船(佐倉丸)
「佐倉丸」という、佐倉にゆかりのある名前の船がありました。
【2006年12月19日 新設】 【2008年7月23日 更新】
船名
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竣工年
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トン数
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建造地
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形状
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備考
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佐倉丸
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明治20年(1887)
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2953トン
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英国
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鋼製汽船
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佐倉丸は日清戦争のときに政府が購入。戦後、払い下げ。船名はそのころ歩兵第二連隊があった千葉県の佐倉にちなむ。明治32年(1899)、ペルー移民の第1船として森岡商会がチャーターし、横浜から出発。日露戦争中に旅順閉塞作戦で自沈。
〈参考文献〉
山田廸生『船にみる日本人移民史』(1998年 中公新書)
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2008年7月14日
Roy Magusさんから初メールをいただきました。
旅順閉塞作戦について調べていて偶然ここにたどり着きました。新しい情報ではないかもしれませんが
、お役に立てればと思い連絡させていただきます。
日露戦争旅順港作戦で自沈した「佐倉丸」の名称は、帝国陸軍歩兵第二連隊の拠点だった「佐倉」から
とられたそうですが、この船の鐘が日露戦後、西園寺公望公によって立命館大学に寄贈され、校舎に設
置されていたそうです(出典:『立命館百年史』第一巻通史 立命館百年史編纂委員会;417頁および636頁)。
鐘は「時の鐘」と呼ばれ立命館広小路キャンパスにあったとのことですが、その後(昭和56年)
広小路キャンパスが閉鎖されたため現在「時の鐘」がどこへ行ったかはわかりません。
<返信>
知りませんでした。ありがとうございます。どなたかご存知の方がおりましたら連絡ください。
見てみたいですね。
Roy Magusさん、これからもよろしくお願いいたします。
2006年12月24日
えりっぷさんからメールあり
佐倉丸のことですが、移民関係から探ってみたところ見つけました。山田廸生(やまだみちお)著「船にみる日本人移民史」中公新書1998年刊にのっていました。
「第一章明治・大正期の移民船 ペルー移民第一船佐倉丸 」の項目に「佐倉丸は日本郵船の船である。2953総トン。1887(明治20)年に英国で建造された鋼製汽船で、日清戦争のときに政府が購入し、戦後払い下げられたものだ。船名はそのころ歩兵第二連隊があった千葉県の佐倉にちなんでいる。日露戦争中に旅順港閉塞作戦で自沈し、壮烈な最期をとげた。」(53頁)佐倉です!
〈返信〉
ごくろうさまでした。ありがとうございます。来年の満開佐倉文庫情報大賞候補ですね。
12月19日
Kさんへ。
過日、Kさんから「佐倉丸」は佐倉から付けた名前ではないかという話あり(「佐倉本情報」12月14日に収納)。遅くなりましたが、佐倉丸の話を書きます。
私が佐倉丸のことを知ったのは、平成9年4月2日付けの読売新聞「編集手帳」で、「1899年(明治32)の、あす4月3日、ペルー・リマの外港に日本郵船の佐倉丸が着く。新潟、山口、広島などから日本移民第一陣790人が乗っていた」という記事を見たことです。
この佐倉丸が、わが佐倉と関係がありやしないかと思い、さっそく日本郵船に問い合わせてみましたが、よくわからないということでした。
木津重俊編『日本郵船100年史』(1984年9月 海人社)に出ている佐倉丸は、明治20年に建造され、明治29年に陸軍省から払い受けたものとなっています。建造時、陸軍省で「佐倉丸」と名前をつけたのであれば、日本郵船に聞いても名前の由来はわからないということになるでしょう。
陸軍といえば、第一師団の第二連隊が佐倉に駐屯していましたから、地名から付けた名前と期待したくなるのですが、推測の域を出ません。ここでは、断定をしないでおきましょう。
この佐倉丸は、日露戦争時に旅順港の入り口を塞ぐための船(第三次旅順口港閉塞隊)の一隻に選ばれ、自沈しました。
佐倉丸は、この自沈した船のあと、再び佐倉丸と名付けられるU世が誕生します。この佐倉丸がKさんの話される船です。こちらの方は、『七つの海で一世紀』(日本郵船創業100周年記念船舶写真集)に出ています。
本によれば、竣工は1940年(昭和15)3月。ニューヨーク線に就航とあります。ところが昭和16年1月陸軍に徴用され、防空基幹船に指定されます。そして、高射機関砲8門で武装、磁気機雷に対する防雷銅帯を船体周囲に装着し、マレー半島コタパルの上陸作戦に参加。
17年3月1日、ジャワ島北西部バンダム湾で上陸作戦中、水雷艦艇の雷撃を受け沈没とありました。
新旧の佐倉丸は、いずれも戦争で沈んでしまった船でした。
2006年12月14日
Kさんからメールあり。
ご無沙汰しております。いかが、お過ごしでしょうか?「佐倉本」です。
中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(1988年 光人社)
「八日未明、コタバル上陸開始の報につづいて「淡路山丸」大火災。「綾戸山丸」「佐倉丸」も被弾と悲報が相ついだ。」(31頁)
「問題のコタバル上陸は第一回、第二回の上陸部隊は予定通りに着岸、第三回目の舟艇も半数くらいは上陸できたらしい。「綾戸山丸」「佐倉丸」はいったん避退、翌九日の未明、揚陸点にもどり、天明後に上陸を再開したが、このときはすでに飛行場の占領を終わっていた。」真珠湾攻撃の日、著者は第二艦隊参謀としてマレー沖海戦に従軍とのこと。「佐倉丸」の名の由来は、ネットで見ると「地名」とあるので、おそらくご当地のことでしょうか。
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