郷土の新刊案内(平成17年)

 【図書の紹介にあたって】
 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。
 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。
 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただき、ご容赦くださるようお願いいたします。

【2006年12月26日  更新】


【1月】
川口素生『江戸諸藩 中興の祖』(2005年1月 1,500円 河出書房新社)
佐倉藩主堀田正睦が記されていました(232頁)。

【2月】
図録「無言館 遺された 絵画展」(窪島誠一郎監修 2005年2月 1,800円NHKきんきメディアプラン)
佐倉に住んでいた蜂谷清の絵と経歴が記されています。
無言館は長野県にあり、、戦時中、絵を描くことの好きな若者が絵筆を捨てて戦場に向かうにあたって遺した絵や、戦地で描いた絵葉書などを展示しています。

村上春樹『平将門伝説ハンドブック』(2005年2月 公孫樹舎)
全国の将門伝説を紹介する中で、佐倉市にある伝説も紹介しています。また、取り上げた伝説についての出典が掲載されていますので便利です。

渡辺多恵子の漫画『風光る』 17巻(2005年2月)
松本良順が16・17ページに出てきます。

【3月】
三浦正幸『城のつくり方図典』(2005年3月 小学館)
佐倉城の紹介ではなく、城のつくり方を紹介しており、たとえば「馬出」を説明する中で、佐倉城の馬出を例にとる(27頁)。
また「土塁の樹木」を説明する中で、平山城の土塁として佐倉城の土塁を例にとっている(185頁)。
なるほど、このようにして城はつくられているのかと学ぶことが多い本でした。

『ビジュアル・ワイド 日本の城』(2005年3月 小学館)
佐倉城と本佐倉城が紹介されています。

国立歴史民俗博物館友の会 「軍隊と地域」学習会の記録『佐倉の軍隊』(2005年3月 500円 オクノプリント社)
「佐倉連隊と住民」「兵営跡を歩く」「生還者と遺族の証言」などの項目があります。

島尾敏雄『死の棘日記』(2005年3月 2,200円 新潮社)
小説『死の棘』の下地となった当時の日記です。昭和30年4月7日から5月3日
まで佐倉で過ごした島尾は、当時の佐倉の様子を日記に記しています。
「4月7日 (略)佐倉につき、坂の所で孝ちゃんが待って居る」(196頁)
「4月8日 晴、午後少しくずれる。ひとりで町に出て行き、市役所で転入届。住民登録 をすませ、佐倉市教育委員会で伸三の入学通知書を貰い、佐倉第一小学校に行き 転校手続きをすます。一年三組なり。保健所確認。郵便局で転居届」(197頁)
「5月3日 (略)ミホと国鉄佐倉駅迄行く」(215頁)
佐倉で過ごした日々が描かれています。

鴨志田穣『日本はじっこ自滅旅』(2005年3月 1575円 講談社)
「列車は順調に走り続け、千葉駅を過ぎたあたりから外の景色はマンション、建て売り住宅群からがらりと代り、のどかな田園風景が広がっていた。
列車は佐倉に停った。

なつかしい街であった。十数年前、この街のはずれにある工場で 夜勤労働をして、海外に出るための軍資金を作っていた」(132頁)
とありました。著書は日本のはじっこ各地を旅行したエッセイです。

『房総を学ぶ 房総地域文化研究プロジェクト記録集』(2005年3月 東京成徳大学人文学部日本伝統文化学科房総地域文化研究プロジェクト)
史料紹介「報じられた房総〔東京日日新聞明治5−7年〕」に、佐倉という文字がみられます。
・史料21 明治7年3月20日(639号)に同協社の記事。
・史料61 明治7年7月19日(747号)に佐倉風土記の文字。
・史料85 明治7年10月27日(836号) 貸座敷と仮称する妓楼、佐倉に3,4軒出来た。

【4月】
『没後20年 堀柳女展』(2005年4月 2,100円 佐野美術館)

日本民俗建築学会編『写真でみる民家大事典』(2005年4月 柏書房)
佐倉武家屋敷と町屋の紹介と写真があります。(232〜233頁)

【5月】
小澤靖夫『昔話・絵本の再発見』(2005年5月 3800円 古今社)
文とは関係がありませんが印旛沼の挿絵が1カット(43頁)あります。

神渡良平『主題のある人生』(2005年5月 1700円 PHP研究所)
「1992年、バルセロナ・オリンピックで有森裕子選手に銀メダルを、続く1996年のアトランタ・オリンピックでは有森選手に銅メダルを、2000年のシドニー・オリンピックでは高橋尚子選手にとうとう金メダルを獲得させ、女子マラソンの界の名伯楽と讃えられる小出義雄佐倉アスリート倶楽部監督(前・積水化学女子陸上部監督)の人生だ」(240頁)

【7月】
小原敏彦編『長嶋茂雄に会いたい』(2005年7月 1300円 エコー出版)
本書は、長嶋茂雄著『燃えた、打った、走った!』(1974年 講談社)などを底本に、取材を加えたものだそうです。

小倉光夫『房総キリスト教史』(2005年7月 2000円 恵泉書房)
「1878(明治11)にはプロテスタント教会は法典村のほか印西大森にもあり、講義所が佐倉ほか埴生・銚子・九十九里・ 布鎌・芝神・小見川・北須賀に伝道師が居住していた」(94頁)
「佐倉町でのキリスト教の布教は明治の初期からあり、日本基督一致教会の佐倉教会も明治末期には一時福音伝道館や 聖書学院より応援があり、大正初期には東洋宣教会により佐倉ホーリネス教会説教所が設立されました」(117頁)
このほか津田仙の教育事業(234頁)、津田梅子の米国留学(235頁)についても掲載されています。

【8月】
イデア・ビレッジ『千葉 上等なランチ』(2005年8月 1500円 メイツ出版)
県内のおいしいレストランを紹介した本で、佐倉市では中国料理店の「マンダリンキャップ」(ユーカリが丘)と、 料理とワインの庄「茜」(王子台)、フランス料理「エスペランス」(南ユーカリが丘)が紹介されています。

末吉正子編著・藤原道子絵『5分で語る むかし話ワールドへようこそ』(2005年8月 一声社)
「全国各地に散在する『養老の滝伝説』が、私の住む千葉県佐倉市にもあります。和田地区直弥の里に伝説の なごりを求めて、雨の中、見に行ったことがあります。
『子は清水』と称する旧家の門辺に、かつて清水が湧き出たそうですが、藪の中のわずかなくぼみに雨水が少々 たまって、かの昔の面影をしのぶことができました。そしてその時いきなり、お話が私の中にやってきたのです。
瓢に水をくむひとりの少年・・・。けなげでひたむきなうしろ姿を思い浮かべ、このお話を再話しました」(25頁)とあります。

【9月】
佐伯泰英『秘剣孤座』(2005年9月 600円 祥伝社文庫)
「佐倉街道の酒々井の辻で、商人の話が大袈裟でないことを知らされた。あちらこちらの街道から次々と成田山新勝寺の宿場町寺台に向かい、初詣での客が詰め掛けていた」(196頁)
 「『老中戸田様の佐倉城下を見物して参ろうか。どうせ道中、どこぞで一泊する旅よ、急ぐこともあるまいて』」(221頁)
 「かつて千葉氏がこの酒々井に本城の本佐倉城を、二里半ほど西に臼井城を配した要衝地であった」(221頁)
 「『佐倉に立ち寄り、城下を見物して参る』『それは奇遇にございますねえ、私もこれから佐倉城下でひと稼ぎと考えていたところですよ』」(233頁)
 「酒々井から佐倉までは一里八町(約四・八キロ)余りだ。佐倉藩は天正十八年(1590)八月、徳川家康の関東入封にともない、三浦義次が本佐倉に一万石で入封したのが始まりとされる。 以来、武田家、松平家、小笠原家、土井家、石川家、松平家、堀田家、大給松平家、大久保家と目まぐるしく代わって、貞享三年(1686)に武蔵国岩槻から戸田忠昌が転封してきて六万一千石で立家していた。 成田山新勝寺は代々の佐倉藩主の庇護の下に江戸で名が知られるようになっていったのだ。
 一松とやえが訪ねようとする佐倉城の主、戸田忠昌は元和元年(1615)から老中を務めていた。それだけに城下の賑わいも一際だった。
 二人は印旛沼を見下ろす丘陵地鹿島山を利して造られた老中所領の城を、町屋を見物して回った」(224頁)


【10月】
中村克巳『霧積』(平成17年10月)
佐倉についてのエッセイや短歌、千葉日報のシルバー通信員としての話、自分史の話などを丹精にまとめています。

山本一力『いっぽん桜』(2005年10月 476円 新潮文庫)
「『みなも知っての通り、おととし御老中の田沼様は印旛沼の開拓をお決めになられた』」(26頁)「『印旛沼の工事には途方もないカネがかかるため、これまで二度も途中で取り止めになっている』」(27頁)「『印旛沼への仕出しは、井筒屋さんはどれほどの数をまかなえるんでしょうかな』」(64頁)

生島淳『駅伝がマラソンをダメにした』(2005年12月 700円 光文社新書)
「日本の女子の強みは、小出義雄監督門下の有森、高橋を除いても、いろいろな企業や指導者の下から次々と世界クラスのランナーが出ていることである」(176頁)
「小出義雄は、日本女子マラソン界を変えた指導者だと思う。オリンピックで二人のメダリストに三つのメダルを取らせ、しかもそのうちひとつは金メダルである。おまけに世界新記録もマークした。これだけの実績を上げた指導者は過去にいないし、こらからも出現しないかもしれない」(180頁)
 小出氏については、180頁〜183頁にかけて描かれています。帯に「本邦初!観戦者のための駅伝・マラソン批評」とあります。

 
【11月】
小和田哲男監修『日本の城ハンドブック新版』(2005年11月 三省堂)
佐倉城が出ていました。(82頁)

『城郭と中世の東国』(2005年11月 5200円 千葉城郭研究会編)
 房総の中世を研究されている方々の最新論文をまとめた本です。
 第1部
 享徳の乱における城郭と陣所 ・・・ 峰岸純夫
 当主の居城と前当主(または継嗣)の居城 ・・・ 市村高男
 下総西部の地域性からみた小金領形成の前提 ・・・ 中山文人
 北条氏の房総侵攻と三船山合戦 ・・・滝川恒昭
 下総臼井・小弓城主原胤栄に関する覚書 ・・・ 佐藤博信

 第2部
 内戦の中の村と町と城 ・・・ 藤木久志
 考古学からみた中世房総の城館と村・町 ・・・ 柴田龍司
 南関東における城館跡出土陶磁器 ・・・ 井上哲朗
 戦国後期の陸上交通と城郭 ・・・ 遠山成一
 房総における鉄砲の導入とその与えた影響について ・・・ 小高春雄

 第3部
 篠本城跡とその周辺 ・・・ 道澤 明
 臼井城下の変遷 ・・・ 日暮冬樹
 下総矢作城(大崎城)と大蟲和尚 ・・・ 外山信司
 徳川将軍の御殿と御茶屋 ・・・ 梁瀬裕一
 稲村城跡の保存運動 ・・・ 愛沢伸雄

 
 
【12月】
   北山悦史『やわひだ巡り』(2005年12月 657円 ベスト時代文庫)
 「佐倉藩士立花九八郎の娘である自分が、町人の娘であるなおに対してお高くとまってはいない」
(6頁)
 「朝、佐倉を出て竜神で渡しに乗り、降りて少し来た街道筋で蕎麦を食べ、昼過ぎには成田に着いた」
(11頁)
 「佐倉の町からた拓馬様を引き抜いたりしないで。子供たちにとって、拓馬様は宝物なんだから」
(15頁)
 「左の田圃の向こう一面に、ススキの穂が金白色に光っている。ススキに混じって、葦の群れが認められる。そこは湿地帯だろう。
 その向こうには、印旛沼が広がっている」(30頁)
 「佐倉の麻賀多の杜の裏。穂が白くなりだしたススキに囲まれた草地。見上げる空は真っ青だった」
(51頁)
 「公津台方で佐倉惣五郎が将軍直訴の大罪で処刑され、惣五郎の幼い子供たちが首を刎ねられてから、みんな人の命を大切にするようになった。
 罪を働いて臼井の処刑場で斬首に処されるならず者はいるにせよ、せいぜいがそんなもので、刃傷沙汰というものはとんと聞かない」(114頁)
 「拓馬は高崎川の西側の川沿いを、佐倉に向かっていた」(207頁)成人向け小説です。


  中谷俊雄『古代蓮』(2005年 新風社)P65.、89、111、123、125、126に「印旛沼」の語が出てくる。
この本は、行田ハスや大賀ハスなどの古代ハスが本物かどうかを検証しようとしたものです。大賀ハス発見の報を、新聞社が誤って「印旛沼手賀沼干拓工事現場」と書いている話に出てきますが、内容的にも面白いものでした。


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