佐倉本 著者一覧


 ここに掲載した佐倉本は、2003年7月に発行した『電子図書館 満開佐倉文庫』以降に司書のみなさんと探した本で、当ホームページ「佐倉本探索日記」に紹介した本を著者別に掲載したものです。そのため、前書に掲載した佐倉本は含まれていません。
 前書に掲載した佐倉本は、当ホームページにある「佐倉本データ・ベース 2006」に掲載していますので、合わせてご利用ください。いずれ、ここに掲載した佐倉本を合わせて、新たな「佐倉本データ・ベース」をつくる予定です。


 【図書の紹介にあたって】
 図書を紹介するにあたっては、著者、題名、発行年、出版社を記入するほか、佐倉が出てくる部分を一部引用しています。これは、題名だけでは図書の内容がわからないため、利用者が図書を選ぶにあたっての目安としていただきたいと考えたからです。
 引用にあたっては、掲載した文章の誤字、脱字もあろうかと思うので、利用者は原著を読み、原著から引用をしていただきたいと考えています。
 また、引用部分は文庫で判断したため、著者の納得いただける引用部分ではないかも知れませんが、なにとぞ趣旨をご理解いただき、ご容赦くださるようお願いいたします。
   

【2006年1月30日 新設】 【2007年12月29日 更新】



【あ】

 阿川佐和子『ガハハハのハ この人に会いたい3』 文春文庫(2003年6月 590円 文藝春秋)
 阿川さんが、小出監督、高橋選手とお会いして話したことがまとめられています。インタビューは、佐倉の合宿所で行われたようです。とすると、阿川さん、佐倉に来たんですね。 (2003年9月18日 掲載)

 秋本喜久子『埋火(うずみび) 謙映院幾千子と堀田正睦』(2007年1月 1900円 新人物往来社)
 堀田正愛に嫁いだ松江の松平不昧公の娘と正睦を描いた小説で、帯には「幕末、佐倉藩と堀田正睦を支えた女人の数奇な生涯」とあります。
 一定の史実を基に彩を添えた小説で、歴史上の人物に温か味を与え身近に引き寄せてくれるている力作と思います。表紙の彩り同様、女性らしい切り口で初めて正睦に豊かな人間味を持って描いてくれた作品ではないでしょうか。
(2007年2月1日 掲載)

 天沢退二郎『魔の沼』(1982年 児童文学書 筑摩書房)
 「あと2キロほど北に行けば、印波沼の端が入り込んでいる し、(中略)なぜなら、印波沼でも、森の奥の沼でも、長沼でも、 沼の岸はたいていびっしりアシが生え、その先にガマが生いしげり、 その先にやっと水面がはじまるのがふつうだ。それなのにこの沼(?) の水ぎわは、いきなりふつうの夏草のしげみになっている。これは おかしい」(5頁)とありました。 (2004年9月15日 掲載)

 天沢退二郎『オレンジ党、海へ』(1983年 児童文学書 筑摩書房)
 「北東の方角、あの給水塔よりずっと向こうに、印波沼の 南から土毛の谷まで、シイやクスノキの林におおわれた低い丘が7つ、 8つ、連なっている」(28頁)とありました。 (2004年9月15日 掲載)

【い】

 池波正太郎『幕末新撰組』(文春文庫)
 「近藤のみは、品川に着くとすぐに、神田和泉橋にある幕府の医学所へ入院をし、 典医・松本良順の治療を受けている。土方歳三は、毎日のように医学所へ通い、 近藤と今後の行動について、密議をこらしているようであった。
或日、佐倉藩の江戸留守居役をつとめる依田某が近藤を見舞いに来て、『伏見の 戦いは、どのような工合でしたか?』と、たずねた。近藤は、にがりきって、『拙者は大坂 におりましてな。土方君が、よく知っています』土方は、にやにやして、依田にいった。 『どうもねえ、依田さん、こらからの戦さは、刀や槍だけではどうにもなりませんよ』」 (P343)とありました。
(2004年9月14日 掲載)

 池波正太郎『鬼平犯科帳』17 特別長編鬼火(1990年 第6刷 304頁 文春文庫)
 「木挽町一丁目にある堀田家(下総・佐倉十一万石)の中屋敷(別邸)へ二十名ほどの人数を待機させることにした」 (2003年10月16日 掲載)

 池波正太郎『鬼平犯科帳』19 ( 文春文庫)
「引き込み女」の項の中で、「翌朝になると・・・・。 長谷川平蔵は、菱屋からも程近い木挽町一丁目にある堀田備中守(下総。佐倉十一万石)の 中屋敷に移った。あの[鬼火]事件でも、堀田屋敷内に指揮所を置かせてもらったことがあるし、万事に好都合であった」(302頁)
 「半刻後に堀田屋敷へ引き返して来た」(306頁)とありました。実際に堀田家の中屋敷が木挽町一丁目(八丁堀の近く)にありました。
(2006年1月31日 掲載)

 石井進氏の著書『歴史家の夢』
 歴博対談があり、ゲスト佐野みどり氏が 「学生さんたちと一緒に京成佐倉駅から歩きましたが、トラックが砂ぼこりをあげながらビュンビュンと走っていたのを思い出します」 とありました。 (2005年8月2日 掲載)

 五木寛之『元気』(2004年4月 幻冬舎)
 「その時代の紀行文『後北遊日乗』のなかで、千葉県の佐倉というところを 通過するときに彼(森鴎外)がものした漢詩の一篇がのっており」とありました。 (2004年9月19日 掲載)

 伊東成郎『土方歳三の日記』(2000年7月 新人物往来社)
 この本は、多くの史料を引用して、土方歳三のことを書いています。
「大正十年三月に地元新聞に連載されたものを、一冊にまとめたもので・・・
土方歳三の文中には、(譚海)との参考資料名が付記されている。この 前半部の文章の多くは、佐倉藩士だった依田学海が著述した『譚海』に収録 された土方のエピソードを参考にし、書き記したものだった」(98・99頁)
(2005年4月25日 掲載)

 伊東成郎『新選組と出会った人びと』(2004年2月発行 河出書房新社)
 新選組が出会った人物ごとに書かれています。
 「榎本武揚」(34頁)
 榎本は、居並ぶ諸藩士たちに土方を紹介し、同盟の総督に推挙した。この模様は、幕末維新期の体験談を語る史談会の第一回めの席上で安部井磐根が語っているが、旧佐倉藩士の依田学海が列席していた。
 ・・・武揚、何その人を知れり・・・(明治二十五年七月九日付『学海日録』)

 「大鳥圭介」(36頁)
 (慶応四年)密かに妻子を旧知の佐倉藩士のもとに預け、単独での江戸脱出の機会を狙っていたという。

「松本良順」(170〜173頁)
  4頁にわたって書かれている内容は、元治元年江戸での近藤勇との出会いから明治21年に近藤、土方の顕彰碑を建てたことまで。
中でも、
「依田学海の項で詳述するが、松本は新選組の屯所で隊士の切腹を目撃したこともあったらしい」(172頁)

「依田学海」(231〜234頁)
 筆者が「今後の新選組研究に欠かせないその著作」(231頁)として『譚海』と『学海日録』をあげ、『学海日録』から2つの記述を登場させています。
 「明治五年二月二十一日の記録である。依田は、佐倉の近在の牧場で、(五稜郭で降伏した)竹柴保次郎という人物にあった。
 ・・・(竹柴が)依田に語ったのは、これまでどんな資料にも紹介されたことのない土方歳三のエピソードだった。」(232〜233頁)

 「明治二十一年十月十四日に、見逃せない記録が載っている。依田は、中村座へ芝居見物に訪れ、偶然松本良順と会った。
 松本は依田に、在京中に新選組の処断を目撃したことがあると語ったのである。・・・(切腹したのは)山南敬助だというのである。」(233頁)

 「松本良順が山南敬助の死に立ち会う可能性はない」(234頁)とあり、他の隊士の切腹場面です。この日の『学海日録』を読むとかなり、生々しい記述です。
(2006年1月10日 掲載)

 井利儀一『燃ゆる水』第14話佐倉哀感(2007年4月 文芸社)
 短いエッセイをまとめたもので、その第14話に佐倉が描かれています。「佐倉の街をこよなく愛している」と始まり、 城下町佐倉のよさと消えゆくものの哀れをつづっています。(2007年12月2日 掲載)


【う】

 植田多喜子『うずみ火』(1972年4月 仙石出版)
「わたしは、目黒、大岡山の植松寿樹先生の門をくぐりました」(127頁)
 「分骨は、千葉県佐倉の、お家累代の御墓所に、お鎮まりなされた。お家は、佐倉藩の家老である」(260頁)
(2006年12月13日 掲載)

 梅原徹『江戸の旅人 吉田松陰』(2003年2月 4800円 ミネルウァ書房)
 吉田松陰が、アメリカ船を追って伊豆の下田に行ったとき、佐倉藩士木村軍太郎に会った話を掲載しています。 (2003年11月28日 掲載)

【え】

 絵守すみよし『人形師「原 舟月」三代の記』 (2003年9月 青蛙房)
 仲町の山車人形「関羽」は、三代目原舟月の作だそうです。この本で写真入りで紹介されています。(170〜173ページ) (2004年7月28日 掲載)

【お】

 大岡昇平氏『将門記』 (中公文庫)
 P5「鎮めなければ祟りをなす怨霊として畏怖されたのだが、江戸 時代、領主の収奪に苦しむ農民によって、世直し神として崇拝され た形跡もある。下総の佐倉惣五郎は、幕末の農民の英雄であるが、 佐倉にもあった将門明神社の境内で、謀議を行なったことになって いるなどが、その例である。」 (2005年2月13日 掲載)

 大岡昇平『堺港攘夷始末』(1989年 中央公論社、)
 378〜379頁に面白い記述がありました。紹介します。
「井上笠園は文学辞典類からはとっくに消滅しているが、福本氏の考証によ れば、当時は菊池幽芳と並び称された大阪文壇の花形であったという。
慶応三年、下総国佐倉生れ、慶応義塾卒業後、「都新聞」記者、 明治二十六年「大阪毎日新聞」に入社する前の一年半、不明の理由で ―高知市「土陽新聞」にいた。…(中略)…その作風は中国文学の影響が 強いという。明治三十三年没、強いて代表作を挙げれば、『玉胡蝶』 (「大阪毎日新聞」明治三十一年五月二十一日―八月十四日)であろう。」
(2004年2月14日 掲載)

 織田五二七著『栄城』(佐賀新聞社・平成12年刊)
 本書は、相良知安、大隈重信、江藤新平の三人を軸にして佐賀の幕末明治を舞台にした小説です。ラストシーンは相良知安の亡くなる場面であり、従って松本良順が繰り返し何度も登場しました。
 長崎には松本良順が相良知安を呼び寄せたと書いていました。筆者は佐賀・鹿島で病院院長を勤めた人です。
(2007年9月9日 掲載)

 乙川優三郎『武家用心集』(集英社)
 短編集で「向椿山」の中のP186、P198の2ヶ所に佐倉が記載されていました。 (2005年10月30日 掲載)

 乙川優三郎『武家用心集』(2003年8月 集英社)
 「(*庄三郎)は、19歳で江戸に遊学し、そのあと下総の佐倉で佐藤泰然に学んだ彼は24歳の青年医師になっていたが、」と、ありました。 (2003年11月28日 掲載)

 恩田陸『ねじの回転』(2002年12月 集英社)
 2・26事件を扱ったSF長編小説。
終戦まで佐倉には連隊が駐屯していました。
中でも歩兵第57連隊は知られていますが、この2・26事件が起ったとき、57連隊は鎮圧部隊として東京に出動しました。 文章では、 「既に佐倉と甲府の連隊は上京して兵舎に入っていたし」 としか記されていませんが、佐倉という文字が2か所に出てきます。
(2003年10月20日 掲載)

【か】

 海原徹著『江戸の旅人 吉田松陰』(2003年6月 ミネルヴァ書房)
 松陰の下田でのエピソードの中に、軍太郎が出てきます(2ヵ所)。 (2003年11月16日 掲載)

 神渡良平『天命に生きる』(2002年11月 致知出版社)
 小出監督の話があります。印旛沼周辺を駆ける選手たちのことにもふれています。 (2003年9月19日 掲載)

 神渡良平『春風を斬る』(2000年 PHP研究所)
 老中首座となった堀田正睦が天皇の勅許をもらうために上京する話が描かれています。(80頁〜)
「佐倉の辺り」という文字もありました。(144頁)
(2004年2月16日 掲載)

 神渡良平『主題のある人生』(2005年5月 1700円 PHP研究所)
 「1992年、バルセロナ・オリンピックで有森裕子選手に銀メダルを、続く1996年のアトランタ・オリンピックでは有森選手に銅メダルを、2000年のシドニー・オリンピックでは高橋尚子選手にとうとう金メダルを獲得させ、女子マラソンの界の名伯楽と讃えられる小出義雄佐倉アスリート倶楽部監督(前・積水化学女子陸上部監督)の人生だ」(240頁)  神渡氏は、佐倉市在住。 (2006年9月22日 掲載)

 鴨志田穣『日本はじっこ自滅旅』(2005年3月 講談社)
 「列車は順調に走り続け、千葉駅を過ぎたあたりから外の景色はマンション、建て売り住宅群からがらりと代り、のどかな田園風景が広がっていた。
列車は佐倉に停った。
なつかしい街であった。十数年前、この街のはずれにある工場で夜勤労働をして、海外に出るための軍資金を作っていた」(132頁) とありました。著書は日本のはじっこ各地を旅行したエッセイです。
(2005年7月8日 掲載)

【き】

 北村薫『ひとがた流し』(2006年7月 朝日新聞社)
「佐倉のね、歴史民俗博物館に行ったんです。」(168頁) (2006年11月3日 掲載)

 北山悦史『やわひだ巡り』(2005年12月 657円 ベスト時代文庫)
 「佐倉藩士立花九八郎の娘である自分が、町人の娘であるなおに対してお高くとまってはいない」(6頁)
 「朝、佐倉を出て竜神で渡しに乗り、降りて少し来た街道筋で蕎麦を食べ、昼過ぎには成田に着いた」(11頁)
 「佐倉の町からた拓馬様を引き抜いたりしないで。子供たちにとって、拓馬様は宝物なんだから」(15頁)
 「左の田圃の向こう一面に、ススキの穂が金白色に光っている。ススキに混じって、葦の群れが認められる。そこは湿地帯だろう。
 その向こうには、印旛沼が広がっている」(30頁)
 「佐倉の麻賀多の杜の裏。穂が白くなりだしたススキに囲まれた草地。見上げる空は真っ青だった」(51頁)
 「公津台方で佐倉惣五郎が将軍直訴の大罪で処刑され、惣五郎の幼い子供たちが首を刎ねられてから、みんな人の命を大切にするようになった。
 罪を働いて臼井の処刑場で斬首に処されるならず者はいるにせよ、せいぜいがそんなもので、刃傷沙汰というものはとんと聞かない」(114頁)
 「拓馬は高崎川の西側の川沿いを、佐倉に向かっていた」(207頁)成人向け小説です。

(2006年8月20日 掲載)

  【く】

 国枝史郎「血曼陀羅紙帳武士」『国枝史郎伝奇全集』巻六(1993年9月 未知谷)
「彼は下総の国、佐倉の郷士、伊東忠右衛門の忰であった。
 伊東の家柄は、足利時代に、下総、常陸等を領していた、管領千葉家の重臣の遺流(ながれ)だったので、現在の領主、堀田備中守も粗末に出来ず、客分の扱いをしていた。」(278頁)
(2006年11月10日 掲載)

 邦光史郎『小説日本通史・時の旅人八の巻・幻の大日本帝国』(1996年6月 祥伝社刊)
  二・二六事件の顛末を描いた場面で、反乱部隊を鎮圧するために「作戦課長石原莞爾は、杉山参謀次長に呼ばれると『閣下、今、反乱軍の栗山中尉がピストルで威しましたが、そんな子供じみたことでクーデターはともかく、革新は無理です。すぐ、甲府と佐倉の部隊を呼んでください』と進言した。」(335P)と記載されています。 (2006年6月7日 掲載)

【け】

 ケビン・ショート『ドクター・ケビンの里山ニッポン発見記』(2003年 家の光協会)
 「印旛沼」が3回、出てきます。
「ぼくはかれこれ十四年以上も、北総のカントリー・サイドをくまなく歩いてきた。高台の畑にナシ園、クリ林、手賀沼や印旛沼を囲む谷津田。」(4頁)
「里山を歩くとき、ぼくは好んで水の流れをたどってみる。印旛沼や手賀沼から川上の溜め池まで歩いたり、…」(105頁) ここで初めてオニヤンマを捕まえたケビンさんの感動が描かれています。
「たまには手賀沼や印旛沼へと足をのばすこともあるが、…」(163頁)
(2005年3月14日 掲載)

【こ】

 河野桐谷編著『史談 江戸は過ぎる』(新人物往来社)
 父親の西村勝三を「靴、メリヤス、煉瓦、瓦斯」で語っていました。 (2007年10月15日 掲載)

 光原万里『ロシアは今日も荒れ模様』(1998年5月 4刷 日本経済新聞社発行)
 文中、ソ連のエリツィンが大統領になる1年半前の1990年1月、TBSの招待で来日。このとき、通訳として著者の光原氏は全日程に同行した。 そして、エリツィンの超エネルギッシュに驚かされたことが10点あったという。その1点、1点を記す。その第2点目に佐倉の文字が出てきます。
 「第二点。外交辞令など吹っ飛ぶ素直さ。 成田到着後、本人の前々からのたっての希望で佐倉のヘリポートに直行し、ヘリコプターに搭乗、約一時間ほど上空から東京の全貌を眺めた」(185頁)
(2003年9月13日 掲載)

  【さ】

 最相葉月『青いバラ』(2001年5月 1600円 小学館)
「日本のバラの父」と呼ばれる鈴木省三という人が八千代市に住んでいた。鈴木氏が生涯に作出したバラは108品種。しかし、彼は京成バラ園芸という企業の社員であるため、鈴木氏の新品種は京成バラ園芸の商品であり、カタログを見ても鈴木氏の名前が記されることはなかった。

 「佐倉にローズガーデン・アルバというバラ園があって、前原君という男がいます。たくさん珍しいバラがありますので、彼に説明をしてもらってください」(107頁)
 「しばらくすると、車は東邦大学医学部附属佐倉病院の左手の細い道を入って数十メートル走ったところで止まった。左手にバラのアーチ、足元には濃い色の柔らかそうな地面が広がり、一瞬、映画のセットのように思えた。周りで背の高い建物といえば病院しかない新興住宅地に、忽然と現れたユートピアのようだった。
 車を降りた途端、全身が柔らかな花の香に包まれた。アーチの脇には、『バラを愛するみなさまへ』と書かれた木製の看板があった。
 ローズガーデン・アルバは自然環境を保護し、バラの貴重な原種を保存して、いずれはバラの博物館づくりを目指しています。入園料は三つの目的及び維持管理費にあてさせていただきますので、ご協力をお願い致します。
 アーチをくぐると、左手に鈴木省三コレクションのコーナーがあった。」(109頁)
 「赤バラのルーツ、白バラのルーツ、黄バラのルーツ。見慣れた現代バラの美しい色、香り、かたちや樹型は、こうした野生種や雑種から伝えられたものだった。時代をさかのぼっていくと、いかに人間がこの花に手を加え、自分たちの美意識のもとに新しい品種をつくり出していったのか、ヨーロッパの植民地戦争を背景としたプラントハンティングが何をもたらしたのか、手にとるようにわかるのだった。
 バラの歴史とはまさに、人間の歴史だった」(112頁)
 筆者は、鈴木氏に世界中の人が試みているが未だに叶わない「青いバラ」をつくりたいと思ったことはありませんかと尋ねた。
 すると、「青いバラができたとして、さて、それが本当に美しいと思いますか」(6頁)といわれた。
(2007年2月22日 掲載)

   佐伯泰英『秘剣孤座』(2005年9月 600円 祥伝社文庫)
 「佐倉街道の酒々井の辻で、商人の話が大袈裟でないことを知らされた。あちらこちらの街道から次々と成田山新勝寺の宿場町寺台に向かい、初詣での客が詰め掛けていた」(196頁)
 「『老中戸田様の佐倉城下を見物して参ろうか。どうせ道中、どこぞで一泊する旅よ、急ぐこともあるまいて』」(221頁)
 「かつて千葉氏がこの酒々井に本城の本佐倉城を、二里半ほど西に臼井城を配した要衝地であった」(221頁)
 「『佐倉に立ち寄り、城下を見物して参る』『それは奇遇にございますねえ、私もこれから佐倉城下でひと稼ぎと考えていたところですよ』」(233頁)
 「酒々井から佐倉までは一里八町(約四・八キロ)余りだ。佐倉藩は天正十八年(1590)八月、徳川家康の関東入封にともない、三浦義次が本佐倉に一万石で入封したのが始まりとされる。 以来、武田家、松平家、小笠原家、土井家、石川家、松平家、堀田家、大給松平家、大久保家と目まぐるしく代わって、貞享三年(1686)に武蔵国岩槻から戸田忠昌が転封してきて六万一千石で立家していた。 成田山新勝寺は代々の佐倉藩主の庇護の下に江戸で名が知られるようになっていったのだ。
 一松とやえが訪ねようとする佐倉城の主、戸田忠昌は元和元年(1615)から老中を務めていた。それだけに城下の賑わいも一際だった。
 二人は印旛沼を見下ろす丘陵地鹿島山を利して造られた老中所領の城を、町屋を見物して回った」(224頁)

(2006年973日 掲載)

 榊原喜佐子『殿様と私』(2001年11月 草思社)
 著者は徳川慶喜の孫であり、前作に、『徳川慶喜家の子ども部屋』があります。
 『殿様と私』は榊原家(徳川四天王とよばれた、譜代大名)に昭和15年に嫁いでからの話です。明治になって、徳川家と譜代大名家の懇親会が行われ、堀田家も参加していたようです。
「御譜代会『徳川譜第懇親会紀事 弐冊』と表書きのある和綴じの本で、桐箱にはいっていた。・・・・第一回懇親会は(明治二十一年)二月二十六日と決定したという。
 当日参集したかたがたは、松平義生ら四公、井伊直憲・・・堀田政倫・・・といった諸公ら、総勢八十六名。・・・こうしたかたがたのお名前は音でよぶことが多い。」(56〜59頁)
「家には御譜代会の写真が一枚だけあった。」(57頁)
 「中央左寄りに徳川宗家の家達公、その隣が徳川慶喜公・・・」(写真下解説文より)ページ全面にその写真が載っています。
 堀田正倫の顔もあります。向かって左端、前から4、5列目。羽織袴姿です。著者は、写真の年代を、「明治三十五年の秋か、あるいはその翌年春ごろではないだろうか」(61頁)と推定しています。
(2006年2月11日 掲載)

 坂口弘『あさま山荘1972(上)』(1993年 彩流社)
 印旛沼周辺でおこった殺人事件が記されています。 (2004年10月5日 掲載)

 坂口弘『あさま山荘1972(下)』(1993年 彩流社)   (2004年10月5日 掲載)

 坂口弘『続 あさま山荘1972』(1995年 彩流社)   (2004年10月5日 掲載)

 櫻井秀勲『運命は35歳で決まる!』(2001年7月 三笠書房)
「女性はほめられるほどがんばることは、シドニー・オリンピックの高橋尚子選手の例で知られている。彼女自身、名声を望んだわけではないが、結果として名声を得られる仕事に携わっていたことは事実であり、小出監督にしてもそれは同じだ」(214頁)
 「巨人軍の長嶋茂雄監督の片言隻語でさえメモしつづける女性記者もいる」(214頁)
(2006年2月21日 掲載)

 佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘」事件』(1996年 文藝春秋)   (2004年10月5日 掲載)

 佐藤雅美『町医北村宗哲』(2006年8月 角川書店)
「堀田様のご家来衆の貧乏ぶりは・・・」(195〜198頁)など「佐倉藩」について表現しています。 (2006年11月30日 掲載)

 佐原真『考古学千夜一夜』(1993年7月 小学館)
 「いま、私が嫁ぎゆく佐倉(国立歴史民俗博物館)には、なんと、 かつてのあのうるさい編集者が、教授として私を待ちうけている ではありませんか。いま最も情熱的に次々に業績をあげている 春成秀爾さんです。
佐倉に移ってしばらくは、この指導教授のもとで、山積みになって いる未完成の仕事を仕上げることになるでしょう」(218頁)
考古学で著名な佐原先生が国立歴史民俗博物館の館長に 就任するにあたって、さらなる研究意欲を示した文章です。
(2004年10月5日 掲載)

【し】

 柴田錬三郎「大峰ノ善鬼」『剣鬼』所収(2002年2月 新潮文庫)
 「小金原は、後年の佐倉炭の本場であるが、それは、二百年も後の寛政年間に、はじめて相模の炭焼きを迎えて、檪林を伐出させるようになってからのことである。
 千葉氏の領する、佐倉管轄の当時の小金原は、見渡すかぎり茫々たる原野であった」(79頁)
(2006年9月6日 掲載)

 篠田達明著『白い激流 明治の医官・相良知安の生涯』(新人物往来社・1997年刊)
「第三章 佐倉順天堂」 (2007年3月5日 掲載)

 司馬遼太郎『殉死』(文春文庫)
 「これよりすこしあと、熊本鎮台で同僚だった児玉源太郎もよびかえされ、 下総佐倉の歩兵第2連隊長に補せられた」(29頁)とありました。 (2005年5月12日 掲載)

 司馬良太郎『司馬遼太郎全講演〔4〕』(2004年1月 朝日新聞社)
 1991年に東京女子医科大学で行われた講演「ポンペ先生と弟子たち」の中で、 松本良順について、いろいろ記しています。
「ポンペ先生に教わった人の筆頭は松本良順です」(332頁)
「ポンペ先生は遺言どおりにしました。標本にして、その頭蓋骨を授業でずっと使って いました。日本を去るにあたって、故人の遺志を尊重して、松本良順に与えました。
もっとも良順はその頭骨を大事に持っていればいいのに、花街でお酒を飲んでご機嫌 になると、ヌッと頭骨を出して芸者をびっくりさせていました」(333頁)
「さて良順は江戸に帰って、官位の西洋医学所の頭取になります」(333頁)
と、松本良順の話が続きます。
(2005年4月29日 掲載)

 司馬遼太郎『殉死』(文春文庫・1978年)
 「これよりすこしあと、熊本鎮台で同僚だった児玉源太郎もよびかえされ、 下総(千葉県)佐倉の歩兵第二連隊長に補せられた。(中略)習志野で 両連隊の対抗演習がおこなわれた。 (2005年3月14日 掲載)

 司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文藝春秋・1976の6冊本ハード・カバー)
 「山県は(中略)十四個の師管を設置した。東京、佐倉、…」(第2巻 109頁) 「そのうちの津田梅子にいたっては数えでわずか九歳で、…」「もし黒田がいな ければ津田梅子は渡米することがなく、また後年の津田英学塾もなかったで あろうということになる。」(201頁) (2005年3月14日 掲載)

 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』第1巻
 松本良順の記述
「塾というが、門人は一人である。その一人の門人も、幕府の任命によるもので奥医師の松本良順(のち順)であった。」(169頁)
(2005年2月7日 掲載)

 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』第2巻
 浅井忠の記述
「ことしの一月には、画家の浅井忠が渡欧することになって、その送別会がこの子規庵でひらかれた。」(92頁)
「『浅井忠を知っているだろう。』 と、子規は言った。真之もその名前だけは 知っていた。中村不折とともに画技をもって「日本」の同人になっている人物で、 日本画も洋画もできる。いまは東京美術学校教授としてパリに留学していた。」(96頁)
 林董の記述
「ところで、エッカルトシュタインは、日本の駐英公使の林董をも訪問して同様のことをささやいたのである。 」(195頁)
「林董というのは、長州閥の青木周蔵とはちがい、旧幕臣系である。 幕臣林洞海の養子で、旧幕時代の少年期、横浜で英語を学んだ。」 (198頁)以下、『外交』という章の中でP218まで林董の話が続きます。
(2005年2月7日 掲載)

 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』第4巻
 佐倉連隊の記述
「児玉はまだ数えて二十九歳のとき千葉県佐倉の東京鎮台歩兵第二連隊長であった。この時期、乃木も東京鎮台に属し、歩兵第一連隊長をつとめていた。この 二つの連隊が紅白にわかれて対抗演習をしたことがあったが、そのとき児玉はかるがると乃木を破った。乃木は負けたが、しかも自分が負けたことさえ知らず、 演習場でぼう然と馬を立てていた。」(117頁)
(2005年2月7日 掲載)

 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』第5巻
 林董の記述
「と、この当時、駐英公使をつとめていた林董がいったが、このとおりであったであろう。」(P38頁) 「この一件は明石はさすがに手にあまるとおもい駐英公使林董に相談して一任した」(P70頁)
 佐倉連隊の記述
P235 歩兵たちの出身地は、東京府、山梨県、千葉県(これは、第6巻を読むと佐倉であることが分かります)。
(2005年2月7日 掲載)

 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』第6巻
 「さらには、この後備歩兵第二旅団(東京・佐倉)も、名目は現役部隊とはいえ、内実は応召兵が多く、 戦争最初の日本歩兵の戦力ににくらべてはなはだしく劣っていたといっていい。」(9頁) (2005年2月7日 掲載)

 司馬遼太郎『竜馬が行く』
 文春文庫8巻本(1975年版)を使って読みましたが、第7巻「勝は 大坂の宿舎にあって家茂の回復を待ちつづけたが、ついに七月二十日 の朝、勝と懇意の将軍侍医松本良順からひそかな報らせがあり、『御大 切になった。』という。」(13頁) (2005年1月19日 掲載)

 司馬遼太郎『花神』(一)
 「このためポンペに自由な医学教授をゆるしたのではなく、幕府の奥医師松本良順(のち順。明治後軍医総監)だけに受講をゆるした。」(299頁) (2005年1月5日 掲載)

 司馬遼太郎『花神』(二)
 「松本良順(のち順と改名、戊辰戦争には佐幕軍に参加、のちの陸軍軍医総監・男爵)が頭取職をひきつぎ、洪庵式のシステムを一変させてポンペ様式をとり、現在の医学教育の源流をつくった。」(56頁)
「松本良順のような洋医もいれば榎本武揚のような洋式陸海軍の指導者もいる。」(P75頁)
「幕府の医官松本良順が、まるで戦国の武将のような風耒でゆったりとすわっている。」(83頁)
(2005年1月5日 掲載)

 司馬遼太郎『花神』(三)
 「ここは『松平壽子』さんのことが書かれていました。」(123頁) (2005年1月5日 掲載)

 司馬遼太郎『花神』(四)
 「順天堂は蘭学者佐藤泰然・尚仲をもってその学祖としている。」(64頁) (2005年1月5日 掲載)

 司馬遼太郎『坂の上の雲』(1997年 第20版 文芸春秋)
 その「四」
「児玉(源太郎のこと)はまだ数えて二十九歳のとき千葉県 佐倉の東京鎮台歩兵第二連隊長をつとめていた。」(117頁)
(2004年3月4日 掲載)

 司馬遼太郎の 朝日新聞の文庫「近江奈良のみち」
 印旛沼のことが書かれていました。
琵琶湖について書かれていたのですが、その関連で印旛沼に触れていました。
(2004年7月2日 掲載)

 司馬遼太郎『歳月』( )
 江藤新平を描いた小説に次のような件がありました。「藩士深川亮蔵という者がかって幕府の老中堀田備中守を暗殺しようとして事成らず捕縛された」と。つまり肥前佐賀の上士の深川亮蔵が暗殺を計画し藩に捕まったというのです。 (2006年6月1日 掲載)

 子母沢寛の『花の雨』(1988年 徳間文庫)
 全編を通じて松本良順が描かれています。また「小林、ほら、榎本さんのうしろに若い男がいるだろう。下ぶくれのいい男のーあれだ。この軍一の俊才と言われる通弁官兼軍艦役の林董太郎というのは」(377頁)
「下総佐倉脱藩坂本完平」(346頁)、「下総佐倉脱藩坂本完平。命のいらねえ奴は来い」(451頁)とあります。
(2005年10月29日 掲載)

 島尾敏雄『死の棘日記』(2005年3月 2,200円 新潮社)
 小説『死の棘』の下地となった当時の日記です。昭和30年4月7日から5月3日 まで佐倉で過ごした島尾は、当時の佐倉の様子を日記に記しています。
「4月7日 (略)佐倉につき、坂の所で孝ちゃんが待って居る」(196頁)
「4月8日 晴、午後少しくずれる。ひとりで町に出て行き、市役所で転入届。住民登録 をすませ、佐倉市教育委員会で伸三の入学通知書を貰い、佐倉第一小学校に行き 転校手続きをすます。一年三組なり。保健所確認。郵便局で転居届」(197頁)
「5月3日 (略)ミホと国鉄佐倉駅迄行く」(215頁)
佐倉で過ごした日々が描かれています。
(2005年5月9日 掲載)

 島田雅彦『彼岸先生』
 「私のヒーローは長嶋で」(201頁) (2005年11月14日 掲載)

 島田雅彦『彗星の住人』(2000年11月 新潮社)
 「もし、ジャイアンツの長嶋選手が父だったら、いわゆる一つの キャッチボールをして、サインをたくさん書いてもらい」(108頁) (2004年5月23日 掲載)

 志茂田景樹『徳川慶喜と家族』(1997年 KIBA BOOK)
 堀田正睦が出ていました。ハリスと交渉。条約の勅許のために 上京という場面で描かれています。(P41〜) (2004年2月16日 掲載)

 東海林さだお『東海林さだおの大宴会』(2002年12月 朝日文庫)
 「チキンライスは絶滅したのだろうか。いえ、長嶋さん風に言うと『チキンライスは永遠に不滅です』」(56頁)とありました。 (2004年11月30日 掲載)

 笙野頼子『金毘羅』(2004年10月 集英社)
 「千葉の近所のお寺にJ寺というのがあります。藩主様のお墓のあるところではあるが、でももうそのJ寺と言ったら『ああ金毘羅さんね』、というわけです。
そこでやっている占いもJ寺のとはいちいち言わないのだ。『やー金毘羅さんの占いはよくあたるー』で、ガラクタ市をやったって『金毘羅でやってます』だ。但しここは佐倉の殿様が守護仏として象頭山から持ってきたと縁起にあり、それならば神系のオオモノヌシはどうされたのか、行ってみると完全に『仏様は神様です(引用は後述)』の世界に突入していました」(119頁)
「四十越えてから千葉に越して答えが判った。土浮のサルタヒコに参ったからです。土浮と書いてツチウキと読む、字も音も妙に納得する地名だ。家から少し離れた車で行くしかない干拓地の中。
そこの歴史は三百年位で、昔の干拓です。農業用地です。田んぼの中にいい感じの家がぽつぽつ建っていて、広々とした田は湖程に開け、畦に少しだけ木が植えてある。田んぼなのに印象派の絵みたいだと思うと、向こうには印旛沼の鉄橋と水が光っている。神社の周辺は家がなく行き止まり。宝暦年間と彫ってある石の御手洗、平成十一年寄贈、新品の石鳥居」(181頁)
(このほかにも土浮の地名が出てきます)
「金毘羅などと言う今まで縁のない単語が夢に出てきてしまう程、佐倉は習合的土地なのであった。朝からトラックで来る物売りが年中、複数『金毘羅ふねふね』をテープでがんがん流して行く。金毘羅好きのタクシードライバーにも遭遇するし。
縄文遺跡の宝庫で平将門の地、その後は義民佐倉宗吾を出したりしている。宗吾のモデルには諸説あるが、ともかく自分は処刑されても農民の請願を実現させた人物がいたという事です。佐倉市自体は堀田氏の城下なので宗吾様に対しては比較的冷めているようだが」(186頁)
「例えば、鳥居。同じ麻賀多神社から勧請したはずの同じ神の鳥居が、成田市の総社では明神鳥居です。しかし佐倉市では両部鳥居なのです。殆ど丹塗りですが中には風雪で剥がれて白木化してしまった両部もある。またそういうところにこそ子供がマジックで描いた狐やウサギの絵が供えてありよく拝んである。佐倉のその麻賀多は拝殿にもウサギの彫刻があった。しかし成田の総社麻賀多ではそこのお遣い女はアオバズクなのだ。−佐倉は風が強いから鳥居が倒れないように、両部的な足付きにして支えているのではないかと勝手な事を考えたのは」(209頁)
「そこには佐倉によくあるパターンの、小さい神社の境内に幾つもの摂社と末社をぎゅうぎゅう詰めにした体裁のものでした」(268頁)
このほかにも、佐倉が描かれた箇所がありますので一読をお勧めします。
(2005年11月8日 掲載)

 城昌幸著「若さま侍捕物手帳、双色渦巻」(1994年春陽堂書店発行・春陽堂文庫、佐倉図書館所蔵)
 下総国大和田在へ若さまが出掛ける「地獄図絵」のなかで、「このあたりは印旛沼と手賀沼との中間地帯でたいした起伏もない一面の平野だ」(p231)
 「釣りをなさるならここから二里ばかり離れた印旛沼のほとりに下屋敷があるので、ご案内しましょうと言われ…行ってみると印旛沼の水に臨んだその下屋敷は、いささか風雅な作りのこじんまりした構えで」(p234)の描写があります。
 印旛沼は単なる風景描写に過ぎず、もちろん事件とは何の関係ありません。
(2007年2月13日 掲載)

 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(2006年8月 1600円 講談社)
 「かつては単なる千葉県S倉支部に過ぎなかったからだ。しかし今では最後まで戦ったゆえに、本部である。S倉がである。
 そのS倉とは、縄文より人の暮らす、歴史の濃い土地である。反抗に彩られた受難の土地だった。戦うのに慣れている土地であった。『あーまたかー』という感じで気が付くと戦っているお国柄だった。まあ決して佐倉でない事を明言しておくがね。
 ヤマト官憲の『東征』に始まり、S倉惣五郎、N田闘争の気質を今に伝える聖地である。また江戸時代の後期には『西の長崎、東のS倉』と言われた蘭学に熱心な頭のいい土地で、理論、知育、先取の精神、ブランドも高かった。その上たまたま作者が住んでいるせいもあってこのように良く書かれてしまうのであった」(10頁)
 「ちなみに、この『うちどもら』という言葉は『自分たち、私ども』というような意味のS倉弁である。S倉が本部になってから十年近く、また巫女もあまり長々とS倉に住み着いているがために神の託宣にもこの、S倉弁が、混じるようになっている。」(31頁)
 このほかにも、何箇所かS倉が出てきますので、お読みください。
(2006年10月2日 掲載)

 笙野頼子『片付けない作家と西の天狗』(2004年6月 河出書房新社)
 「北総台地の上にある街は、夏に蒸し暑く冬は底冷えする。空の星は 成田に通う飛行機の灯と競って大きい。2年前の7月―。
私はいきなり家を買って、猫4匹を連れてそこに引っ越した。住まった のは山の端の分譲団地の側。30坪程の土地に建った小さな家にも、 周囲の環境にもさほど不満はない(7頁)。
千葉に越してからも連載は続いた。S倉駅から登り坂徒歩10分以上、 S倉図書館に森茉莉全集はあった。東京でもそうだったが、6、7巻が よく借りてあった。その最終回になって、−。
連休のさ中に、どうしても調べなくてはならない事が出来た。一般図書 館は休み。そこで人間の身でありながらーS倉地下図書館に行く事にした。
ある種、規則が喧しくて色々怖くもあるが、実に新鮮だった。私はそこを、 極楽図書館、と勝手に呼んでいる(22頁)。」
(2004年7月31日 掲載)

 笙野頼子『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』(2006年10月 1900円 集英社)
  「成田、それは千葉、内陸、北総、ウチのすぐ近く。でも成田と佐倉とは違う土地なのだ。私は越してからあまりに苛烈過ぎる佐倉の気温の中で、成田の農民の感じを想像するというアホな事をしていたのだけれど。」(16頁)
 「越した当初、佐倉は雲が早いので雪が少ないと友人が教えてくれた。私の住むところは夏最高気温三十五度、冬最低気温マイナス六度、特に家の近くは沼の冷気で冷えるため冬が辛い。が、今はたとえ寒いさ中でも、また真っ暗になった沼と山の間の道路を歩いていても、妙に、山に癒される。」(17頁)
 「佐倉市は住其ネットを拒否しなかったらしく私の分の番号も来ていた。都内のどっかの区は断っていたが。
  車は家の前の高台の、タイコ橋のように急な坂をくわっと下りて、私のいる町から沼のよく見える東の方向に走り出した。そのあたりは百メートル進むと最低気温が、一度下がる。江原台のいつもの猫の飯を買いに行くホームセンター、シャトレーゼの工場、を通り過ぎる。水道道路から成田街道に入り、周辺に川魚料理屋の多い橋を渡り、佐倉宗五郎を弾圧した佐倉のお城の、跡に建つ民俗歴史博物館を斜めに見て、山中の石段、頂上の鳥居をぼーっと認める。」(42頁)
 「その後車でマカタに行こうとしたら難渋した。というのもマカタは千葉に十八社あるから。そして周囲の緑の多いあたりの景色はというと実に似ている。同名の神社は佐倉駅から徒歩十五分のところにもあるし。」(72頁)
 「十月の下旬、佐倉の新興分譲受託の中で少し早い万聖節の前夜祭、ハロウィーンのパレードが行われていた。西洋から輸入した精霊の土俗由来の祭りが、佐倉という日本の、土俗の地で行われているのだった。」(100頁)
 「東京から来る人に佐倉の夜の暗さを、というか自然の良さを見せようと思っていた。寂しいところに住んだと思われているけれど、また最初は寂しかったけれど、私はもう佐倉が好きになっていた。初夏に電車で来る人は佐倉の手前で、車窓の緑に、歓声を上げる。家の近くまで来ると、なんだ住宅地じゃないですかというのだけれど、林や沼や山の気配は夜に濃くなる。それを知らせたい。」(101頁)
 「能は佐倉に来てからその薪能で見て好きになった。最初は取材であったが、その場で楽しめた。」(102頁)
 「以前に人に聞いて沼の方の小学校あたりは自然が残っているというので、兎や狸のいそうなところに行きたいというと、よく車に轢かれるというのでやや反省をする。沼に浮かぶ灯を見て、夜の道を走る。東京から帰ってきて八千代、四街道あたりで通る林の中とさして変わらない。沼の水と鉄塔の赤い灯を私は見慣れているし、湾岸道路を彼女は知っているはずだ。通りついでにナガシマの家をドライバーが教えてくれる。石の天狗像がある八幡神社の近くまで行く事にした。神社のところで下りて、下方の繁華街を見た。  帰ろうとすると、雷電為右衛門のお墓を見ませんか、と少し拍子抜け気味に私たちにドライバーが薦めた。」(108頁)
 「車で佐倉から世田谷美術館に行くところだった。」(133頁)
(2006年12月7日 掲載)

 笙野頼子『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』(2007年10月 1600円 講談社)
 「汗の霧の中に身を投げるようにして、埴輪いぶきは、まるで都心のような混雑のS倉市嘘井駅前を歩いていた。今までのそこは郊外によくある水底のような駅であった。 広場には大きな楠の木が一本。午前一時を過ぎれば人口十万人のS倉市の、特急通過駅は真っ暗になる。毎夜、この街に鉄道が引かれてからも、その 楠の木には街中の鳥が集まり、眠ったものだ。
 毎夏、マカタの社で過ごすフクロウは夜毎そこに降り立ち、一晩に一羽の小鳥を狩った。」(3頁)その他の頁にも出てきます。(2007年12月2日 掲載)


 新藤兼人『正伝殿山泰司 三文役者の死』(1991年 岩波同時代ライブラリー62)
  ・まず、新藤監督のロケ地選定について
「一面の芒ケ原を探すのに苦労した。芝居の安達ケ原の舞台だといわれている福島県 の安達ケ原へ行って見たが、一面の芒ケ原は見あたらない。富士山の周囲を回って見たが、 山があり、松があり、一面の芒ケ原にはならない。ついに千葉県印旛沼の畔りにたどりついた。
沼の北端である。芒と葦が混って一面に波打っていた。」(154頁)
・次は、殿山泰司さんの文章を引用しています。これでその本が 、ちくま文庫から出ているのが 分かりました。
タイちゃんの文章(『三文役者の無責任放言録』)を少し借りて、このころの状況を見てみよう。(156頁)
「遠くに印旛沼が見えて見渡す限りすすきの原っぱである。ニッポンにこんな広いところがあったのか。
ここは水資源ナントカの所有だそうであるが、何んのために埋め立てるのかオレにはサッパリ判らない。」
(159頁)
「沼の畔りの葦の原は一見青々と爽やかであったが、水と葦の接点は泥沼で、さまざまな障害があった。
南から吹けば北の水面は一メートルもあがった。無数のエビガニが棲んでいて、これが堤防や畦に穴を開け、 水位があがるとたちまち沼の水が流れこみ、プレハブは水びたしとなった。」(160頁)
(2005年4月21日 掲載)

 白井喬二『富士に立つ影』(1938,1939年にかけて刊行 1998年復刻 沖積舎)
「文政十年の六月のことであった。下総国佐倉の町に『ばくち猿』というものが現れて大変な評判となった。」(409P) (2007年2月5日 掲載)

 新宮正春『三ツ葉葵の剣士』(2000年5月 実業之日本社)
「岩津殿となった三年後に、(*松平)忠輝は下総佐倉七万石に転じて従五位下上総介に任じられた」(55頁) (2006年2月15日 掲載)

【す】

 「京町家の四季」杉本節子著(展望社)
 杉本家は、寛保3年(1743)、呉服商「奈良屋」として京都に 創業したそうです。いわゆる他国店商で、佐原と佐倉に店舗を 構えたと記述してあります。千葉市にあった「奈良屋デパート」も そうみたいです。
京都と佐倉の不思議な関係を感じました。
(2005年2月24日 掲載)

【せ】

 瀬名秀明『パラサイド・イブ』(平成13年、7版 角川ホラー文庫)
 「全国の腎移植システムを統括する千葉の国立佐倉病院の方まで検索し」(44頁) (2003年8月4日 掲載)

【そ】

 左右田 謙『疑惑の渦』(1978年4月 幻影城ノベルス 幻影城)
 「刷り始めようという時になって、ニュースが入ってきたのです。佐倉(市)で、去年にせ札が出たのを覚えていますか?」(281P)
 「丁度、いま刷ろうという間際だった。ぼくは、それを横目でみながら、同じ部屋から編集局に、佐倉(市)ににせ札の犯人が現れたらしい、 と電話した。慌てて出版部にストップの指令が来たときは、ほんの僅かだが、新聞が刷り始められていた・・・・・・」(295P)
 *左右田氏は佐倉市在住ですので、佐倉市民本でもあります。(2007年12月7日 掲載)


 左右田 謙『球魂の蹉跌』(1895年7月  春陽堂書店)
 「S駅に着いた。・・・尚子はS市の社会福祉協議会のボランティアをしている。・・・・・・・
 彼は駅前からつづく坂道を上っていった。この町は起伏の多い地形で、繁華街はちょうど馬の背にあたる部分に、横に長く延びていた。
 その目抜き通りを抜けてしばらく行くと、昔の城下町の名残で、ところどころに武家屋敷の跡が残る静かな住宅街がある。
 目指す家はその一角にあった。」(26〜27P)(2007年12月7日 掲載)


【た】

 岳真也『土方歳三 修羅となりて北へ』(2002年4月 学習研究社)
 佐倉藩士依田学海が江戸城内で、近藤勇と土方歳三に出会うシーン があります。
「大広間からべつの間へと向かう廊下のあたりで、近藤と歳三は顔見 知りの依田学海と出くわした。佐倉藩の江戸留守居役である。
依田はわきの板敷きにふたりをまねいて、腰をおろすようにうながし、 近藤に向かって訊ねかけた。」(47頁)
そして、新選組には欠かせない松本良順も登場します。土方歳三が、 宇都宮城を奪った後、数日後に再び、官軍に奪われた時の戦闘時に 土方歳三は左足を負傷します。
その後、傷の療養のため、会津の東山温泉で逗留。そこで松本良順と 再会し、沖田総司・原田左之助の最後を松本良順から聞きます。
(215頁〜219頁)
(2005年3月27日 掲載)

 高橋康雄『メディアの曙ー明治開国期の新聞・出版物語』(1994年 日本経済新聞社)
 ヘボン博士の代わりに夫人が英語塾を引き受けるくだりで「『せめて英学の初歩をわたしが教えましょうか』秋の訪れとともに、夫人は英語塾を開くことを決意した。
『それは助かるね。ミスター佐藤から子息の教育を頼まれたところです』佐藤の息子というのは佐倉の元典医佐藤泰然の子で、後に大阪医学長をつとめる泰然の娘婿の林洞海の養子に入った薫三郎(のちの薫)である。  時に十四歳。泰然は佐倉で順天堂塾を開き、西の緒方洪庵の適塾と並び称せられる隆盛を誇ったが、文久2年(1862)年、佐倉の病院と塾を長男の尚中にまかせ、横浜で外国方の通弁官をしている山内六三郎(堤雲)邸に同居することになった。
 医のほうは隠居仕事につづけていたが、なかなか繁盛した。この泰然は昔、高野長英をかくまったこともある開明派の反骨の人物で、医師としての頂点をきわめながらもヘボンのところで治療を見聞するなど、なかなか研究熱心であった。」(32頁)以下略。
(2007年3月6日 掲載)

  【と】

 童門冬二『新撰組』(成美文庫)
 鳥羽・伏見の戦いに敗れた近藤勇、土方歳三は江戸にもどりますが、江戸城で鳥羽・伏見の戦いを聞いた幕人があったと童門氏は描きます。この幕人が、佐倉藩士依田学海ことです。 (2003年11月19日 掲載)

 童門冬二『幕末異聞「西郷さんの首」他』(2002年12月 中央公論新社)
「西郷さんの首」他』には、「会津落城と二人の師範」があり、この中に「だから後日、土方歳三が、江戸城内で佐倉藩士依田学海に会った際、しみじみと、『もう槍や剣では戦争になりません』と述懐したというのも、おそらくは心底からの実感であったと思う」(39頁)とあります。 (2006年6月22日 掲載)

 徳富健次郎・蘆花『みみずのたはこと(上)』(1996年11月 岩波書店)
「父は津田仙さんの農業三事や農業雑誌の読者で、出京の節は学農社からユーカリ、アカシヤ、カタルバ、神樹などの苗を仕入れて帰り、其他種々の水瓜、甘蔗など標本的に試作した。」(29頁)
 「爺さん姓は関名は寛、天保元年上総国に生れた。貧苦の中から志を立て、佐倉佐藤泰然の門に入って医学を修め、最初銚子に開業し、更に長崎に遊学し、後阿波蜂須賀侯に招かれて徳島藩の医となった。」(287頁)
(2006年11月10日 掲載)

 徳永真一郎『幕末閣僚伝』(PHP文庫、1989年11月PHP研究所刊)
 幕末に活躍した堀田正睦ほか七名の幕府重臣の活躍を描いた歴史小説です。従来の薩長閥に都合のよい史観に基いたものではなく、幕府側からの好意的な視点で描かれています。堀田正睦には57ページ(p55〜112)が割かれているほか、阿部正弘(p31,45,46,47,49)、川路聖護(p149,165,167,169,170.171)、安藤信睦(p272,225)の項にも堀田正睦、堀田備中守、堀田、正睦などとして名前が挙がっています。 (2006年10月15日 掲載)

 戸辺秀著『仰ぎ見る大樹』(健友館)
 杉亨二を主人公とした伝記です。 手塚律蔵を訪ねたところに門人の西村平太郎を紹介される場面が出てきました。また杉亨二が江戸城開城間近に勝海舟邸を尋ねたら、先客に松本良順が居たという場面もありました。 多分『杉亨二自叙伝』を種本とした伝記だと思われますので、『杉亨二自叙伝』が出典になる話でしょうか。 (2007年5月19日 掲載)

 土門周平『陸軍大将 今村均』(平成15年8月 2,100円 PHP研究所)
 昭和7年、今村均大佐は、佐倉町に駐屯していた歩兵第57連隊の連隊長となった。そのころの話があります。 (2003年10月18日 掲載)

【な】

 中津文彦『塙保己一推理帖』(2002年8月 光文社)
 「奴の郷里は下総の佐倉だそうで」とありました。 (2004年2月10日 掲載)

 中村彰彦著『落花は枝に還らずともー会津藩士・秋月悌次郎』(2004年12月 中央公論新社)
 幕末、会津藩の文官だった秋月悌次郎の話です。慶応4年の会津・鶴ヶ城開城後、同年12月29日に会津藩士11人の大名家へ永預けが、刑法官から告げられます。
「悌次郎は(他4人と共に)熊本藩邸に、ほかの六人は佐倉藩邸と古河藩邸に預けられることになった」(下巻、287頁)とありました。佐倉藩邸に預けられたのは、はっきりと名前が書かれていないのですが11人の中に「佐川官兵衛」が出てくること。
(2005年7月16日 掲載)

 中野重治『梨の花・ある楽しさ』 (昭和55年8月発行 平成5年5月2刷 新潮現代文学3)
 「サクラ・ソウゴロウというのは良平は知っていた」 (2004年6月5日 掲載)

 永岡慶之助「「会津落城と二人の師範」(童門冬二『幕末異聞「西郷さんの首」他』に所収のエッセイ 2002年12月 中央公論新社)
「名うての新選組もまた、会津藩の別選組同様、胸の痛いほど無力感を味わされたのであった。だから後日、土方歳三が、江戸城内で佐倉藩士依田学海に会った際、しみじみと、『もう槍や剣では戦争になりません』と述懐したというのも、おそらくは心底からの実感であったと思う」とあります。 (2006年4月21日 掲載)

中島親孝『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』(1988年 光人社)
「八日未明、コタバル上陸開始の報につづいて「淡路山丸」大火災。「綾戸山丸」「佐倉丸」も被弾と悲報が相ついだ。」(31頁)
「問題のコタバル上陸は第一回、第二回の上陸部隊は予定通りに着岸、第三回目の舟艇も半数くらいは上陸できたらしい。「綾戸山丸」「佐倉丸」はいったん避退、翌九日の未明、揚陸点にもどり、天明後に上陸を再開したが、このときはすでに飛行場の占領を終わっていた。」真珠湾攻撃の日、著者は第二艦隊参謀としてマレー沖海戦に従軍とのこと。「佐倉丸」の名の由来は、ネットで見ると「地名」とあるので、おそらくご当地のことでしょうか。
(2006年12月14日 掲載)

【に】

 二村高史・宮田幸治『全国フシギ乗り物ツアー』(2005年10月 1400円 山海堂)
 「ニュータウンに作られたミニ新交通」という項目で、ユーカリが丘線を走る新交通システム「こあら1号」が紹介されています。(227頁) (2006年2月21日 掲載)

【の】

 野田宇太郎『詩歌風土記上』(中央公論社1973年)
 印旛沼の吉植庄亮、橋田東聲の歌が紹介されていましたが、 「印旛沼」というズバリその題の野田宇太郎氏自身の詩が出ていました。 (2004年5月31日 掲載)

 野田宇太郎さんの印旛沼の詩は次のとおりです。
 印旛沼
         野田宇太郎

 たそがれの電車の窓から
 印旛沼は年古りた銀
 のように
 雨の中に鈍くながくひかつてゐた

 村びとのため死に就いた義民宗吾の
 伝説のような道を
 夜の落葉をふみしめながら
 村に宿屋を捜した

 真夜中に雨はひとしきりはげしくなり
 宿屋の軒を叩きつけ
 その雨は
 印旛沼にも降りつづけてゐた
 わたくしはいつしか夢の中で
 一枚の銀の落葉を踏みつづけてゐた
(2004年6月3日 掲載)

 典厩五郎の『張り子の虎』(1996年 新人物往来社)
 1編に「慶応四年の南蛮☆☆(はこべ)」があり、松本良順 が出てきます。(P241〜 ☆印はワープロにない文字)幕末の話から、近藤勇が京都から江戸に帰ってくる話。さらに 近藤勇が甲陽鎮撫隊として甲府に向かう話まで。 (2004年2月16日 掲載)

【は】

 長谷川慶太郎『2005年 長谷川慶太郎の大局を読む』 (2004年11月 ビジネス社)
 「竹中経済財政・金融担当相に、長嶋茂雄氏ばりに告げた と伝えられるが」とありました。 (2004年11月22日 掲載)

 長谷川伸著「相楽総三とその同志」(上・下)
 小説というより実録と言ったほうが正しいかも知れませんが、著者が「筆の香華」と名づけ 特別の思い入れで書き下ろしたものです。
この中の「譚海にある・・・著者依田学海が下総佐倉藩の旧藩士だけに匪賊として扱っている」 (99頁)という記述があります。
「堀田相模守正倫十一万石・下総佐倉」(189頁)の記述が見えます。
(2005年5月8日 掲載)

 原田康子『風の砦』上巻(昭和58年 新潮社)
 「『かれこれ着く時分だ。堀田備中守の家中だ。大筒方も一人来る』『備中の 守なら外国掛りだな』
下総佐倉藩主・堀田備中守は、外国掛りの老中である。その藩士三名が、 蝦夷地を見てまわっていることは、先触れがあってわかっていた。藩主が外国掛 りなので、幕府の直轄となった蝦夷地の視察に、藩士を出したのかもしれない」
とありました。
(2004年9月21日 掲載)

 磐紀一郎『陰陽の城 吉宗影御用』(2006年12月 ベスト時代文庫 KKベストセラーズ)
 小説の筋は、幕府転覆を企む陰陽師等を、田沼意次に仕える隠密が最後に江戸城 大奥の中でそれを阻むというフィクションですが楽しく読めました。
「堀田正亮が、我慢ならぬといった調子でわめき立てた。『堀田どの。場所がらをわきまえられよ。殿中ですぞ。』酒井忠寄の嗜めに、 さすがの堀田正亮も苦笑いの態である。」(P114)
 末尾に、本作は1995年に徳間書店より刊行された『江戸城大変』を改題し大幅に加筆修正したものですとありました。(2007年12月5日 掲載)


【ひ】

 ビートたけし『菊次郎とさき』(1999年12月 新潮社)
 「幕末の頃、オフクロのおじいちゃんというのが佐倉の庄屋の 前にきれいな着物を着て捨てられていた。そばに小判と日本刀 が置いてあったらしい。そこで、刀が国宝級なら、じいさんは官軍 から逃げた幕臣の血筋だろうということになった。どこまで信用でき るかわからない話は他にもいっぱいあって、」(26頁) (2004年7月7日 掲載)

 樋口一葉「われから」『樋口一葉』所収(1992年 筑摩書房)
 「奥方は火鉢を引寄せて、火の気のありやと試みるに、宵に小間使いが 埋け参らせたる、桜炭の半ば灰になりて、よくも起さで埋けつるは黒きま まにて冷えしもあり」とありました。
注には、桜炭を「千葉県佐倉地方に産する上質の炭」とあります。
(2004年9月21日 掲載)

 檜山良昭『幕末の官僚』(1998年 光文社)
 堀田正睦が出てきます。
「この本は阿部正弘と堀田正睦の許で巧みに日本を開国に導いていった 革新官僚達の危機管理の物語である」とありました。
(2004年3月17日 掲載)

 比留間典子「あこがれ・たそがれ郵便車」『第2回Woman’s Beat大賞受賞作品集 彩・生』(2004年2月 1,800円 中央公論社)所収
 印旛沼という文字が出てきます。  (2004年3月2日 掲載)

【ふ】

 深澤弘『長嶋イズム』(2004年8月 マガジンハウス)
 長嶋さんが最初に残した言葉は佐倉中学のときだそうで、 「桜花らんまんなる4月」から始まり、「また会う日まで、では、さようなら」 で終わるそうです。丸ごと長嶋さんです。 (2004年9月2日 掲載)

 藤沢周平『白き瓶』文春文庫
 香取秀真が出ていました。 (2004年6月16日 掲載)

 古川薫『不逞の魂』(1989年8月 新潮文庫)
「大築尚志は、旧佐倉藩主堀田家の家臣で、元沼津兵学校の学頭だった」(101頁)
 「日本公使館は、騎兵隊大通りにある。ロシア駐在特命全権公使・林董をはじめ公使館付陸軍武官・伊東主一少佐」(136頁)
 「武官を除いた公使館の顔ぶれは次のようであった。公使 林董」(154頁)
(2006年9月1日 掲載)

【ほ】

 幌村海行『ずっと ひとりだった』(2004年5月 文芸社)
 「僕は国道296号線を佐倉方面へ走っていた。市内には三つの工業団地が 点在するが、僕が向かっているのは、東関道に近い第二工業団地である」 (59頁)とありました。 (2004年5月25日 掲載)

【ま】

 牧秀彦『剣豪 その流派と名刀』(2003年9月 光文社)
 「この立身流で有名なのは逸見宗助だろう。立身流師範で17代宗家 の逸見忠蔵信敬の長男として、天保14年(1843)に生まれた宗助は、 鏡新明智流の猛者として名高い人物である。18代宗家こそ継承できな かったものの、父から立身流の目録を伝授されるだけの技量を有していた」 (156頁)とあります。 (2004年9月25日 掲載)

 松岡圭祐『千里眼のマジシャン』(2003年3月 小学館)
 「東関東自動車道を千葉北インターで降りたころには雲の切れ間 から青空も覗いていたが、ユーカリが丘に向かう国道を走行中に しだいに霧が濃くなり、佐倉市の住宅地から外れた緑豊かな平地 に行きついたころには、辺り一面真っ白になっていた。この”佐倉ふ るさと広場”と名づけられた一帯には、四月から五月にかけてチュー リップで埋め尽くされる広大な畑があるときくが、いまは霧に覆われた 視界からわずかにのぞく黒々とした大地が、ただひたすらつづくのみ だった。
(略)前方にうっすらと、巨大な物体の影が現れた。オランダ風車だった。 十字の羽根がきしみながらゆっくりと回転をつづけている」(90頁)
(2004年7月15日 掲載)

 松岡圭祐『蒼い瞳とニュアージュ』(2004年5月 小学館)
「風車」「佐倉ふるさと広場」(115頁) (2006年6月22日 掲載)

 松浦沢治著『かわず町泰平記』(青磁社・1987年刊)
 この中に「葉隠医官 相良知安抄」が収録されています。「下総佐倉の順天堂へ入学した弘庵は、岩佐純、長谷川泰、佐々木東洋、司馬凌海といった、 いずれも後に名を成す英才たちと競いながら、蘭学、蘭方の研鑽を積んだ。」 (2007年3月5日 掲載)

 松坂實『ナマズ博士放浪記』(1994年 小学館)
「現在、千葉県佐倉市の印旛沼のほとりにナマズたち専用のビニールハウス温室があり、毎日いっしょに暮らす生活である」(204頁) (2007年3月9日 掲載)

 丸谷才一『挨拶はむづかしい』(1985年9月 860円 朝日新聞社)
「新婦は、県立佐倉第一高等学校を経て、中央大学文学部、同大学院修士課程、博士課程を終えました。」(33頁) (2006年11月11日 掲載)

【み】

 宮部みゆき『震える岩』(1997年9月 講談社文庫)
 「お初と仲良しの女中はお紺と言って、年は十五。奥向きの雑用を一手に引き受けている。佐倉のほうから一人で奉公に来ているしっかりした娘だ」(90頁) (2006年3月9日 掲載)

 宮部みゆき氏『蒲生邸事件』(1996年・毎日新聞社)
「蒲生大将は、明治九年千葉県佐倉市の農家の次男として生まれました。」(9頁) (2006年12月14日 掲載)

【む】

 村上元三著「河童将軍」『ポピュラー時代小説5〜村上元三集』所収(  )
 臼井城の原氏に仕えていた侍が、印旛沼の河童族の頭となって、利根川から侵略してきた水虎族と戦う話です。ストーリが印旛沼に住む河童の話ですから、どこをとっても印旛沼の話です。あえて引用するならば、
 「河女の物語るところに依ると、いま印旛沼の水中に棲む河童は、元は利根川の上流、榛名山の麓を流れる烏川の淵に、年を経て安住していたのだが、人間のために逐われて利根川に逃げこみ、またそこでも利根川の水虎の迫害をうけ、やむなく長門川を経てこの沼に移ったものであるという」(167頁)があります。印旛沼には、たとえ小説であろうと河童の話はないと思っていただけに新鮮です。
(2006年2月10日、17日 掲載)

【も】

 森銑三・柴田宵曲『書物』(1997 岩波文庫)
 乙篇(柴田宵曲)の中に、「蔵書家」という項目があり 「千万の書は空しく虫ばみて先生のあとを継ぐ人もなし」という香取 秀真氏の歌のような例が多いのである、(259頁)とありました。 (2005年1月11日 掲載)

 もりたなるを著『鎮魂「二・二六」』(1994年2月 株式会社講談社発行)
 「(進藤義彦少尉は)出頭目的を知らされないままに到着し、そこで千葉県佐倉の歩兵 第五十七連隊から派遣された某大尉が指揮する処刑射手団に編入されることがわかった。
二・二六事件で、特設軍法会議の裁判に付された青年将校の処刑射手だという。」(221頁)
「進藤少尉は意を決して指揮官に単独会見を申し込んだ。佐倉第五十七連隊の大尉は
怪訝な顔をした。進藤少尉が処刑射手の任務に逡巡をきたしたと感じたらしかった。」(222頁)
の2ヶ所に出ていました。
(2005年5月27日 掲載)

 森村誠一『新選組』上、下(祥伝社文庫)
 「松平容保が新選組のスポンサーであれば、良順は後援会長のような存在である」 だそうです。 (2003年11月20日 掲載)

 森村誠一著『非道人別帳3、邪恋寺』(1995年 文芸春秋)
 「…駒形の渡しで事件が発生した。この渡しは水戸、 佐倉への往来の渡船で、浅草材木町と中ノ郷竹町の間 を結んでいる。別名花形の渡し、業平の渡しとも呼ばれる。
安永三年に架けられた吾妻橋の少し下流にあつた渡船 で、江戸と水戸、佐倉の往来の動脈に当たっていて、利 用者が多い。…」(62頁)
(2004年10月29日 掲載)

【や】

 安岡章太郎『利根川』(朝日新聞社、昭和41年4月初版)
 これは「週刊朝日」昭和40年8月から翌年1月にわたり、「週刊風土記・利根川」として連載されたものをまとめた本です。 その20章目に「印旛沼」が紹介されています。この章では「掘削中の印旛流水路、大和田附近」と題されています。 (2007年3月13日 掲載)

 山ア光夫『風雲の人 小説大隈重信青春譜』(2007年5月 1700円 東洋経済新報社)
日本の政党内閣を組織し、早稲田大学を創設した大隈重信は爆弾テロにより、重傷を負う。大隈の足の切断手術をした人が順天堂の佐藤進であった。
「池田は佐藤進医師に執刀役を命じた。佐藤進はまる6年間の長期ドイツ留学を果たしたエリートで、陸軍病院や東大医学部第一医院長などに出仕し、順天堂医院の経営に当たっていた。44歳の働き盛りで、外科医学界の第一人者だった。
この日、大日本医学会創設のため相談会を医学者たちと開いていた会食中だった。その席から人力車で外務省に駆けつけていた。高木、橋本、池田の三人が手術の助手を務める豪華布陣となった。」(28頁)
 池田とは池田謙斎で宮内省一等侍医、高木とは高木兼寛で海軍軍医総監(妻は佐倉藩に仕官した手塚律蔵の娘)、橋本とは橋本綱常で陸軍軍医総監(順天堂門人)です。
(2007年5月15日 掲載)

 山崎ゆき『あこがれのマイホーム日記』(2001年10月 創英社)
 文中「次の仕事場は佐倉市だと、頭は言っていた」と、一文字佐倉が出てきます。 (2003年9月13日 掲載)

 山口昌男『経営者の精神史』(2004年3月 ダイヤモンド社)
 明治・大正期のユニークな経営者を取り上げた本ですが、佐倉にゆかりの ある人として製靴業をおこなった西村勝三が取り上げられていました。 (2004年3月18日 掲載)

 山本一力氏の著書『草笛の音次郎』
 臼井・佐倉が出ていました。 (2003年11月26日 掲載)

【よ】

 養老孟司『運のつき』(2004年5月 マガジンハウス)
 「高橋尚子選手の真似を しろといっても」(41頁)と、高橋選手を引き合いに出した文字がありました。 (2004年8月30日 掲載)

 養老孟司『まともな人』(平成15年10月 中公文庫)
 「それなら、長嶋監督だって貴乃花だって、オリジナリティーを主張する権利がある」と、ありました。 (2003年11月6日 掲載)

 吉川英治 著「忘れ残りの記」
 「春の豆汽車」の項に「ぼくは幼少期にその頃の東京を二度見、その頃の汽車に二度乗った。いちどはまだ小学以前か一年生の頃であった。母に連れられて母の郷里の佐倉へ行ったのである.おそらく母にとってもそれは結婚後ただ一度か、二度の 愉しい帰郷であったと思われる。今では日帰り距離に過ぎないが、当時は横浜から千葉県佐倉への旅行というと、ひどく億劫がっていたらしい。(中略)とにかく東京という大都会にちょつとだけでも触れたのは母といっしょに佐倉へ行った途中の青山一泊がぼくには最初のものだった。(中略)佐倉のおじいさんは」このあとに「印旛沼」がニカ所出ています。「吉川英治歴史時代文庫77}(講談社1998年11刷)P78,84
p83にも「佐倉の人」「佐倉藩」とありました。
(2005年7月20日 掲載)

 吉村昭『関東大震災』(2004年8月 文藝春秋)
 「その後、山岡氏は鐘淵紡績で治療を受け、一週間後に千葉県の佐倉の 連隊が治療所を設けていた隅田小学校に移された」(100頁)
とあります。佐倉に駐屯していた歩兵第57連隊が関東大震災のときに救援に いったことは知っていましたが、その活動が具体的に記された資料です。
(2005年5月14日 掲載)

 吉村昭『死顔』(2006年11月 1300円 新潮社)
 「嫂が病院側の申出を辞退したのは、私の考えと一致し、それは遺言にも記してある。幕末の蘭方医佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようと配慮したのだ。その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である。泰然の死は、、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることには変わりない。」(135頁) (2006年12月26日 書き込み)

【わ】

 渡辺誠『日本史・剣豪こぼれ話』
 「一ツ胴を立てつづけに斬り落とす立身流居合の威力」という項があり、立身流第19代宗家加藤久の話が掲載されている。 (2003年8月2日 掲載)



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