満開佐倉文庫 
ホームタウン佐倉さんの電子本執筆中
「佐倉の鉄道噺」


 館主さんへ。
 このたび電子本の執筆をします。どうぞよろしく


 館主です。
 メールいただきました。さっそく、ホームページに掲載させていただきます。
 ありがとうございます。
 ホームタウン佐倉さんは、千葉県の鉄道に詳しいので、佐倉に限らず県内の鉄道の話を送っていただければ幸いです。
 できれば、総武線と京成線のおもしろ話からでも、始めていただけるとありがたいです。
 なお、ホームタウン佐倉さんの文章は、執筆者に帰属しますので、引用はご遠慮ください。
   
〔第15話〕
鉄道誘致のころ

館主様の14日「日誌」に青木栄一著『鉄道忌避伝説の謎 汽車の来た町 来なかった町』の紹介がありました。
 この本には紹介されていませんでしたが、佐倉にも「汽車が通ったら宿屋に泊まる人がいなくなり、街が寂れると住民が反対したため、佐倉駅は隣村の根郷村に設置された」という話が伝えられています。
 私も興味があるので、いろいろと調べてみましたが、佐倉町住民が鉄道敷設に「反対」したという記録は発見されていません。(今後発見される可能性はありますが…)
 逆に「賛成」した史料も見当たりません。しかし総武鉄道会社がスタートした時の創立発起人株主には、佐倉町からは濱野昇(衆議院議員)が唯1人参加していただけで、決して地域住民が鉄道建設に熱心であったとはいえません。
 総武鉄道開業直後に発行した沿線案内の佐倉駅の項には、総武鉄道社員・大塚則明と言う人が、「佐倉は台地上にあるため、やむを得ず街から離れた場所に駅を設けた」と書いており、会社側の都合で佐倉駅の位置を決めたことが分かります。
 決して反対運動の結果ではないことを物語っています。高台にある佐倉の市街へ線路を近付けようとすれば、急勾配に弱い蒸気機関車を走らせる為には、物井方向からかなり長い距離の築堤(土手)を築き、勾配を緩めなければならず、技術的にはかなり困難があります。
 それに当時の人々は少々距離が長くても歩くことを厭わなかった筈です。また明治5年鉄道創業以前であれば、無知のためにそんな理由で反対を主張する人もいたかも知れませんが、明治も20年代後半、東京まで行けば鉄道の利便性を充分認識できたわけであり、住民を指導する立場の識者までが、その程度の知識しかなかったとは到底思えません。
 当時の新聞をみても鉄道の有用性が説かれてはいますが、反対的な意見はまったく掲載されていません。(ただし、自分の利益に反するための反対、例えば用地を手放したくない。田圃の真ん中に線路を敷けば、出水時に溢れるから反対という今日とまったく同じ反対はその時代にもありました)。
 ただ、結果論として佐倉駅が市街から離れて設置されたことが、町の衰微につながったことは事実です。急坂を30分も登るのなら、同じ所要時間で千葉へ行った方がよいと顧客が離れてしまったことが原因です。
 以上の事柄から、佐倉の鉄道忌避伝説も駅と街が離れているためにあとからそれらしく付け加えられた理由付けと考えられ、全国的なものと同一なのでしょう。

 京成電鉄の建設時に志津と上座で駅の誘致を争いましたが、上座に近い小竹では上座駅誘致運動に加担しなかったのは、地元の方に最近伺ったところ「便利な上座に駅ができると若者が遊びに行って悪弊に染まるとか、他所から悪者が入って来るとして、積極的な運動をしなかったと父から聞いた」とのことでした。
 誘致運動のことは『佐倉市史研究』17号に掲載されていますが、志津側の史料のみで記述され、上座側の史料は明らかにされていませんので、断定は出来ませんが、昭和になってから果たして、そのような意識があったのか疑問で、事実とも思えません。解明は今後の研究に任されますが、なにかご存知のことはありませんか。
 

(2007年4月30日 掲載)



〔第14話〕
113系電車が211系電車へ

 長く当地を走っていた113系電車の大半が211系電車に代わることになりましたので、お知らせします。
 既に試運転列車が走っていますから、ご存知かとも思いますが、211系電車70両14編成が現在千葉以東を走っている113系電車と近く置き換えになります。
 10月21日から営業開始予定ですが、5両編成が基本ですから現在の113系電車6両編成と比較すると1両減少と言うことになります。もっともJR側の説明では定員は5両でも211系の方が多いそうですが、座席は現在のセミクロスシートからすべてロングシートに変りますから、確実に着席の機会は少なくなります。
 首都圏では座ることより詰め込む方がサービスと考えているようなので、「厭なら乗るな」「座りたければ特急でどうぞ」なのでしょう。サービスダウンなので公式にはまだ何の発表もされていません。
 車輌は新車ではなく、高崎線からのお古です。しかも総武本線、成田線列車の7割を置き換えて、残りは内房、外房、東金線を置き換えるというのですから、新型特急への置き換えが1年以上遅れたのとは逆にサービスダウンの方は、やはりこちらが先で、JRの千葉ー銚子間軽視は改まりません。沿線地方自治体や議会からの陳情や決議であれば影響もあるでしょうが、乗客はいくら不満を持っていても無視され続けているのが現状でしょう。
 ・・・
 10月1日〜3日から来年春から架け替え工事が始まる山陰本線餘部橋梁の撮影に行って来ました。完成は5年後とのことで、並行してコンクリート橋梁が建設されるそうです。
 そのため最近は訪問する鉄ちゃんが多く、餘部駅脇の山の中腹にある撮影場所には、私の訪問した日にも40人くらいが集まり、小さな場所から人がこぼれそう落ちそうでした。ただし半数は餘部鉄橋ブームのにわか鉄チャン(高齢者グループが多く、女性カメラマンが多いのにも驚きました)で、2本の列車を撮っただけで、さっさと帰っていきました。
 もっとも一日粘っていても10本程度の列車しか撮影できないのですが…。佐倉のはるか区域外ですが、駄作を2枚添付しました。

 山陰本線餘部橋梁1 山陰本線餘部橋梁2
 

(2006年10月6日 掲載)



〔第13話〕
「レイルマガジン」に掲載された映画「指導物語」のロケ地

 sendagi様がご指摘の映画「指導物語」の最初と終了近くのシーンに登場するC58217とC58218の並走のロケ地ですが、私も同様に感じていました。「レイルマガジン」 誌10月号を読んだ時に「先を争う東西成田線の分岐点に差しかかる(中略)成田はY字状に伸びる成田線の中心で、下に佐倉、左に我孫子、右に銚子を配しているが、東 西両線が並走する成田駅から北方500mあたりまで複線にも見える珍しい線形であつた」とあって、成田で並走ロケが行われたように記されていましたので、疑問を生じ たのです。
 そこで「指導物語」のビデオを改めて見直してみました。両機が並走する場面は画面に向かって左側は広い水田、右側は水田を挟んで丘陵が迫る地形です。また二つの 線路はかなり直線区間を走ってから、緩やかに分岐しますが、両方の列車はしばらくは相互に見ることができます。また列車がわかれて走って行く、分岐点の遠望では 手前の列車が、やや上り勾配を登っていることが判明します。これらは佐倉から南酒々井へ向かう地形に酷似しています。
 一方、成田では発車するとすぐに左へ急カーブし、直線区間はありません。さらに地形的にも線路際の片方は崖で落ち込んでおり、片側は高い土手になっています。 しかも撮影当時は成田鉄道多古線の線路が並行して敷設されていましたから、構内を外れれば三線になっていた筈です。さらに我孫子方面への線路は分岐するとすぐに 土手でさえぎられ見えなくなりますし、発車直後のカーブではあのようなスピードがだせる筈はありません。 実際にロケをみていたわけではありませんが、地形、線路状態から考えて、並走部分は佐倉駅から総武本線、成田線分岐点までの3.4キロの区間で撮影したと判断して差 し支えないと思います。
 また、成田での発車の際に「あの場所は2本の列車のスピードが(中略)つい競争になってしまう」との回顧談も掲載されて、同時発車の際に速さを競ったように書かれ ていますが、念のため「時間表」昭和15年10月号で調べてみると銚子行き、我孫子行きの同時刻発車はありません。最短でも4分の差があり、現在以上に定時発車がやか ましかった時代に並走の機会が沢山あったとも思えません。
 総武本線と成田線では、列車は両国ー佐倉間が併結運転で、下りは佐倉駅1番線(現2番線)に到着すると前方に連結の総武本線列車が後方の成田線列車を切り離して、 先に発車した後に、新らたに機関車を連結した成田線列車が、追いかける形で5分〜10分後に発車しましたから、映画のように両線列車が競争するシーンは下り列車の場 合は絶対にありませんでした。ただし、上りの場合は佐倉到着が1〜3分差でしたから、片方の列車が遅れれば並走しました。当時は総武本線列車が3番線(現4番線)に 着くと機関車は外され、成田線列車は一旦2番線(現3番線)に到着後に、転線して3番線に停車中の総武本線列車の前部に改めて連結し、一本の列車として両国へ向けて発 車しました。この方式は昭和24年頃に総武本線列車が上り側、成田線列車が下り側に連結とそれまでと逆になりましたが、昭和26年のダイヤ改正で、別々に運転されるま で続きました。その後準急や急行が運転されるようになると再び両線列車の併結運転が復活し、上りの場合は並走が見られるようになりました。昭和20年代の蒸気時代を 含め並走している様子は私も何度か実見しています。

(2006年9月24日 掲載)



〔第12話〕
C58166とC58289

 はしだのりひことシューベルツの写真ジャケットに描かれているC58166とC58289がだいぶ話題になっているようです。
 C58166は昭和14年9月、C58289は昭和16年9月にそれぞれ汽車会社で製造されました。製造番号は1800と2074です。最初にどこの機関区へ配置されたか、資料がありません。
 昭和20年8月(終戦時)にはC58166は千葉機関区、C58289は一ノ関機関区に配置されています。C58166は千葉機関区にその後も引き続き配置されていますから、おそらく房総東西線(現外房・内房線)で使用されていたのでしょう。昭和30年3月現在の配置表からは佐倉機関区に所属し、昭和44年3月現在までそのままです。
 C58289は昭和36年3月現在配置表から佐倉機関区へ所属しています。それ以前にどこに配置されていたのかは、これも資料がなく動きは不明です。やはり昭和44年3月現在まで佐倉機関区に配置です。
 したがって、ジャットの写真撮影は昭和36年3月以降でしょうが、これの発売がいつかわかれば、おそらくその直前に撮影ということになりましょう。両機ともに昭和45年3月現在配置表では、番号が記載されていませんから、県下の蒸気機関車全廃に伴い、廃車されたものと思いますが廃車年月日は調べてありません。
 sendagiさんの書かれた煙突上の回転火ノ子止めは、フアンからは「クルクルパー」と呼ばれて嫌われていましたが、千葉鉄道管理局管内の機関車の大半は取り付けていました。
 映画「点と線」に登場したC58もこの「クルクルパー」付きでした。戦後まで総武線や成田線はハチロクの天下でC58の引く列車はありませんでした。佐倉機関区へ初めて配置されたのは、昭和24年3月配置表からで、C5898,C58139,C58150,C58156,C58179,C58328,C58395の7両です。(ただし昭和23年3月配置表が手元にないため昭和22年3月配置表からの推定です)

(2006年5月31日 掲載)



〔第11話〕
さよなら183系特急

 ダイヤ改正で183系特急が消えました。館主様も撮影に出かけられたようですが、私も最終日の9日は物井ー佐倉間へ午前中に出かけました。
 見かけただけでも40人ほどがカメラを構えており、なかなかの盛況。
 その後東京へ行く途中で、下総中山、亀戸でも撮影しましたが、ここもホーム両端は、カメラマンがこぼれ落ちそうな状態でした。
 183系最後の日の「あやめ4号」をお目にかけます。ダイヤ改正当日もやはり物井ー佐倉間亀崎踏切へ行きましたが、7人がいました。みなさんなかなか熱心です。

 佐倉とは直接関係はありませんが、書店で現在販売中の「鉄道ピクトリアル」新年号に白土貞夫氏の「双峰を目指した幻の筑波高速度電気鉄道」という記事が掲載されています。
 筑波高速度電気鉄道とは耳慣れない鉄道ですが、9月に秋葉原ーつくば間を開業した「つくばエクスプレス」とほとんど同じコースに昭和初期鉄道敷設を計画した会社です。しかし資金難で実現せずに終わりました。
 当時不便な押上が起点であった京成電気軌道(京成電鉄)は、便利な地点への起点を求めて浅草や上野への路線延長を模索していましたが、なかなか特許されず、そのために疑獄事件さへ起こる有様でした。そのような情勢下で、京成は筑波高速を合併して、同社が所有していた敷設権の一部を利用して京成上野ー青砥間を開通させたのです。
 上野乗り入れもトンネル上部に皇室のご料地があったり、寛永寺が敷設に反対するなど多くの困難がありましたし、日暮里で国鉄の地下へ潜る当初案が、現在のように鉄の上を渡る方式に改められた経過が、詳しく書かれていますので沿線にお住まいで、興味のある方はご一読ください。

(2005年12月18日 掲載)



〔第10話〕
番外編 海外レポート「ダージリンヒマラヤン鉄道」

 11月上旬にインドへ行って参りました。ユネスコ世界遺産に指定されているダージリンヒマラヤン鉄道 への乗車、撮影のためです。
 僅か610ミリ軌間の線路の上を蒸気機関車が今も活躍し、標高140メートルの麓から紅茶で有名なダージリンまで、 3ケ所のループ線と5ケ所のスイッチバックで、2100メートルを登ります。
 亀の子のようなスピードですから、88キロの路線を13時間掛かりました。 ダージリンは、山の向こうはネパールという地点ですから、世界第3峰のカンチェンジュンガ(標高8586メートル)を始めヒマラヤの山並みを存分に眺めることができました。
 あとはコルカタ(旧カルカッタ)に立ち寄りましたが、生活の程度と貧困な状況は驚くばかりで、わが国の昭和20年代の有様でした。日本へ留学経験のあるガイドも「日本より50年遅れている」と話していました。
 インドは10月〜2月ころが乾季で晴天が続く良い季節でしたが、毎日のカレー料理(日本のカレーライスとは違います)と不衛生な飲み水には閉口しました。
 なお、添付写真はダージリンヒマラヤン鉄道の豆汽車とダージリンの街から眺めたカンチェンジュンガです。
 ダージリンの街から眺めたカンチェンジュンガ
 ダージリンヒマラヤン鉄道の豆汽車

(2005年11月29日 掲載)



〔第9話〕
2005年 秋のダイヤ改正

 総武本線、成田線の12月10日ダイヤ改正の概要が発表されました。特急は下り「しおさい3号」が 東京9時40分発となり、現在より1時間繰上げ。上り「しおさい」は1本が廃止されます(詳細時間が 未発表のため、どの列車か不明)
 現行「あやめ1号」は成田行き(土休日運休)に変更。「しおさい15号」は佐倉まで「あやめ5号」成田 線経由銚子行きを併結となります。
 夕刻夜間の東京発時刻の変更はありませんが、まったくスピート゛アップはありません。関係筋の話では、 「総武本線、成田線のスピードアップは印旛日本医大ー成田空港間の成田高速鉄道開通まではな い」そうです。
 8月24日のつくばエクスプレス開通の直前に常磐線が大幅にスピードアップしたように、競争がないと改善 はなかなかしないでしょうね。
 それは、とにかく現在使用中の1972年製造の古い183系特急電車は、新車の257系電車に置き換えら れることになりました。
 しかし、上下各5本の「しおさい」は、従来は「ビューわかしお、ビューさざなみ」使用していた255系電車を 使うようですから、乗客は、また12年も前に製造された古い車両に乗せられる確率が高いようです。
 なお詳細はJR千葉支社「ホームページ」の「おしらせ、プレスリリースをご覧ください。

(2005年10月7日 掲載)



〔第8話〕
「千葉県における鉄道のあゆみ展」開催のお知らせと秋のダイヤ改正

 県庁横にある千葉県文書館(千葉市中央区中央4-15-7)で、来年1月21日(土)まで「千葉 県における鉄道のあゆみ展」を開催中です。
 展示物は67点。主に県庁文書と写真ですが、佐倉駅付近をC57のひく旅客列車が走る姿や 現在表町の公園に展示されている58683の最後の日のシーンの写真も飾られているほか、 県営鉄道、人車鉄道などの珍しい写真もあります。8ページの図録(無料)も配布されています から、興味のある方はお出かけになられてはいかがですか。
 秋のダイヤ改正は10月1日の予定ですが、総武本線、成田線関係は、まだ何も発表されて いません。既にこの秋から走る予定の新型特急車両E257-500も何編成か幕張に到着して いますが、時刻は変更にならず、車両だけが置換えるのかもわかりません。スピードも遅く車両も 最悪の総武本線特急に30年ぶりの新型特急デビューとなれば、はやくからPRしそうなものですが、 何も発表のないのは、新型特急は既に置換えの済んでいる内房、外房線の増強に回し、総武 本線は引き続き古くて遅いのでしばらくは我慢しろということになるのかも。

(2005年9月10日 掲載)



〔第7話〕
佐倉駅でロケされた映画「点と線」

 満開佐倉文庫情報大賞が中国ご在住のティ様に決定の由。おそらく他の司書様も 異議はないでしょう。
 ストリーの重要な場面である香椎駅のロケが佐倉駅で行われたという事実は、私自身 にもインパクトは非常に大きく、まさに「エーッ」という感じでした。松本清張の名著 「点と線」は昭和31年の雑誌「旅」に連載され、毎号楽しみに購読していました。
 昭和33年に映画化された際は、もちろん何度も映画館へ足を運びましたが、それは 半世紀近い昔の話。今回館主様が、DVDを入手されたと聞き、早速懇願して拝見 させて頂きました。
 香椎駅のシーン。C58形蒸気機関車が客車を引いて手前のホームに入ってきます。
 遠景に佐倉機関区の特徴ある筒型給水塔が見えます。この給水塔の昭和43年の写真 があり確認できます。昭和41年6月撮影の佐倉駅駅舎写真も手元にありますが、入口 屋根上の「佐倉駅」と記載の看板と同一位置に画面では「香椎駅」と表示があります。
 そのほかにも樹木、ポスト、水飲み場、改札口の場所がその頃の佐倉駅と同一なのに加え、 なによりも駅舎全体の形が、佐倉駅に酷似しています。
 戦前の佐倉駅が「指導物語」に鮮明に描かれていたとすれば、「点と線」は昭和30年代 の佐倉駅を写した貴重な影像といえましょう。しかし「寂しい所ね」と話しながら、2人が香椎 海岸へ向かうシーンのロケに佐倉駅前が選ばれたことは、その頃の佐倉駅前が非常に寂しく、 映画監督のイメージに合つたとすれば、地元民としてはすこし寂しい気持ちになります。
 いずれにしても、ティ様のご発表により、佐倉と福岡という「点」が意外な「線」で結ばれたこと に驚きました。
 2004年2月に現地を訪問しましたが、「寂しい所ね」と2人に語らせた両駅間の道路両脇は 繁華街となり「賑やかな所ね」に一変していました。JR香椎駅も駅ビルに代わり、西鉄も高架 工事の真っ最中。西鉄香椎駅のみが当時のたたずまいを残していましたが、現在はどうなって いますか。心中の舞台である海岸も埋め立てではるか、かなたでした。

(2004年12月29日 掲載)



〔第6話〕
10月16日ダイヤ改正のあとさき

 ダイヤ改正前日の15日は、特急「すいごう」「ホームタウン成田」 「おはようしおさい」の最終日。夜間,早朝運転のため、「すいごう」 のみ撮影に物井ー佐倉間に出かけてみました。幸い天気もよく、 朝早く平日なのに鉄道フアンが約30人ほどカメラを構えていました。
 物井駅は、永年待望の快速停車が実現するというのに改札口前 に横断幕が、掲出してあるだけ。やはり四街道市にあるのに利用 者の大半が佐倉市民なので、地元自治体 (四街道市) としては、 記念行事をする気にならないのかもしれません。
 10月18日は、この日が運転初日の佐倉駅始発「しおさい80号」の 出発風景を見学。 183・189系電車8両に乗客は約20人のちょう ガラガラ。カメラマンも私を含め2人だけ。(館主様がいらっしゃるかと 思ったりですが、お見かけしませんでしたね)やはり何の行事も無く、 改札付近に小さな手作りポスターが貼ってあるだけでした。ホームで 乗車する人が、「こんな特急走っていたのですか」「今日からです」と 駅員が答えていましたが、PR不足は否めません。佐倉駅では大改 正というのに時刻表も配布しないのは商売気がないですねぇー。
(配布したのかも知れないが改正前日も当日も、どこにも見当たらな かった)聞けばスポンサーが見つからないとか。時刻表は最も大切な お客様へのお知らせ手段の筈で、スポンサーがなければ自費ででも 作成して配布すべきで、必要ならお客がメモすればいいとの態度は、 とても民営化された鉄道とは思えません。

(2004年10月18日 掲載)



〔第5話〕
10月16日改正

 鉄道噺第四話に記載した新型特急のことが、JR東日本から正式発表されました。
 それによると10月16日時刻改正から、「さざなみ」「わかしお」に新型特急を走ら せることになりました。予想通り総武線、成田線は後回しで今回も同じ運賃、料金 を支払いながら、佐倉市民利用の列車のサービスは据え置きです。
 なお、同改正から、朝7時04分佐倉始発、東京着8時00分の特急「しおさい80号」 が増発されます。途中停車駅は四街道、千葉、錦糸町です。平日のみの運転ですか ら、実際運行の初列車は10月18日からでしょう。ただし、車両は「さざなみ」「わかしお」 の置き換えで余った旧型車両 183系8両です。別に四街道に成田エクスプレスの 停車が増えるようです。
 快速電車は、通勤快速を除き物井駅にすべて停車となります。
日中の普通電車は概ね15分間隔の発車となり、佐倉発千葉方面行きは11時から15時 台は、毎時11,26(快速),41,55分発。千葉発佐倉方面行きは11時から14時台まで 00(快速),13,30,43分発と覚えてしまえば、わかりやすい便利なダイヤです。
特急は、しおさい、あやめに統一されて、ホームタウン成田、おはようしおさい、すいごうの 愛称はなくなります。
 グリーン料金は、かなり値下げになる区間がありますが、東京ー佐倉間は950円(事前購 入の場合)で変わらず、新設定のホリデーグリーン料金が750円となります。
詳細は、JR千葉支社ホームページ「プレスリース」をご覧下さい。

(2004年7月27日 掲載)



〔第4話〕
鉄道撮影地ガイド、鹿島川橋梁

 鹿島川橋梁とは、物井ー佐倉間にある鹿島川を渡る鉄橋です。東側には 寺崎トンネル、西側はカーブがあり、しかも周囲は田園と寺崎の山ですから、 背景や添景もよく、列車全体もカメラに収まるので、鉄道写真撮影名所として、 鉄道フアンの間で、非常に人気があります。とくに成田エキスプレスは、 東京を発車すると千葉までは高架線。ホーム上で撮影するほかなく、 したがつてアングルも画一的になりがちです。
 千葉から四街道までは家が建て込んでいたりして、広い場所がなく、撮影しにくい。また酒々井ー空港 間も同様です。そのため四街道と物井の中間あたりから、佐倉ー酒々井 間の八街への道路陸橋付近までの間が、唯一よい風景のなかで撮れる わけです。しかも、成田エクスプレスのほか、特急しおさい、すいごう、あやめ が国鉄時代のままの塗色で走り、ローカルの113系電車も、他では姿を消し つつあり、総武線でもいつほかの電車に置き換えられるかわからない状況 (一昨年205系電車への置き換えが噂された)ですし、貨物列車も走ります ので、遠方からわざわざ来る人も多いのです。
 既に特急用の257−500系電車が幕張に10両入り、試運転も行われて いますから、すべてが内房、外房線より後回しの総武線でも、現在の183 189系電車が走るのは、長くてもあと1年足らず。撮影は今のうちです。 ただし、くれぐれも線路内には立ち入らないように。危険なことは絶対しない でください。

(2004年7月19日 掲載)



〔第3話〕
壁紙は大ヒツト

 特急「ホームタウン佐倉」を壁紙にされたので、私のペンネームも それから採っているため、嬉しくなりました。
 壁紙に使われている30年間走り続けた特急用車両の183・189系 電車も、来月から徐々に新型車両E257系500番代に代わり、来年 7月までに全部入れ替わります。既に中央線「あずさ」に使われている 車両とほぼ同スタイルです。写真を撮ったり、乗り心地を楽しむのも 今のうちです。
 そのためでしょうか、最近は鹿島川付近での撮影者が目立ちます。
館主さんの傑作もご期待申し上げております。もつとも、JR千葉支社は、何事も内房、外房線優先。総武、成田線は 後回しですから、佐倉を走る特急車両の置き換えは、来年になるかも 知れません。

(2004年6月23日 掲載)



〔第2話〕
山万ユーカリが丘線のこと

 鉄道はレールの上を走っているものばかりではありません。
 法規上は、ロープウェーやリフトやモノレールも 含まれますし、ゴムタイヤ式の「ゆりかもめ」などの新交通システムも鉄道です。
 ユーカリが丘線は、新交通システムの一つで、この地域を開発したデベロッパー山万が、 団地内をテニスラケツトの形に一周する路線を建設しました。
 昭和57年11月2日ユーカリが丘ー中学校間を最初に開通、同じ日に京成のユーカリが丘駅も開設 されました。
 翌年9月22日全線が開通し、3両編成の「こあら」号が13分で団地内を一周し、住民アクセスとして 親しまれています。
 このシステムは、谷津遊園が開園していた時代に、園内中央で一般にはモノレールと呼んで、実験して いたボナの技術を導入したものです。

(2004年6月6日 掲載)



〔第1話〕
京成志津駅

 京成の志津駅は、昭和3年3月18日に開業しました。京成成田線が開通し、京成臼井、京成佐倉、 大佐倉駅が開業したのは大正15年12月9日ですから、かなり遅れて開業したことになります。
 理由は当時の志津村の上志津と上座の二つの集落が、それぞれ熱心な駅誘致運動を繰り広げて 決着が付かず、会社が駅の設置を見送ったからです。
 その誘致運動と上志津に駅が開設された経緯が、最近発行の『佐倉市史研究』17号に掲載されて います。興味のある方は、ご覧ください。なお現在は上座にも、ユーカリが丘駅が開設されています。

(2004年5月17日 掲載)



                                         

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