レファレンス記録
9月18日
レファレンス記録を読み返していて、まだ調べていないことがあることに気づいた。「八千代市にある
新川の由来は?新川というからには、旧川の名前があったのではないか」という質問でした。
面白そうな話ですが、私は八千代市のことはわかりません。いつか調べてみようと思っていましたが、
佐倉市外となると、なかなか腰があがらなかった。
そこで、八千代市の歴史に詳しい駕籠舁さん(満開佐倉文庫司書)にメールを送ったところ、
下記のようなご教示をいただきました。
「新川の件ですが、何時から新川の名前がつけられたか明確な記録はないとのことです。天保七年
の「米本村絵図」に新川とあるのが、今のところ一番古い記録です。
印旛沼の掘割工事は、江戸時代享保・天明・天保の3回行われていますが、3回目の工事は
天保14年ですので、それ以前、天明年間の工事で一応掘割の形が出来た(検見川寄りの工事が
難航)段階で新川と呼ばれるようになったのではないかというのが推測です」
八千代市のホームページに米本村の絵図が紹介され、新川について記しています。ご覧ください。
9月17日
中学1年生から、印旛沼についての質問メールあり。
印旛沼だけに生えている植物を知りたいです。 印旛沼に生えているのなら、なんでもいいのですが・・・
<返信>
印旛沼だけに生えている植物という質問ですが、日本の中で、印旛沼だけに生えている植物は確認されていません。
しかし、以前は千葉県の中で印旛沼で希に見られた帰化植物もあったようです。ところが、繁殖力が旺盛で、周辺に
広がってしまった植物もあります。
ブラジル原産のナガエツルノゲイトウという植物は、近年、印旛沼や鹿島川で繁茂しているとのことです。
上記の話は、『ふるさと歴史読本 佐倉の自然』を参考にしました。詳しくは、本書を図書館でご覧ください。
9月15日
小学6年生からトンボの本はありませんか、というメールあり。
<返信>
昭和59年に井原英俊氏が『ふるさと佐倉の生物 トンボ・チョウ・カエル編』という本を出しています。カラー写真で
すから見やすいでしょう。
佐倉市でも生物の調査をしており、調査報告書が出されています。こちらの方は専門書です。手元にありません
ので、本の題名は図書館で聞いてください。図書館では、題名がわからなくても調べたいことを話すと相談にのって
くれます。
8月29日
小学3年生から質問あり。
志津の名前の由来を教えてください。
<返信>
こんばんは。
志津の名前の由来ですが、わかりません。
志津に限らず、臼井や佐倉など、昔から呼ばれていた地名の由来は、確かなことはわかりません。
戦国時代には、志津氏という人物がいたと、民話『たんたん山』にあります。
このころには、すでに「志津」という名前があったのですから、かなり古くから志津という名称は使われていたと思います。
しかし、どのような由来で志津としたのかは、文章に残っていませんので、「わからない」という回答になってしまいます。
手元にないので、はっきりとしたことは言えないのですが、八重尾 等氏『郷土史探訪 1 志津の地名考』、佐倉地名
研究会編『佐倉地名研究会報告』が参考になると思います。
図書館でご覧ください。
8月8日
飛鳥さんから佐倉情報のメールあり。
週刊誌の中に、こんな一文がありました。
「麹町学園女子中学校・高等学校の創立者の大築佛郎は、同じ千葉佐倉藩の津田梅子らと女子教育の
振興について喧々諤々と論じあったというエピソードが伝わっています」
(『ヨミウリウイークリー 2005 7.31号』 読売新聞東京本社発行65頁)
明治38年に麹町女学校を創立した、大築佛郎ってご存知ですか? 佐倉藩士・大築尚志の四男、ということは
わかったのですが生まれた年など、詳しいことがわかりません。館主さん、ご存知でしたら、教えてください。
<返信>
情報ありがとうございました。
大築佛郎は、尚志の四男として明治12年に生まれました。
兄の英吉と双子です。生まれた年にイギリスとフランスの軍艦が来航したので、英吉と仏郎と名付けられたといわれ
ています。明治32年、東京帝国大学に入学し、地質学を学びました。
父、尚志と津田仙は、いずれも手塚律蔵の門下で、二人で酒を飲みながら女子教育の重要性を論じ合っていた
といわれます。ですから、息子、娘も論じ合ってもおかしくない関係であったと思います。
佐倉にとっては、おもしろい話ですね。
8月5日
中学1年生から質問のメールあり。
知りたいこと: ・印旛沼の植物(種類等について)
・印旛沼しか生息していない植物(何故、印旛沼だけなのか)
・今と昔の生息する植物の違い
・その他印旛沼に生息している植物についてなんでもOK
<返信>
こんばんは。印旛沼の植物についての問い合わせですね。
中学1年生でしたら、佐倉市で発行した『ふるさと歴史読本 佐倉の自然』という本をすすめます。
市内の図書館で、借りられます。
1、印旛沼の植物(種類等について)
手元に本がありませんが、佐倉市立中央公民館で発行した『佐倉の自然』に、少し植物の種類がのっていた
と思います。また、佐倉市で発行した『佐倉市の植生』という本もありました。これには詳しくのっていたと思います。
雑誌『印旛沼 自然と文化(創刊号)』には、笠井貞夫氏の「印旛沼の水草の変遷」という文章がありますので、
ここに書かれています。これらの本は図書館でみることができますので、ごらんください。
2、印旛沼しか生息していない植物(何故、印旛沼だけなのか)
私は、印旛沼しか生息していない植物を知りません。もしそのような植物がありましたら名前を教えてください。
調べます。
3、今と昔の生息する植物の違い
昔と今では生息する植物が違ってきています。それは環境の変化によるものです。一つは、印旛沼周辺に水害を
防ぐための堤防をつくりましたので、水の深度が変わったことによる植生の変化です。もう一つは、生活廃水の流入
による悪化が原因と思います。詳しくは、 『ふるさと歴史読本 佐倉の自然』をごらんください。
4、その他印旛沼に生息している植物についてなんでもOK
興味のありそうな話が『ふるさと歴史読本 佐倉の自然』に書かれていますので、ごらんんください。ナガエツルノゲイトウ
という帰化植物の話が面白いです。
以上、回答のみにて失礼します。
5月22日
漆坂の件ですが、工事によって移転した家は、10軒もなかったようです。
新聞記事は、やはり計画であったのでしょうかね。でも、逆にあれだけの人家を移転する
道路とは、どのような道路であったのかということも興味を覚えるところでもあります。
戦車は、ずいぶんと走っていたようです。
4月27日
Kさんからメールあり。
松本清張『天保図録』が印旛沼干拓の話を扱っているとのこと、御本で拝見
し、読もうと思っていましたが、昨日読了し、花島観音が舞台となっていたの
で、初めてそこを訪れました。今、立派な花島公園が作られ、駐車場もあって、
そこから両岸を歩いてみました。
この本を読むまで、印旛沼干拓工事のことはあまり知らず、天保期の工事の意
義なども知りませんでした。ちょうど花島あたりの台地が分水嶺となり、新川は
印旛沼へ、検見川は江戸湾にそそいでいたのを、それを花島の台地部分を開鑿し
て両川を繋げることにより水を江戸湾に落とすという計画だったと、初めて知り
ました。また目的は、単に新田開発ではなく、外夷の侵攻に備えて奥州から江戸
への米穀の輸送を図ることだ、とも書いてありました。
なるほど、と思いつつ、では新川というのはそれ以前からすでにあったのかと
疑問を持ちました。今、八千代辺りを流れる新川はその流路を見るといかにも人
工河川のようで(名前からして)、ではいつ掘られたのかと思いました。天保期
の工事は「平戸村橋から高台口まで二里八丁、六万一千六百坪が水野出羽守」
(中P359)とあり、平戸からはこの時の工事によって作られたのだと思いまし
た。そもそも「新川」なる言葉が作られたのは一体いつなのだろうと思いました。
<返信>
こんばんは。新川の名前は勉強不足です。
印旛沼につながった川なのに、八千代市になると、からっきしだめになります。
知っていそうな人が何人かいますが、その前に「八千代市の歴史」で調べてみます。
4月26日
七つの子さんからメールあり。昨日の話についての意見。
私も「鏑木」は「かぶらぎ」って濁りますよ。親もきょうだいもそう言います。
「行き会った」は、成東でもごく普通に使っています。
地名が出たついでに、館主さんにお聞きしたいのですが、「最上町」は
何て言いますか?私は「もがまち」だと思っていましたし、周囲の人々も
みんな「もがまち」と言っていたのですが・・・
つい先日、「表町」を「おもてまち」と言ったら、「おもてちょう、ですね」と
訂正されました。もっとも、昔は「表町」というより「停車場」と呼ぶほうが
多かったですよね。どうも、間違えたまま呼んでいたのでしょうか。
<返信>
こんばんは。
言葉は、あまり考えなく使っていますが、佐倉市以外の人が聞くと「おや」と
思うときがあるんですね。私も最上町を「もがまち」と言います。
表町は、それまで愛称であったものが近年、正式な名前になったものです。
愛称のときは、私は「おもてまち」といっていました。正式な町名になって、
どのような振り仮名をつけたのでしょうかね。確かめていません。
いろいろありますね。
4月24日
Kさんからメールあり。
先日の「鬼婆」のお話で、館主が
「また、湿地に人が落ちたら上がれない深い穴がありました。私は、思わず伝説の
『佐久地穴』かと思いました。印旛沼には、昔、大きな穴がいくつか あり、水を噴き
上げていたというのです。その名残の穴かと思いましたが、そこまで深読みの必要は
ありませんでした。単なる古井戸という設定でした。」
とありましたが、ちょうどYさんから預かった『山ありて、旅ありき』(山本侘介・近代
文芸社1992年)に佐久地穴のことが書かれていました。次の文章は1954年のもの
とありました。
「現在ではこのような高い噴水は沼のどこにも見当りません。しかし、土地の老人たちは
この穴が今もあるといっていますし、北にゆるく傾斜した下総丘陵の地層に添って流れた
地下水が沼のどこからか涌出することは考えられることです。」(11頁)
これを目撃したという人は今もいらっしゃるでしょうか?また
「特に私は印旛沼のほぼ中央、佐倉と酒々井のちょうど中間あたりに生えている一群の
ポオプロ(白楊)がたまらなく好きなのです。このポオプロの群れは、印旛沼の付近を歩いたことの
ある人ならば、誰でも知っていることでしょう。一面遮るもののないあの広い沼べりに、十数本の
ポオプロが身を寄せ合うようにして一列にならび、しかも一本ずつがまっすぐ天をめざして、精一杯
にのびています。見ていると誰の顔にもほほえみが浮び、そして一度見たら忘れることのないような
印象的な風景をつくっています。」(13頁)
しかし、この本を出した時には、もうこの木は伐られてしまっていると「あとがき」に書いてありました。
写真など残っていたら、見たいなあと思いました。
<返信>
佐久地穴は、江戸時代に書かれた書物『利根川図志』に記されている話で、阿部正路・浅野通有訳
の『口訳利根川図志』によれば、「沼の広いところ。吉高の東北、7,8町ばかり置きの方に、大小の
穴が5つある。その北にあるものを「佐久地穴」といっている。穴の大きさは、直径3間(5,6メートル)
ばかり、深さは知ることができない。水がおびただしく湧き出て、水面から1,2尺(5,60センチメートル)
も吹きあげるため、遠くからもよく見える」とあります。山本侘介氏が記した1954年といえば、印旛沼が
干拓される前ですから、沼の状態は、江戸時代のままであったと思います。
穴があったということをS氏から「古老から聞いたことがある」と又聞きしたことはありますが、私は直接
聞いたことがなく(というか、よく調べもせず)、研究者が確かめたという話は聞きません。昭和の初期
になっても、印旛沼や手賀沼には自然系の学術調査が入っていなかったのです。このことは、本の
題名が不確かですが『風俗体系』(?)というような学術書物に書いてありました。
近年、佐久地穴のことが気になったS氏は古老から話をうかがって、現地踏査をしています。ボーリング
もしていますが、結果はでませんでした。それをまとめたものが(財)印旛沼環境基金から
「いんば沼」という冊子の何号かに書かれていました。私の手元がごちゃごちゃしていて冊子が探せ
ません。とりあえず情報だけお知らせします。
私もポオプロ(白楊)を覚えています。印象的でした。ただ木の名前などはわかりませんでしたが。
佐倉市で昨年発行した『写真に見る佐倉』の201頁に見えるのが、それと思います。
4月2日
七つの子さんからメールあり。
こんばんは。
小学生のころ、学校(佐倉第一小学校)からの帰りに、
肴町の角から袋町へ降りて行き、何となく趣きのある路地風の
袋町界隈をうろうろしながら、玉家の坂を上がってくる道が
私の好きな寄り道コースでした。
土曜日などは、玉家の坂を上がらずに、鏑木方面へ降りて
いったりもしました。
私たちは「玉家の坂」と呼んでいましたけれど、
本当はなんというのでしょうか?
佐倉には正式名称?のない坂道がたくさんあるようですね。
余談ですが、以前、佐倉では「坂」を「さか」ではなく、「さが」と
濁って発音する人が多かったように思いますが、如何でしょうか。
<返信>
情報ありがとうございます。
改めて名前を聞かれると、よくわからないものですね。
確かに、私も「さが」といっているようです。
自分では、あまり気にしていませんでした。
みなさまからの情報をお待ちしています。
3月31日
飛鳥さんへ。
玉屋さん脇の坂の名前を知っていますか?
知っていましたら教えてください。
3月30日
Kさんからメールあり。
料亭玉家の脇の下っていく坂には、名前があるのかということですが
ご存知ですか。
また、玉屋さんの下の坂は車が降りられない構造になっているという
のも興味があります。
実はそこを歩いたこともないのですが、考えてみると不思議です。
このあたりの風景を文章化しようとする時、どうしてもこのことが気になって
しまい、うまくいきません。
知っていたら教えてください。
<返信>
玉家さん脇の坂の名前はわかりません。
車が降りられない構造というより、昔、佐倉の道は、このような幅でなかったか
と思います。
戦後、失業者の対策として坂の幅を広げる土木工事が行われ、薬師坂や
姥が池におりる坂を広げています。
私が考えるに、
玉家さんの脇を通って、鏑木に降りる坂は、たまたま道を広げることを必要
としない道であったために、そのまま残ってしまったのではないでしょうか。
他に、ひよどり坂、やかん坂などが、その部類と考えます。
どなたか情報がありましたら、教えてください。
3月8日
天候の回復とともに、風邪もよくなってきました。
ホームタウン佐倉さんからメールあり。
オフ会のご連絡を拝見。「うるし坂」も話題にしていただけるようなので、
当日を楽しみにしています。
先日『房総及房総人』という月刊雑誌の戦前のバックナンバーをみて
いたら「佐倉県道改修。佐倉町横町十字路から鏑木、岩淵薬品前
通り県道改修工事は九月着工、移転家屋四十戸、工費十万円、
勾配廿分ノ一、新旧道ガードを設置し明年度には舗装の予定」なる
記事を発見しました。
昭和16年7月号ですから、その前月くらいのことでしょう。果たして
40戸の移転を必要としたか。また9月に実際に着工したのか疑問です
が、これで計画時期は、太平洋戦争直前とほぼ明らかになりました。
〈返信〉
このような史料を知りませんでした。オフ会当日にも、「うるし坂」について
意見をいただいた人たちと話をしたいと思います。
また、ティさんもこられるので、映画「点と線」で、佐倉駅の決め手となった話も
お願いします。
なお、ホームタウン佐倉さんの「うるし坂」情報は、下段を省略しています。
下段には驚く内容が掲載されていますが、それはオフ会当日、ホームタウン
佐倉さんから発表してもらいましょう。
司書のみなさん楽しみにしていてください。とにかく「あっ」と驚きます。
2月22日
七つの子さんから「うるし坂」についてのメールをいただきました。
うるし坂の上を交差する新道は、戦時中には開通していなかった
とのことです。
開通は、昭和22年以降とのこと。
みなさまの情報をお待ちしています。
2月21日
今日も、うるし坂情報をいただきました。
うるし坂の上を交差する道路の建設は、昭和19年に始まり、
いったん中止され、戦後の昭和23年に開通したそうです。
たぶん、これが確かなところかも知れません。
みなさんのご意見をお待ちしています。
2月20日
うるし坂の続きです。
うるし坂の上を交差する新道づくりは、戦時中、いったん中止となり、
戦後になって、再び工事を再開して完成したそうです。
2月18日
ホームタウン佐倉さんからメールあり。
「うるし坂」に関して、お知らせ有難うございました。いろいろな
ご意見が寄せられるのは、前回にも申し上げましたが、満開
佐倉文庫を多くの皆様ご覧になっている証しでしょう。
道路に限らず、佐倉のいろいろな事柄が、文庫を通じて明らか
になればと考えています。
鉄道開通の際に佐倉駅の位置が地元の反対によって、現位置
にきまったという説は、真実なのか。
京成開業時に大佐倉駅設置運動があったらしいが、具体的には
どのような動きがあったのか。
戦後の昭和30年代の新町通りの写真は未舗装ですが、メイン
ストリートが舗装されたのは何年ごろか。
戦前戦後のバスは、京成駅ー国鉄駅を海隣寺坂経由で結び、
現ルートを通過していなかったらしいが、事実とすれば現ルートを
通過するようになったのは、いつごろなのか。
交通関係のことだけでも、わからないことだらけです。地元で実際に
見聞された皆様のご発表で、佐倉の歴史が解明されればと思います。
半世紀前のことを振り返るとわからないことばかりで、驚いています。
館主様の仲介の労も大変であると存じますが、文庫読者の興味深い
話題をこれからもご提供下さるように、よろしくお願い申し上げます。
<返信>
古い歴史より、身近な歴史がわからなくなってきていますね。
文庫を通じて、確認できるところは確認していきたいと思います。
これからも、よろしくお願いします。
2月17日
以前、当ホームページ上で議論のあった、うるし坂の件で情報あり。
以前の話では、『お茶の間風土記』によれば、うるし坂に交差する
新道が開通したのは昭和18年であったことになったのですが、この
本の記述が違っているのではないかとの指摘です。昭和19年には、
工事用のトロッコがあったというのです。つまり、まだ新道は完成して
いなかったというのです。
この1年が微妙なんですね。新道が開通したのは戦中か戦後かという
話になっていくのです。
みなさんの情報をお待ちしています。
2月12日
七つの子さんからメールあり。
こんばんは。「うるし坂」で思い出したことがあります。
麻賀多神社の祭礼初日、お神輿の巡行のコースです。
昭和30年代までは、お神輿は岩淵薬局前から旧道に入り、
「うるし坂」を通って新道のガードをくぐり、そのまま神社前まで
一気に戻りました。
現在は、ガードの手前まで行きますが、そこからわざわざ来た道を
引き返して新道を登り直して行きますね。
館主さんは覚えておいでだろうと思いますが、このようにコースが
変わったのは昭和43年のことだと記憶しています。
この年は明治百年記念ということで、中断していた祭礼が7年ぶりに
復活したのです。
ところが、7年の間に旧道が舗装され、その分路面が高くなってしまった
ようです。どうしてもガードをくぐることが出来ず、やむなく引き返して
新道を上がっていきました。
この時、私はお神輿について回っておりました。(高校1年だったはず
ですが、たぶん学校をサボったのでしょうね)
40年近く前のことですので、もし記憶違いがありましたら、ご指摘
ください。
<返信>
こんばんは。
私は、昭和43年の記憶がありません。私が御神輿を担いだのは、
若潮国体のときからですから、昭和48年のことでした。
私も、ガードをくぐった記憶がありません。
御神輿を低く持てばガードに入れるのですが、登り坂に突っか
かってしまうので、通れなかったと思います。
2月11日
ホームタウン佐倉さんからメールあり。
「うるし坂」について、多数の皆様から情報をお寄せ頂き有難う
ございます。「満開佐倉文庫」の偉力を感じます。
館主様もおっしゃるとおり、「うるし坂」か「漆坂」のどちらかが正し
いのか、よくわかりませんが、『古今佐倉真砂子』付図に佐倉城と
城下町を描いた「総州佐倉御城府内之図」があります。
その絵図には「ウルシ坂」と記載されています。以降の地図には
「うるし坂」と記載のものが多く、「漆坂」と書いたものは例えば「ガイ
ドブック佐倉」(平成5年)など近年刊行のものばかりです。したがって、
あくまでも推定ですが、本来は「うるし坂」であり、「漆坂」は当て字で
はないでしょうか。
「新道」は『佐倉お茶の間風土記』43ページに「鏑木の新道」と記載
してあつたのを、私が勝手に「鏑木新道」と解釈してしまいました。
「新道」が正しいと考えます。お陰さまで「新道」と「うるし坂」の関係を
認識できました。
戦車の通過は確かに歩兵連隊に配置はない筈ですし、既に戦力不足
の時代では、やや疑問に思いますが、もし事実とすればどこの所属で
しょうか。皆様の実見報告が待たれます。
<返信>
こんばんは。
うるし坂の件、おもしろくなっていきそうですね。
また何かありましたら、話題を提供してください。
いろいろな反響があると思います。
2月10日
七つの子さんからメールあり。
こんばんは。
・うるし坂の件
子どもの頃から「うるしざか」と呼んではいましたが、どのような
字をあてるのかは、気にしたこともありませんでした。
「古今佐倉真佐子」では確かに「うるし坂」で、けっこう頻繁に
登場していますね。やはり、かな書きが正解でしょうか・・・?
・佐倉連隊と戦車の件
戦車の話は、両親や叔父などからもあまり聞いた記憶がありませんが、
写真集「佐倉・四街道の昭和史」 (1996年発行 千秋社)
の83ページに、「佐倉の町中を行く戦車(昭和10年頃)」 という
説明のついた写真が掲載されています。土蔵造りの家と、戦車、
兵士が写っていますが・・・
<返信>
こんばんは。情報ありがとうございます。
戦車の写真は、麻賀多神社方面から新町に出るところです。
今も、交差点の脇にこの倉が残っています。
やはり戦車は通っていたんですね。
どなたか戦車の思い出のある方は連絡ください。
それから、戦車の型がわかる人は、写真を見て教えてください。
そうすれば、時代がわかるかも知れません。
写真集は、市内の図書館にあります。
うるし坂の結論につきましては、もうしばらく時間をかけたいと思います。
2月9日
七つの子さんからメールあり。
ご無沙汰しています。七つの子です。
ホームタウン佐倉さんの「うるし坂」の件について
うるし坂が鏑木新道と呼ばれていた、というのは、なにか勘違いされて
いるのではないかと思います。
うるし坂は旧道のKさんの屋敷前あたりから、旧保健所付近までですね。
その上を交差するように新道が開通したのが、昭和18年だったそうです。
手許の「お茶の間風土記」を繰ってみますと、鏑木町の項に、新道と
うるし坂について記されていますが、確かにちょっと解りにくい記述ですね。
<返信>
こんばんは。
情報、ありがとうございます。確かに、私も「うるし坂」の上を交差する新道は
鏑木新道とは呼ばずに、単に「新道」と呼んでいました。
ところで、坂は「漆坂」と書きますか、「うるし坂」と書きますか?
『古今佐倉真砂子』(佐倉市史編さん委員会 昭和58年)
によりますと「鏑木うるし坂の上を御通」(29頁)とありますが。
飛鳥さんからメールあり。
こんばんは。
「うるし坂の件」です。太平洋戦争中に連隊から佐倉駅まで通じる
道路=軍用道路として造ったことは間違いないようです。
近所の方に聞き取り調査をしたところ、「出征する兵士の人たちは
旧道を通った」「戦車も旧道を通って駅の方へ行った」そうです。
<返信>
こんばんは。
情報ありがとうございます。ところで、佐倉連隊に戦車はあったのでしょうか?
57連隊関係者に話を聞いたことがありますが、戦車の話は出てきませんで
した。それに連隊には戦車を格納する場所もなかったのではないでしょうか。
それにしても、興味のある話です。
佐倉で戦車を見たことがある方は連絡ください。
2月8日
ホームタウン佐倉さんからメールあり。
こんばんは。先日は「うるし坂」の質問、突然の照会に対し
ご教示を賜り誠にありがとうございました。
ご教導くださったことを手掛かりに、その後「お茶の間風土
記」を閲覧して、判明した部分がありますので、ご報告申し
上げます。
うるし坂は、昭和18年完成(土地移動の登記による)で「鏑
木新道」と呼ばれていたと「お茶の間風土記」に記述があり
ました。
<返信>
こんばんは。資料が見つかってよかったですね。また、新しい
資料がわかりましたらお知らせします。
2月7日
Kさんからメールあり。
司馬遼太郎氏『坂の上の雲』、読了しました。
第4巻に佐倉連隊の名がまず見えます。
ところで、佐倉は、東京鎮台歩兵第二連隊という名称であったのでしょうか?
また、歩兵第一連隊は佐倉ではなかったのでしょうか?また、児玉源太郎氏の
佐倉での住所は?
<返信>
こんばんは。
佐倉は東京鎮台に属し営所が置かれ、歩兵第2連隊が駐屯していました。
明治7年、第2連隊のうち、第1大隊は佐倉、第2大隊は宇都宮におかれ
ていました。明治17年、第2大隊が佐倉に合流します。
歩兵第1連隊は当初、東京ですが、後に第3連隊になっています。
時代によって、編成替えがあったようですが、こちらの変遷はわかりません。
児玉源太郎の佐倉での住所は、よくわかっていません。でも、たぶん将校が
住んでいたといわれる宮小路であったと思います。
1月15日
Sさんからメールあり。
こんにちわ。佐倉の「うるし坂」のことでご教示いただきたく
存じます。
従来の県道は、岩淵薬品前から道路下をくぐり、現在の
道路に沿って登り、もう一度道路下を通って麻賀多神社
前に達するコースと思いますが、いかがでしょうか。
手元にある明治40年測図と昭和31年測図地形図から判断
した結果ですが、2枚の測量年が60年も開いているので、
並行する現在の新道路が開通したのは、いつ頃かおわかりで
しょうか。
<返信>
従来の道は、おっしゃるとおりのコースです。
そして、以前の保健所があったガード下の坂を「うるし坂」といい
ます。実際には、もう少し手前から「だらだら勾配」になっています
ので、「その辺」から「うるし坂」といったのでしょう。
新道は連隊関連で作られたと聞いていますので(軍用道路か?)、
戦中のことでしょう。
佐倉市で発行した「お茶の間風土記」に出ていたかと思いますの
で、図書館でご覧ください。
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