高澤 博「Anectoda −隠れた史実− 」


                                      【2007年11月18日 新設】

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ1)」『国立千葉病院ニュース』第5号 所収 (2001年4月)
 
幕末から明治にかけての我が国の医療史に関する もので、佐倉にゆかりのある方々が随所に出てきます。 断片的に抜粋します。
 今、日常使用している医学領域での史的実証を得ようとする場合、その当時の人々の自伝、日記のほかに講義ノート(日講紀文)、さらに受講生のノートがあればある程度の目的は望める。
 その過程でanectoda(隠れた史実)がたまたま発見される。この「のり」、「線」の役目をするanectodaが史的人物に筋肉をつけ潤いを持たせるし、人物の理解にも三次元的再現にも役立つ。
 そこで我が国の西洋医学揺籃期において、我々の先人医師がその導入修学にいかに苦心し工夫したのかanectodaの落ち穂拾いを試みたいと思う。
 以下抜粋
・安政4年11月12日、長崎奉行所 西役所内において医学開講、松本良順等が受講した。万延元年、小島郷養生所の地続きに医学所が設立され、佐藤尚中は、講義を分担し、・・・

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ2)」『国立千葉病院ニュース』第6号 所収 (2001年7月)
  ・開国という難課題を背負った幕府はこの時期に、堀田正睦(老中、佐倉藩主)の存在も力して、「阿蘭陀医術兼学致候とも不苦候」と言わしめ、蘭方禁止令解除(安政5年7月3日)ももたらした。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ3)」『国立千葉病院ニュース』第7号 所収 (2001年10月)
    ・この年(文久元年9月20日)、長崎にて松本良順(30才)は「養生所」頭取となる。・文久3年7月良順が奥医師兼医学所頭取につく。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ4)」『国立千葉病院ニュース』第8号 所収 (2002年1月)
    ・幕末明治初期の西洋医学の揺籃期では、わが国医学教育の大半は佐藤泰然の一族門流によって行われたといえる。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ5)」『国立千葉病院ニュース』第10号 所収 (2002年7月)
    ・良順は江戸に戻り(文久2年)江戸医学所頭取 緒方洪庵を補佐した。この時期、奥医師の席をめぐって良順側と玄白側の間に確執があったとされる。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ6)」『国立千葉病院ニュース』第11号 所収 (2002年10月)
    ・良順の想いは、医学所は一般の医師養成を行い、軍医学校は陸海軍軍医養成を果たすという洋方医師団の結成を画いていた。

   「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ7)」『国立千葉病院ニュース』第13号 所収 (2003年4月)
    ・佐倉順天堂にも頭蓋骨が一頭あって、佐藤進がこれにて学習し後年(明治4年)ベルリン大学へ留学して、ライトヘルト教授の頭骨実地試問の際、順天堂での学習が効して一番で通過したといわれている。

 
 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ9)」『千葉医療センターニュース』第17号 所収 (2004年4月)
    ・佐倉順天堂の創始者佐藤泰然、三宅良斎、林洞海ら大蘭医は、時勢の変化を洞察して蘭学から英学に切り替え、ヘボンの下にその子弟である佐藤桃太郎、三宅秀、林薫を派遣し、・・・。

 
 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ11)」『千葉医療センターニュース』第21号 所収 (2005年4月)
  ・今回は、政情混沌とした幕末期に、蘭学中心のなかで英語圏の医学を修めた三宅秀の生い立ちを、幕府の運営した番所調書の変遷、特に語学導入の経緯とともに、追ってみたいと思います。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ12)」『千葉医療センターニュース』第22号 所収 (2005年7月)
  ・三宅秀は、万延元年〜文久二年まで高島秋帆塾に入門し、英語を学ぶ。文久三年、16才、手塚律蔵に漢学、蘭学、英語を学ぶ。同時に立石塾に英語、会話半年習う。この間、自習にて解剖、生理、薬理、内科を英書にて学ぶ。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ13)」『千葉医療センターニュース』第23号 所収 (2005年10月)
  ・前号につづけて三宅秀とその近辺、とくに英語学の発展をみていきます。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ14)」『千葉医療センターニュース』第25号 所収 (2006年4月)
  ・続けて幕末洋学導入期における英語導入と調所、開成所を中心に述べたいと思います。

 
 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ15)」『千葉医療センターニュース』第26号 所収 (2006年7月)
  ・本稿では、三宅秀本人の「維新資料編纂会」での講演記録、「旧事諮問録」記載の旧幕外国掛目付 河田相模守?による口述記によって、秀の英語学、洋学、医学の発展をみていく。
・逸話:伊藤俊輔(伊藤博文)らは西洋文明を賛美した手塚律蔵を、−律蔵は獣たる西洋人の使いで、卑しくもそのおこぼれは頂けない−、として襲った。

 「Anectoda −隠れた史実− (シリーズ16)」『千葉医療センターニュース』第27号 所収 (2006年10月)
   ・三宅秀が英学所に通ったこと。三宅秀が加賀藩への出仕となること。

 「Anectoda −隠れた史実−」(シリーズ17)『千葉医療センターニュース(第29号)』(2007年4月)
 断片的に抜粋します。・兄ボードウィンは文久2年9月から慶応2年秋までの3年半ばかり、長崎の医学校にて眼科学、生理学を主体に講義した。ヘルムホルツの検眼鏡持参し使用した。生徒には戸塚静伯(通称文海、静海養子)、緒方惟準(洪庵次子)、松本_太郎(良順の息)、池田謙斎、橋本兄弟、岩佐純など門弟は1.000人に及んだ。


トップページ