佐倉の坂道 佐倉の坂道に関した話を掲載しています。 〔2005年〕 4月30日 七つの子さんからメールあり。 久しぶりに歴博へ行って来ました。 売店で館主さんご紹介の「佐倉の軍隊」を購入し、他に何かないか…と物色していましたら、 旅行読売mook「全国坂のある町を歩く」(1998年 旅行読売出版)という雑誌が数冊置いてありました。 ご存知かと思いますが、この雑誌の佐倉の紹介のページに玉家の脇の坂についての記述がありました。 新町の人々の間では、「通称、玉家の坂」なのだそうです。 <返信> そうですか、「通称 玉家の坂」ですか。 坂には正式な名称がなかったのですから通称なんですね。でも、呼びやすければ、また地域の人に受け入れられれば、その名前が残っていくのでしょうね。 後には、出典『旅行読売』なんてなるのかも知れませんよ。 4月25日 飛鳥さんからメールあり。 「玉屋」の坂の件、知っていそうな人に聞いてみたのですが未だに、返事がありません。 また、別な人にアタックしてみます・・・ 佐倉での「さが」は、独特ですよね。「が」を強く発音しませんか? それから、誰かとばったり出会うことを「行き会った」といいませんか? これも、佐倉に来て、初めて知った言い方でした。 <返信> こんばんは。坂の件、お手数かけます。 確かに私は「さが」の「が」を強く言いますね。言われるまであまり気にしていませんでした。 佐倉では、どうも言葉がにごるようですね。私は鏑木を「かぶらぎ」といっています(私だけか)。 また、「行き会った」といいます。あれ?これも方言かな?私は全然抵抗がなく使っていました。 佐倉言葉のサンプル調査に私を使ってください。 4月2日 七つの子さんからメールあり。 こんばんは。 小学生のころ、学校(佐倉第一小学校)からの帰りに、 肴町の角から袋町へ降りて行き、何となく趣きのある路地風の 袋町界隈をうろうろしながら、玉家の坂を上がってくる道が 私の好きな寄り道コースでした。 土曜日などは、玉家の坂を上がらずに、鏑木方面へ降りて いったりもしました。 私たちは「玉家の坂」と呼んでいましたけれど、 本当はなんというのでしょうか? 佐倉には正式名称?のない坂道がたくさんあるようですね。 余談ですが、以前、佐倉では「坂」を「さか」ではなく、「さが」と 濁って発音する人が多かったように思いますが、如何でしょうか。 <返信> 情報ありがとうございます。 改めて名前を聞かれると、よくわからないものですね。 確かに、私も「さが」といっているようです。 自分では、あまり気にしていませんでした。 みなさまからの情報をお待ちしています。 3月31日 飛鳥さんへ。 玉屋さん脇の坂の名前を知っていますか? 知っていましたら教えてください。 3月30日 Kさんからメールあり。 料亭玉家の脇の下っていく坂には、名前があるのかということですが ご存知ですか。 また、玉屋さんの下の坂は車が降りられない構造になっているというのも興味があります。 実はそこを歩いたこともないのですが、考えてみると不思議です。 このあたりの風景を文章化しようとする時、どうしてもこのことが気になってしまい、うまくいきません。 知っていたら教えてください。 <返信> 玉家さん脇の坂の名前はわかりません。 車が降りられない構造というより、昔、佐倉の道は、このような幅でなかったかと思います。 戦後、失業者の対策として坂の幅を広げる土木工事が行われ、薬師坂や姥が池におりる坂を広げています。 私が考えるに、玉家さんの脇を通って、鏑木に降りる坂は、たまたま道を広げることを必要としない道であったために、 そのまま残ってしまったのではないでしょうか。 他に、ひよどり坂、やかん坂などが、その部類と考えます。 どなたか情報がありましたら、教えてください。 3月8日 天候の回復とともに、風邪もよくなってきました。 ホームタウン佐倉さんからメールあり。 オフ会のご連絡を拝見。「うるし坂」も話題にしていただけるようなので、 当日を楽しみにしています。 先日『房総及房総人』という月刊雑誌の戦前のバックナンバーをみて いたら「佐倉県道改修。佐倉町横町十字路から鏑木、岩淵薬品前 通り県道改修工事は九月着工、移転家屋四十戸、工費十万円、 勾配廿分ノ一、新旧道ガードを設置し明年度には舗装の予定」なる 記事を発見しました。 昭和16年7月号ですから、その前月くらいのことでしょう。果たして 40戸の移転を必要としたか。また9月に実際に着工したのか疑問です が、これで計画時期は、太平洋戦争直前とほぼ明らかになりました。 <返信> このような史料を知りませんでした。オフ会当日にも、「うるし坂」について 意見をいただいた人たちと話をしたいと思います。 また、ティさんもこられるので、映画「点と線」で、佐倉駅の決め手となった話も お願いします。 なお、ホームタウン佐倉さんの「うるし坂」情報は、下段を省略しています。 下段には驚く内容が掲載されていますが、それはオフ会当日、ホームタウン 佐倉さんから発表してもらいましょう。 司書のみなさん楽しみにしていてください。とにかく「あっ」と驚きます。 2月22日 七つの子さんから「うるし坂」についてのメールをいただきました。 うるし坂の上を交差する新道は、戦時中には開通していなかった とのことです。 開通は、昭和22年以降とのこと。 みなさまの情報をお待ちしています。 2月21日 今日も、うるし坂情報をいただきました。 うるし坂の上を交差する道路の建設は、昭和19年に始まり、 いったん中止され、戦後の昭和23年に開通したそうです。 たぶん、これが確かなところかも知れません。 みなさんのご意見をお待ちしています。 2月20日 うるし坂の続きです。 うるし坂の上を交差する新道づくりは、戦時中、いったん中止となり、戦後になって、再び工事を再開して完成したそうです。 2月18日 ホームタウン佐倉さんからメールあり。 「うるし坂」に関して、お知らせ有難うございました。いろいろな ご意見が寄せられるのは、前回にも申し上げましたが、満開 佐倉文庫を多くの皆様ご覧になっている証しでしょう。 道路に限らず、佐倉のいろいろな事柄が、文庫を通じて明らか になればと考えています。 鉄道開通の際に佐倉駅の位置が地元の反対によって、現位置 にきまったという説は、真実なのか。 京成開業時に大佐倉駅設置運動があったらしいが、具体的には どのような動きがあったのか。 戦後の昭和30年代の新町通りの写真は未舗装ですが、メイン ストリートが舗装されたのは何年ごろか。 戦前戦後のバスは、京成駅ー国鉄駅を海隣寺坂経由で結び、 現ルートを通過していなかったらしいが、事実とすれば現ルートを 通過するようになったのは、いつごろなのか。 交通関係のことだけでも、わからないことだらけです。地元で実際に 見聞された皆様のご発表で、佐倉の歴史が解明されればと思います。 半世紀前のことを振り返るとわからないことばかりで、驚いています。 館主様の仲介の労も大変であると存じますが、文庫読者の興味深い 話題をこれからもご提供下さるように、よろしくお願い申し上げます。 <返信> 古い歴史より、身近な歴史がわからなくなってきていますね。 文庫を通じて、確認できるところは確認していきたいと思います。 これからも、よろしくお願いします。 2月17日 以前、当ホームページ上で議論のあった、うるし坂の件で情報あり。 以前の話では、『お茶の間風土記』によれば、うるし坂に交差する 新道が開通したのは昭和18年であったことになったのですが、この 本の記述が違っているのではないかとの指摘です。昭和19年には、 工事用のトロッコがあったというのです。つまり、まだ新道は完成して いなかったというのです。 この1年が微妙なんですね。新道が開通したのは戦中か戦後かという 話になっていくのです。 みなさんの情報をお待ちしています。 2月12日 七つの子さんからメールあり。 こんばんは。「うるし坂」で思い出したことがあります。 麻賀多神社の祭礼初日、お神輿の巡行のコースです。 昭和30年代までは、お神輿は岩淵薬局前から旧道に入り、 「うるし坂」を通って新道のガードをくぐり、そのまま神社前まで 一気に戻りました。 現在は、ガードの手前まで行きますが、そこからわざわざ来た道を 引き返して新道を登り直して行きますね。 館主さんは覚えておいでだろうと思いますが、このようにコースが 変わったのは昭和43年のことだと記憶しています。 この年は明治百年記念ということで、中断していた祭礼が7年ぶりに 復活したのです。 ところが、7年の間に旧道が舗装され、その分路面が高くなってしまった ようです。どうしてもガードをくぐることが出来ず、やむなく引き返して 新道を上がっていきました。 この時、私はお神輿について回っておりました。(高校1年だったはず ですが、たぶん学校をサボったのでしょうね) 40年近く前のことですので、もし記憶違いがありましたら、ご指摘 ください。 <返信> こんばんは。 私は、昭和43年の記憶がありません。私が御神輿を担いだのは、 若潮国体のときからですから、昭和48年のことでした。 私も、ガードをくぐった記憶がありません。 御神輿を低く持てばガードに入れるのですが、登り坂に突っか かってしまうので、通れなかったと思います。 2月11日 ホームタウン佐倉さんからメールあり。 「うるし坂」について、多数の皆様から情報をお寄せ頂き有難う ございます。「満開佐倉文庫」の偉力を感じます。 館主様もおっしゃるとおり、「うるし坂」か「漆坂」のどちらかが正し いのか、よくわかりませんが、『古今佐倉真砂子』付図に佐倉城と 城下町を描いた「総州佐倉御城府内之図」があります。 その絵図には「ウルシ坂」と記載されています。以降の地図には 「うるし坂」と記載のものが多く、「漆坂」と書いたものは例えば「ガイ ドブック佐倉」(平成5年)など近年刊行のものばかりです。したがって、 あくまでも推定ですが、本来は「うるし坂」であり、「漆坂」は当て字で はないでしょうか。 「新道」は『佐倉お茶の間風土記』43ページに「鏑木の新道」と記載 してあつたのを、私が勝手に「鏑木新道」と解釈してしまいました。 「新道」が正しいと考えます。お陰さまで「新道」と「うるし坂」の関係を 認識できました。 戦車の通過は確かに歩兵連隊に配置はない筈ですし、既に戦力不足 の時代では、やや疑問に思いますが、もし事実とすればどこの所属で しょうか。皆様の実見報告が待たれます。 <返信> こんばんは。 うるし坂の件、おもしろくなっていきそうですね。 また何かありましたら、話題を提供してください。 いろいろな反響があると思います。 2月10日 七つの子さんからメールあり。 こんばんは。 ・うるし坂の件 子どもの頃から「うるしざか」と呼んではいましたが、どのような 字をあてるのかは、気にしたこともありませんでした。 「古今佐倉真佐子」では確かに「うるし坂」で、けっこう頻繁に 登場していますね。やはり、かな書きが正解でしょうか・・・? ・佐倉連隊と戦車の件 戦車の話は、両親や叔父などからもあまり聞いた記憶がありませんが、 写真集「佐倉・四街道の昭和史」 (1996年発行 千秋社) の83ページに、「佐倉の町中を行く戦車(昭和10年頃)」という 説明のついた写真が掲載されています。土蔵造りの家と、戦車、 兵士が写っていますが・・・ <返信> こんばんは。情報ありがとうございます。 戦車の写真は、麻賀多神社方面から新町に出るところです。 今も、交差点の脇にこの倉が残っています。 やはり戦車は通っていたんですね。 どなたか戦車の思い出のある方は連絡ください。 それから、戦車の型がわかる人は、写真を見て教えてください。 そうすれば、時代がわかるかも知れません。 写真集は、市内の図書館にあります。 うるし坂の結論につきましては、もうしばらく時間をかけたいと思います。 2月9日 七つの子さんからメールあり。 ご無沙汰しています。七つの子です。 ホームタウン佐倉さんの「うるし坂」の件について うるし坂が鏑木新道と呼ばれていた、というのは、なにか勘違いされて いるのではないかと思います。 うるし坂は旧道のKさんの屋敷前あたりから、旧保健所付近までですね。 その上を交差するように新道が開通したのが、昭和18年だったそうです。 手許の「お茶の間風土記」を繰ってみますと、鏑木町の項に、新道と うるし坂について記されていますが、確かにちょっと解りにくい記述ですね。 <返信> こんばんは。 情報、ありがとうございます。確かに、私も「うるし坂」の上を交差する新道は 鏑木新道とは呼ばずに、単に「新道」と呼んでいました。 ところで、坂は「漆坂」と書きますか、「うるし坂」と書きますか? 『古今佐倉真砂子』(佐倉市史編さん委員会 昭和58年) によりますと「鏑木うるし坂の上を御通」(29頁)とありますが。 飛鳥さんからメールあり。 こんばんは。 「うるし坂の件」です。太平洋戦争中に連隊から佐倉駅まで通じる 道路=軍用道路として造ったことは間違いないようです。 近所の方に聞き取り調査をしたところ、「出征する兵士の人たちは 旧道を通った」「戦車も旧道を通って駅の方へ行った」そうです。 <返信> こんばんは。 情報ありがとうございます。ところで、佐倉連隊に戦車はあったのでしょうか? 57連隊関係者に話を聞いたことがありますが、戦車の話は出てきませんで した。それに連隊には戦車を格納する場所もなかったのではないでしょうか。 それにしても、興味のある話です。 佐倉で戦車を見たことがある方は連絡ください。 2月8日 ホームタウン佐倉さんからメールあり。 こんばんは。先日は「うるし坂」の質問、突然の照会に対し ご教示を賜り誠にありがとうございました。 ご教導くださったことを手掛かりに、その後「お茶の間風土 記」を閲覧して、判明した部分がありますので、ご報告申し 上げます。 うるし坂は、昭和18年完成(土地移動の登記による)で「鏑 木新道」と呼ばれていたと「お茶の間風土記」に記述がありました。 <返信> こんばんは。資料が見つかってよかったですね。また、新しい 資料がわかりましたらお知らせします。 2月7日 Kさんからメールあり。 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』、読了しました。 第4巻に佐倉連隊の名がまず見えます。 ところで、佐倉は、東京鎮台歩兵第二連隊という名称であったのでしょうか? また、歩兵第一連隊は佐倉ではなかったのでしょうか?また、児玉源太郎氏の 佐倉での住所は? <返信> こんばんは。 佐倉は東京鎮台に属し営所が置かれ、歩兵第2連隊が駐屯していました。 明治7年、第2連隊のうち、第1大隊は佐倉、第2大隊は宇都宮におかれ ていました。明治17年、第2大隊が佐倉に合流します。 歩兵第1連隊は当初、東京ですが、後に第3連隊になっています。 時代によって、編成替えがあったようですが、こちらの変遷はわかりません。 児玉源太郎の佐倉での住所は、よくわかっていません。でも、たぶん将校が 住んでいたといわれる宮小路であったと思います。 1月15日 Sさんからメールあり。 こんにちわ。佐倉の「うるし坂」のことでご教示いただきたく 存じます。 従来の県道は、岩淵薬品前から道路下をくぐり、現在の 道路に沿って登り、もう一度道路下を通って麻賀多神社 前に達するコースと思いますが、いかがでしょうか。 手元にある明治40年測図と昭和31年測図地形図から判断 した結果ですが、2枚の測量年が60年も開いているので、 並行する現在の新道路が開通したのは、いつ頃かおわかりで しょうか。 <返信> 従来の道は、おっしゃるとおりのコースです。 そして、以前の保健所があったガード下の坂を「うるし坂」といい ます。実際には、もう少し手前から「だらだら勾配」になっています ので、「その辺」から「うるし坂」といったのでしょう。 新道は連隊関連で作られたと聞いていますので(軍用道路か?)、 戦中のことでしょう。 佐倉市で発行した「お茶の間風土記」に出ていたかと思いますの で、図書館でご覧ください。 トップページ |