佐倉連隊情報 佐倉連隊に関した情報を掲載します。 【2006年11月26日 新設】 2011年5月3日 知人に拙著を差し上げたら、後日、資料とご教示をいただきました。 資料は、千葉県中部朝日会が発行、録音は朝日ソノラマで「朝日”音”のアルバム 千葉ダイヤル」(1978年11月)というソノラマシートです。 千葉県の民話が収められており、印旛沼の民話として、「龍の話」(これは3つに裂かれた龍の話)が取り上げられていました。 ご教示いただいたことは、拙著にある「佐倉連隊の問い合わせ」(140ページ)についてです。私は、佐倉57連隊に入隊する人は千葉県の人と 決められていたが、戦況が厳しくなると千葉県以外から入隊する人がいたとしました。 ところが、知人の父は東京に生まれましたが本籍が群馬なので高崎の連隊に入営したしたとありました。 これからすると、召集される人がどこに住んでいようが、本籍が千葉であると佐倉連隊に入隊するということになります。勉強になりました。 どなたか、確実な資料をお持ちであれば教えてください。 2007年2月12日 Y3さんから初メールあり はじめまして。貴文庫の「佐倉連隊情報」のコーナーで写真の中の戦車の型式が分からないとのこと。次の情報が参考になるのではと思い、連絡します。 参照:SEIBIDO MOOK 「太平洋戦争 日本帝国陸軍 日本軍隊史上最大の組織」 (成美堂出版 2000年4月15日)P32〜35と見比べると、九五式軽戦車ではないでしょうか。 ・一般知識 九五式とは、皇紀2595年(1935年、昭和10年)の「95」、四式とは、皇紀2604年の「4」を用いた呼称だそうです。 ・九五式軽戦車 昭和8年7月に開発 昭和8年9月に試作を発注 昭和9年6月に試作第1号車が完成 昭和10年5月に「九五式軽戦車」と呼ぶことが正式に決定 昭和10年12月16日に仮制式制定 昭和12年7月 戦地での初陣 昭和11年から昭和18年度まで、2378輌が量産された。 〈返信〉 ありがとうございました。参考になります。 2006年11月16日 佐倉本情報 樋口雄彦「資料紹介 『さくら』『千葉連隊区将校団報』『五七』の総目次」『国立歴史民俗博物館研究報告』第131集 所収(2006年3月 国立歴史民俗博物館) 戦前、佐倉には連隊が駐屯していました。『さくら』は、佐倉連隊区司令部が発行した在郷軍人会向けの雑誌。『千葉連隊区将校団報』は「戦術の研究」を連載し、専門的な内容。『五七』は、歩兵第五十七連隊発行の雑誌。その目次紹介です。 『さくら』の題字は、最初、「佐久良」とあり、後、「佐久羅」とも表記された。佐倉という漢字がどのように記されるのか、ということを調べるのも面白そうだ。 7月7日 特別企画『佐倉連隊にみる戦争の時代』(2006年7月 国立歴史民俗博物館) 明治6年、佐倉城跡に連隊が置かれることにより、翌年から歩兵第2連隊が駐屯しました。以来、終戦まで佐倉は軍隊の町となりました。佐倉に置かれた連隊はどのようなものであったのか、また町と連隊とのかかわりはどのようであったのかということが、写真や資料を使ってわかりやすく記されています。 2月10日 七つの子さんからメールあり。 佐倉連隊と戦車の件 戦車の話は、両親や叔父などからもあまり聞いた記憶がありませんが、写真集「佐倉・四街道の昭和史」 (1996年発行 千秋社)の83ページに、「佐倉の町中を行く戦車(昭和10年頃)」という説明のついた写真が掲載されています。土蔵造りの家と、戦車、兵士が写っていますが・・・ <返信> 戦車の写真は、麻賀多神社方面から新町に出るところです。今も、交差点の脇にこの倉が残っています。やはり戦車は通っていたんですね。どなたか戦車の思い出のある方は連絡ください。それから、戦車の型がわかる人は、写真を見て教えてください。そうすれば、時代がわかるかも知れません。写真集は、市内の図書館にあります。 飛鳥さんからメールあり。 「うるし坂の件」です。太平洋戦争中に連隊から佐倉駅まで通じる道路=軍用道路として造ったことは間違いないようです。近所の方に聞き取り調査をしたところ、「出征する兵士の人たちは旧道を通った」「戦車も旧道を通って駅の方へ行った」そうです。 <返信> 情報ありがとうございます。ところで、佐倉連隊に戦車はあったのでしょうか?57連隊関係者に話を聞いたことがありますが、戦車の話は出てきませんでした。それに連隊には戦車を格納する場所もなかったのではないでしょうか。佐倉で戦車を見たことがある方は連絡ください。 2006年2月7日 Kさんからメールあり。 司馬遼太郎氏『坂の上の雲』、読了しました。第4巻に佐倉連隊の名がまず見えます。ところで、佐倉は、東京鎮台歩兵第二連隊という名称であったのでしょうか?また、歩兵第一連隊は佐倉ではなかったのでしょうか?また、児玉源太郎氏の佐倉での住所は? <返信> 佐倉は東京鎮台に属し営所が置かれ、歩兵第2連隊が駐屯していました。明治7年、第2連隊のうち、第1大隊は佐倉、第2大隊は宇都宮におかれていました。明治17年、第2大隊が佐倉に合流します。 歩兵第1連隊は当初、東京ですが、後に第3連隊になっています。時代によって、編成替えがあったようですが、こちらの変遷はわかりません。 児玉源太郎の佐倉での住所は、よくわかっていません。でも、たぶん将校が住んでいたといわれる宮小路であったと思います。 トップページ |