太郎『鬼平犯科帳』 17 特別長編鬼火(1990年 第6刷 304頁 文春文庫)
 「木挽町一丁目にある堀田家(下総・佐倉十一万石) 中屋敷(別邸)へ二十名ほどの人数を待機させることにした」とあります。
 そのようなことで、駕篭舁さんが探してくれた『鬼平犯科帳』の堀田屋敷はNewです。ありがとうございました。
 今更ながら『鬼平犯科帳』に、よく佐倉ゆかりのものが出てくるなあと思っています。
 悪乗りして『鬼平犯科帳』のDVDを購入しましたが、堀田屋敷とは出てこず、がっかりしました。

 ついでながら、駕篭舁さんがご覧になった「佐倉本2006」は、私が『満開佐倉文庫』を刊行した時(平成14年12月)までに把握した佐倉本でしかありません。
 その後、ホームページを通じて多くの佐倉本情報をいただきましたが、ホームページに掲載した年別の佐倉本は、平成13年〜平成17年に発行された佐倉本でしかありません。
 つまり、平成15年以降にいただいた過去の佐倉本情報は整理していないということです。
 そのようなことで、みなさまにご不便をかけており、今年は何とか整理したいと思っていました。でも「佐倉本2006」を入力するだけでも、気の遠くなる作業でした。
 しかし、私のホームページの売りはデータですから、これからゆっくりでもやってみようと思っています。
 そのようなことで、日記は少し疎かになると思いますが、ご容赦ください。

1月31日
 駕篭舁さんから佐倉本情報のメールあり。

 文春文庫『鬼平犯科帳』19巻から佐倉に記事を見つけました。満開文庫のデータベースには載ってませんので、多分新しい記事かと思います。
  「引き込み女」の項の中で
 翌朝になると・・・・。
  長谷川平蔵は、菱屋からも程近い木挽町一丁目にある堀田備中守(下総。佐倉十一万石)の 中屋敷に移った。あの[鬼火]事件でも、堀田屋敷内に指揮所を置かせてもらったことがあるし、万事に好都合であった。(302ページ)
 半刻後に堀田屋敷へ引き返して来た。(306ページ)
  とありました。実際に堀田家の中屋敷が木挽町一丁目(八丁堀の近く)にありました。
 [鬼火]事件は、何巻に出てくるのか分かりませんが、この巻にも同様記事があるのではないかと思います。
 また、同じ文春文庫に『鬼平犯科帳の世界』池波正太郎編がありますが、主要登場人物のデータバンク の中に岸井左馬之助、下総・臼井の出身等の記事が見えます。

1月25日
 Xさんから佐倉本情報。
 石黒敬章『びっくりヌード・おもしろポルノ −日本裸体写真百年史』(2002年2月 1800円 平凡社)
 ヌード写真あり。写真の台紙には「佐倉横町 山本写真館」とあります。
 この写真の解説は「写真の切り口が歪んでおり、張り替えたものらしい。ポルノ写真は、写真館が館名を記した台紙に貼って堂々と販売することはない」とありました。

1月17日
 以前、飛鳥さんから情報をいただいた伊東成郎『新選組と出会った人びと』を手に入れる。
 松本良順と依田学海のことが書かれていた。松本良順についてはよく知られているが、佐倉藩士であった依田学海を従来より詳しく記されていた。
 氏は「明治期の土方歳三の小伝が、すべて『譚海』(学海著)を引用して書かれていることを確認した」(231頁)とあります。一読を勧めたい本です。

1月16日
 佐倉本情報。

 『城郭と中世の東国』(2005年11月 5200円 千葉城郭研究会編)
 房総の中世を研究されている方々の最新論文をまとめた本です。
 第1部
 享徳の乱における城郭と陣所 ・・・ 峰岸純夫
 当主の居城と前当主(または継嗣)の居城 ・・・ 市村高男
 下総西部の地域性からみた小金領形成の前提 ・・・ 中山文人
 北条氏の房総侵攻と三船山合戦 ・・・滝川恒昭
 下総臼井・小弓城主原胤栄に関する覚書 ・・・ 佐藤博信

 第2部
 内戦の中の村と町と城 ・・・ 藤木久志
 考古学からみた中世房総の城館と村・町 ・・・ 柴田龍司
 南関東における城館跡出土陶磁器 ・・・ 井上哲朗
 戦国後期の陸上交通と城郭 ・・・ 遠山成一
 房総における鉄砲の導入とその与えた影響について ・・・ 小高春雄

 第3部
 篠本城跡とその周辺 ・・・ 道澤 明
 臼井城下の変遷 ・・・ 日暮冬樹
 下総矢作城(大崎城)と大蟲和尚 ・・・ 外山信司
 徳川将軍の御殿と御茶屋 ・・・ 梁瀬裕一
 稲村城跡の保存運動 ・・・ 愛沢伸雄

   1月11日
 飛鳥さんから、昨日に続いてメールあり。

 昨日に引き続き、『新選組と出会った人々』です。
「松本良順」(170〜173頁)
  4頁にわたって書かれている内容は、元治元年江戸での近藤勇との出会いから明治21年に近藤、土方の顕彰碑を建てたことまで。
中でも、
「依田学海の項で詳述するが、松本は新選組の屯所で隊士の切腹を目撃したこともあったらしい」(172頁)

「依田学海」(231〜234頁)
 筆者が「今後の新選組研究に欠かせないその著作」(231頁)として『譚海』と『学海日録』をあげ、『学海日録』から2つの記述を登場させています。
 「明治五年二月二十一日の記録である。依田は、佐倉の近在の牧場で、(五稜郭で降伏した)竹柴保次郎という人物にあった。
 ・・・(竹柴が)依田に語ったのは、これまでどんな資料にも紹介されたことのない土方歳三のエピソードだった。」(232〜233頁)

 「明治二十一年十月十四日に、見逃せない記録が載っている。依田は、中村座へ芝居見物に訪れ、偶然松本良順と会った。
 松本は依田に、在京中に新選組の処断を目撃したことがあると語ったのである。・・・(切腹したのは)山南敬助だというのである。」(233頁)

 「松本良順が山南敬助の死に立ち会う可能性はない」(234頁)とあり、他の隊士の切腹場面ですが、実際、この日の『学海日録』を読むとかなり、生々しい記述です。
 学海は、芝居見物どころではなかったでしょうね。

 <返信>
 すばらしい情報をいただきました。ありがとうございます。さっそく私も購入することにします。

 1月10日
 朝起きると、庭が薄っすらと白くなっていました。初雪です。

  飛鳥さんから佐倉本情報のメールをいただきました。

 この本を手に取ったときは、確信犯でした。「絶対、誰かはいる!」と・・・でも、予想以上の佐倉本でした。
 伊東成郎著『新選組と出会った人びと』(2004年2月発行 河出書房新社)新選組が出会った人物ごとに書かれています。
 「榎本武揚」(34頁)
 榎本は、居並ぶ諸藩士たちに土方を紹介し、同盟の総督に推挙した。この模様は、幕末維新期の体験談を語る史談会の第一回めの席上で安部井磐根が語っているが、旧佐倉藩士の依田学海が列席していた。
 ・・・武揚、何その人を知れり・・・(明治二十五年七月九日付『学海日録』)

 「大鳥圭介」(36頁)
 (慶応四年)密かに妻子を旧知の佐倉藩士のもとに預け、単独での江戸脱出の機会を狙っていたという。

 その後、4月11日、江戸を脱出する時、一緒にいたのは木村隆吉ですよね。木村については、この本では触れていないのですが、妻子を預けた、佐倉藩士は誰なのかご存知ですか?
 学海なのか、とも思い『学海日録』を見たのですが、大はずれでした。
 とりあえず、ここまでで送ります。続きがあります!

 <返信>
 新年早々、面白い佐倉本を紹介くださりありがとうございました。
 妻子を預けた佐倉藩士は誰かわかりませんが、預けられた先は土浮であったと、『佐倉地方文化抄』に千葉光弥氏が書いてあったと記憶しています。
 続きを楽しみにしています。



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